Page 4(Vol.61〜Vol.80)
Vol.80 『五体不満足 完全版』・・・乙武洋匡 著 (講談社)
今回はあの有名な『五体不満足』。
大ベストセラーにもなったので、既に読んだ人も多いことだろう。
今回は既に出版されている『五体不満足』に社会人になってからのことが書き加えられ、
『完全版』として出版されたものだ。
数年前に筆者の姿をテレビで初めて見たときに、とても驚いたのを今でもはっきりと覚えている。
画面に映し出された手足のない体とあの爽やかな笑顔はどうしてもミスマッチとしか思えなかった。
彼の姿を見た人のほとんどが「かわいそう」と思ったことだろう。
ただこの考えこそが「身障者はかわいそうなもの」というレッテルを貼ってしまっていることに
この本を読んであらためて気づかされる。身障者は人の助けを借りなければできないことがたくさんある。
しかしそれはちょっとした不便というだけのことであって、決して不幸なことではない。
このことは頭ではわかっているのだが、
実際、車椅子に乗った人が目の前に現われるとどぎまぎしてしまう。
大人である私たちは身障者の人を見ると目を合わせないようにしたり、
じろじろ見ている子供に見ないように注意したりする。ただ筆者の小学校時代の話を引用すれば、
「どうして手や足がないの?」
「お母さんのお腹の中にいたとき病気になったんだ」
「ふ〜〜ん、そうなんだ。じゃ、一緒に遊ぼ」
となるらしい。
バリアフリーが叫ばれる世の中になってきたが、
ハードはもちろんだが私たちの心のバリアフリーを成し遂げることこそが真のバリアフリーと言えるのだろう。
Vol.79 『神話の果て』・・・船戸与一 著 (講談社)
南米ペルーを舞台にした冒険ハードボイルド。
以前読んだ『非合法員』ともう一冊『山猫の夏』と合わせて
南米三部作として高い評価を受けているらしい。
この小説でも中心となる破壊工作員は日本人。
その日本人が単身ペルーに乗り込み、民族主義を唱える山岳ゲリラ組織の首領を密殺するというもの。
一見、簡単そうに見えるその作戦も、
対立するそれぞれの組織の思惑から妨害しようとする人たちによってなかなかうまくいかない。
ここに出てくる組織とはまずこの密殺を依頼したアメリカのエネルギー会社、
そして舞台となる国のペルー政府、それに反対する共産主義反政府ゲリラ組織などなど。
そこにCIAと情報を手に入れた非情な殺し屋も加わって話は複雑になっていく。
終盤ではやっと密殺に成功したかに思われたこの作戦も
最後の最後で思ってもみないようなどんでん返しが隠されており、とてもスリル満点だった。
ただこういう小説を読むと、
その裏には世界は大国の論理(ここではアメリカ)で動かされているのだということを感じざるをえない。
主義主張の違いだけで殺戮を繰り返しているようにみえる紛争にも、
シナリオを描き陰で操っているのは超大国といわれている国なのだろうとあらためて思ってしまった。
Vol.78 『三たびの海峡』・・・帚木蓬生 著 (新潮社)
朝鮮半島と日本との間の小さな海峡。
船や飛行機を使えばずくに渡ることのできるこの海峡こそが
主人公・河時根にとっては生と死を分ける生命線そのものだった。
戦時中、朝鮮半島から炭鉱労働者として強制連行された朝鮮人の河時根は、
連日苛酷な労働を強いられることになる。
一緒に連れてこられた仲間たちは次々と死んでいき、
側の空地にただ石だけが置かれた墓の中に埋められていく。
炭坑での指揮を取るのは当時の占領国である日本人なのだが、その状況は想像を絶するものがある。
同じ日本人として恥ずかしさと情けなさで胸がいっぱいになってしまった。
いろいろなニュースで戦争中の日本軍の残虐行為が報道されているが、
この炭坑でも報道されているような虐待が日常茶飯的に行われていたようだ。
その後、河時根は脱走し、やがて終戦をむかえ祖国である朝鮮半島に帰り、
商売も成功して富の蓄えもできた。
日本での忌まわしい出来事のことなど忘れ、日本に足を踏み入れるつもりも毛頭なかった。
その河時根が50年経った今、三たび目の前の海峡を渡ることになる。
しかも四度目(つまり朝鮮半島に帰ること)はない。
河時根がそう決意した心の奥には自民族に対する誇りと死んでいった同胞への思慕があるだけだった。
戦争という狂気の時代を朝鮮半島の側に立って描くことによって、
民族の名誉と誇りを蹂躪した日本に対する反日小説のようにも感じられた。
Vol.77 『「犯罪捜査と裁判」基礎知識』・・・河上和雄 著 (講談社)
最近ではテレビのワイドショーなどで刑事事件が取り上げられ、
法的手続きについての解説が盛んにされているが、
「それはちょっと違うんじゃないの?」と思うことがたびたびある。
そのわかりにくい法的手続きを解説しているのが本書であり、とても興味深く読むことができた。
しかし法律に興味のない人にとっては退屈極まりない本であると言えるかもしれない。
法律の世界に、「権利の上に眠る者は救われず」という言葉がある。
これは自分の持っている権利さえ知らない者は誰も救ってくれない、という意味の言葉だ。
ということは知識はないよりあるほうがいいということになる。
その点では私にとってとても価値ある一冊だった。
Vol.76 『地獄への階段』・・・津本陽 著 (角川書店)
不幸な詐欺事件で会社を辞めざるを得なくなりエリートサラリーマンの地位を失った男と、
同じように詐欺の手口に引っかかった元銀行マンが今度は騙す側にまわることになる。
二人の計画は実に周到で実際に次々と成功していく。二人がもくろんだのは「取り込み詐欺」。
商品をメーカーから仕入れ手形を振り出し倒産させ、その商品を安く裏のルートに流すというもの。
話は二人の手口を中心に進んでいく章とそれを捜査している刑事の章との両面から交互に進んでいき、
緊張感が維持されている。
ただ最後の方で口封じのための殺人をすることになったのは、個人的には不満が残る。
二人には最後まで完璧な知能犯であってほしかった。
Vol.75 『北朝鮮亡命工作員』・・・洪尚和 著 (徳間書店)
北朝鮮を舞台にした小説はいくつか読んだことがあるが、
この小説も政治工作と亡命という北朝鮮とは切っても切り離せないテーマが話の中心となっている。
西側諸国に住んでいる私たちにとって北朝鮮という国は摩訶不思議な国だ。
ニュースなどを見ていても全く自由がなく、何事も国家によって統制がなされ、
人民のためと言いながら一部の特権階級が恐怖政治を行なっているとしか私の目には映らない。
そういう状況下で階級の低い人たちは黙っていられるのだろうか?
こんな理解に苦しむような国情なので、小説を読んでみても面白い。
(面白いというと若干不謹慎なようであるがご容赦されたい。)
ある工作員が極秘任務を受け、南に進入する。
北朝鮮の狙いはソウルにいるその工作員の叔父である大物政治家と会い、北のスパイとして利用することだった。
だがその叔父に説得された工作員は転向し南で生涯を過ごすことになる。
その後南出の生活にも慣れ、事業にも成功し、莫大な富も手に入れた。
ところがその男が奇妙な自殺をしてしまう。
その謎の究明にKCIAの情報部員が調査していくうちに事件の背景が見えてくる。
そこで映し出されたものはまさに分断国家の悲劇であり、
イデオロギーというものが人の心を完全に支配している異常な状況だった。
国家と国家の対立もさる事ながら、
自殺した工作員の心の中にあったのは北に残してきた最愛の妻と娘のことだけだったのだ。
妻や娘のためになぜ自殺しなければならなかったのか。
最後にそれがわかった瞬間、ちょっとやりきれない思いがした。
ハードボイルドタッチではあるが内容は完全なヒューマンドラマだった。
Vol.74 『戦雲の夢』・・・司馬遼太郎 著 (講談社)
土佐二十二万石の太守・長曾我部家の最後の党首・盛親の生涯を描いた作品。
これは歴史書ではなく小説であるので、
当然と言えば当然のことではあるが作者の創作の部分が前面に押し出され、
盛親をあまりにも美化しすぎているという気がしないでもない。
しかし個人的にはここに描かれている盛親の生き方は嫌いと言うわけではない。
戦国武将として名をはせたのは父である元親であって、盛親はそれを相続したにすぎない。
自分は太守としての器ではないのではないか、という疑問を持ちながらも関ヶ原の戦いに西軍として参加する。
この戦で西軍は負けるだろうと思いつつも、そうであるなら華々しく散ろうという覚悟で臨んだが、
味方の武将との諸事情により戦うこともできずに、ただ敗走するだけに終わってしまう。
その結果長曾我部家は取潰され牢人となり、家康の監視のもと、世捨人のような生活を強いられることになる。
その後、大坂の陣に出陣するがこのときも大坂方に勝ち目はないのを覚悟の上で参加している。
ここで命を落すまでの盛親の目的はただ一つ。
「自分は本当に大将としての器ではなかったのか」ということ。
戦わずして牢人となり、侍としての力を発揮する場所に恵まれなかった盛親にとっては
自分の力を示し得る最後の場であったのだ。
そこには名誉や名声というものの存在する余地はなく、
ただ自分の侍大将としての力量を試したいという単純な動機があるにすぎない。
武士としてのいさぎよい生き方が心に残り、なにかすがすがしいものを感じさせる作品だった。
Vol.73 『刑《奪殺》』・・・龍一京 著 (新潮社)
手形と密入国という犯罪をあつかった犯罪ミステリー。
手形や小切手というと一般の人にはあまり馴染みがなくわかりにくい。
密入国に関しても同じことが言えるかもしれない。
このわかりにくい二つの犯罪を組み合わせてストーリーが作られている。
話は銀行員が襲われて手形を奪われるところから始まる。
一緒にあった現金には一切手がつけられていない。
普通なら足のつきやすい手形は奪わず、現金だけを狙うはずだ。
なぜだろうという疑問を読者に抱かせながら、本編ではその事件にはあまり触れられず、
全く別の行方不明になっている男の捜索を中心に話が進んでいく。
そして次第にその行方不明者とこの強盗事件とのつながりが浮かび上がってくる。
更に密入国の地下組織の存在まで明らかになっていき、話はどんどん大きくなっていく。
ただ事件の全容が明らかになっていくとともに登場した人が次々と殺されてしまったのには少々興ざめだった。
面白くなかったというと言い過ぎになるが、全体的に山場がなく、盛り上がりに欠けていたような気がしてならない。
Vol.72 『春琴抄』・・・谷崎潤一郎 著 (新潮社)
久々の純文学。
谷崎潤一郎と言えば、自然派が主流だった明治から大正にかけて
『痴人の愛』や『蓼食う虫』などの耽美的な作品を世に送り出し異才をはなっていた。
昔のことではあるが学生時代は読みながら妙に興奮したものだ。
この『春琴抄』は作者が『鴨屋春琴伝』という小雑誌を手に入れたことから始まり、
そこに出てくる春琴という女についての解説書のような仕上がりになっている。
豪商の美しい娘・鴨屋琴(後の春琴)は9歳で失明する。
そこに丁稚奉公していた佐助が弟子入りするという形になり、その二人の間に奇妙な愛が芽生えていく。
春琴はわがままに育てられたせいもあり性格がねじまがってしまい、すぐに癇癪を起こし折檻する。
一方、弟子である佐助はどんな苦痛を強いられてもじっと我慢する。一種のサドとマゾの関係であろうか。
この奇妙な関係の二人にある時、事件が起きる。
何者かに襲われた春琴は顔に大やけどを負い、美しい顔は無惨に焼けただれてしまった。
その醜い顔を見るのに忍びなくなった佐助は自ら両目に針を刺し失明してしまう。
春琴は佐助にだけはこの醜くなってしまった顔を見られたくないと思っていたので安心し、
光を失った佐助は今まで見ていた美しい春琴の顔だけを思い出に残すことができると喜んだ。
見方によっては究極の愛と言うことができるかもしれないが、
なにか心に引っかかるものが残ってしまった。
Vol.71 『悪の公式』・・・清水一行 著 (徳間書店)
戦前、ある男が香港で保険金をかけた男を死に追いやり、まんまとその保険金を手にする。
その後その金を元手に多額の資産を築き上げた男は終戦となり日本に戻ってくる。
そして昭和40年代の高度成長の時代にその男の息子が商社を興し、
脱法・違法行為を繰り返し、巨額の富を手にしていく。
資本主義というものは大が小を飲み込み、知恵と才覚で勝負していくという、
ある面ではギャンブルのような要素もないわけではないが、ここに出てくる手口はまさに犯罪そのもので、
次から次へと脱税や詐欺、乗っ取りという違法行為が行われていく。
その手口というのは非常に巧妙なもので、とても作者自身らが全てを考え出したとは思えない。
もし作者が考え出した手口であるなら、作者は悪徳商社の社長としても立派にやっていけるだろう。
それよりはこういう違法行為が現実社会の中で、日常的に行われていると考えるほうが自然であるように思える。
また登場人物も欲に目のくらんだ悪人ばかりで「こいつらは一体どこまでやるんだ」と
余計な心配までしてしまった。これだけ悪人ばかり出てくると、
ちょっとまともな人が登場するととても真面目な人間であるかのような錯覚すら覚えてしまう。
最終的には違法行為によって蓄えた数十億という金が、
その金を狙っている誰の手にも渡らなくなったことで、少しはすっきりした形で終わることになった。
金のからんだ組織的な犯罪は、それぞれが疑心暗鬼になってしまい、自分以外信じることができなくなり、
ついには裏切り者が出るという典型的なパターンだった。
Vol.70 『小説 ブラックジャーナリズム』・・・大下英治 著 (徳間書店)
「田中金脈事件」や「三越事件」をすっぱ抜いた伝説の新聞記者の生き様を描いている。
新聞記者といっても、いわゆる大新聞の記者ではなく、自分が立ち上げた、
いわゆる機関誌のような小さな旬刊紙で、新聞記者というよりは、
スクープ屋と言ったほうが近いかもしれない。
この記者のもとには裏の世界(右翼・暴力団)の人から、
一般の人にはとても知ることができないような情報が次々と寄せられてくる。
その情報を自分が主催する新聞にスクープとして掲載する。
そうするとその記事によって不利益を受けるおそれのある代議士や右翼からお金が出て、記事をストップする。
こうしたことの繰り返しで、どんどんその世界で大物になっていく。
最後には首相経験者や首相候補者も一目置くような存在になっていくが、
どうしても正義感の強いジャーナリストと素直に感じることはできなかった。
どちらかと言えば、いわゆる「取り屋」的な行為ばかりが目立ち、
新聞記者というよりは総会屋か暴力団に近いと思わざるを得ず、読んでいてあまりいい気分はしなかった。
Vol.69 『司法卿 江藤新平』・・・佐木隆三 著 (文藝春秋)
タイトルこそ『司法卿 江藤新平』となっているが、文中に江藤新平はほとんど出てこない。
私の知っている江藤新平は明治新政府で初代司法卿(現在の法務大臣)となり、
征韓論で破れた後、「佐賀の乱」を起こし、処刑されるというものだ。
江藤新平の生い立ちから処刑されるまでを描いているものと思ったが、
実際は、プロローグで「佐賀の乱」のことが少し触れられているだけで、本編では全く関係ないと思われる話で進んでいく。
話の中心となっているのは「小野組転籍事件」という訴訟事件。
この時代は勝手に住所を移すことができず、
京都府からの転出を願い出た大商人の小野組が一向に処理をしてくれない京都府を相手取って、
新設された京都裁判所に訴えを起こすというもの。
これが京都府と京都裁判所のなわばり争いとなり、行政訴訟に発展していく。
この訴訟記録を延々と時系列で検証していっているので、いささか退屈な気がしないでもない。
訴訟は江藤新平の発する通達に従って進められていくので、本文には登場しなくても、
江藤の考え方を踏襲してこの話が進んでいると言えるかもしれない。
江藤により次々と発せられる通達の根底には「三権分立」、「司法の独立」という願いが込められている。
司法と行政が一体となっていた時代にこうして「司法の独立」が確立されていったということ、
それが江藤によって成し遂げられたということを示しているのだろうが、少し話が難しすぎるのではないだろうか。
Vol.68 『明治一代男』・・・柴田錬三郎 著 (講談社)
間引きされそこなった水呑み百姓の子が、幕末から明治の激動の時代にのし上がっていくサクセスストーリー。
この主人公・捨吉は、生まれてすぐ間引かれそうになったが、ひょんなことから生きながらえることになる。
背は低く顔もエラが張っていて、いわゆる醜男。
その醜男が数々の女と関わりながら、成功の道を進んでいく。
しかし特に人一倍努力したとかいうことはなく、彼のとりまきのおかげで出世していったと感じないでもない。
たとえばこれからの時代を生きていく方法を説いた旗本くずれの筧弥七郎、
商売のヒントを与えたロビンソン神父、捨吉の懐刀となった先見の明のある宇太郎。
見方によってはこれらの人の生き方のほうがカッコ良く思えるのではないだろうか。
全体としては波瀾万丈というよりは、他人の意見を素直に聞いてその思惑通りに順調に事が運んでいったという展開で、
少し盛り上がりに欠けるものだったような気がする。
Vol.67 『人生劇場(望郷篇)』・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
戦争が終わり治安がままならなくなり、
傍若無人の振る舞いをする第三国人(差別用語と言われるかもしれないが敢えて原文のとおりに記録する)
と日本の侠客との争いが勃発する。その争いの舞台となのが瓢吉の生まれ故郷でもある三州吉良村。
吉良村というのは吉良の仁吉で有名なように昔ながらの侠客のメッカとも言うべき土地柄で、まるで侠客の博物館だ。
こういう土地柄で育った瓢吉(作者自身?)であるから当然のごとく、この争いに関わりを持つようになっていく。
文中には「侠客」と「ヤクザ」や「暴力団」が全く異質なものであるということが度々紹介され、
筆者自身の「侠客」についての思いも綴られている。
筆者は「侠客が時代遅れと言われてこの世から消えてしまってもしようがない。
侠客道はそんなケチなものではない。どんな苦境に立ってもそれを甘受し、
ビクともしない魂の持ち主だけが侠客としての資格がある。」と言っている。
生まれ故郷と侠客の精神を愛し続けた筆者の思いが伝わってくる。
個人的にはこの『望郷篇』と『残侠篇』が筆者が書いていて一番楽しかったのではないかとも思われる。
さてこの『人生劇場』という長篇であるが、この『望郷篇』でいったん終了することになる。
しかし話の終わり方がいかにも中途半端な感じがしてならない。
まだまだ主人公・瓢吉の人生の半分にしかなっていないし、
この後も何かが起こりそうな雰囲気を充分残しながら終わっている。
最初の『青春篇』が書かれたのが昭和8年で、この『望郷篇』が書かれたのが昭和26年。
この19年という長い期間を考えれば、志半ばで筆者が亡くなってしまい、絶筆となったと考えられる。
実際、私は学生時代にこの本を読んだときにもそう思っていた。
しかし本当にそうなのだろうかとインターネットでいろいろ調べてみたら、
この7篇でいったん完結した後、『蕩子篇』が書かれ、さらに『新人生劇場』として『星河篇』『狂瀾篇』が書かれているらしい。
今は全て絶版になっているらしいが、是非一度読んでみたいものだ。
Vol.66 『人生劇場(夢現篇)』・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
フィリピンから帰国した瓢吉は東京で新しい生活を始めるが、
日本は敗色濃厚となっていき、次第に殺伐とした時代になっていく。
この『夢現篇』には今まで頻繁に登場してきた人物はほとんど登場せず、
「彼らは一体どうしてしまったのだろう」と気になって仕方がない。
今までこの『人生劇場』の中で重要な役割を演じてきた人の中で、
記されているのは飛車角の死とお袖との再会についてだけだ。
その変わりに栗川八重という素性のはっきりしない女性が登場してくる。
まるで狸か狐に化かされているような不思議な女性で、最後までその正体がわからない。
そして特に目立ったこともなく、終戦を迎える寸前までの描写がされているが、
『人生劇場』という波瀾万丈の舞台の中においては、とても地味な一篇だったという印象だ。
そんな中、印象に残ったことを書きとめておくなら、『風雲篇』で
「時が来るのを待っている。その時が来たときに起てるように心の準備をしているのだ」と
言っていた瓢吉がここでは「僕は今日を信じ、明日を信じる。
今まで天下に志をつなごうと思っていたが、大きいものは世界じゃなくて個人だということがわかった」と言っていることだ。
これは自分が目指すものに対する価値観が変わったことを意味し、まさに人生の転換期を迎えたのではないだろうか。
今後は全く新しい展開になっていくかもしれない。
Vol.65 『人生劇場(離愁篇)』・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
この「離愁篇」は『人生劇場』という長篇のなかでは番外篇と言ってもいいだろう。
戦争の勢いは更に増していき、日本はフィリピンに部隊を進めていくのだが、
そこに宣伝部隊として戦争に参加した瓢吉の目で戦争を真正面から見つめたものとして描かれている。
そして実はこの青成瓢吉こそが作者である尾崎士郎そのものなのだ。
つまり尾崎が実際に宣伝部隊として出兵し、戦争に参加した時の記録を忠実に再現したものが
この「離愁篇」というわけだ。ということでこれまで登場してきた人物は一切登場してこない。
尾崎自身も「ここには一切の脚色も誇張もない。
登場人物は仮名にしてあるが実名でも一向に差し支えなかった」と冒頭で書いている。
こういう事情からこれまでのようなドラマチックな展開はみられないが、
45歳になった青成瓢吉(作者自身)の目で見た戦争の状況が克明に記録されている。
Vol.64 『人生劇場(風雲篇)』(上・下)・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
主人公の瓢吉は既に40歳の手前まできてしまった。
文壇では少しずつそれなりの評価を得ているようだが、まだまだ大望を成し遂げたとは言えない。
日本は戦争にのめり込んでいき、瓢吉の友人達も徴兵されていき中国へ渡っていく。
そんな中、従軍作家として大陸へ渡る機会を得て『人生劇場』の舞台は大陸へと移っていく。
大陸ではこれまで登場した人たちが次々と瓢吉の前に現れてくる。
かつての恋人だったお袖、今は花火師となっている侠客の飛車角、そしてその情婦だったおとよ。
さらに学生時代の友人で消息のわからなかった夏村大蔵と夏見剛平や
兵隊となって戦争に参加している亀野など。
偶然にしては出来過ぎているというくらい偶然が重なって、思いがけないところで思いがけない人が現れる。
(小説なのだから当然と言えば当然なのだが。)
しかし偶然というのは本人がそう感じているだけであって、
実はそうなるべくしてなったという必然であったということも考えられる。
目に見えない糸で大陸に集まった人たちも戦争が進むにつれて、
また離ればなれになっていき、新たな展開に進んでいく。
Vol.63 『人生劇場(残侠篇)』(上・下)・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
この小説はおそらく作者自身であろう主人公・青成瓢吉の人生と、
彼に関わる人間模様を描き出している。
人ひとりの人生を描いているので、そこに登場してくる人間も多数いる。
そこでこの残侠篇に登場してくる新たな人物は侠客・小山角太郎。通称「飛車角」。
この飛車角は義理と人情の世界に生きていて、喧嘩は強いが女には滅法弱い。
言うなれば、まさに「かっこいい男」そのものだ。
「人生劇場」といえば、東映の任侠映画としてかつて上映されていたこともあると思う。
たしか主役の飛車角は鶴田浩二だったと記憶している。
その飛車角が吉良常を通じて瓢吉に関わりを持つようになり、
小説の中でしだいに重要な位置を占めるようになってくる。
一方ではかつての瓢吉の恋人であったお袖と飛車角の情婦であるおとよが知り合い、流転の人生を送っていく。
この四人がいくつかの偶然の中で、何度か顔を合わせては離れていくということの繰り返しで、
読んでいて妙に切ない気分になってくる。
さらにここまで瓢吉の成功のみを願っていた
我が愛すべき吉良常(私はこの吉良常が大のお気に入りだった)がひっそりとこの世を去っていく。
ここまでの吉良常の役割はこの『人生劇場』の中では非常に大きく、興味深いものでもあった。
どんどん変わっていく時代の波に乗りきれず、
不器用な生き方しかできない者の心情がひしひしと伝わってきたものだ。
瓢吉はと言えば文壇に身を投じたとはいえ、相変わらずその日暮らしでまだまだ一人前の作家とは言えない。
作者の言葉を借りれば「時が来るのを待っている。
その時が来たときに起てるように心の準備をしているのだ」ということになるが、
何時がその時で、何を待っているのかが見当がつかない。
早稲田時代の仲間たちも志を成し遂げた者はおらず、何もかもが中途半端という印象を持たざるをえない。
人生の大望を成し遂げる道は果てしなく遠いということだろうか。
そして時代は日中戦争を目前とした騒然とした時代に進んでいく。
Vol.62 『人生劇場(愛欲篇)』(上・下)・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
この「愛欲篇」では、主人公・瓢吉に関わりのある三人の女性を中心に話が進んでいく。
その三人とは最初の恋人となったお袖、その後同棲生活をすることになる女流作家の照代、同郷でほのかな憧れであったおりん。
この三人がそれぞれひょんなところから顔馴染みになっていき、それぞれの瓢吉に対する想いが切々と綴られていく。
当の瓢吉は早稲田を中退した仲間達と政治ゴロのような活動を始めるが、
やがて小説家の道を進み出す。しかしその道は平坦ではなく、いつも貧乏でお金がない。
ここに登場する人は例外なく皆その日の暮らしにも困るくらい貧乏だが、
なにかしらお金を調達してきて酒を飲み、「明日は明日の風が吹く」といった具合で、とても豪快な生き方をしている。
こういう面を見せることによって読者に暗い印象を与えないようにしているのかもしれない。
いずれにしても人生を模索し続ける瓢吉と、
不幸な境遇におかれているこの三人の女性達がこの『人生劇場』という小説の中で
これからも何度も登場してくるのは間違いなさそうだ。
Vol.61 『人生劇場(青春篇)』(上・下)・・・尾崎士郎 著 (新潮社)
この本を最初に読んだのはいつの事だっただろう。
確か学生時代だったので、20年は経っているはずだ。
その間ずっと本棚でほこりをかぶっていて、紙もセピア色に変色してしまっている。
この小説は「青春篇」から始まり、「愛欲篇」、「残侠篇」、「風雲篇」、「離愁篇」、
「夢現篇」、「望郷篇」と続いていくが、再度読み返すにあたりその都度ここに書きとめていこうと思う。
この「青春篇」では、吉良の仁吉で有名な三州吉良の名士の家に生まれた主人公・瓢吉が
早稲田大学に入学し、自分の進むべき道を探しながら、生きていく様子が綴られている。
実家の没落、父親の自殺、大学中退などの出来事を通して、
苦悶する様子と新しい道を見つけだそうとするところで「愛欲篇」に続いていく。
登場人物も個性的で興味をそそる人たちが多数出てくる。
この小説の主人公はあくまでも瓢吉ではあるのだが、「人の真似をして生きるな」と教えた父・瓢太郎、
新しい時代についていけず不器用な生き方しかできない侠客・吉良常などはとてもいい味を出している。
アカデミー賞にあてはめれば、さしずめ「助演男優賞」というところだろうか。
また文体も、大衆演劇の弁士の口調のようで、少しユーモラスな面もうかがうことができる。
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