鎌倉歴史散策の歴散加藤塾別館、鎌倉古道を訪ねる頁です。
鎌倉古道 鎌倉街道・鎌倉往還

(四)の三 二子玉川駅から世田谷城址まで
二子橋を渡り終えたら、信号で土手沿いに左へ行き、国道246号の高架の手前を右へ入り、高架橋をくぐりましょう。
これが古道です。最近は、大型店の出店や駅東口の再開発などで、駅周辺がにぎやかになっています。
両側の店舗などの様子から、この道が古い商店街である事がわかります。
右に二子玉川小学校を眺めながらそのまま進み、途中で次大夫堀用水を橋で渡ると上り坂になります。
坂を上りかけた左にお寺がありますが、明治の地図には見当たりませんので、調べてみたら昭和7年日暮里妙隆寺を当地に移転し、改めて身延山関東別院妙隆山玉川寺としたそうです。
もう少し坂を上ると、左側に神社の石段があります。
瀬田玉川神社 永禄年中(1558-70)にこの村の下屋敷に勧請した「御嶽神社」がはじまりで、明治41年に「玉川神社」と改称したそうです。
坂を登りきると、道は右へ、そして左へとクランクしています。
芳賀先生は、かつては真っ直ぐであったと推測されていますが、周辺の地形から云って真っ直ぐはきついので、迂回したと考えてもよさそうです。
登り切った左の寺は、慈眼寺です。
徳治元年(1306)に小堂を建てたのが始まりとし、天文2年(1533)長崎四郎左衛門が、この小堂を崖上の当地に移し真言宗慈眼寺としたそうです。
この地には、神社・寺・教会・神学校と宗教関係が集まっているのは、清浄の地と思われ、古代の古墳跡を感じさせます。教会の前から北東に向かって進みます。
途中に新しい寺を見ながら進むと、環状八号線にさえぎられます。
仕方がないので、左に見える信号で向こう側へ渡りましょう。
環状八号線超えて、なお先へ進むと広い通りと合流します。
緩い坂を下っていくと、頭上に首都高の高架橋があり、この辺りが交通情報でおなじみの「用賀料金所」へんです。
高速道の下で田中橋を渡りますが、下の川は下流の「等々力渓谷」を流れ、多摩川へ注ぎます。
田園都市線「用賀駅」は地下のため分かりにくのですが、周辺がにぎやかな商店街になっています。
店舗を見ながら歩いていると、壁塗りの職人さんが働いています。親子なのでしょうか?それとも小さな見習いのお弟子さんでしょうか?二人とも脇目も振らずに頑張っております。
用賀駅前の交差点からは、左の細い方の商店街が古道です。
右側は、ゲームセンターやパチンコ店などの新しいビルが並びますが、左側には昔ながらの商店の建物が続きます。
道なりに進みむと右側に老舗の酒屋さんがあります。そのまま交差点を超えて進みます。
正面に、ガラス張りの丸みのあるビルの前の交差点は、大山道との分かれ道です。
右へ緩く上っているのが「大山道(矢倉沢往還)」で、田園都市線沿いに三軒茶屋を通り、渋谷・赤坂見附へ出ます。
正面左への道が「鎌倉古道中の道」なのです。
先へ進むと、左に「国立医薬品食品研究所」の門がある。
良くわからないが、ホームページの使命の蘭に「国立医薬品食品衛生研究所は、医薬品や食品のほか、生活環境中に存在する多くの化学物質について、その品質、安全性及び有効性を正しく評価するための試験・研究や調査を行っています。」とあります。
ようするに、安全な薬と食べ物を、みたいですね。
その先で、木立のある大きなマンションがあります。
石碑には「昭和薬科大学世田谷校舎跡地」とあります。
明治の地図では、水路が横切っているのですが、現在は道路です。
左へ曲がったところに、「陸上自衛隊用賀駐屯地」があり、隊員は東北震災の復興に派遣している。とありました。頭の下がる思いです。
門の前で地図を見ていたところ、自衛隊の方から「何かお探しですか」と声をかけられ「水路があったようですが。」「はい、今は暗渠になり、塀にそっている桜並木が元の水路の土手になります。」と教えてくれた。
先ほどのマンション角へ戻り、北北東へ針路をとります(古い)。緩ーい坂を下って行きます。
坂を下りきった右に、大山詣での旅人の像があります。こちらも大山参りの人々が利用していたものでしょう。
マンション群の先で、新道を横切ると、左側に石碑の跡碑があります。現物は、後ほど寄る上町の郷土資料館の庭にあります。
先で世田谷通りにぶつかるので、信号で向こう側へ渡り進むと、桜小学校で古道は消えている。
仕方ないので、東へ又も世田谷通りを超えるとそこは、「ボロ市通り」と呼ばれる。
毎年12月15・16日と1月15・16日に開催される世田谷のボロ市。説明板には
世田谷ボロ市は、天正6年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源をもつとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に六日開かれる六斉市であった。しかし
この地に楽市を開いたのが始まりで、430年にわたる歴史のある伝統の市で、東京都指定無形民俗文化財に指定されています。
最初は古着や古道具など農産物等を持ち寄ったことから「ボロ市」という名前がついたとされていますが、現在では骨董品、日用雑貨、古本や中古ゲームソフトを売る露天もあり、代官屋敷のあるボロ市通りを中心に、約700店の露天が所狭しと並び、毎年多くの人々で賑います。
その先に、郷土資料館がありますのでよりましょう。
BS朝日の「百年名家」でも紹介された「代官屋敷」があります。
世田谷代官屋敷は彦根井伊家の世田谷領20ヶ村の代官所でしたが、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であり世襲で代官職を務めた大場家宅を役所とした邸宅兼用の代官所でした。現存する建物は代官所としての特徴も見られますが、武家屋敷というよりも豪農の邸宅としての形態をよく伝えています。表門も武家屋敷の長屋門形式ではなく、民家の門に近い簡素な形です。この主屋と表門は明治期以後も大場家によりそのまま受け継がれ、今も旧態を保存している貴重な建物なので、大場家主屋及び表門として国の重要文化財に指定されています。
すこし戻って、八百屋の脇の路地を入るとまたも、世田谷通りを越えて、次の交差点も超えると、東急世田谷線「上町駅」があります。
そのまま踏切を渡って進むと、正面に森の茂った小高い公園があります。
これが、世田谷城址です。
ここの電車は、ヨーロッパ風のカラフルなトラムのようです。
若い女性の車掌さんがお似合いです。
世田谷城址は、南北朝期の中盤に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。吉良氏は足利氏と祖を同じくし、本家筋で足利氏出身の三河吉良氏の後裔で上野国飽間郷を領していたが、吉良治家が貞治五(1366)年に鎌倉公方・足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領してこの地に居住するようになったという。
しかし、子孫の氏朝は永禄五(1562)年、北条氏康の娘を娶った。北条氏は吉良氏を縁戚に置くことによって権威を高め、吉良氏を蒔田城へと移し、世田谷城は北条氏直轄となった。
この城址の一部が現在は寺になっており、小田急の駅名ともなっている「豪徳寺」です。
豪徳寺は、鷹狩の帰りに通りかかった彦根藩主井伊直孝に対して寺の飼い猫が手招きをしたため、直孝はここで一休みすることにしました。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり雷雨になってしまったのです。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜びました。これが縁でこの寺が井伊家の菩提寺となり、直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ寺の名前を豪徳寺と改めました。