2002.4.21 写真集出版記念握手会(神戸)
■2002/04/22 (月) 神戸握手会(1)
SPEED時代も含めれば、それなりに何度か、運良く かなり近くで見ることが
できたこともあった。
それでも、たった一瞬ではあるけれど、千何百人のうちの一人ではあるけれど
1対1で向き合えた寛子ちゃんは、それはもう、当然 目もくらむ(笑)可愛さ
綺麗さで、下界の人々と比べるのも失礼なほどの、本当に ほっそりした
品のあるお姉さんという感じ。
ええ、ほめ過ぎなんですけど(;^^)、実際 人と握手するのに あんなに
舞い上がってしまうことって、人生でそうは無いだろうなあ。
同じ「一瞬」でも、服装やら仕草をまぶたに残る映像として 冷静に記憶できて
いたりすることもあるのに、今回は全くダメ。
肝心なところの記憶が、映像ではなく、感情だけなのだ。
昨夏のラジオ観覧や半プライベートな姿を見た時に感じた、ちょっと複雑な思い。
それを吹っ飛ばしてくれたのは、たぶん、この握手会が、たとえ同じ目線に
立っていようと、私服であろうと、歌が無かろうと、間違いなく彼女にとっては
タレントとしての「見られるための」ステージだったためだろうなと思う。
変な言い方だけど、子どもにやさしく振舞ったり、ファンの言葉に
まめに反応したり、ずっと笑顔を向け続けることは、彼女がどういう人間か
とかではなくて、一時間半の「握手会」という仕事をやる上で、「やる気」が
あれば できることだとも思う。
もちろん銀座でも やる気もあっただろうし、楽しんでもいたのだろうけど
慣れていないということは「気がつかない」ことも多いのだ。
銀座では、実はけっこう裏でも「目が合わなかった」と嘆いていた人がいたらしく
今回 そういう声を聞かないところをみると、確実に意識して直そうとしてくれて
いたのだと思うし、「ひとりひとり」の思いの重みにも気づいてくれたのだろう。
そうやって変わっていける寛子ちゃんは大好き。
そして銀座の様子からして、プレゼントや手紙を直接渡せるというのを知って
いたのに、結局 何も準備できなかった自分も変な部分で淡白というか
人の価値観なんて そんなものなんだろうなあ。
けっこうなお金と時間を使って行くのに、では このチャンスに何かアピール
しようという発想が無くて、2度回ることなど考えもしなくて、ただ
この一方通行の思いを その一瞬でも伝えられれば、それだけを思っていたような
気がする。
■2002/04/22 (月) 神戸握手会(2)
時間を追って思い返すと、パネルで仕切られた中に入りこむと、いきなり
彼女がいて、向かって左前にいたのが客をさばく係の男性で、
寛子ちゃんの向かって右隣が、マネージャーWADAさん。
この方が写真集の写真そのままの雰囲気の方で、一瞬そちらに視線が
行ってしまったのは少々の悔いで(笑)、その時ちょうど何人か前の方が
プレゼントを渡したらしく、寛子ちゃんが「わぁ、ありがとう〜」と
大きな声を あげているところだった。
この「ありがとう」を、今日は何百回も繰り返しているんだろうなと
思って・・いるバヤイじゃなくて(;^^)、この時、まだ何を言うかも決めてない
私って いったい何のために来たのだろうとか思っているうちに、前に並んだ
連れの番がきた。
これがまた事前の意気込みとは大違いで、あっさりとホニャララ言っただけで
はけてしまい、ついに私の番。
ちょっと見上げる感じで向き合った寛子ちゃんの、目を細くしての満面の笑顔に
年甲斐も無くクラッときてしまって(;^^)何か一言二言 言葉をかけ、
顔だけはしっかり向き合おうと思っていたので見えたものの、あとは何を
着ていたかさえ全く思い出せず、その目の下のホクロの印象と、
両手で握手したのに、なぜか右手だけに しびれるような感触を残して一瞬は過ぎた。
立ち止まることも、振り向くことも、一秒でも長くその場にいることにも
考えが及ばず、足が勝手に動いた。
寛子ちゃんは、私の視野に入っている何人分かの握手の間、ずっと笑顔で
その細く軽やかな美しい声で きちんと相手の顔を見て言葉を返したり
まさに鈴をころがすような笑い声で頷いていたりした。
私の月並みな言葉に、彼女は「はぁい(笑)」と、これを1000人余の人間に
対して繰り返していることに驚いてしまうほどの笑顔で返してくれた。
たぶん、この後もずっと こんなだったんだろう。頑張っていた。
幸せを、ありがとう。
そして出口で写真集を受け取り、少々の脱力感を漂わせながら(;^^)連れと
近くのビルに食事にでかけた。
小一時間 神戸の味を堪能し、JRの駅に戻る途中、すっかり片付いた
順番待ち用のスペースを見れば、突如つのる寂寥感。(笑)
ところが、前方に思いがけず すごい人だかりがしている。
■2002/04/24 (水) 神戸握手会(3)
人だかり。
食事の間に、すっかり過去になりつつあった出来事は、まだ終わって
いなかった。気持ちがざわめいた。
2人して立ち止まり、みんなの視線の先を探すものの、当然はるか
最後列なので、何が何だか わかるはずもない。
が、警備の人の「一歩下がってください」の声を聞くと、とても場を
立ち去ることはできなかった。
ここで去れば、私は その後の騒ぎを伝え聞いて、憤慨し
バッカじゃないのと笑うことができたのだろうけど、正直、立ち去れなかった。
そして、実際に寛子ちゃんに殺到した人も、「姿を見たいだけ」と待っていた人も
後ろで去りがたく眺めていただけの人も、その罪に大差は無い。
その後10分ほどで、前方が騒然としたのは わかったのだが、背伸びしようと
何が見える距離でもなかったので、それがどういう状態だったのかは わからない。
それが、私が昔 当たり前のように見かけた光景のように、人気タレントとして
「あるかもしれない事態」だったのか、並外れた出来事だったのかも区別がつかない。
たとえ見えたとしても、不幸な事故でも起きない限り、特にどうこう思わなかった
かもしれない。
こんなことは主催者は予測できたはず。予測が甘かっただけ。
それが本当に危険だったのなら、まず「ファン」などという不特定多数の人間に
マナーだなんだと言っている場合でなくて、まずは企画上の問題、警備の体制の
問題のような気がする。
寛子ちゃんは地元スポーツ紙へのコメントで「雨の中、たくさん」という言葉を
使ったらしいけど、すでに2500円を納めている人間に天気なんか関係ない。
2500円の本を予約した人間だけが握手できる催しを、誰もが立ち入れる場所に
1000人以上のファンを集めて行ったのだ。
その後 整然と人が立ち去り、何事もなくタレントが一般通路を横切って
出口に向かえるはずはないよ。どう考えても。
確かに大変だったろうと思うし、大事な身体に傷ひとつ ついていませんようにと
心から願っているけど、こういう時 大事なのは、ただ一つ、会場の選択から始まる
きちんとした警備、それだけだと思う。
タレントに関係なく、群集は群集になった時、個々の意思など反映しようのない
一塊になってしまう。
そうやって過去の不幸な事故は起きたはずだ。
握手して、平和に ふれあって、それで終われる人間ばかりじゃないし
悲しいかな、それこそが人気の証という側面さえあって、そんなところで
顔が無いに等しい群衆を責めたって仕方無い。
そういう警備が できないのなら、人気がある間は、もう この手のイベントは
やめればいい。
人気がなくなれば、簡単に自由は手に入るのだし。
ファミレスに何時間いても不快な思いをするような騒ぎにならなかったり、
ラジオの公開放送で僅かなファンの前で夢や抱負を語っている時には
見えないだろうものがある。
ファンの悲鳴と歓声の渦の中心に立って、初めて実感するものもあったんじゃ
ないかと想像する。
これだから地方は・・などと、つまらない発想はしない人だと信じたい。
そして、それ以上に、もう こういう仕事はしなくていいかなあと思う。
ファンの欲望なんて、きりが無い。
「ふれあい」ならば、たとえ1 対 数千であろうと、「歌を歌うこと」ができる
あなたは、歌によって ひとりひとりの心のひだにふれることができるのだから。
ライブ熱望します。