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<厚木に Z旗が揚がる> - 若き整備兵の記録 - |
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戦後半世紀をすぎて、 戦争の傷跡は年と共に風化されようとしていく。 我々の年代の「戦争」を体験した者は 忘れられようのない想い出をそれぞれが持っている。 平和な現代において未だに当時の事が忘れられず、 「戦友会?」と笑われながら、 厳しい試練に身を置き、 明日の栄光を夢見乍ら訓練に励んだ事を 語り合える友がいる。 そんな想い出を綴るのも又意義のあることではなかろうか・・・ 幸い、息子がインターネットに場所を設けてくれた。 あの日も・・・ Z旗が揚がり、友がこの国を守らんと飛び立った。 彼らは帰って来ない・・・ 涙しながら見送った多くの戦友の御魂を想いつつ、 一整備兵の記録として 手記を掲載していく事にする。 ヤス (Z旗…アルファベットの最後「Z」を表す信号旗。後のない攻撃時などのしるし) |
| 当時の時代背景 <kaz記 2010/12/12更新> | |||||||||||||||
(父、ヤスの手記に先立ち、当時の時代背景を整理してみました) 真珠湾から第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦までを切り取ってしまうと、ヤスの手記に登場する若者達の死は何だったのか・・・南方で内臓を引きち切られて歿した人たちの叫びは何だったのか・・・空襲で身を焼きながら、恐怖に心を失い、もだえ死んだくやしい思いは何だったのか・・・日本軍の蛮行で泣き、命を落とした人たちの恨みは何だったのか・・・何も見えなくなってしまいそうです。 「戦争」は狂気の沙汰です。一人の人命を奪い取ることすらどのような理由をもっても正当化できない。しかし、「○○○万人」などと、端数が捨てられてしまうほどの無残な死を招いた狂気の「戦争」がおこなわれたことは事実です。人はなぜ戦ったのか。二度と戦わないためにも、もう少し歴史の「流れ」をみるチャンスが与えられてもいいのではないでしょうか。 ---------- ■ ヨーロッパ人による世界略奪競争のはじまり 稲作で先祖代々定住することが習いとなっている稲作民族には想像しがたいことだが、狩猟の民にとっては獲物がいなくなれば狩猟の地を移動する=新しい地を略奪することは生き残る手段であった。同様に羊を飼う民にとっては牧草を食い尽くせば隣地に移動することは生活の知恵であり、当然のことであっただろう。人はどんなに高邁な理想を述べても、やはり空腹には勝てない生き物で、争いは日常的に行われていた。 やがて、航海技術が進歩すると、スペイン、ポルトガルの世界進出(略奪)から始まり、ヨーロッパ諸国によってアフリカ大陸は、そこに住まいする民のことなぞおかまいなく、大きな碁盤の目のように直線できざまれ、今日に至って、不自然な国境線となり民族紛争の火種を残す。その地に住まいしていた人々は狩猟の対象となり、やがて牛馬のごとく売られ、驚くことに普通のヨーロッパ人=米国人は彼らを買った。英国の港町リバプールはビートルズを生んだ街として知られているが、かつて、アフリカの人たちを捕獲し、鉄の鎖をかけて船で運び、ムチ打ちながらモノとして売買する商人たちの町として発展した(2008年10月4日 NHK「ビートルズを生んだ街 大英帝国・伝説の港町リバプール」)ことも象徴的だ。そこで繰り広げられた暴挙は、性的虐待などという生やさしい仕業ではなかった。彼らの「人格」はことごとく破壊され、おとなしい動物のように改造された。この暴挙は戦時における一部軍部の暴走による悲劇ではなかった点に心を止めざるを得ない。同様に中近東、南北アメリカ大陸は踏み荒らされていた。ライオンなどの野獣たちは空腹を満たせば、無欲な生き物に戻るが、人類は残念ながらそうではなかった。ヨーロッパ人たちは次なる欲望へと突き進んでいった。 今日、星条旗のひるがえるアメリカ合衆国は、ヨーロッパ人の近代武力と殺りく行為によって略奪された人たちの土地であったことを見失いがちである。アフリカ大陸と同様にスペイン、イギリス、フランス、ポルトガルなどの侵略行為によって、切りきざまれていったのである。西部劇で「西部開拓史」といえば聞こえはいいが、どろぼう殺人集団による「西部略奪史」であったことは容易に想像ができる。世界の多くの植民地は返還されていくが、この国はヨーロッパ人の国とされ、他人の庭で繰り広げたヨーロッパ人同士の戦いの結果、アメリカ合衆国と名乗り、まやかしの契約があったとしても、インディアン(ネイティブ・アメリカン)と呼ばれた人達に返還されることはなかった。 ![]() あの偉大で神聖な星条旗も、略奪した土地の数を星にして盗っ人たちが誇っているように見えると、くすんでしまう。 (* 歴史上、このような出来事は合衆国だけではありません。大多数の日本人もどこから来て、この地に住いしているのか、それまで住まいしていた人たちはどうなっているのか考えてみなければなりません。また、米国に友人もいます。古いことを持ち出すことが本意ではありませんが、この大戦につながる流れのひとつとして取り上げました。) 私は歴史研究家ではなく、ことの真相はわからないが、このページにおいて時代背景をさまざまな資料から整理する中で、太平洋戦争は世界略奪史のエピローグ(幕引き)であったと思いはじめた。 日本はアジア諸国で非難されるべき圧政や蛮行があったことを真摯に受け止めながらも、ヨーロッパ人たちによる血でヨゴされた暗黒の略奪史に、命をかけて幕を閉じさせた重要な登場人物でもあったことは深く心に止めてもいいだろう。
■ アジアでの侵略も中国・朝鮮へ そのような歴史的な視点から見ると、当時まだヨーロッパ人の魔手から逃れていたアジアも、ヨーロッパ諸国が100年ほどの間、ぶん捕りあいをしながら、イギリスによって、インド、マレー、シンガポール、北部ボルネオ、オーストラリアが植民地化され、オランダによってインドネシアが、ポルトガルによって東ティモールが、フランスによってベトナムが、スペインによってフィリピンが(1898年には米国によって)植民地化されていく。ロシアはインド、モンゴルなど各地で南下をはかる。 政治的緩衝地帯となって植民地化を逃れたタイ、ネパールを除けば残るのは現在の中国、南北朝鮮、日本となった。中国は南からイギリス、フランスなどによってねらわれ、北からはロシア、米国によってねらわれることになる。 1840年にはイギリスによる清(中国)への強引なアヘン輸出問題からイギリスと清の間でアヘン戦争が勃発。勝利したイギリスは香港を領有化してしまう。 欧米の脅威に対して、黒船来航からの混乱を経て1867年に維新を乗り切った日本には清(中国)、朝鮮をこのままにしておけないとの見方が強くなり、進出の機会をうかがうようになった。朝鮮はこの頃にはロシアの脅威を受けながらも、地勢から古くより中国の影響を受けることが多く、当時は清に従属した政権であった。 ■ 日清戦争勃発により日本が中国へ影響力 1894年、朝鮮(韓国)で起こった騒乱をめぐって朝鮮に派兵した清(中国)と、居留民保護を名目に進出した日本軍の間で日清戦争が起こる。アヘン戦争後、半世紀を経てなお疲弊をつづける清は、小粒ながらも近代兵器を保有する日本に敗れる。 日本が勝利した結果、1895年に台湾は日本に併合され、実に半世紀もの間、日本の統治下に入り、学校では日本語による軍国教育が行われる。それまで、ヨーロッパ諸国による植民地支配では学校を作り、住民の教育レベルを向上するなどという政策は行われていなかった。先に述べた略奪・支配をベースとする狩猟の民と、吸収・和合をベースとする農耕の民の違いがこのような違いを生じさせるものと思われるが、日本がおこなったことは「強引な天皇制教育の押し付け」「教育の浸透により、戦後の台湾経済発展の基盤となった」の2説の評価にわかれることとなる。 ■ ロシアの南侵阻止から始まった日露戦争 この戦争で日本の存在が注目されるようになる。 しかし、この戦争後1895年の講和条約で台湾の他に日本が領有したはずの遼東半島をロシア、フランス、ドイツが「中国への返還」を要求。同年この「三国干渉」により、海軍力などに劣る日本は止むなく下る。この機にロシアを中心にヨーロッパ各国が日本への抑止勢力として清(中国)へ進出し、ロシアは満州から遼東半島へ南下。朝鮮へも「保護」などの名目で影響力を強める。 日本は「軍事力が必要」と痛感。乏しい国家予算の中から10年の間に当時世界最大級の軍艦を含む大量の艦船を一挙に建造して海軍力を増強。ロシアの撤退を要求する日本との間で、1904-1905年日露戦争が起こる。 ![]() (ロシアはすでに満州まで侵出。他国を舞台に日露の戦いが始まった) 南下したロシア軍の拠点となった旅順港のロシア艦隊の撃破をめぐって、背後の山地の軍事要塞「203高地」の奪取など、血と肉(内臓)片であふれた幾万もの屍の山を築いた戦いを経ることとなる。他人事ではなく、今も墓地にまつられる当時の若者たちのしかばねを、血まみれのクツと銃剣と、そして恐怖と涙で踏み越えて旅順港という拠点を得た。すでに南下を始めたロシア海軍最強のバルチック艦隊の日本海到着の前に旅順港を攻略したいとする軍部の欲望の前に、兵という名の息子や父の命も悲鳴もささげられたのである。南下したバルチック艦隊と、軍備を増強した日本海軍との日本海海戦は、その直後のことであった。 日本海軍はこれを撃破。この海戦で日露戦争における日本の勝利は決定的となった。しかし、日本も消耗しきっていた。 (*「消耗戦」…なんとおぞましい言葉でしょう。針1本が突き刺さっても痛いこの体が弾薬、鉄片によって荒野の中で何万と引き裂かれたのです。しかし、父母や子や妻の行く末を案じて身を裂いた人々を単に「犠牲者」と呼ぶことは私にはできません。) この消耗戦の結果、遼東半島、満州からのロシアの撤退や南樺太を得ることができたものの、日本は賠償金を得ることもできなかった。しかし、それまで虐(しいた)げられたアジア・アフリカの東辺の小国がヨーロッパ人に勝利したことの影響は大きかった。 アフリカの人たちを初め、有色人種を牛馬のごとく、金で平気で売り買いしていたヨーロッパ人には信じられない出来事だっただろう。牛や馬が巨大軍艦を操って飼い主にはむかったようなものだったのだ。彼らの制作した「猿の惑星」を思い起こすのは私だけだろうか。日本の勝利は中近東やアジアの被侵略国の独立への動きを起こしたとも言われている。現ベトナムでは当時、抗仏運動家たちによってドンズー(東=日本に習う)運動が起きている。ところで中国にとっては、自分の家の庭先で盗っ人同士が家を奪おうと無謀な殺し合いを演じたようなもので、たまったものではない。 (* 第二次大戦後、マレーシアのマハティール首相が「ルック・イースト」政策を打ち出し、驚異的な戦後復興をした日本を習って工業化を進めたことも知られている。氏はもし日本がなければ世界は欧米に支配されていたと述べ、当時「日本社会党」と呼ばれる党の委員長であった村山首相が「おわび」訪問をつづけることに違和感を述べた人としても知られている。) ■ 朝鮮への干渉 日露戦争勝利の後、朝鮮へのロシアの進出を阻止しようとする日本は朝鮮への干渉を強め、保護国として現ソウルに朝鮮統監府を設ける。日本に対する反感から義兵闘争が激しくなり、1909年には統監を辞した伊藤博文がピストルで撃たれて殺されている。翌、1910年にはついに朝鮮を併合、35年もの間、統治下に置く。 併合後、日本は「皇民化」と称して各地に神社をもうけて朝鮮の人々に参拝を強要。日本語教育と共に若い女性たちも日本の軍需工場へ強制的にだまされるようにして送り込まれ今も裁判が続く。天皇、伊勢神宮への遥拝を強要された兵たちも志願兵制から急速に徴兵制に変更し、南方戦線へ送られた人々の多くが亡くなる。心ならずも「皇国を守る」特攻兵となった朝鮮の10代の若者もいるが、家族は終戦後、日本への協力者として冷たい扱いを受けることになる。(NHK「プロジェクト JAPAN」 2010年6月20日放送参照) (* 1990年頃、私は業務で韓国へ訪問する機会が多くなり、ある日、ソウル市内から空港へ向かうまでの時間に、韓国人の若いご夫婦に私が希望してソウルの博物館を案内していただいた。館の入口に何やら解説した大きな銘板があり、団体の小学生が説明を聞いている。ご夫婦によると、この建物は日本の統監府の建物であったことを韓国の人々が忘れぬようにと残されているということで、小学生たちは、その説明を聞いて入場しており、ソウルの公園には伊藤博文を殺害した安重根の銅像が英雄として建てられているということであった。韓国側の立場から歴史をみることができ、貴重な体験であった。なお、伊藤博文は千円札の肖像であったが、その後消えてしまった。) 日本による朝鮮統治には「欧米に習う侵略主義」「日本のための防衛線にすぎない暴挙」「朝鮮自立の支援をはかった」などの諸説があるが、いずれにしても、ヨーロッパ諸国によるアジア侵略の危機が背景にあったことは否定できないだろう。 この頃の、日本を取り巻く歴史は「ヨーロッパ・米国人による世界略奪に立ち向かう日本」・・・では格好よすぎる。「略奪に狂気で立ち向かった日本軍部」と「有色アジアの小国の反抗を力でねじ伏せようとするヨーロッパ・米国人」の思惑を頭におくと整理しやすくなる。 ■ 中国王朝の終焉と民衆の革命を支えた日本人たち この当時の中国は「清」王朝であった。清をさかのぼれば明王朝の後、満州族の侵入から始まった王朝。頭の周囲を剃り、後ろに長い髪の毛をたらす辮髪(べんぱつ)は満州族が持ち込み、漢民族に服従のしるしとして強要したものである。しかし、300年近くを経て末期的な政治腐敗、膨大な死者をもたらした飢饉など、多くの問題を抱え、国内情勢が不安定で各地で反乱が勃発するが反乱側も分裂し混沌とした情勢になっていた。清王朝としては略奪の機をねらう英仏などの支援を仰がざるを得なかったのである。 この頃、日清・日露の戦いを経て、近代化の進む日本から学ぼうとする清国の留学生が日本で急増。彼らの中から革命の動きが芽生え、欧米諸国のアジア干渉に危機感をいだく日本人有志の支援を受けながら孫文が立つ。 孫文は1866年に生まれ、青少年期をハワイで過ごし、早くも革命組織を結成している。来日は日露の緊張が高まりつつあった1897年、30才を越えた頃であった。日露戦争が終結する1905年にはそれまで分散していた革命組織が東京で「同盟会」として団結、孫文が総理となる。この団結のために動いた宮崎滔天、私財を投げ打って孫文を支えた梅屋庄吉の逸話は知られるところであり、清国内各地で勃発する反乱では志ある日本人も渡り、「アジア」の自立を心の支えとして彼らと共に戦い命を落としていく。1911年には辛亥革命が起き、翌1912年清王朝はついに滅亡。新生中華民国の臨時大総統には孫文が就くが、清王朝時代の大臣であり日清戦争(1894-1895年)、日露戦争(1904-1905年)後の清国陸軍の近代化や変革を図りながらも、一時失脚していた袁世凱が、新王朝と革命派の間に立ち、就任。孫文は袁世凱の力に敗れて日本へ亡命。その後も混乱は続く(袁世凱は1916年、中華帝国をたてて皇帝に即位するが反発を受けすぐに退位、同年没)。
日本軍部には弱体化した清王朝から国民の手による強い政権の誕生に警戒する動きもあった。孫文も「アジア」の自立から次第に「自国」中心へと心は動く。こうして、欧米の侵略行為に対抗して「アジア」の自立をめざす日本と新生中国との間に早くも亀裂が入り始めた。 中国ではこの後も紆余曲折がつづくが2000年間におよぶ皇帝による支配から解放される。1912年には南京を首都とする中華民国が成立しているが、混乱はつづき、やがて内乱に陥る。「三民主義」の理想に燃える孫文(号を「中山」とし、今も大通りなどにその名を残す。「中山」の号は日本滞在時に「ナカヤマ」から得たとする説もある)は1925年「革命はいまだならず」として没す。 ■ バルカンへの南侵競争から始まった第1次大戦 アジアで清王朝が滅亡した頃、ヨーロッパでは1914年に、強国オーストリー皇太子夫妻のセルビア(交通の要衝で、ヨーロッパの「火薬庫」と呼ばれ、古代より各帝国の支配下で民族・宗教が入り乱れ最近もコソボ紛争で多数の犠牲者を出した、イタリアの東に位置する、上図のバルカン半島の国)での暗殺事件に端を発して、南侵をはかる同盟国ドイツをまき込み、南侵を阻止し利権をねらおうとするロシア、フランス、英国、そして日本など30カ国以上をもまき込んで、同1914年から1918年までの5年間、悲惨な第1次大戦が繰り広げられ、ドイツの敗戦で終結。 ■ 強盗団に踏み荒らされる中国、そして日本の立場 ドイツ敗戦の後、いまだ混乱のつづく中国でのドイツの利権を受けて日本は中国へと拡張を進め、軍隊が駐留し、やがて満州事変、日中戦争へと拡大していく。 隣家(中国)に大強盗団(ヨーロッパ列強)が押し入ったと知って、助っ人に行ったまではいいが、自らも強盗に早がわりしたようなもの。もっとも、この新米強盗が命がけであばれたことによって目覚めた隣近所も多く、さすが400年の強盗歴を持つ大強盗団もひるんでしまった。その「功」も否定できないというのがここで展開される紛争や戦争のありさまである。土足で強盗団に踏み込まれた中国や朝鮮にとっては、たまったものではないが、こんな戦争で、誰が正義であったのか詮索することは、意味を失っているかもしれない。そして、現実には中国人、朝鮮人ほかのアジアの人々、ヨーロッパ人、日本人すべてに山のような尊い犠牲者を出してしまった。命をかけた純な若者たちの御霊には、せめて強盗騒ぎをおさめた「助っ人」であったほこりを心に記し、安らかに眠らんことを祈るのみである。 今日、自衛隊の海外派遣に中国政府が強い反応を示すが、このような過去の歴史を知ると、その背景がみえてくる。 1910年に併合した朝鮮では反日運動も激化し、1919年にはピークに達する。 ■ 満州事変と、ヨーロッパ人の世界支配に抗する日本の孤立 1931年には満州で軍部の謀略によるといわれる爆破事件から勃発した「満州事変」で、先に滅亡した清国を追われたラストエンペラー溥儀(フギ)を皇帝としてかつぎ出し、翌1932年にかいらい政権「満州国」を樹立。清朝は満州を元とした国であり、清朝が敗れ去った後に故国を樹立したことにはなるが、中国からみれば20年前には孫文による革命を支援した日本が、ヨーロッパ人と何ら変わらぬ略奪者となっていくのである。 一方で日本からみれば、革命後も混沌として欧米諸国の餌食となりかけている中国に対して、アジア連帯の象徴として新国家建設に挑戦したともいえよう。ロシア国境まで広がる広大な満州には日本から希望に燃えた多数の開拓団が送り込まれる。(敗戦後、満州からの引揚げにあたって、自害、子捨て、南下したロシア兵による婦女暴行など語るもおぞましい悲惨な運命に翻弄される人たちです) しかし、それまでも日本の満州進出に警鐘を鳴らしつづけてきた国際連盟は日本の満州国立国の主張を否決。アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、アジアを次々と侵略・拡張してきたヨーロッパ人(アメリカ人)にとって、アジアの黄色い小国がこのような動きに出ることは認めがたいことであった。(アメリカ合衆国では第二次大戦後も、白人と有色人の乗る電車車両は隔離されていたのです。野球やバスケットボールで、有色人種が参加を認められるようになったのは、戦後の、しかもごく近年のことです。それまでは、有色人種がボールに触れ、グラウンドやコートに入ることはけがらわしいことだったのです。しかも、戦前のこの当時、黄色い日本人が白人並みの略奪行為をするなどとは、許しがたいことであったでしょう。) 常任理事国であった日本はついに連盟を脱退。 ![]() (1931年満州 母と子でみる20世紀の戦争 草の根出版会) ヨーロッパ列強による植民地支配でアジアには自立できる国はほとんどなく、中国もまだ政権は弱体であり、各地で起こる反乱、飢饉に疲弊し、明治維新以来の急進する日本は突出した存在であった。 この頃になると、そのような日本に対して欧米諸国から次々と打ち出される日本製品の輸入規制によって、欧米や彼らが植民地支配するアジア諸国への輸出が急減して経済的危機に直面することとなる。打開の道を求めて軍部が動く。 ■ 日中戦争と経済封鎖 辛亥革命から四半世紀がすぎ、毛沢東が中華ソヴィエト臨時政府を樹立して、蒋介石率いる国民党政府と対立する混沌とした情勢の中、1937年今の北京近くで駐留日本軍と国民党軍との間の発砲事件「盧溝橋事件」が発生。ここから日中全面戦争に拡大するが、日本軍は海岸沿いの地域の制圧に成功するものの内陸部では行き詰まり、泥沼化。 中国側は国民党軍(蒋介石)と共産軍(毛沢東)が日本軍に対しては共同して戦った。彼らの裏にはアジアで突出する日本への警戒と、日本軍を消耗させようとする米欧・ロシアの策略が見える。 日本軍は石油ほか米国の資源にたよりながら戦っていた。1939年1月には米国からの航空機輸出が禁止、同年7月日米通商航海条約が廃棄され、次々と禁輸が強化されるなど、米国、イギリスなどからの干渉も激しくなった。 中国軍側への米国からの最大の補給路を絶つため、中国南部と国境を接する仏領インドシナ北部(ベトナム)に日本軍が侵出したのは1940年のことであった ■ ヨーロッパ戦線開かる 第1次大戦の痛手からわずか20年にして復興したドイツに国境を接するチェコスロバキアにはドイツ系住民が多く住む地域があった。計画的に軍備を増強したヒトラーはこの地域への侵攻を切り口に、やがてチェコスロバキア全土を掌握。 つづいて1939年9月、隣国ポーランド侵攻によって、それまで調停役をつとめたイギリス、そしてフランスがついに動き、ヨーロッパ戦線が開かれる。この時、ドイツにも良識的な反対派があったが、処刑されている。 ![]() (ポーランド侵攻したドイツ軍 図説第二次世界大戦 河出書房新社発行) ![]() (ウクライナでのドイツ軍による虐殺 図説第二次世界大戦 河出書房新社発行) わが国の軍部、政府の中ではドイツ、イタリアとの同盟を結ぶことで「強い」日本を打ち出して、米国と対等に外交交渉に臨み、その圧力を排除し英仏などが支配するアジアを「解放」し、「自由経済圏を確立」するという御旗のもと、一気にアジアの雄とならんとする動きが大勢を占めるようになった。 ■ 日独伊三国同盟で打破を計るが 軍部内にも一部、強硬かつ良識的な反対派もあったが、1940年9月27日ついにヨーロッパの侵略国となったドイツ、そしてイタリアとの三国同盟を結ぶ。 しかし、この政策が裏目に出てしまう。 もともと、世界地図で最後に残った中国やアジア諸国での利権を有し、拡張をはかるイギリスと米国は、これら地域への影響力を強めるアジアの小国、日本の排除をはかっていた。このような時に、非人道的な侵攻をはじめたナチス・ドイツの同盟国となった日本へは、さらに強い圧力が加わる結果となり、経済封鎖が行われ、鉄をはじめ、米国依存の石油が止まり、石油の大半を消費していた日本軍は窮地に追いこまれる。中国での空爆、侵出を続けながらも戦線は泥沼の中にあったのである。 ■ 日本が宣戦布告、交渉画策もならず 1940年の仏領インドシナへの侵出の後、アジア南侵を拡大しつつ、対米開戦については軍部と東条内閣の間では意見が分かれる。 翌1941年、石油のある間に「開戦」へ向かおうとする軍部案と、中国への米国不介入と日本の南進の中止を柱とした「暫定協定」へ向かう内閣案の2案並立となり、対外的には南進中止の内閣案をもって米国との交渉が行われる。 米国は欧州戦線と日本との両面の戦には3ヶ月の準備期間が必要との判断から日本案に近い妥協の動きを示していた。日本側では軍部の強硬な主張によって11月30日が「協定」の期限と定められ、日米の交渉が続けられた。 しかし、日本軍による執拗な攻撃を受けていた中国の蒋介石の舞台裏での画策、そして南進中止案を示す日本が「密かに大船団を南進させている」という誤報が流され、交渉は土壇場で決裂。米国側は突如、中国への米国不介入と日本の南進の中止から成る内閣案を無視した「中国・インドシナからの日本軍撤退(全面撤退)」を求める強硬な「ハル・ノート(協定案)」を突き出す。 その米国案に対して、中国からの撤退を受け入れる余地のなかった日本軍部は1941年12月8日、それまで密かに準備し、すでに太平洋上に待機していた海軍の大艦隊から発した航空機による真珠湾奇襲を決行。これに遅れて宣戦を布告し太平洋戦争へ突入。同じ12月には、開戦の口火をきった航空機の機動力とは相反する巨艦大和が就役し、軍部の狂気迷走が早くも露呈。大和は終戦まじかの1945年4月7日には「リメンバー・パールハーバー」と誓う米軍航空機による猛爆にさらされ、多数の若き乗員と共に海に没している。 この血みどろの戦いは中国大陸、南方各地、洋上や沖縄での無数の悲惨な犠牲者をうみ、無差別殺人ともいえる国内各地の空襲、そして広島、長崎への原爆投下を経て、大和戦没の同年8月15日まで、4年近くもつづけられた。終戦後も、旧満州からの引揚者やソ連抑留者など、取り残された人々に多数の犠牲者が出ている。 実は開戦の時、あの強国ドイツが対米戦へも参戦してくれるという甘い情報が駐独情報機関から日本本国へ流されたことも真珠湾奇襲誘発の原因となったとされるが、ドイツ軍は対米戦への参戦どころか、まさにこの日を境に極寒のロシア戦線で猛烈な反撃を受けて撤退を余儀なくされるという苦境にあったことは知られている。(ドイツ軍は、この後も態勢を立て直して再度侵攻するが膨大な犠牲者を出して敗れている) 米国側との交渉時に、3ヶ月という期限付きとはいえ、米国の妥協の動きが進んでいれば、その間にドイツ軍の苦境を目の当たりにした日本軍部は、日米開戦を断念したのではないかという見方も報道されている。(NHK「その時歴史は動いた」2003年12月3日放送参照) 一方、米国では反戦の気運があり、海をへだてたヨーロッパ戦線での同胞英国の苦境にも国民の心は動かなかった。 しかし、アジアの小国日本による真珠湾における太平洋を越えた信じられない「卑怯な」奇襲が、米国を参戦へ大きく動かせるきっかけとなった。(金で買える程度の有色人種が手漕ぎの丸木舟ではなく、戦闘機で襲来したことも一般人には信じられないできごとだったのではないかというのは私の想像です。また、米軍部では事前に日本軍の情勢はキャッチしながら、国民の参戦気運を高めるために沈黙したという説も納得できます。) この奇襲を機に、ハリウッドスターたちがこぞって志願しプロパガンダとして利用され一気に参戦へと動く。 欧米人の「世論扇動」の手法は最近のイラクへの介入にも見られる「ユダヤ手法」として報道されるが、その根は価値観・宗教観の相違にあり、あまりにも根深い問題となっている。 父ヤスは真珠湾奇襲の翌1942年(17才の時)海軍に入隊している。 オランダが植民地支配していたインドネシアに、南進した日本軍が上陸。解放者が東方からやって来ることを信じた住民の協力を得ながら10日ほどで制圧した頃である。(解放者であったはずの日本の圧政により多数の住民の犠牲者を出していることも忘れてはならない) なお、インドネシアは日本敗戦の時に独立へ動き、オランダとの間で5年間におよぶ独立戦争を経て多数の民族から成る連邦として、ヨーロッパ人支配からの独立を果たしている。この独立戦争には、日本敗戦後行き場を失った旧日本軍や民間人も多数加わったという秘話がある。 ![]() (朝日新聞 昭和17年2月16日) ジャカルタのモナス(独立記念塔)に展示されている独立宣言文に「皇紀」の年が刻まれている事実が示すようにヨーロッパ支配からの解放を支援した日本の顔がみえる。 一方で、日本語による日本式教育を強要、圧政による犠牲者も多い。インドネシアには「ロームシャ」の言葉が残り、父親が刑務所にとらえられた方ともジャカルタで偶然お会いした事実が示す暗い顔とが混在する。(なお、独立宣言文の「05」も、皇紀2605年の「05」とする見方のほか、1945年の「45」との単純な間違いとする説もある。) このように、300年を越えるヨーロッパ支配下にあったアジア解放のきっかけを作った日本の顔と、殺りくと圧政を強行した顔がアジア各地で見られ、今日では真実と歪曲の入り乱れる歴史教科書問題にまで発展。 やがて戦況は悪化。神風特別攻撃隊による「特攻」が始まったのは、ヤスの入隊から2年半後の1944年10月、敗戦まで残すところ10ヶ月の時であった。ヨーロッパ戦線では、この年6月に米英連合軍がドイツ占領下のフランス・ノルマンディに上陸し、ドイツ軍はすでに大敗してる。 ■ 志 願 ヤスが入隊した当時、この大戦は軍部によって「聖戦」化されつつあり、若者は頭脳集団といえる「士官」をめざして海軍大学校へ進む一部のエリートコースを除くと、いわゆる「赤紙」による「徴兵」を待つか、自ら「志願」するかの「兵隊」としての道を選ぶことになった。 ┌────士官(大将、中佐…少尉などと呼ばれる頭脳集団) ┤ │ ┌志願兵(自らの意思で入隊。入隊先の志望もある程度できた。 └兵隊─┤ 兵隊は二等兵で入隊後、兵曹長などの下士官が上限) └徴兵 街には戦意を高揚するポスターが貼られる中で、体力勝負の陸軍に対して、機械操作を伴い、かつ外国とも海を介して接触のあった海軍はそのスマートさで若者の関心を集めていた。(戦中でも、用語には敵国語「英語」が使われていた) 徴兵の場合は全員「海兵団(佐世保・呉・舞鶴)」に入り、兵隊としての基礎教育といえる「新兵教育」を受けた後、それぞれの適性によって実戦配置が決まった。 志願する場合は、「予科練」と呼ばれる甲種予科練習生(4年制中学卒または3年で繰上げ者)と乙種予科練習生や海軍経理学校、水兵科などさまざまな募集が行われていたので、それに応募し合格すれば海軍に入ることができた。 ヤスの場合、乙種飛行予科練習生を志望したが、結局、飛行ではなく整備の練習生のコースへ進む。 手記に登場する第二相模野海軍航空隊は、2ヶ月間の新兵教育を行った後、引き続き整備術練習生として、旧型の機材を教材とした初等教育を行う教育機関として新しく開設された。ここを卒業すると国内各地や南方前線などの実施部隊に実戦配置されるのが常であった。 手記にも登場するが、戦闘機は操縦士の他に、多数の整備兵が各機ごとに専任配備されて、はじめて飛べるのである。南方でも戦闘機が戦うためには、それに増す整備兵が送られなければならず、輸送船や戦地で多数の尊い命が失われた。
ヤスはまれなコースをたどり、新兵教育の後、しばらく部隊編成ができず、ようやく第二相模野で練習生として教育を受けて卒業すると、「定員」(配属先未定)として衛兵などを務めている。その後、1945年5月に高等科である第一相模野に移る。ここは、各地の航空隊で実戦を体験してきた者の中から選抜された者だけが高度な整備を学んでいた。この時に派遣として隣接する厚木空でも勤務している。この後、1945年8月に終戦を迎えている。
■ 世界侵略史に幕をひくことはできたが・・・ この戦争では広島、長崎の他、多くの街と人々が焼かれ、中国から南方洋上の島々でも、あの若者たちと数え切れないほどの現地の人たちも血にまみれた肉片となり、悲痛な叫び声と共に…大海に山野に散った。 ヨーロッパ人による「略奪行為」から遠く端を発したこの太平洋の大戦には前述のように「引き込んだ米国」「世界一へ挑戦した狂気の軍部」の両説がある。狩猟・放牧文化のもとで、生きるために新しい地へ侵略せざるをえなかったヨーロッパ人の痛み。その侵略文化に立ち向かったあの日本軍部の志はどうであれ、血があふれ飛び、止めどない涙が一人一人の人生をびっしょりとぬらしたことは事実である。しかし、と共に、戦後復興の時に、大戦で御魂となった友を悼みながら我を忘れて復興に全霊をつくした人々のこと、そして復興に当たった彼らと占領軍の心をも揺さぶった御魂の存在をだれが否定できるだろうか。私は…そして、多くのあなたも、同じ歳の若き友が父母を思い、友を思い、国を思って生身から血と内臓を噴き出し、泣き叫びながら粉砕した死に様(ザマ)を知らない…。 ヤスが志願の時、希望通りに「飛行予科練習生」の道が与えられていれば「南方」か「特攻」で、この国に殉じた多くの若者の一人となっていたことであろう。 もちろん、ヤスと共に過ごした多数の若い「整備兵」も、南方洋上で輸送船とともに今も沈んでいる。手記に登場するように、戦闘機は操縦士の他に、1機に専任の整備兵数名がいなければ満足に飛ぶことができない。恐るべき数の若者たちが南方へ送られたのである。艦底で口をふさぐ水にうめき、島々で火矢のような弾を生きた体に受け、もだえ焼かれ、父母の顔を思い浮かべながら飢えと病に朽ち倒れた御霊は数知れない。 今日、報道の中で中東、アフリカや世界各地で少年、青年が銃を肩に戦う姿に驚くが、この国があまりにも多くの純な若者を失った経験を持っていることを忘れてはならない。 ![]() (硫黄島の日本軍兵士 母と子でみる第二次世界大戦 草の根出版会) 彼らが死をもって守ろうとした父や母、兄弟姉妹、恋人の住むこの国、そしてアジアのことも・・・ |
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