Biography ..........................................................................................................................................................................................

音楽との出会い。

あれは確か8歳の初夏のことだったと記憶する。。。
5つ年上の兄の部屋からかすかに聞こえてきた何とも爽やかで心地のいい歌声。
まさに私が音楽と言うドラッグに足をつっこんだ瞬間だった。
当時、中学1年生だった兄は、親から念願のコンポオーディオを買ってもらい得意気に洋楽のLPをかけていた。しかし、LPが非常に高価な時代であったので、兄のもっていたLPはわずか2,3枚だけだったと思う。だから、必然的に兄の部屋から聞こえて来るサウンドはヘビーローテーション状態となり、幼かった私を洗脳するのに時間はかからなかったのだろう。「何とも爽やかで心地のいい歌声」それは、来日公演を大成功させ、記念盤としてリリースされた「カーペンターズ武道館日本公演LIVE版」から聞こえてきたカレン・カーペンターの歌声だった。小学校2年生で「カーペンターズ」を聴くようになった私は、間もなくして定番の音楽探求ルートをたどり始める。そう、ビートルズを知ってしまったのだ。10歳になった頃、鼻歌で意味も分からずカーペンターズの歌を歌っていた私に兄が衝撃的な事実を教えてくれたのだ。勿論、聞こえたままを口ずさんでいたのでまったく英語にはなっていない鼻歌だったのだが、その歌を聞いていた兄が、突然、その歌は「ビートルズの歌なんだぞ!」と言って、ビートルズのLP(赤枠)を私に聞かせたのだ。「涙の乗車券」「Help」幼い私は、それがカーペンターズの歌でとても好きだった。しかし、それがビートルズの歌だと知った時、わけも無く裏切られた気持ちになったのを覚えている。同じ歌でもアレンジの違いでこれほどまでに曲のイメージが変わってしまうんだと言うことを知った10歳の春のことだった。。。。

ビートルズにはまる、10歳の夏。。。。

感受性の強い時期にカーペンターズに出会った私が、ビートルズにはまっていくには時間がかからなかった。その時代に我が家で音楽を聴けるのは兄のコンポオーディオだけだったので、兄の目を盗んでは、ビートルズのLPを聴きあさり、そのメロディーに焦がれる日々を送っていた私も、学校に行けばスポーツ好きの小学4年生だった。そんな時、なんと同じクラスに似通った境遇の友達がいた。そう、兄の影響でビートルズファンになっていた友達がいたのだ。なんかのきっかけで、ビートルズの話が出た時に、彼はジョン・レノンが好きだと語り、私はポール・マッカートニーだと言って教室で盛り上がってしまったのでそのまま、半ば強引に他の友達2人をジョージとリンゴに仕立て上げ、私の始めてのバンド結成となったのである。とは言っても、誰一人楽器を弾けるわけでもなく、毎日友達の家で、ビートルズのライブ版(シェアスタジアムライブだったかな???)をかけて手製の張りぼてギターをかかえて口パクをしていただけだったのだか、今思い返すと、あれはあれで熱いバンドだったのではないかと自負している。小学6年になると私は念願のフォークギターをお年玉で買い、本物の楽器を手にする。確かYAMAHA FG150と言うギターだった。誰もが陥る“F”の悪魔にさいなまれ何度となくさじを投げかけたが、結局ローコードばかりの楽譜を見つけては、いかにも俺はギターを弾けてると言った具合に友達に自慢してたのを思い出す。

少し大人になった気分でバンド結成!

中学に入ると、急に世界が広がり、様々なコミュニティーとの接触の中で私の感性は触発されはじめる。地元の小学校では「俺たちみたいな小学生はいないし、いけてるぜ!」ってな具合でちょっとは知られた存在だったのだが、中学に入ると別の小学校にも同じような奴等がいたことを知らされ、子供心に「俺って小さな世界でよろこんでたんだなっ」って事を思い知らされたのだ。そんな時、他のクラスの奴等がバンドを作って、スタジオで練習し始めたという話を耳にした私はすぐに自分のバンドを作った。既に楽器のできそうな連中には声をかけてあったのでなんとなく自然にメンバーは固まり、私の本格的なバンド活動がスタートする。活動を始めてしばらくすると、ドラムの子がクラブ活動が忙しくなったのでと言うことで脱退をしてしまい、それをきっかけに私はスティックを握ることになった。この時点で、人前でギターを弾くことはなくなった訳である。中1の夏のことだった。。。。少し、話はそれるが、Soul,Blues,Pank,reggeといったワールドミュージックに興味を持ち始めたのもこの頃である。しかしながらバンドでやっていたのはRCサクセション、ARB、アナーキーなど日本のロックバンドのコピーだった。中2ぐらいからはオリジナルを作り始め、公民館などをみんなで借りてライブを始めたのだが、今思い出してもあの頃は演奏と言うよりは音だしと言うだけの悲惨なものだったと記憶している。こんなことを繰り返しながらそれでも中学を卒業する頃には何とかバンドっぽくなっていたのだから、まあよしとしておこう。

本格的なバンド活動。

高校に入ってバンド活動は本格的な物に変わっていった。この頃になると、ある程度、バンドの方向性も見えてきたことと、少しは大人になっていろんな情報を得ることができるようになったので、オリジナル志向の強いバンドとしてライブハウスやコンテストでの演奏を行うようになっていた。振り返ってみるとこの時期が最もホットにバンド活動をしていたように思う。

コンテスト

今でこそ、頻繁にいろいろなコンテストやオーディションが行われているが、この頃は年1回のヤマハ関連のコンテストがあるくらいだったので、おのずといろんなバンドが気合を入れて望んでいたものである。我々は、年齢的にジュニア部門ということでの参加であったが、その当時のシニア部門には今でも活躍されているミュージシャンがたくさんいて、今思えばコンテストのレベルがいかに高いものであったかを痛感している。このコンテストの名称はPOPCORN(ポピュラーソングコンテスト)とMID LANDである。実は、ここに私のバンド経歴に避けては通れない輝かしい栄光?というよりも少しばかり天狗になってしまった出来事があった。確か、高校2年の夏だったと思うが、私のバンドの私の曲が、MID LAND地区大会そしてセミファイナルを勝ちあがりグランプリ大会に出場することができたのだ。グランプリ大会では惜しくも敗れたが、ボーカルはベストボーカル賞に輝いた。このコンテストはバンド系のMID LAND大会とソングライター系のPOPCORNの両方にノミネートされる形態で、POPCORNでは約2000曲の応募から20曲が選ばれラジオやTV放送がされたのである。実はこの時、私の曲はこの20曲に選ばれたのである。ラジオやTVでの放送がからむと言う事で、著作権の契約書類を書かされた時は、「自分の曲が認められた!」「プロを目指すんだ!」などといった思いがよぎり、まさに自分の実力を棚の上に上げた状態で勘違いしていたことを思い出す。若気の至りと言う以外の何者でもなかったのだろう。


MID LAND
グランプリ大会
(愛知県勤労会館

POPCON中部北陸大会
(愛知県厚生年金会館)

若かりし日のドラマー時代

ライブハウス

その頃になると、それまでライブ活動の中心が自分たちの企画ライブだったのが、少しずつライブハウスと移行していった。とは言っても当時ライブハウス自体も少なく、ちゃんとしたライブハウスでやるにはテープ審査をクリアーして公開オーディションを繰り返した後にスケジュールを入れてもらえるという形式だったため、なかなか簡単にライブをできる状況ではなかったと記憶している。これはその当時私たちが高校生であったということもあり、そう感じてしまっただけかもしれないが、一応ライブハウスにはそんな空気間というものが漂っていたと思う。ラッキーだったのは、コンテストで一緒になった年上のバンドの人たちから声をかけて頂き、夢のライブハウスで演奏することができるようになったことである。そのライブハウスとは現在でも名古屋を代表する大須にあるライブハウスで当時の私たちにとっては夢の大舞台だった。あの興奮は今でも脳裏に焼きついている。勿論、地元のバンド連中からは一目置かれ、この時私の勘違いは絶頂にあったと思う。


The Shot時代1(17歳)

The Shot時代2(17歳)

名古屋大須ELLにて

定期的に行っていた
自主ライブ

セッションでギターを弾きボブマリーの「One love」を歌う若き日のKaz

ELLのBack stage pass

名古屋栄セントラルパークで行ったライブのチラシ

解散

そんない勢いで、バンドを続けていた私にも、高校卒業。。自立。。進学。。就職。。と言った、大げさな言い方をすれば人生の岐路が訪れたのである。バンドのメンバーはそれぞれの道を考え始め、それぞれが大人に足を突っ込み始めたころバンド内部には不協和音が流れ始めたのである。車を持ち、彼女とデートをしてと言った、ある意味音楽より別の楽しみを優先するあまりにバンドには力が入らなくなったのだ。それは、私を含めメンバーみんなに言えたことである。そんな状況でバンドが続けられるはずも無く、19歳の秋頃に解散を決意した。まさに大失恋をした後のような落ち込みだったのを覚えている。バンドを解散した後は、俗に言うチャラ男のような大学生活を送っていた私は、当時流行りのデザイナーズブランドの服を着て、夜な夜なディスコに通ったものである。今は死語であるがハウスマヌカンとして服屋でバイトを始めた私はバブル景気で浮き足立った時流に乗せられ、金も無いのにあたかも金持ちのように振舞ったものである。そうこうしている間にそんな生活にも飽き始めた頃、服屋仲間からバンドの誘いがかかりサポートのドラマーとして久々にスティックを握ることとなった。この頃から私は、固定のバンドではなくセッション的なバンドにいくつか参加し始めたのだ。今まで、バンドマスターとしてバンドを率いてきた人間が、頼まれたとおりにドラムを叩いていれば良かったので気持ち的には楽だったが、その反面自分の音楽へ対する捨てきれない気持ちに気付くことになる。


セッションドラマーとしてたたいていた時代1

セッションドラマーとしてたたいていた時代2

セッションドラマーとしてたたいていた時代3

自宅録音

帰郷した友人が、MTRとリズムボックスを持ってうちに遊びに来たのがこの頃である。歌を作りたい。。音楽を忘れられない。。と思い始めていた私には、それらの機材が宝箱のように感じられた。私の部屋にオールインワンのシンセとMTRその他周辺機器が揃うのには時間がかからなかった。再び作曲に目覚めた私は、苦手なデジタル機器のマニュアルと格闘しながら、MIDIはどうつなぐ?EDITはどうやってやる?Step録音って?などど今思えば初歩の初歩で何度となく躓きながら音源を作り始めた。こうやってしばらくの空白時期を得て私は音楽バカの道に舞い戻ったのである。

ボーカリスト

元々曲作りをギターで行っていた私は、誰に聞かせることも無いだろう曲を書き溜めていたのだが、やはり満足できなかった。むしろストレスばかりがたまり始めていたのだ。ライブがやりたい。。この歌を聞かせたい。。そんな思い出でネガティブになりかけていた私は結局自分で歌うことを決意する。これが、今私がKazとして歌を歌い始めるきっかけだったのである。この頃既に20代半ばになっていた。Blues,Soulと言った黒人ミュージックばかり聴いてきた私にとって、取りあえず思いついたのは、オリジナルを演る前に好きな歌を思いっきり歌うと言うことだった。ある意味、普段のように家のソファーに腰掛けながら歌本をめくってギターを爪弾き歌を歌っている、そんな肩肘を張らないスタイルから始めようと考えたのだ。そんな時、知人の一人がとあるライブバーの話を聞かせてくれたのだ。そこは、普通のライブハウスのように、チケットを売って、念入りにリハをし、限られた時間の中でせわしなく演奏をするといったスタンスではなく、音楽が好きな人が集まってきて、小額のミュージックチャージを払い、酒とタバコの煙と、気ままな語らいの中で演奏をしていくと言った、私にとっては夢のような場所だった。既に、何十曲かは歌えるレパートリーがあった私は、知人に頼んでその場所を紹介してもらい、運良くそこでのレギュラーを確保できたのだ。このようにして私は歌い手として正式に人前に出ることになる。


Blues Band「Rodoriges」
時代

Kaz&Friends1

Kaz & Friends2

Kazソロ

Rodoriges野外1
土岐市運動公園


Rodoriges野外2
土岐市運動公園


Rodoriges野外3
土岐市運動公園


   Rodoriges野外4
   土岐市運動公園
オリジナルトリオ
「程ほど」

程ほどのライブ風景

Kazトリオバージョン
イベントにて

Kazソロ夏祭り

Rodoriges
クリスマスパーティー

今もなおこのスタンスはつづいているが、十数年たった今でさえも常に新鮮な思いで歌い続けていられるのは、よほど私の性に合っているのという事だろう。その後、いくつかバンドもやり、時には人に曲を提供したりしながら、自分のオリジナルでのライブも続けているが、常に歌い始めた頃の自分の気持ちを忘れることなく今も、そしてこれからも音楽バカでいつづけたい。Go back to the basic!!
最後に、初めて音楽に興味を持ってから現在に至るまで約
30年間、いろいろなことをしてきた私だが、やっぱり音楽を聴いたり演奏したりすることからは離れられそうにないし、離れられる気がしないのである。。。。。。。。。。。。