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暗峠から奈良-伊勢本街道を歩く

街道の歴史 と メンバー紹介

この頁では…

・大阪から伊勢本街道の道筋の概要
・「伊勢参り」 「おかげ参り」の歴史
・私にとってお宝の「メンバー」や「日程表」「機材」「参照資料」など

 …をご紹介しています。


        (大阪から伊勢への道は「暗越奈良街道」「上街道」「初瀬街道」「本街道」あるいは「表街道」と進みました。)


江戸から昭和初期まで、全国から伊勢神宮参拝をめざす人たちが歩いた道・・・
それが、「伊勢街道」です。出発地や経由地によって幾本かの道がありましたが、ここでは、大阪からの道のひとつである、「伊勢本街道」をご紹介します。
伊勢へのこの170キロの道をサラリーマン仲間たちと、土日の1泊2日利用を含めて5回(8日間)にわけて歩いた記録でもあります。


          

          引用刊行物:「NHK歴史発見」から伊勢太神宮参詣群集図(発行所 角川書店)


往時には、住民は「伊勢講」を組織して資金を出し合い、毎年、代表者を送り出していました。下の写真の帳面は、京都府下の旧家に今も伝わる「伊勢講」の出納帳です。明治16年からの記録が残され、現在も形は変わりながらこの町で受け継がれているのです。
昭和に入ると、鉄道の開通とともに、伊勢への「道」は徐々に忘れ去られていきました。
(*昭和初期、大阪・玉造から奈良、そして伊勢へ向かう「のぼり」を立てた菅笠の一群をスタート地近くの今里で見た、当時まだ幼かった古老の証言もあります。)

          

          
               (京都府下に伝わる「伊勢講」の出納帳)


大阪の起点は「高麗橋」とされていますが、現在のJR玉造駅あたりから当時の町が途切れ、田畑や湿地帯の中の細い街道を集落をつなぎながら進むため、ここが旅人への別れの地であったようです。この玉造は、難波宮の勾玉製造所があったことから名づけられたと言われます。

玉造から生駒山の間は「河内(かわち)低地」「河内湾」「河内湖」などと呼ばれ、往時は川 ・池や湿地帯が点在した「河の内」でした。

さらに古くは、奈良 ・飛鳥から流れ下るヤマト川が大きく北へ蛇行して、この低地を幾筋もの川となって流れ、今の淀川と合流して浪速(ナミハヤ)の大阪湾へそそいでいたのです。

大阪湾との間には、「上町台地」が南から北へ突き出して北端の難波宮跡(後世には大阪城築城)へと長く続きます。台地上にあった宮を東へ下ると、河内湾に沿って勾玉製造所、西へ下ると断崖の向こうは浪速(ナミハヤ)の海でした。この台地に建てられた四天王寺から、海の向こうの西方浄土を拝んでいる人々が目に浮かぶようです。台地の西は現在では水がひき、海抜ゼロメートルの陸地になり、通天閣やビルの建ち並ぶ歓楽街やビジネス街になり、浄土はとても拝めません。また、台地の西に隣接する地域に「谷町」の名が残るように、上町台地には海からいくつもの谷が複雑に切り込み、昭和に入っても谷の埋め立てが行われていたことが語られています。

仏教伝来(552年説ほか) の時代、海外の文化や人々が船で瀬戸内を通って西方から来ると、まず眼前に南北に横たわるこの断崖の上町台地と、台地の右手にそびえる四天王寺(593年)、左手の難波宮(前期645年〜/後期726年〜)を目にしたことでしょう。岬に停泊して、このあたりに定住していた渡来人たちの出身地からつけられたと思われる「高麗川」、「百済川」など河内低地を流れる川筋に入る(岬で川舟に乗り換えたとする説があります)と、ヤマト川(大和川)です。川を遡上すると、やがて柏原、羽曳野のあたりに点在する雄大な天皇豪族の墳墓(仁徳天皇稜 400年代 ほか) が次々と目に入り、さらに川を東へ遡上してヤマトへと文化を伝えました。卑弥呼の屋敷跡といわれる遺跡が発見された奈良の纒向遺跡(巻向遺跡)はヤマト川近くに位置します。

          
       (大阪湾・・・現在の大阪市中心部から生駒方向を見ながら河内湾へ入ります)


かつて、船が遡上したこの河内低地からはその後、水がひき新田として開墾され、現在は商店、住宅や工場の混在する大阪市城東区、東成区、東大阪市などとなっています。

          
       (中央が上町台地、左が現在のビジネス街、右が東大阪・生駒山・ヤマト方面)


さて、難波宮跡の東に位置する玉造を出発し、現在も幾筋かの川が残るこの河内低地の古い街道を、密集した建物の中をたずねならが、縫うように進みます。ようやく東へ抜ける頃、生駒山の大きくくびれた鞍部が眼前に迫ります。


          
         (松原宿の手前で、右手に花園ラグビー場を見ながら生駒山へ向かう)


「暗峠(クラガリ)」は「鞍越え(クラゴエ)=鞍のくびれた所を越える」ではなかったのか・・・などと思っていると、もう枚岡です。

(実は、鞍越え・・・ではなく、@峠が大木で暗かった A山の旧名から B鞍を取り替えた の3説といわれていますが、このあたりを古くは小椋山と呼び、その嶺を椋嶺=クラガネと呼んだところからクラガリとなったとする Aの説が、有力なようです。次の江戸時代の古地図もご覧下さい。)

                       古地図参照

           (上の江戸時代の古地図には「椋嶺(クラガネ)越」と「俗称 暗(クラガリ)越」の名称を併記)


この「暗峠 (暗越 クラガリ)」の道は現在、恐らくわが国最狭の国道のひとつ、308号線です。この道を「伊勢参宮(伊勢参り)」の人波がびっしりと埋めた時代がありました。


          
               (車1台がやっとの、国道308号線の細道)


そして、その一直線に上る308号線の舗装された狭い急坂を「ハーハー」と言いながら上ると暗峠(暗越峠)。ここには往時の石畳が残ります。旅人たちは足元のドロを落として、茶屋に入ったといわれています。

          
                   (暗越峠に残る石畳)

峠から東へ向かう下り道ではヤマトの盆地が穏やかに展開します。(霞がかかっていると、手前の矢田丘陵と、はるかかなたの若草山が霞に浮かび、幻想的な古都を演出してくれてラッキーです。) 


道は生駒山を下り、矢田丘陵を越えると、右手に唐招提寺、薬師寺、左手に平城京跡を過ぎて奈良のさるさわの池に達っします。さるさわの池からは飛鳥時代に整備された南北の「上街道」(旧、上ツ道)へ変わり、天理、三輪へと南下。左手の山すそには山辺(ヤマノベ)の道が古墳や集落をぬいながら平行します。


三輪、桜井のあたりは、古代にはヤマト川(大和川)の川幅がかなり広くて船がここまで上り、ヤマトへの文化や物資の供給地であったと記録されています。2009年11月、卑弥呼の屋敷跡といわれる遺跡が発見された纒向遺跡(巻向遺跡)もこの川の近くで、私たちが歩く街道もすぐ横を通ります。今は盆地の中の静かな一帯ですが、往時は内外に通じる交通の要衝であったわけです。

本家(?)出雲もこの少し先にあり、相撲発祥の地を島根県出雲市と競っています(「大和出雲の新発見」榮長増文氏著参照)。山陰の出雲はヤマトの政権樹立の前に確立された権力を有しながらヤマトへ譲り、衰退していくという歴史上のナゾをもつ地域です。こちらのヤマトに、なぜ出雲があるのか、いよいよナゾめいてきます。ここから初瀬(長谷)へ東進する道は「初瀬街道」と呼ばれていました。

          
                  (初瀬街道にある長谷寺参道)



道は初瀬から上りに入り、榛原へと進みます。長い西峠をようやく越えた榛原で、名張方面へ向かう表街道(あお越え)と分岐して南寄りに進む本街道は、山中深くをめぐる狭い舗装路と峠道が繰返します。このあたりは往時には地豪の関所が連なり、旅人は「関銭」に泣かされた道筋です。

国道369号線-368号線が眼下の谷筋を走りますが、この国道も最近まで1.5車線部分が点在していました。一方の(榛原から分岐した)表街道は伊勢へは遠回りのコースですが比較的平坦で、現在は近鉄電車が松阪・名古屋・伊勢方面へ走っています。後述のように、昭和6年の近鉄電車の大阪〜伊勢(宇治山田)間の開通によって、本街道、表街道共、歴史の片隅に置き去られてしまいました。

         古地図参照(榛原から最初の峠「石割峠」付近)



          
            (伊勢奥津から上多気へ向かう飼坂峠から望む街道)


人がやっとすれ違える程度の、伊勢まで続くこの細道が、往時の「幹線」であったことを想いながら歩くと、味わい深い・・・それが伊勢街道です。いくつもの峠を越えて、飼坂、ひっ坂の緑に包まれた深い峠を越えると、眼前の山なみが忽然として消え、伊勢までは視界の開けた平坦路が続きます。

いよいよ伊勢に近づき、宮川に掛かる度会橋(ワタライバシ)を越えてすぐに右に曲がって再び左に折れると、商店街に入ります。しばらく歩くと筋向橋を経て外宮(ゲクウ)へお参り。


          
                (外宮に到着。身を清めてお参りへ・・・)


外宮から内宮(ナイクウ)へはまちがいやすいのですが、保育園の角を左手に上り、情緒を残す古市の町並みを過ぎて内宮へはあと少しです。「おかげ横丁」へ入り、お土産物に目移り&舌鼓みしていると、内宮は目の前です。

「お伊勢さん」などとも呼ばれる伊勢神宮は外宮と内宮を合わせて、古くは伊勢太神宮(いせのおおみかみのみや)と言われていたそうですが、正しくは「神宮」。別宮・摂社などの関連する宮社が125もあるそうです。内宮に祭られる天照大御神は天皇の御祖神で、始まりは2000年ほど前のこととされます。20年ごとに建物などを新しくする「式年遷宮」でも知られています。


          
            (式年遷宮の行事のひとつ「お木曳」 2007年5月撮影)


          
            (おかげ横丁を抜けた、この宇治橋から入ります・・・)


江戸時代の話になりますが、この道はおよそ60年に一度、庶民が爆発した「おかげ参り」の道でもありました。毎日何万という庶民が神宮をめざして爆発的にこの狭い道を歩いたという記録が残っています。各地からの参拝者が約5ヶ月の間に3〜500万人にも達した時もあります。
              

幕府の規制で人の移動のままならない時代に、「(神宮の)お札が(天から)降った」ことを合図にシンボルの「ひしゃく」を手や腰に、飲食、風呂、かごなどさまざまな施し(施行)を受けながら伊勢への旅に飛び出したのです。

                
         引用刊行物:「朝日百科 日本の歴史」(発行所 朝日新聞社)

店員は急にいなくなる、嫁はんも姿を消すという有さまでした。
次の60年目あたりになると、みな「そわそわ」としていたようです。それほど大規模ではありませんが、突然伊勢に飛び出す「抜け参り」も行われていました。明治に入って「施行」の風習がなくなると、旅の魅力は薄れ、大正から昭和にかけて、現在の近鉄電車の開通区間も徐々に進み、大規模な「おかげ参り」は幕末が最後になっています。さらに昭和6年に参宮急行電鉄が宇治山田まで開通し、大阪から全線鉄道による参宮が可能になり、「参宮街道」とも呼ばれたこの街道は鉄道にとって代わられ、近年は高速自動車道の整備で車の道へと変化しているのです。



「おかげ参り」は「法」も「体制」も振り捨てた「大脱走」でもありました。(本来は前述のように、「伊勢講」と呼ばれる共同体で費用を負担しあいながら代表者が交代で参宮しています)
神社が「朝廷」側、寺が「幕府」側であった時代背景を考え、夜半にお札を町中にばらまいたの誰であったのかなどと詮索し始めると、反幕府暴動の色合いや、庶民の間にたまったガス抜きの意図さえ感じますが、ここではキナ臭いお話は抜きにして、庶民の爆発エネルギーに心を寄せましょう。


さて、私の試算では1列なら、大阪から伊勢まで50cmごとに人が連なることになります。2列でも1mごとに歩かねばなりません・・・これはオカシイと思いました。しかし後日、目にした当時の絵図からも、その混雑ぶりがうかがえて、やっと納得できました。(後掲、「一覧絵図」左下の右図参照)

道中には行き倒れた人たちのものと思える無縁仏の墓石がいくつも残っています。死もあれば、恋に落ちた人生もあったことでしょう。


このか細い山道にひしめきあうようにして「伊勢へ、伊勢へ」と向かう人波と爆発の熱気を感じながら、あなたもこの道を少〜し歩いてみませんか。今はこころやさしい村人の他は、すれ違う人もない静寂の道です。


広い高原を歩く心地よさも格別ですが、古道の木陰に座り、目をとじて元気薬を口にしていると、あじろ笠をつけた人波がまぶたに浮かんでくるような「街道ウォーキング」には別の味わいがあります。


・・・そんなアナログな街道を、私はデジタルなGPS(人工衛星による緯度経度測定システム)の力も借りながら、仲間たちと伊勢へ向かい、ようやく完歩。二人で始めた街道の旅がゴールでは五人になっていました。


道中の道標や目印を<写真>と共に、GPSの<緯度経度情報>に残しながらの旅です。

               
                   道中で見られる道標のひとつ




<写 真>と主要ポイントの地図は・・・・・

↓区間名と概要↓ 番号は区間内の図番
距離時間
付近の地図


「伊勢参り」への道中で目にした全道標をすごろく風の「衛星伊勢街道絵図」として、上の例のようにご紹介しています。


道標だけではなく、主要な迷いやすいポイントの手書き地図も添えています。あなたがお出かけになる時は絵図をプリントしてお持ちになりませんか。各道標の写真右上の四角なマスにチェックマークを入れながらお歩き下さい。道標の見落としやコースの誤りを防ぐことができます。

     ※この後に掲載した街道全体の一覧絵図ではデータを縮小したため、不鮮明です。
       ご覧になりたい個所をクリックしていただくと、その区間が通常の大きさに表示されます。
     ※写真は進行方向に向けて撮影したものばかりではありません。ご注意下さい。


衛星伊勢街道絵図(一覧写真)を見る



<緯度経度情報>と道標や常夜灯の情報は・・・・・

   

左は地図のない etrex ・・・ミニチュア人形が、かわゆく歩いてくれます!
右は地図付の etrex REGEND ・・・山間の峠道は地図データがありません


・・・別表にまとめました。ここに用意した一覧表を見ながら予め今日の道標の緯度経度をGPSに入力しておけば、この写真のような手のひらサイズの小さなGPSでも、道筋が手にとるようにわかります。しかも道標の見落としもなく正確に到達できます。


右(青色)のGPSは地図付です。駅や主要な道が表示されますので、位置がつかみやすくなります。ただし、山間の古い峠道は地図が表示されません。携帯型のナビゲーションでも同様です。やはり、道標などポイントの緯度経度を入力しておかれるほうが便利です。
目印となる道標の少ない地域では寺社や分岐点の緯度経度も掲載しました。


GPSを利用されない場合でも、一覧表には道標や常夜灯の所在地や刻まれた文字の一部、その他の情報も掲載していますのでプリントしてお持ち下さい。

緯度経度一覧表を見る

もちろんGPSなしでも、安全に歩けますし、古道をこのようなツールに依存して歩くのはどうかと思われます。「いざ」と言う時の補助としてお考えいただき、できるだけ地元の人々とふれ合いながら道をお進み下さい。(ただし、地図なし、コンパスなしでは山中の道は無謀です)


交通機関、特に山中のバス(奈良交通・三重交通)やJR伊勢奥津駅は便数が少ないので、事前の確認が必要です。TOPページに、交通機関などの関連リンク集ボタンを用意しています。


      ・・・・・それでは、どうぞ伊勢への道をゆっくりとお楽しみ下さい。





                      --- 資 料 ---

仲 間 達

ご紹介したいアナログな仲間たちです:
(完歩の伊勢内宮神前にて、向かって右から)
たむさん ・・・・・・・・・・・・・・ 最強のカメラ通、かつ、歩く年代自動変換機。
真夜中のイインチョウ・・・・・ 最終区間から参加の若きホープ
ウムラウトのポン・・・・・・・・ 最速6キロの若きペースメーカー。ついて行けへん。
アッキャ万 ・・・・・・・・・・・・ 言い出しっぺオジサン。くたばらない熱意が売り。
私  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昔、元気薬で命を落としかけた低速 カズです。
20〜50才台までのバラツキと、関東人2名、関西人3名という組み合わせも妙だ。

【歩いた日程】 


     2001年から 2002年まで5回にわけて、大阪からの伊勢参りの道を総8日間で完歩。
     大阪のユースホステルのみなさんが主催されている年末の「4日間」の行程の倍です。
     この後にも、「日帰りモデルコース」のご紹介などで、継続して歩いています。

第1回 (1日目=日帰り)
     玉造〜生駒(JR玉造駅から東進、日帰り。帰路銭湯へ入って解散)

第2回 (2日目=天理泊、3日目=榛原から帰阪)
     枚岡〜天理(枚岡まで近鉄。暗峠は第1回とダブリ。南生駒〜天理としてもよい。天理、喜楽荘泊)
     天理〜榛原(最後の西峠は長い!美榛苑で一風呂あびて近鉄で大阪へ)

第3回 (4日目=御杖村泊、5日目=奥津から帰阪)
     榛原〜御杖(榛原まで近鉄、3時半〜5時頃御杖・土屋原のまつや旅館着)
          ※日帰りの場合は山粕西口から榛原へ奈良交通バス、または名張へ三重交通バスを利用。
     御杖〜奥津(伊勢奥津駅から名張へ三重交通バス、またはJR利用。どちらも便数が少ない。)

第4回 (6日目=粥見泊、7日目=多気から帰阪)
     奥津〜横野(伊勢奥津駅から最後の山道です。飯南町粥見の高光館泊まり)
     横野〜多気(山とわかれて伊勢の平野を歩きます。JR多気がこの日のゴール)
             ※多気からは松阪駅へJR線で。松阪からは近鉄も利用できます。

第5回 (8日目=多気から下宮、内宮へ+鳥羽泊、打上げ)
     多気〜外宮・内宮(2002.4.20 無事完歩! ほとんど平坦路。外宮〜内宮が思いのほか長い)

この他、怪しい道標の追跡のため何度か愛車のバイク 'XV1100' でも走っています。

【写  真】

ひとつづつの道標の写真のオリジナルは撮影後、約80万画素に編集しています。

絵図内ではひとコマを8千画素(1/100)に縮小し、集めて一覧にしています。
それでも、すべてを集めると、横1800×縦1200=200万画素にもなります。
A3用紙にプリントすると、ちょうど見やすい大きさです。

インターネット上では大きすぎるので、さらに1/12に縮小した「一覧絵図」を掲載しています。
縮小したために、あいにく、小さな文字は読めなくなりました。
各区間ごとに掲載した「区間絵図」では、ひとコマ8千画素ですので、文字も読めます。

カメラ : OLYMPUS C−3030 / FUJI FinePix 1500 / DIMAGE X
      CANON PowerShot G10



【G P S】

GARMINの「trex」という手のひらサイズのツール。2万円台のシロモノです。

測量する基準になる「測地系」は「TOKYO」に設定しています。
最近、測地系が変更されたようですが、実用上は支障のないわずかな変更(位置の差)と聞いています。

2003年に入手した最新のtrex レジェンド」(20万分の1 地図表示付き)では、測地系のデフォルトが「wgs84」に設定されています。そのまま当資料の緯度経度情報でポイントを表示しますと、数百メートルのズレが生じます。
[メインメニュー]→[設定]→[ユニット]と進んで、測地系を「wgs84」から「TOKYO」に変更して下さい。

【資  料】

以下の資料を参考に歩いています。

(1) は大阪府立図書館で拝読。この本のおかげでスタートできました。毎年、暮れに大阪を出て元旦に伊勢到着の旅(スゴイ!)を主催しておられるみなさんです。 (2) は榛原以降で楽しく読ませていただいています。所要時間はかなり正確で参考になります。 (3) は土屋原の宿、まつや旅館で提供いただいた奈良大学の貴重な資料です。道中でみなさんが保守しておられるたくさんの新しい道標には助けられました。 (4) は図書館で参照させていただいた多数の資料類です。

 (1)伊勢参宮本街道(発行所:玉造稲荷神社 1988年第1版発行)
 (2)ホームページ 伊勢本街道(掲載者:「歩く親爺」さん)・・・リンクさせていただきましたが、サイト閉鎖のようです)
 (3)宝来講 道中略記(発行者:奈良大学文学部鎌田研究室 2000年補訂3版)
 (4)伊勢講、おかげ参り、抜け参り、ええじゃないかに関する諸資料多数。
    ・一覧絵図左下の図
     引用刊行物:「ヴィジュアル百科 江戸事情」(発行所 雄山閣出版)から
     (左)「長岡城の面影」久我正久氏蔵
     (右)「御影参明和神異記」四国女子大学図書館凌霄文庫蔵
 (5)ツーリングマップル関西(発行所:昭文社・・・バイクツーリングに利用中の地図。ルートマップに一部引用)


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