このアーティスト(倉庫)


このアーティスト  (第1回) レッド・ツェッペリン
 第1回はレッド・ツェッペリンを取り上げます。私は洋楽もJPOPも昔のフォークも時にはジャズ、フュージョン、果てはクラシックもよく知らないけど聞くのなら、とまあ、あまり垣根は設けずになんでもありなのですが、この中でいうとやはり自分が楽器の楽しさを知るきっかけになったフォークと、様々な意味で自分の青春に結びついている洋楽をはずすわけにはいきません。で、とりあえずハードロックの雄・ツェッペリンを、というわけです。

ツェッペリンは日本公演を2回やっていますが、私、そのころはフォーク一辺倒で、陽水や拓郎に夢中だったし、まだ洋楽、特にハードロックに目覚めてませんでした。で、最初に聞いた曲はおそらく「WHOLE LOTTA LOVE」ではないかと思います。それもリアルタイムではなく。しかし、「なんじゃ、このかっこよさは!」と印象は鮮烈だったのを覚えています。あのリフはいうに及ばず、ロバート・プラントの絶叫も人間離れしたすごさだし、間奏の(ライブでは例の変な楽器・テルミンを使う部分)わけわかんないところから、いきなり腹にズンとくるジョン・ボーナムのワイルドなドラミング、そしてジミー・ペイジの渾身のソロ・・・すべてにKOされました。

 で、しばらくしてファーストアルバムから次々に聞いていきました。ファーストもよかった・・・とかくブルースの名曲のパクリだとの批判もあるけど、原曲と聞き比べるとまったくの別物。ハードロック風のアレンジで商売上手という感もありますが、まあこれも才能でしょう。何年か前に出たBBCライブの「COMMUNICATION BREAKDOWN」を聞くと、当時のバンドのテンションの高さが伝わり、熱いものを感じます。セカンドはアルバムとしては、なぜかあまり印象に残らないのですが、続くサードは結構好きでした。そう、巷では最大の失敗作といわれたあの「V」です。「ツェッペリンはアコースティックに走った!」とロックファンを嘆かせたそうですが、今聞いても新鮮。「CELEBRATION DAY」や「OUT ON THE TILES」等のロックっぽいナンバーもいいけど(ちなみに両ナンバーとも、ブラック・クロウズとペイジの競演アルバムでも演ってましたね)「GALLOWS POLE」のドラマチックといえるあの盛り上がりや、「TANGERINE」のように、どこか内省的(?)な曲も新境地だなあと思うし、やはり、極めつけは「SINCE I’VE BEEN LOVING YOU」かもしれません。ペイジの真骨頂である、粘っこいが情緒豊かな泣きのギターもいいのですが、プラントの切々たる歌いっぷりは、やはり白眉ではないでしょうか。

 一番有名な「STAIRWAY TO HEAVEN(天国への階段)」が入った「W」はセールスもよかったけれど、個人的にはそのあとの「HOUSES OF THE HOLY」「PHYSICAL GRAFFITI」「PRESENCE」あたりの曲が好きですね。特に「PHYSICAL ・・・」は散漫な部分もなくはないですが、、脂の乗り切ったツェッペリンが伺えます。唯一の記録映画「永遠の詩」も見ました。映画の冒頭で、ハイウェイをリムジンで走ってきたツェッペリンがホール入りするシーンで、バックに流れていた「BRON−YR−AUR」のアコースティックギターがとても印象的でした。この曲を聴いて私はウェールズへ行きたいと思ったのでした。ギター1本のインストなのに表現力が素晴らしく、森の中の木漏れ日や、風が木々をざわめかす音等が目の当たりに感じられるような演奏だと思います。今でも森の中で肌で自然を感じながらあんなふうに弾けたらいいなって思います。

 結局、ボンゾ(ジョン・ボーナム)の死で活動停止に追い込まれた彼らですが、ライブパフォーマンスもさることながら、あのアルバム作りへのこだわりは半端ではない。BOX SET が出ていますが、聞いてみると捨て曲がまずない(あってもレベルが高い)。70年代という激動の時代を鮮やかな印象を持って駆け抜けた彼らの音楽的密度の濃さは今の時代には残念ながら望むべくもないように思われます。

 最初の日本公演が1971年。あれからもう30年が過ぎました。名曲「TEN YEARS GONE」の詞のように、時が流れてもますます鮮やかに蘇るものは世の中にあると思います。。長島巨人ではないけれど(ちなみにカープファンです、ハイ)、「ツェッペリンは永久に不滅です!」と叫びたい今日この頃です(それ位最近洋楽が面白くない)。私はペイジ・プラントの結成のときに武道館で見ましたが、確かにあれはツェッペリンの栄光を汚すものだったかもしれません。でも、そういったことを抜きにしても、あの時日本公演を見逃した者にとって、プラントの時の流れを意外に感じさせなかったボーカルと、衰えたとはいえ、かつての栄光を髣髴とさせるペイジのリフは、十分に万札一枚分のチケット代を惜しいと思わせないものだったのです。

 4人のメンバーはそれぞれに個性的ですが、ちょっとフツウじゃないな、といい意味でも悪い意味でも思える他の3人に比べて、一見普通人のジョン・ポール・ジョーンズの存在がフシギです。彼は実はツェッペリンの要だったのかも知れません。
 レスポール自分がバンドなどということを恐れ多くもはじめるようになったのも、ツェッペリンの影響が大だったように思います。ペイジの’58年製レスポールチェリーサンバーストに憧れて(本物は車だって買えちゃうような値段だから当然買えない)、当時有金はたいてオービル社製のコピーレスポール(チェリーサンバーストはなかったが)を買って得意になっていたのでした。今でもこれはとってあります。そのころは「レスポールってさすがにパワーあるなー」と感動していました。今はお蔵入りに近いのですが・・・。
 最近でこそ、ギターを低く構えるギタリストも珍しくありませんが、当時はペイジほど低い位置で構えるプレイヤーは他になく、あの独特の風貌もあいまって、かっこいいの一言だったのです。しかし写真を見ながら実際にあの位置で構えてみると、とても私ごときローテクギタリストにはまともに弾けないのでした。ああ、現実は厳しい・・・


(第2回)  よしだたくろう


 さて、「このアーティスト」の第2回ですが、私の大好きなよしだたくろうを取り上げます。私が70年代のフォークソングブームの頃、5000円で買ったフォークギターを手にして、陽水やたくろうのアルバムを聴き、彼らの曲を練習していたとき、それはごく自然なことであったのです。今の若者が、フォークギターこそ手にはしないでしょうが、GLAYやラルクを聴くのと同じような感じだったと思います。そう、たくろうは70年代前半のスーパースターだった。
 しかし、自分がたくろうのすごさに本当に気づくのは、もっと後になってからでした。アルバム「元気です」や「今はまだ人生を語らず」等を聴きまくり、自分自身や人と人との関係、世間のしくみ、人の心の危うさ、男と女の不可思議な関係・・・そういう人間の生き様を独特の鋭い切り口で語り、叫び、怒る。そして、一方で繊細な感覚で人の心の柔らかいひだにそっと触れる。そしてまた、孤高とさえいえるような、ある種の自虐を含んだメッセージを聞く者の心に送り込む・・・そんなたくろうの詩(うた)の持つ深さに改めて驚きを感じていたのでした。

 自分は最初、どちらかと言えば陽水でした。あの人を食ったような諧謔性と詩情に惹かれました。それは今でも変わりないのですが、次第にそれとは異質のたくろうの曲の独自性に惹かれました。そして、彼の曲を歌いたいと思うようになりました。彼の歌自体が彼の人生を通した偽らざる呟きや叫びのような気がして、おおいに共感したのです。「こんな歌がつくれたらいいな」そう思いました。時代は70年代から80年代に移り、学校では校内暴力、家では家庭内暴力、バブルははじける寸前で、人々は飽和状態の表面的平和を謳歌していました。たくろうの歌も少しずつ変わっていったように思えました。ある種の成熟が彼の歌にも訪れたのかもしれません。それはアーティストとして、当然のことでしょう。でも、懐古趣味のように聞こえるかもしれませんが、自分はやはり、あの頃のたくろうが、あの若いパワーに満ち溢れ、すべてのものにありったけの思いをぶつけて行くような、ひりひりするような研ぎ澄まされた鋭さと、その裏にある優しさを兼ね備えた、あのころのたくろうがベストだと思うのです。

 これだけ長く活動しているひとだから、ファンの年齢もさまざまで、「イメージの詩」から「全部抱きしめて」までフェイバリット・ソングも人それぞれでしょう。そんな中、自分のベストアルバムは、やはりこれにとどめを刺すのです。「今はまだ人生を語らず」。
 何度聴いたか解らないくらい聴きまくりました。「ペニーレインでバーボン」の攻撃性、「人生を語らず」の詞の深み・・・人生は越えて行くこと、という内に秘めた決意のようなメッセージ、「シンシア」の包み込まれるような優しさ、「三軒目の店ごと」のユーモラスなコーラス、森進一に提供し、大ヒットした「襟裳岬」は歌のうまさからいえば森の方が上かもしれないが、たくろうバージョンは詩情や若々しさの表現力で森の歌唱を上回っていると思う。「知識」は拓郎節の真骨頂。首が飛んでも血も出まいのフレーズには結構感動しました。このアルバムはアレンジ面でも面白く、「戻ってきた恋人」や「僕の唄はサヨナラだけ」にはそういう工夫がなされている。ラストの「贈り物」は個人的に好きな歌で、これを聞くと昔の苦い失恋の思い出が蘇ってきて、チョット平静でいられない(!)部分もあるのですが、やっぱりいいものはいいよねー。

 右下の写真は、上記の最初に買ったフォークギターです。今はほとんど弾くこともなくなってしまいました。ちょっとお手入れしてあげないとかわいそうだね。学生時代はこれをどこにでも抱えて何かと言えば、みんなで歌ったものです。サークルのコンパとかでは、大活躍していた一台でした。今の若者はそういう青春は送ってないと思うけど。
 さて、数あるたくろうの曲のベスト10をまさしく独断と偏見で作ってみました。当然のことですが、自分はここで自分にとってのよしだたくろうを扱っています。何かの本に書いてありましたが、たくろうは自分の過去を壊し続けているようです。だから今も現役でいられるのでしょう。日々が彼にとって戦いなのでしょう。でもリスナーはそれぞれの思いでアーティストの作品を聴くものです。凝り固まった一つの方向でのみ語られることをアーティストは決して望んでいないのではないでしょうか。上にも書きましたように、自分にとっての拓郎はかなり限定された時期のものなので、もちろん異論は多々おありでしょうが、ご意見をお寄せいただければと思いますので、メールでもカキコでもお願いします。さて、また風太編集の「THE BEST OF TAKUROU YOSHIDA」でも聴くか・・・


たくろう  BEST  10フォークギター

第1位    人生を語らず
第2位    贈り物
第3位    どうしてこんなに悲しいんだろう
第3位    シンシア
第5位    明日に向って走れ
第6位    旅の宿
第7位    親切
第8位    伽草子
第9位    まにあうかもしれない
第10位   マークU
第10位   祭りのあと


(第3回)よしだたくろう(2) 


 さて、よしだたくろうの二回目になりますが、前回は私とたくろうとの出会いや彼の歌についての印象、個人的ベスト10等をお届けしましたが、今回は趣向を変えて、「風太の独断!楽曲レビュー」と題してお送りします。
 前回の原稿をアップした後、MY BEST10を自分で見て、「うーん!まだまだいい曲いっぱいあるなあ」と考え、じゃあなるべくこれ以外の曲について、何かアプローチしてみようと思ったのです。楽曲のセレクトは全く何の基準もありません。ただ思いついたままですが、あまりメジャーでないようなものも取り入れて見ました。「結婚しようよ」とか「旅の宿」などは誰もが知ってる曲だから、あえて取り上げていません。私としては、これらのつたない文章を読んでくださった方で、これまで拓郎を知らなかったという人が、これを機会に興味を抱いていただけたら、大ファンの私としては嬉しい限りです。
 楽曲レビューのスタイルは次のとおりです。


         レビューサンプル

楽曲名 作詞者・作曲者 初収録アルバム、発売年月日、レコード会社
楽曲イメージ 楽曲レビュー


※楽曲イメージのアイコン・・・
   ユーモラス→ ・・・歌全体に漂うほほえましいユーモア。
   切ないね → ・・・身を切られるようなやりきれなさ。
   批評的   → ・・・既成の価値観にはむかうような反骨精神。
   前向き   → ・・・辛くても一歩ずつ歩むポジティブさ。
   寂しげ   → ・・・しみじみとした悲しみ。

   優しさ   → ・・・心に伝わる温かさ。

  


《風太の独断!よしだたくろう楽曲レビュー》

春だったね 作詞・田口叔子
作曲・吉田拓郎
「元気です」1972・7・21
ソニーレコード
  初めて聞いた時、歌い方が投げやりでびっくりした。後にボブ・ディランを知り、ああ、こういう歌い方に影響を受けたんだなァと思った。特に「曇りィーガラスのォー窓を叩いてェー」という辺り・・・アレンジは松任谷正隆らの洒落た部分を感じさせ、それにいかにも楽しんでやってるって感じのコーラスがいい雰囲気(ちなみにコーラスは「猫」のメンバーが中心)。詩の内容はそれとなく切ないものだ。
加川良の手紙 作詞・加川良
作曲・吉田拓郎
「元気です」1972・7・21
ソニーレコード
  これ結構好きだったなあ。手紙スタイルの歌詞だけど、とてもユーモラス。「ホワイトジーン」や恋人と学割で映画を見るとか如何にも当時の時代を感じさせる。間奏に入るのは意表をついたバッハのメヌエットである。しかもバロック調のキーボード使ってこの辺りさすがと言うか・・・たくろうの歌唱も字余り唄の典型を行っている。
シンシア 作詞、作曲・吉田拓郎 「今はまだ人生を語らず」
1974・12・10
ソニーレコード
  シングルヒットした頃はそれ程でもなかったが、じわじわと好きになっていった曲。切なさと優しさの混じった独特の味わいをもったノスタルジックなナンバー。たくろうとかまやつひろしの歌い方はそれぞれに個性を感じさせるものとなっている。剛と柔って感じかな?この曲の場合アレンジ面でハーモニカと不思議な音のキーボードは欠かせないものだ。
どうしてこんなに悲しいんだろう 作詞、作曲・吉田拓郎 「人間なんて」1971・11・20
エレックレコード
  この曲はたくろう本人がかなり気に入っているらしい。私もベスト3に入れてる。理由は詞と歌唱である。詞の方は、自分の弱さを乗り越えたい、でも一人は辛い、自由と孤独は表裏一体でその狭間でゆれる心を見事に描いた歌詞だ。拓郎の歌は前半抑え目、後半叫んでいる。特に好きなのは「独り言です気にとめないで」の所。名曲ですよ。
こうき心 作詞、作曲・吉田拓郎 「青春の詩」1970・11・1
エレックレコード
  曲は如何にもフォークという感じの弾き語り調であるが、この詞には人生の苦味と言ったものが感じられて重い。とても当時24歳の若者が書いたとは思えない。人生の裏側というものを見ているように思う。既成の価値観の打破を歌ったこの詞は、やはり時代を感じさせる。「街を出てみようー」なんて言っても今の若者は「なんでわざわざ」と言いそう。
作詞、作曲・吉田拓郎 「元気です」1972・7・21
ソニーレコード
  これ、最高!初めて聴いた時笑った、笑った。わずか1分ちょっとの短さだからアルバム中の遊び曲には違いないのだが、意外と深いものがあるようにも思うし、タダの遊びのようにも見えるし。空の上からニカっと笑って「手」を振る馬は何を思っているのか・・・アレンジはカントリ―調。「今日までそして明日から」を馬が歌うというのも笑える。
贈り物 作詞、作曲・吉田拓郎 「今はまだ人生を語らず」
1974・12・10
ソニーレコード
  これも大好きな曲。個人的な経験と重ねてしまうのだが、失恋の傷と男のツッパリを歌っている。でも現代っ子にはわからんだろうなー。ああ、ジェネレイションギャップ(;_;)住んでた町のせいにしちまえばさ、という強がりは男の優しさでもあるのだ。すすり泣くようなブルースハープが泣ける。歌詞中に出てくる「それから君の好きだった「雪」は」の「雪」はたくろうの初期の名曲。
制服 作詞・岡本おさみ
作曲・吉田拓郎
「伽草子」1973・6・1
ソニーレコード
  岡本おさみの詞というのはたくろうとはまた違った独特のものがある。あの「襟裳岬」もそうだったが、日常を実にうまく切り取って短いフレーズで表現する。この歌もそうだ。これまた時代を感じる「集団就職」の娘たちが夢を抱いて東京に来て如何に東京に慣れ如何に裏切られるかを東京に慣れすぎた男の視点で語っている。実話に基づくものか?
人生を語らず 作詞、作曲・吉田拓郎 「今はまだ人生を語らず」
1974・12・10
ソニーレコード
  MY BEST1の曲。詞はもう言うことない。人生は決して人任せでもなく自分本位でもない。思い通りにならないが投げやりになっては生きる意味もない。「語らず」と言ってもまあ語っているのだが、その語り口はポジティブでありながらしっかりと地に足を着けた揺るぎのない自信に満ち溢れている。力強くけれども懐が深い。28歳の作。
イメージの詩 作詞、作曲・吉田拓郎 「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」1970・4・25
エレックレコード
  公の音源としては初めてのもの。このアルバムは70年安保の時代にどのような歌が当時の若者に支持されたかを知るための貴重なアルバムだ。オムニバスアルバムだが、たくろうは一曲目だけこの歌で参加している。長い歌だが、すでにたくろうらしさは十二分に発揮されている。若者の心の揺れ、世間の価値観や常識の曖昧さ等が歌われる。「ちっぽけな大地に花を咲かせる・・」の部分がいい。
ひらひら 作詞・岡本おさみ
作曲・吉田拓郎
「よしだたくろうLIVE’73」
1973・12・21
ソニーレコード
  70年代のたくろうの、いや日本のライブ音源の中でもピカイチのアルバム。たくろうはプライベートな事件の影響でマスコミから叩かれていた。その直後に出たこのLPは、彼の持ち味を遺憾なく発揮したものとなった。「ひらひら」は現代という時代のどうしようもない空虚を歌ったもの。マスコミに踊らされる人間たちとその目からのがれられない自分。「日本中ひらひら」という言葉の空しさが聴くものの心を打つ。
親切 作詞、作曲・吉田拓郎 「元気です」1972・7・21
ソニーレコード
  これもたくろうの真骨頂を見せた作品。「元気です」のLPの中には彼の自筆で当時の心境を語った小文が入ってるが、それを読むとフォークの貴公子と誉めそやされそしてすぐに「出るくいは打たれる」の例え通りにこき下ろされたことへのはがゆさが溢れている。この歌はそんな彼の心を、上辺だけで内実のこもらない友人の親切との決別、というストーリーの中に描いている。皮肉溢れる一作。

※レビュー中の楽曲イメージのアイコンには、「そざいやパフ」さんのものを使わせていただきました。また、レビューの文章の参考文献として、「地球音楽ライブラリー 吉田拓郎(田家秀樹:監修)」(TOKYO FM出版)を使わせていただきました。


(第4回)T.REX


 今回のテーマは、70年代にグラムロックの雄として一斉を風靡したT.REXを取り上げます。自分なりのT.REXとマーク・ボランに対する思いを述べてみたいと思います。

 60年代末のイギリスの音楽界は、時代をリードしてきたビートルズのメンバー間の意見の相違による解散の危機、そして60年代半ばから起こってきたヒッピー文化の影響もあり、様々な新しい音楽の息吹が渦巻いていた。ビートルズやストーンズを筆頭に、どのアーティストもこぞってヒッピームーブメントの影響を自分たちの音楽に取り入れた。「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド」(ビートルズ)「サタニック・マジェスティーズ・リクエスト」(ストーンズ)。これらはアーティストがヒッピー文化を自分たちなりに表現した結果だろう。そしてその環境下において、65年若干17歳のマーク・ボランは、ストーンズを抱えていたイギリスの名門レコード会社、デッカレコードからソロ歌手としてデビューする。が、全く売れなかった。
その後、ジョンズ・チルドレンというロックバンドに在籍するが、彼はスター志向が強く、このバンドはVOが別にいて、彼の望む立場ではなかった。即、脱退し、メンバーを集めて新たなバンドを組み再デビューする。バンド名は「ティラノザウルス・レックス」である。しかし、これも空中分解。ボランは、メンバーのスティーブ・トゥック(Per)と二人でフォーク・デュオに編成を変更し、新たにレコードを発売する。邦題「ティラノザウルス・レックス登場!」というこのアルバムは、チャート初登場としてはかなりいい位置にランクされる。だが、その後鳴かず飛ばず。起死回生を狙ったアメリカツアーで、ボランの相棒・トゥックはドラッグ中毒になり、後に死亡。ボランはトウックを見限り、新たな相棒探しに乗り出す。そして紹介されたのが、のちに黄金時代のT.REXで栄光をともにしたミッキー・フィン(Per)である。
 ティラノザウルス・レックス名義の最後のアルバム「ベアード・オブ・スターズ」をフィンとともに作り上げた頃から、ボランは再びエレキギターを手にする。ティラノザウルス・レックスはアコースティック・デュオとして当時世界で流行したアシッドロック(中近東風の独特のリズムやアレンジを持つ)の影響を受けた個性的なものだったが、ボランはその個性にさらにエレキを持ち込み、彼本来の神秘的な詞の世界と誰にも真似の出来ない独特のボーカルスタイル(不思議としか言いようのない独特のビブラートがかかるボーカルスタイル)とフィンのこれまた摩訶不思議な呪術的パーカッションの総合効果で、これまでになかったロックを作り上げたのである。

 次のアルバム「T.REX」からバンド名を縮めてT.REXとし、その次に出した「電気の武者(Electric Warrior)」がイギリスチャートで1位を獲得。インクルーディングナンバーの「ゲット・イット・オン」がこれまたシングルチャートで1位を取るなど、いよいよメジャーな存在となる。ボランは同時代に活躍したあのデビッド・ボウイとは親友同士だったが、彼らの音楽はグラムロックと名づけられた。グラムは「グラマラス(魅惑的な)」からきた名称らしいが、ロックの世界にラメのスーツやいまでこそ当たり前のようになった化粧を持ち込んだことで、とかくキワモノ的に見られた部分もあった。そのため当時ボランは「ティニーポッパー(お子様向けアイドル)」のようにけなされたこともあった。だが、あのムーブメントからもう四半世紀が過ぎ、今T.REXを聴くと、そんな批判が的を外れたものだったことを再認識させられる。これは誰にも真似の出来ないオリジナルな音楽だと自分は思う。。まあ個性の強い分、好き嫌いがあることは否めない。だが、ボランの歌は聴く者を彼のこの世の者とは思えないようなちょっとアブナイ世界にいつのまにか運び込む。彼の歌詞は非常に神秘的で、比喩が多く、一見なんだか分からないものが多い。それに加えてあの粘っこいボーカル、縮緬ビブラート、相棒・フィンのポコポコのコンガ、なんともあやしいのである。
 タイトルにもこだわりがある。いくつかのアルバムタイトルのつけ方(下記ディスコグラフィーには原題は省きましたが、英語タイトルだとやたら長くてわけわかんないのがある)や曲名、例えば「Mystic Lady」「Monolith」などは彼の神秘主義を思わせるものだし(モノリスってあの映画「2001年宇宙の旅に出てきたナゾの物体のことかな?)、「Cosmic Dancer」「Spaceball Ricochet」などは、宇宙的なものへの憧れのようなものを感じさせる。ボランのファンならどなたもご存知でしょうが、彼は十代の頃、パリで魔術師と一緒に住んでいたと自ら語っていた。ほんとかウソかは知らないが、彼の音楽的業績や不可思議な一生を考えると、それも妙に真実味を帯びてくるからおかしなものだ。

 私が初めてT.REXを聴いたのは、高校に入ってすぐの頃だった。当時は深夜放送にドップリと漬かっていた私だが、ランキング番組で「ライト・オブ・ラブ」という彼の曲が流れてきた。これを聴いて、「何だ、このへんちくりんな歌い方は!」とあきれたのを覚えている。それほど彼のVoには色々な意味でインパクトがあったのだ。その後、いつ頃かは忘れたが、あの名曲「ゲット・イット・オン」に触れることになる。これはすんなりと自分に合った。ボランの「ノリ」は決して縦ノリではなく、何か現代からすればおかしな位、ゆったりとしたリズムのノリである。彼の音楽の基調をなしているのが、ブギというリズムだということを後に知った。このジャズに発する8分を基調とした独特のゆるやかなノリは私の体のバイオリズムに響いた。「ゲット・イット・オン」はフェイバリットソングの一つになった。その後、色々聴いたが、たまたまボランファンの人に、アルバムをすべて借りて、初期から末期まで聴いてみると、さらに彼の個性が並みのものではないことを再確認したのであった。彼の黄金時代は71〜72年頃でアルバムで言えば「電気の武者」「ザ・スライダー」を発表した時期だ。確かにこの頃の楽曲を聴くと、トータルで見て乗りに乗っているのが良く分かる。独自の個性はそのままに、それに加えてアレンジ面の充実(デビッド・ボウイも手がけた名プロデューサー、トニー・ヴィスコンティの手腕だろう)、初期の楽曲に比べて華やかさが増した感じがする。華やかといえば彼のステージ衣装は金銀ラメのスーツに派手な化粧、ヘアーはチリチリのカーリー、手にはお決まりのレスポールカスタム、かかとの高いブーツ、といったものだったらしい。これらは後にあちこちで出てくるグラムフォロワー(今の日本にもいるかもね、YMとか・・・)たちの定番スタイルとなった。カスタムのヘッド
 T.REXがどこか他のアーティストと違うのは、まさに線香花火と呼ぶにふさわしいことだ。本当にきらびやかな活躍をしたのは僅かな年数だ。星の数ほどいるロックアーティストの中では、言わばB級だ。技術的にも優れているわけでもない。どちらかといえば下手ウマ、いやウマが取れてしまうかも。しかし、歌詞の発想や国籍不明のメロディ作り、くどいようだがあの縮緬ビブラート(ホントにチリチリって感じでどこまでも震えてゆくんですよー)!何処をとっても普通じゃない。最近、VAIOのCMで「20th Century Boy」を取り上げていたが、あの曲などは時代を超えて「かっこええ!」の一言でくくれる名曲だと思う。ボランには珍しくハードロック調のナンバー。イントロの激しいディストーションのかかったギターはロック心を震わせてくれるよね。右上写真はボラン愛用のレスポールカスタムです。ボランはこの他にもフライングV等も使っていたようです。

 数々の神話に包まれたボランの生涯だが、後半は暗い影がさすようになる。プロデューサーのヴィスコンティとの決別。レコード売れ行きの減少、ドラッグへの傾倒・・・折も折、70年代半ばのUKロックシーンは大きなムーブメントが胎動していた。国政への反発から起こったその動きは、パンクロックとして時代を動かして行く。もうグラムの時代ではなかった。ボランの心中はいかなるものだったか。ボランはそれでも様々な試行をしてみる。彼は言ったそうだ。「俺の歌は誰にも真似の出来ないものだ」その自負のもとに彼の挑戦は続いた。そして77年パンクブームも一段落した頃、「地下世界のダンディ」という名のアルバムが発表された。バンドメンバーも大幅に刷新し、当時の恋人、グロリア・ジョーンズのコーラスもフィーチャーして、新たな側面も加えた意欲作は、そこそこの評判を得て、T.REX復活か!と思われたその半年後、ボランはこの世を去る。恋人・グロリアの運転する車が事故を起こし、同乗のボランは助手席から放り出されて即死だったという。
 彼の残している言葉に「自分は30歳になるまでに死ぬだろう」という有名なものがあり、その予言通り30歳の誕生日まであとわずか2週間であったそうである。運命の糸に操られるかのような彼の生涯はとても短いものだったが、その間に残した業績は現代のロック界に少なからず影響をもたらしていると信じたい。


《T.REXアルバムディスコグラフィー(ティラノザウルス・レックス時代から)》
  各アルバムレビュー付き)
邦題 発表年 レビュー
ティラノザウルス・レックス登場! 1968年 デビュー作。中近東風の摩訶不思議なメロディとリズム。まるで魔術にかけられているような感覚だ。
神秘の覇者 1968年 前作の延長上にある作品。アコースティックギターとパーカッションをメインにした呪術的な世界。アヤシイです!
ユニコーン 1969年 架空の生き物・ユニコーンをテーマとしたコンセプト風のアルバム。これを最後にスティーブ・トゥックが脱退。
ベアード・オブ・スターズ 1970年 ティラノザウルス名義の最後のアルバム。パーカッションにミッキー・フィンが参加。評価は低かった。
T・レックス 1970年 T.REXに改名して最初のアルバム。ブギを基調とした後のヒットの数々を思わせるスタイルがすでにある。
電気の武者 1971年 名盤!「ゲット・イット・オン」「ジープ・スター」がヒット。絶頂期の充実した作品がいっぱい。個人的には「ジープ・スター」が好き。
ザ・スライダー 1972年 「テレグラム・サム」「メタル・グルー」がヒット。ジャケ写真はリンゴ・スター撮影のもの。シルクハットのボランは魔術師的でかっこいい。
タンクス 1973年 リンゴ・スター監督による映画「ボーン・トゥー・ブギ」のタイトル曲の入ったアルバム。この頃までが人気のピークか。
グレイト・ヒッツ 1973年 以前のヒット曲からこの年に発表されたシングルヒットまでを収めた初めてのベストアルバム。「イージー・アクション」は面白い曲。
ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー 1974年 原題もすごいがこの日本語タイトルのユニークさ!ソウル風の作品があったりして変化が見られる。
ブギ―のアイドル 1975年 次第にメンバーチェンジが激しくなってきた過渡期の作品。ボランのセルフプロデュース。全盛期の面影が薄れた。
銀河系よりの使者 1976年 長年の相棒・ミッキー・フィンも脱退し、下降線をたどった時期の作品。試行錯誤がありありと見える。
地下世界のダンディ 1977年 メンバーを一新し起死回生を狙った意欲作。以前の作品とはかなり違うが、そこそこの評価を得た。


(第5回) 井上陽水


 今回は、自分にとって忘れがたいアーティストの一人、井上陽水を取り上げ、おもに彼の音楽との出会いやそこから受けた影響について、わりと私的に(?)語ってみようかと思います。
@陽水との出会い
 記憶が定かではないんですが、多分中学2年ごろだったと思います。その頃自分はポピュラー音楽に興味を持ち始めて、当然音楽をもっと聴きたいと思い親にラジオを買ってもらって聴きまくってました。年の暮れだったと思うんですが、その日も我が友ラジオのスイッチを入れると、なんとも美しいテノールのボーカルがこれまた美しいバラードを歌っておりました。その声は今までに聴いたことがなかった独特の「ツヤ」を感じさせたのです。これは一度聴いたら忘れない声だ、他の誰とも間違えようのない個性的な声だ。瞬間的に自分はそのアーティストの武器は「声」だと思いました。それが当時大ヒットしていた陽水の「心もよう」だったのです。
 「心もよう」はその年から翌年にかけてヒットし、それまではフォークの世界でしか知られていなかった彼の名を一躍有名にしたのでした。それと前後して発売されたサードアルバム(オリジナルで)「氷の世界」は瞬く間に売れ行きを伸ばし、当時としては記録的なヒットになったのです。自分が生まれて初めて買ったLPはこの「氷の世界」でした。いやー、もう文字通り盤面が擦り切れるほど聴きました。●十年を経た今でも歌詞がそらで浮かんできますから。
 その頃の自分の音の傾向は、「美しいもの」だったのです(後にその反動か、しゃがれた声とかうるさい音とかにも惹かれていきますが)。和洋を問わず美しさが大事だ。曲にしろ声にしろ美しいものを求めていたようです。だから陽水の声に惹かれたし、洋楽ではジョン・デンバーやカーペンターズにはまりました。のちにクイーンにのめりこんだのも同じ理由でしょう。でも陽水の場合、ただ声の美しさだけではなかったように思います。


A「氷の世界」における個性
  「氷の世界」は叙情的でありながら暗い情念や不吉な雰囲気、世の中を斜めに見ているような批評性、幼年時代の甘い記憶、それらのものが混沌と混ざり合った中に、あの独特の美しいボイスが朗々と響いて行く、そんな世界だったように思うのです。タイトル曲の「氷の世界」はシュールな詞です。「窓の外ではリンゴ売り、声を嗄らしてリンゴ売り」で始まる歌詞は、どこか屈折した視線を感じさせるし、「自己嫌悪」という歌など当時中学生の僕は何を言いたいのか良く分からず不気味な歌だなあと思っていた。「桜三月散歩道」も不吉な歌に思えた。「だって狂った桜が咲くのは三月」というフレーズは、後に知った梶井基次郎の「桜の木の下には」という作品を思い浮かべるような不吉さがある。この人の頭の中は一体どうなってるんだろう・・・でも一方で「チエちゃん」や「FUN」のような心安らぐ歌もある。陽水と言う人は、僕の狭い価値観の中に照らしても、実に混沌とした複雑な内面を持った人なのだなと感じさせたのが、「氷の世界」でした。

B過去をたどる
  「氷の世界」でいたく興味を引かれた僕は、過去のアルバムへとさかのぼっていきます。ファースト「断絶」はメジャーデビュー作ですが、すでに十分個性的です。有名な「傘がない」や「人生が二度あれば」はいかにも陽水だし、自分がすきなのは「感謝知らずの女」。こういう歌詞で歌にしてしまうのが彼のとぼけた味なんだなあ。実話なのだろうか?あとは「白い船」。これは恋人との別れの歌だが、曲調はまさに演歌!間奏部分も演歌によくありがちなストリングスを使ったもので、それが妙にこの曲にあっている。そしてこのアルバムで僕がつよく感じたのは、彼の詞のもつ社会を風刺する姿勢である。それはストレートなものでは決してない。どこか屈折しニヒルである。今はテレビやマスコミにも登場するようになった彼だが、初めはかたくなにメディアに載るのを拒んでいたその姿勢とも重なり、彼の歌(フォーク全般がそうだった)がオトナ社会に対するアンチの姿勢を示しているように感じられたのであった。
  セカンド「センチメンタル」も愛聴した。タイトルどおりの歌が多いが、ここでは彼の抒情に磨きがかかっている。「神無月にかこまれて」「能古島の片思い」「あどけない君のしぐさ」あたりはその代表か。個人的なことを言えば、このアルバムの曲で自分は結構ギターを練習したので想い出がある。「東へ西へ」「たいくつ」「夏まつり」などはずいぶんやりましたよ。「東へ西へ」の「床に倒れた老婆が笑う〜♪」というくだりはいつもナゾだった。まあわかるんですケド。ギター奏法的には、ハンマリングオン、プリングオフ、スライド、ハーモニックスなど、いろいろ練習しがいのあるものが一杯つまっていて、ギターっていろんなことができるんだなあ、という楽しさを教わったのはこのファーストとセカンドだった。
 

Cメジャーになるにつれ
  「氷の世界」でメジャーの仲間入りを果たし、陽水は単なるフォーク歌手ではなくなりつつあった。次に出した「二色の独楽(こま)」も大ヒット。長者番付のトップになるに及んで、最早体制に逆らう姿勢や斜に構えてマスコミを拒否する態度は若気の至りと彼が思ったかどうかは知らない。アーティストがメジャーになるにあたって、自分を売り込むのは必要なことだ。あとは自分のポリシーとのせめぎあいであろう。しかし、そのためかどうかは別として、「二色の独楽」のできばえは個人的にはあまり感心しなかった。その次の「招待状のないショー」はもっと気に入らなかった。陽水の切ないくらいの抒情はあるにはあるんだけど、素朴さが薄れた分だけたくさん手垢がついたような感じがして、なじめなかった。これもまた、時代との関係が大なのかもしれない。70年代は次第に遠ざかり陽水もまた多角的な活動を行い、他のアーティストへの曲提供やCMにも顔を出し(あの陽水が車のCMに出たのには驚いた)時代を超えたアーティストになってゆく。そう、アーティストとは、時代の象徴ではなく、時代を乗り越えて行く存在なのかもしれない・・・
  中森明菜に「飾りじゃないのよ涙は」を提供した時。パフィーに「アジアの純真」を作った時。自ら久々に昔を思わせる名曲「少年時代」をリリースした時。いずれも陽水健在をアピールした。本当に才能溢れる人だなとあそのたび思った。でも、歌は世につれ世は歌につれ、ではないが、自分が心に残るのは(いつもおきまりの結論でスイマセン)あの頃の陽水なんだなあ、これが。陽水という人のエキセントリックさは昔と今とで基本的には変わるはずもなく、彼のインタビューや座談会(これが結構面白い!)を見ると、ホント不思議な人だと感心する。かなり言いたいことを言ってるにも関わらず、相手にかなり気も使っている。歌と同じで繊細な人なんだと分かる。でもどこか変・・・そんな得体の知れないところもまた彼の大きな持ち味なのかもしれません。昔の陽水がいい!、と言いつつも、しっかりベストアルバム2枚組み買っちゃったから、やっぱり自分にとっては特別な存在なのかもしれませんね。なんと言っても音楽に目覚めるきっかけとなったアーティストの一人ですから・・・


氷の世界?


(第6回)ポリス


 ポリスのアルバム「シンクロニシティ」が発売され、大ヒットしたのは、1983年のことであった。あれからもう20年が過ぎた。彼らのアルバムの中でも最高傑作の呼び声の高かったこの作品を最後にポリスは活動を停止した(メンバーの誰も解散とは言っていない)。スティング、スチュワート・コープランド、アンディ・サマーズ。ロック史上最強のトライアングル。もっとも、はるか昔に初代最強トライアングルとも呼ぶべき「クリーム」というバンドがあったが。ポリスは70年代イギリスのニューウェーブ、パンクムーブメントの中から出てきたバンドとしては、最も成功を収めたグループである。

 自分とポリスとの出会いは、「シンクロニシティ」より4年ほど前にさかのぼる。1979年、レッド・ツェッペリンがその履歴の最後のアルバムとなった「イン・スルー・ジ・アウトドア」を発表してケチョンケチョンに批判され、ピンク・フロイドが「ザ・ウォール」を仕上げて、話題を撒いていた年に、ポリスはセカンドアルバム「白いレガッタ」をリリースした。すでに本国では彼らの存在はニューウェーブのあまたのバンドから完全にぬきんでたものとなっていた。古い記憶をたどると、確かFMの音楽番組を聴いていたときだったと思う。このアルバムの1曲目の「孤独のメッセージ(MESSAGE IN A BOTTLE)」が流れてきたのは。何しろまずギターリフが耳に焼きついた。アンディ・サマーズのギターは、おそらくそのエフェクトによるのだろうが、非常に特徴のある音で、太くはないけど繊細な奥行きのあるものだった。その音があのポジションチェンジの多いリフを奏でる。このリフは後に何度か練習したけどなかなか難しい。指をかなり広げないとひけないポジションです(汗)。そしてコープランドの機械のように正確無比なドラミング。それにスティングのあのハスキーなVOがかぶる。たった3人編成のバンドなのに、実にスリリングな楽曲の構成。シンプルだけど工夫が凝らされポップな面もあり多様な音楽性も含んでいる・・・まさに深みのある音楽だったのです。
 自分のニューウェーブへの印象は、「凝っててマニアック」という感じで、個性的だけどかなり難解でスタンダードではないというものでした。でも、ポリスはそれらの印象を打ち破っていた。将来楽しみだと思ったのでした。

 彼らのデビューは1978年。パンクやニューウェーブのムーブメントが吹き荒れる当時のイギリスで、彼らもその中の一つと見られましたが、デビューアルバム「アウトランドス・ダムール」はそんなジャンル分けが無意味なことを物語るように、独自の個性を感じさせました。シングルヒットした「ロクサーヌ」はレゲエのリズムを取り入れた斬新なもので、詞の内容も娼婦のことを歌っているので風紀を乱すとかナントカで放禁になったようです。他に「キャント・スタンド・ルージング・ユー」「ソー・ロンリー」もリズムはレゲエ。あのイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」で使って、すっかり定着したこのカリブ海生まれのリズムを白人の彼らはすっかり自分の音楽にしているようでした。
 もともと彼ら3人は、それぞれのバンドで活動していたのですが、コープランドがスティングのステージを見て気に入り、他の一人を誘って初代ポリスを結成。その後、セッションミュージシャンとして幅広く活動していたアンディが加わり、後に3人編成のポリスになったのでした。スティングは変わった経歴の持ち主で、一時教師もやっていたらしい。そういえば、後の曲に「高校教師(DON’T STAND SO CLOSE TO ME)」なんてのがあったっけ・・・
 2作のアルバムですでに確固たる評価を得た彼らは、3作目「ゼニヤッタ・モンダッタ」(このタイトル面白いですねー)4作目「ゴースト・イン・ザ・マシーン」とレベルを維持した。世界的なファンを獲得し、日本ツアーをはじめライブ活動も積極的に行った。またスティングが映画に出演するなど音楽以外の活動も行った。そして1983年、5枚目の「シンクロニシティ」を世に送る。完成度の高い楽曲が目白押しのこのアルバムは、シングル「見つめていたい(EVERY BREATH YOU TAKE)」の大ヒットもあり、今までのアルバムの中で最高の売上を示した。
しかし、「シンクロニシティ」の完成度の高さは文句のないところだが、個人的にはあまりにすきがなく、かつ高級になったという気がした。妙な言い回しかもしれないが、初期のアルバムを大衆車に例えるなら、「シンクロニシティ」はVIPカーのようになんでも付いてます、って感じで、すばらしいけど初期の作品の方が親しみが湧いた。これはあくまで個人的感想ですが。

 これほどのレベルの作品を仕上げたからバンドとしての活動に満足しきったわけではないだろうが、この作品を最後に彼らはバンドとして眠りに入った。3人は誰も解散とは言わなかった。しかしソロ活動をはじめ、今はもう再結成など誰も考えてないようだ。ポリスの前にも豊富な活動経験をそれぞれもっていたから、ポリスもそういうキャリアの一つに過ぎないと思っていたのかもしれない。スチュワート、アンディともにそろアルバムを出し、スティングの活動についてはいまさら言うまでもないだろう。つい最近、ソルトレーク五輪の開会式で、チェロ奏者のヨーヨーマと競演したのは記憶に新しい。これも大分前の話だが、横浜アリーナで行われたスティングの公演のチケットを手に入れ(高かったよ)何と前から4列目!今までで一番いい席だったので、楽しみにして出かけたら、開演時間を過ぎても始まらない。スティングもこれだけ待たせるとは大物になったな、と思ってると、背広を着た人がステージに・・・「スティングは急に高熱を出し、本日の公演はキャンセルとなりました」エー−−っ!!そりゃないよ!その翌々日ぐらいに新聞を見ると、なんと!その後行われた東京公演にはちゃっかし出てるじゃありませんか!もう頭きて、しばらくスティングのCDは聞きませんでした。プンプン。
 でも、スティングも確かに素晴らしいが、自分はあの3人の最強のトライアングルが紡ぎだす緊張感溢れる楽曲が耳に残ってます。CDの録音技術も進歩し、ダビングやエフェクトで音をいくらでも加工できる世の中だけど、シンプルであることを武器として、それを立派な個性に仕上げた彼らのようなバンドは、今後登場しないかもしれない。

トライアングル?


(第7回)フォーライフレコードの設立


 1970年代は日本の音楽界が日本独自の個性を発展させながら、同時にいわば「国際化」してゆく過程であった。「国際化」という言葉は他に適当なものが思い浮かばぬので使ったが、自分が思うに、これは前述の「日本独自の個性」に対するアンチテーゼでもあり、それを包括しつつ新たな個性を生み出そうとする試みでもあったように思う。60年代末の学生運動の盛り上がり・・・音楽が政治へと近づき、反戦フォークが若者の心を捉え、ディランやジョーン・バエズらのように、音楽で時代を動かすという命題が当時の日本でも信じられた。海の向こうではウッドストックの一大フェスが行われ、その一方でベトナム戦争は泥沼と化していた。このような世界的混沌からの脱却、そして音楽的な新生を日本のミュージシャンたちも目指していたのではないか。しかし、70年安保を経て、急激にそのエネルギーは衰え、あれほど勢いのあった反戦フォークは次第に形を変え、政治などとは無縁の日常を歌ったりある意味で現実から遊離した夢を奏でたりするようになる。70年代は日本が安保闘争に疲れ、その一方でGNP世界第2位という「大国」に上り詰めて行く課程だ。そしてそのようなまっしぐらな進み方への疑問や不審は、一部のミュージシャンたちの姿勢にも現れていたように思うのだ・・・

 ちょっと前置きが長くなりました(^^ゞ大げさかもしれませんが、当時のフォークは60年代の岡林に代表されるように、反体制の象徴でした。それが70年安保を機会に衰退し、岡林も試行錯誤の時代に入り、あとを継ぐかのようにデビューした拓郎はある部分でその呪縛を引きずりながらもっと新たな方向を模索して行くのです。それは高度経済成長の時代の人間の生き様であったかもしれません。第3回「よしだたくろう(2)」の曲レビューでも書きましたが、彼のデビューからセカンドの「青春の詩」あたりまでの曲と、その後の曲とでは、あきらかに時代の変遷が感じられます。時代は、「連帯」の時代から「個人」の時代へと移ったのです。しかし個人の生活が重視される世の中になっても、いやそれゆえに、一層時代の行く末を見つめ、そこに疑問を持つアーティストたちは存在したのです。拓郎は勿論、「傘がない」での陽水は一見「個人」を重視する姿勢に見えますが、その根底に社会への疑問や皮肉に満ちた視点を持っています。
 さてさて、そんな70年代も半ばに差し掛かった頃、自分にとっては「突然」という感じで(実際は色々な過程があったでしょうが)フォーライフレコード設立の話題がマスコミをにぎわしました。あの陽水、拓郎を始め、泉谷しげる、小室等というフォーク界の大御所たちが集まってレコード会社を作る・・・なぜ?と相当なセンセーションを巻き起こしました。詳細な事情については当事者でないとわからないし、予断を避けたいと思います。でも、元は反体制に発するフォークの世界。その性根は、彼らをしてレコード業界の体制に大きな矛盾を感じそこに反発して、自由な創作活動を気心のあった仲間たちとやろうという発想だったのではないかと思えます。ビッグネームを親分に祭り上げた傀儡政権ではなく、自分たちで経営もこなし、総括的に管理しようとする態度に彼らの「本気」が感じられてちょっと快かったものです。

 1975年に船出したフォーライフは、同年8月、泉谷しげるが2枚組みライブ「王様達の夜」をまっさきにリリースする。これは自分は聴いてないんですが、当時のレコードレビューを読んでなぜか印象に残っています。激賞に近いくらいほめてました。泉谷はライブパフォーマンスではピカイチと言われ、実際当時のフォークがまだアコギ1本でどことなく物静かに弾き語りをするスタイルが主だったのに対し、彼は観客と一体になったスタンディングスタイルのライブを行っていたことからも、一味違っていたのが分かります。続いて11月に小室が「明日」を、76年3月に陽水が「招待状のないショー」を発表し、同年5月いよいよという感じで拓郎が「明日に向って走れ」を送り出します。
 フォーライフ設立後1年ほどの間、世間は彼らの活動を見守り、順に発表されたアルバムを評価することで、この今までにないコンセプトの新会社をどう位置付けるか考えていたのだと思います。賛否両論がありました。前述のように、最も評判が良かったのは泉谷で、彼の姿勢はフォーライフ前と後でまったく変化がないマイペースであったのです。それに対し、他の3人への評価は正直言ってあまり芳しくありません。陽水はその前のアルバム「二色の独楽」の売上を大幅にダウンさせたし(もっとも「二色の独楽」は怪物的に売れたのですが)拓郎もそこそこは評価されたものの、今ひとつでした。それでもさすがに陽水と拓郎のアルバムは、チャートのトップを記録しています。

 その年の暮れ、4人で書いた曲を持ち寄った競作アルバム「クリスマス」が発表されましたが、これが散々な売れ行きとなり、フォーライフは経営的にピンチに陥ります。77年6月、初代の小室に代わって拓郎が2代目社長に就任。巻き返しを図り、そのきっかけとなるのが、77年10月、自分と同郷の広島出身で当時まだ学生だった原田真二をプロデュースしたことでしょう。原田は自作自演のシンガーソングライターで、その風貌や日本的でないフィーリングが新鮮で、文字通り一世を風靡する(シャドウ・ボクサーなんて曲は実に非日本的でした)。彼のヒットはフォーライフ建て直しに貢献し、拓郎の手腕も評価されたのです。その後も彼ら4人を始めとして、様々なアーティストを抱える新興勢力として業界でも大きな地位を占めるようになっているようです。
 アーティストが自分たちの楽曲を発表するのに全ての過程を自分たちで管理する。この日本に今までなかったスタイルを始めて実現したのがフォーライフです。とかく商売面にはミュージシャンは疎いというイメージを払拭した彼らのあり方は、その後の音楽ビジネスにも影響を与えたのではないでしょうか。


ニュービジネス


(第8回)ディープ・パープル


 ロックの世界に名を残しているあまたのすぐれたバンド。そのうち、生涯オリジナルメンバーのまま活動を続けたというものは希少である。多くはメンバー間の意見の食い違いというアーティストらしい理由で、メンバーチェンジを余儀なくされる。ビートルズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、ポリス等は、それにあてはまらない数少ない例外である。ただいずれのバンドもその活動期間は長いとはいえない。あるいはツェッペリンやクイーンのように、メンバーの死亡によって活動を停止したものもある。通常ロックバンドにはメンバーチェンジがつき物なのである。
 しかし・・・ここにあげるバンドはその意味では解散、復活、メンバーチェンジ、活動消滅?などを繰り返し、今も活動している。結成が1968年というから、誕生してから30年以上たつのだが、その間のさまざまな「歴史」については、多分世に多くの研究がなされているはずだから、自分はここで自分なりのパープルを書きたい。それは月並みであるかもしれないが、70年代ハードロックの代表としてレッド・ツェッペリンと並び称されたパープルの黄金時代である第2期を取り上げることにどうしてもなってしまうのである。おおかたの認めるところだと思うが、第2期ディープ・パープルは、あらゆる点で彼らの名をロック史上に残すだけの活動をしたのだから、パープルといえば第2期、とすぐに頭に浮かぶのも無理もないのだ。だから、正直言ってリッチーのいないパープルは自分にはパープルとは思えず、その意味では1975年最初の?脱退を彼がしてから後のパープルは、あまり興味をそそらないのである。やっぱり、リッチーの存在はあらゆる意味でパープルのメインカラーであったのだ。
 リッチー・ブラックモア(G)、ジョン・ロード(Key)、イアン・ペイス(Dr)、ロジャー・グローヴァー(B)、イアン・ギラン(Vo)。黄金の第2期のラインナップ。このメンバーで発表したアルバムは6枚に過ぎない。しかし、それらの中にはいわば「歴史的」アルバムがいくつか含まれている。ここでは、自分がそれらのアルバムと出会った時の記憶をたどりながら、素晴らしいいくつかの楽曲についても、簡単に触れてみようと思う。

《イン・ロック》1970・6
 リアルタイムでは聴いていないが、多分全体を聴いたのは、80年代の初め頃(その頃は洋楽ドップリの時期でした)。ただ、「スピード・キング」と「チャイルド・イン・タイム」の二つは、それ以前に聴く機会があった。
 「スピード・キング」については、これほどタイトルとぴったりのイメージの曲はないと思ったものだ。いきなりイントロもなく性急な感じのイアンのVoがたたみかけ、リッチーのギターとジョン・ロードのKeyがリフを重ねる。その音は、今の録音技術からすれば、とってもチープで薄い音なんだけど、それでも基本のリフがかっこいいので気にならない。よく、最近リメイクの音を分厚くしたヤツをCMや番組のテーマソングとかで流してますが、どこか違和感が・・・ストラトキャスターの音って、ゴリゴリしててこういう低音弦を使ったリフにはぴったりです。あ、そうそう、何年か前に日産のスカイラインのCMで「スピードキング」流してましたが、あれもハマッてましたね。イアンのVoスタイルは、押さえつけるような嗄れ声かと思えば、いきなりシャウトし、スクリーム(金切り声)に変わったり、ハードロックのVoスタイルの基本形を築いたのは、彼とツェッペリンのロバート・プラントだと自分は密かに思っている。
 「チャイルド・イン・タイム」はどことなくクラシカルな雰囲気を感じさせた。ジョンのセンスだと思うが、その重厚さとリッチーのソロが融合して、独特の魅力的な世界を作っていた。あとで、アルバムの中で聴くと、この曲の位置付けというものが、より一層伝わってくるように思えた。
 アルバムとしては、かなりハードである。リッチーのソロやジョンのインプレビゼーションは、粘っこく洪水のような音である。初期のパープルの音と比べると、リッチーがいかにこのような音作りをやりたくて、うずうずしていたかがわかるような、一気にキレちまったというイメージのアルバムである。

《マシン・ヘッド》1972・5
 これもアルバムとしては後日聴くが、大ヒット作だけに、そのうちの何曲かはほぼリアルに聴く機会があった。当時、まだテレビでは音楽情報を流す番組は決して多くはなく、それも洋楽となると皆無に近かった。パープルの「ハイウェイ・スター」やツェッペリンの「コミュニケーション・ブレイクダウン」等をテレビで見たのはいつ頃か正確には覚えてないが、多分高校の頃だと思う。1974年に行われたカリフォルニアジャムというライブで、パープルは(もうその時は第3期パープルにメンバーが変わっていた)ド派手なパフォーマンスをやってくれちゃうのである。そう、あの伝説?となったリッチーのストラトによるカメラ破壊と、マーシャルアンプ爆破事件である。この映像を見て自分は、「いっちゃってるなー、この人たち・・・」と頭に焼きついた。のちのち何度かこのライブ映像は見たが、カメラワークが結構よくて、リッチーの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の指使いなど、アップでやってくれてたと覚えている。
 「マシン・ヘッド」は70年代の後半から80年代にかけて、もう耳にたこが出来るくらい聴きまくったが、「イン・ロック」がゴリゴリのハードロック中心だったのに比べ、曲に幅がある。前作がモロにリッチーの好みのアルバムだったのに対して、他のメンバーの趣味もかなり取り入れられているように思える。そのことは、この作品以後、メンバーの不仲が起こり、後の脱退劇につながる前兆だったのか・・・

《ライブ・イン・ジャパン》1972・12
 バンドとして乗っている時期のライブだけに、アルバムとしても出来がよい。よくライブアルバムの代表的例として引き合いに出される。このときの来日公演はまだ洋楽に目覚めてない私は残念ながら見てませんが、ライブとしてもすばらしい出来だったと書かれています。今聴いてみると、「ハイウェイ・スター」のリッチーのソロもひょっとしてレコードよりよくできてるのでは?と思えるし、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイントロで、リッチーがあの世界的に有名な?リフを奏でる時、観衆の拍手と合わないで途中から強引に合わせるところもいかにもライブらしくて面白い。ライブアルバムは、観客との一体感が再現されていることが重要なファクターであることをこのアルバムは示しているようだ。

 ・・・と、かなり定番のアルバムばかり触れましたが、どうしてもこれら評価の高い作品は自分にとって耳に残っているものですから。よくハードロックの様式という言葉がいわれますが、それはパープルがその基礎を作ったと。リッチーのリフスタイルは、実際に自分で弾いてみると、基本のパターンはそう数多くないのにそれを組み合わせて、全然別の楽曲を作り出すうまさがある。「スモーク・・・」のあのリフなんか、指一本で弾くのに一度聴いたら絶対忘れないような印象的なメロディーですよね。そして、ジョン・ロードのハモンドオルガンのからみ・・・これまたハードロックのお手本。Keyがこれほど楽曲の大きなパートを占めているのも、今では考えられないことです。そして、イアン・ギランのこれまた定番の金切り声ボーカル。いくたのバンドがのちにフォロワーになってゆくあのスタイル。それにイアン・ペイスとロジャー・グローヴァーの職人ワザのようなリズム隊。個性豊かなメンバーの個性のぶつかり合いは微妙な危うさでとどまっていたのかもしれません。イアン・ギランとリッチーの不仲は有名で、それでも後に何度かまた一緒に活動することになるのを見ると、やはり互いにその力を必要としていたのが感じられます。でも犬猿の仲ってあるんですねー。
21世紀を迎えた今も、ディープ・パープルはジョン、イアン・ペイス、ロジャーら黄金期のメンバーは還暦を迎えようというのに、まだ活動を続けております。犬猿の仲のお二人はもうともに活動することはないようです。今後とも・・・

犬と


(第9回)かぐや姫

 かぐや姫を聴くと大学時代を思い出す。自分の大学時代はあらゆる意味でその後の自分を作った時代だ。幼年期から小中高と積み重なっていった家族との間で感じた軋轢や違和感、人と接することに対する困惑、けれども人と接することによってしか得られないはずの満足感、ドロップアウトの感覚、疎外感、逃れようとしても逃れられない運命との戦い。それらのものと日々対峙し、時には争い時にはあきらめ、そういう混沌とした毎日を送る自分であった。今にして思えば、それは長い混沌のほんの始まりに過ぎなかったのかもしれない。でも、そのとき自分は、それまでのもがき続けた泥濘の中から抜け出して、まばゆく光り輝く日の照りつける穏やかな水の中へ飛び込むことを信じていた。
 大学生活は新たな人々との出会いだった。そして新しい環境との。毎日が新鮮で次々と今まで経験したことのない出来事がある。鬱屈と言う言葉に凝縮されるようなクライ高校生活を送った自分にとって、失敗も多かったがやることすべてが感動にくくられた日々は、今も自分の心の宝物である。生涯の友もできた。いくつかの恋そして別れ。感情をぶつけ自分を主張して相手とぶつかり、争いあった。そして調和を見出し意気投合して飲んだくれ、周囲に多大な迷惑をかけたこともあった。自分ひとりで楽しむことの多かった音楽を友人たちと分け合い共有する機会が増えたのもこの頃だ。ギターはコンパ(飲み会だよ)に欠かせない道具となった。そんな時に歌ったのは、陽水、拓郎、そしてかぐや姫だった。

 でも最初からかぐや姫だったわけではない。デビュー後しばらくは知らなかったし、あの大ヒット「神田川」「赤ちょうちん」を聴いて、いい曲だとは思いながら、それだけだった。陽水でフォークに入り、拓郎でさらにのめりこんだ自分にとって、上記の2曲のイメージ(それはマスコミが作り上げた一つの虚像にすぎないのだが)すなわち「四畳半フォーク」というのは、正直言ってそれほど興味をそそるものではなかったのだ。ところが、大学に入り、友達と授業をサボってどこかの部室でギターをかき鳴らしていた時、友達がかぐや姫を弾いた。自分の知らない曲だった。「それ、何て曲?」自分はコードを覚え練習して弾けるようになった。「おもかげ色の空」という曲だった。陽水の叙情的な詞とも拓郎の先鋭的な詞とも違う、独特の詞だった。そして、どこかにほのぼのとした暖かさが漂っていた。早速、友達の持っていた「かぐや姫フォーエバー」という2枚組みのLPを借りてダビングした。これは愛聴盤になった。そして彼らの曲はギターに合う。自分がギターに親しむ過程でかぐや姫は決してオトセない。

 デビューは1972年。ファースト「はじめまして」セカンド「おんすてーじ」熱烈なファンを作ったが、まだブレイクはしなかった。3枚目の「さあど」の中からラジオでオンエアされて評判となり、にわかにシングルカットされ、大ヒットした「神田川」が彼らのメジャーへのきっかけだった。南こうせつ、伊勢正三、山田つぐと(パンダ)。この時点では、こうせつがグループの顔であり、楽曲も彼中心だったが、他の二人も曲作りに取り組み、それぞれの世界を作り上げる。その後は「かぐや姫ライブ」などのアルバムでセールスを伸ばし、フォーク界になくてはならない存在となった。その後、1976年に「2枚組みベストアルバム「かぐや姫フォーエバー」を発表し、ツアーを行うが、これは解散ツアーになった。すでにそれぞれがソロ活動や別グループでの活動をしており、一応発展的解散と言えた。
 自分の場合、かぐや姫を聴き始めた(「神田川」等はそれ以前から知ってはいたが)のは、彼らが解散する寸前のことであり、全盛期をリアルでは聞いていない。だが、前述のように、ちょうど自分が大学に入り、それまでの「どん底」(?)とも言える生活から解放されて、新しく希望を持ってスタートをきった時期だったので、彼らを聴くとその当時の様々な思い出が蘇ってきて、とても懐かしい。本当につい昨日のことのようだと思える。「〜フォーエバー」はそんな時代を想起させてくれる一枚である。個人的に好きだった曲は、「あてもないけど」「加茂の流れに」「僕の胸でおやすみ」「おもかげ色の空」「あの人の手紙」・・・こうしてみると、正やん(伊勢正三)の作詞曲が多いな。やはり彼は詩人だ・・・

あの人の手紙・・・


(第10回)エリック・クラプトン

初めに
 僕とクラプトンとの出会いは正確には覚えていないが、多分、「461オーシャンブールバード」というアルバムだったと思う。というよりそのアルバムからシングルカットされた「アイ・ショット・ザ ・シェリフ」という曲だ。これはおそらく兄貴が聴いていたのが耳に入ったのだろう。正直言って歌はうまいとは思わなかった。高音のかすれ声、つぶやくような歌い方、それらは当時の僕にとって、好きなタイプのものではなかった(それがブルースに根ざしたものだとは知りもしなかった)。でも、インパクトはあった。この曲はイヴォンヌ・エリマンという女性シンガーとデュエットしてるのだが、その作り出すどことなく退廃的なムード(?)とけだるさ、そして独特ののったりとしたリズム(これがあの『レゲエ』のリズムだとも当然その頃は知らなかった)。それらは耳にインプットされた。アルバムは1974年の発売。このときクラプトン29歳。泥沼のようなドラッグ地獄から立ち直ったばかりだった。その後、再び彼と出会うまでに僕は随分長い期間を置くことになる。
再会

 80年代に入って僕は就職した。自分で給料を取るようになり、音楽に費やす資金も増えた。ステレオも新しいものにして、アルバムを集め始めた。70年代の音楽が中心だった。クラプトンで真っ先に買ったのがあの「461・・・」だった。やしの木がある白い建物の前でたたずむ彼の姿が描かれたジャケットは、どことなくのどかなムードがあり、印象に残る。アルバムの音もリラックスしたムードが漂っている。その頃には僕は彼がかつては激しいギターソロで鳴らしたことや、『ギターの神様』と呼ばれていることなどを知り、このアルバムの音はそうしたイメージとはちょっと違うな、と感じた。そう、このあたりからクラプトンは『レイドバック』と呼ばれる穏やかなサウンドで、新たな持ち味を発揮しファン層を広げて行くのだ。何枚か彼のアルバムを買った後、僕は彼のルーツを知りたくなった。
 そんな時、知り合いでクラプトン好きの友人がおり、彼からアルバムを借りた。その中には昔の彼が所属していた「クリーム」というバンドのものもあった。クリームは、まだ20代前半のクラプトンがいた3人編成のバンドで、当時イギリスで流行っていたブルースロックをやっていた。実は僕は彼らのアルバムは一枚だけ持っていた(「クリームの素晴らしき世界」という2枚組み)。が、その頃はさほどいいとも思ってなかった。で、借りたアルバムを片っ端から聴いて行くうちに、「す、すごい!」と心を揺り動かされたのだ。クリームでの彼は、ソロの彼とは全くと言っていいほど違っていた。とにかく弾きまくる。というより、ベースのジャック・ブルースとドラムのジンジャー・ベイカーも負けずに自己主張をする。まるで3人が喧嘩でもしているかのような演奏だ。スローな曲でもそれぞれのテクをこれでもかと発揮してゆく。えっ!ベースやドラムってリズム楽器でしょ。まるでメロディ楽器のようだ。というくらい、その存在感を示していたのである。でも、クラプトンのギターはその中でもすごかった。「十字架(クロスロード)」という曲があるが、これなど原曲はブルースで全然雰囲気の違うものだが、彼らの演奏はまるで音の洪水だ。クラプトンのギターも全編弾きまくりと言う感じ。
 そうか、ギターの神様はここにいたのか。僕はクリームを聴いてその名称の由来が始めてわかった。それに比べれば今のソロのクラプトンのなんと穏やかでメロウになったことか。どちらが好きかは今もってファンの中では意見の分かれるところだが、僕はよくばりに「どっちもクラプトンや!」と思っている。そう、激しいギターソロも、穏やかでまろやかなプレーも、彼の人生の軌跡そのものだと思うから。
常にブルースがある
 そんな僕が今まで唯一彼を生で聴いたのは、1993年の来日の時。AT BUDOKAN。そのクラプトン好きの友人と行きました。その頃はあの「アンプラグド」が前年に大ヒットを飛ばした時期だけに人気も最高で、どんなライブなのかと思って行ったら、ライブ全体のイメージは「アンプラグド」とはかなり違ったものでした。ブルースの比重がかなり多い。さすがギターの神様、一体いくつのギターを取り替えたのか覚えていないほどだったが、メジャーなヒット曲より自分の好きな曲に重きをおいているような感じさえしたものだった。ああ、この人は本当にブルースが好きなんだな、と改めて思わされたライブでした。でも、不満はなかった。彼の奏でるブルースギターは、とてもきらびやかでクリアなトーンで表現され、熱のこもった演奏だった。この時期の後、彼はブルースだけのアルバム「フロム・ザ・クレイドル」を発表したりもしているから、それは「アンプラグド」でしみついたイメージへの反発であったかもしれないし、原点への回帰であったのかもしれない。彼はブルースの持つストレートな感情表現が好きだと言っているが、なるほどブルースは黒人達の日々の辛さや悲しさ、そしてそんな中での喜びを、ダイレクトに感じさせる音楽だ。だから、決して飾らずあくまでもシンプルな音楽である。現代のような装飾過剰な時代では、あまりにシンプルすぎて受け入れられにくい面もあるが、僕はクラプトンを始め多くの同時代のアーティストたちのほとんどがブルースを下敷きにした音楽を作った事実(ビートルズもストーンズもツェッペリンもみーんなそうだ)を思うと、やっぱり音楽は人間の感情をストレートに示すところに感動があるのだとしみじみ思うのだ。今は最新の技術を駆使していくらでも音楽を加工することが可能だが、そうして出来上がったものは、果たしてそれを作った人間の感情をどれくらい反映したものなのだろうか。装飾過多なものは、見てくれはいいかもしれないがすぐ飽きる。
クラプトンのすごさ
 いろんなアーティストがいるけれども、彼は様々なグループやソロ活動を通じて、誰にも真似の出来ない自分の音楽を作り上げた。よくフォロワー(後継者)と呼ばれる存在が現れたりするが、彼のフォロワーはあまり聞いたことがない。それほど個性的ということか。彼の音楽化としての出発点であるヤードバーズの頃(まだ彼の十代の頃だ)や、その後加入したブルースブレイカーズ、そしてクリームの頃までは、彼は若さに任せてとにかくギターですべてを表現する、という演奏スタイルだった。それはとても魅力的だったし、見事に彼の存在感を示してもいた。だが、彼がクリームを解散し、直後に作ったスーパーグループ『ブラインド・フェイス』を瞬く間に解散して、その後ソロ活動に入ったのはどうしてだったのか。グループでやることの難しさを感じたのか。自分の本当にやりたいことは何なのかを確かめたかったのか。いずれにせよ二度と彼はグループに身を置かず、自分の求めるものを追及してゆく。彼の軌跡を簡単に表にしてみた(下の表)。これをご覧戴くと多分クラプトンを好きな人はいつの時期を好きか、人によってまちまちだと思う。それほど長く活動してるわけだが、時代によって音楽の持ち味が変わってきているともいえる。ソロになってからも大分時代によって異なる。だから、自分がいつの彼を好きかによって、現在の彼をどう見るかが違ってくる。肯定するのか否定するのか。ちなみに僕の場合、一番好きな時期をあげろと言われたら、「461・・・」から70年代後半にかけての彼を上げる。
 彼はとても繊細な人に見える。ドラッグにはまった時、友人達が何とか彼を救おうと奔走したらしいが、彼の人柄を思わせる。実生活もかなり波乱万丈で、あの世界を感動させた名曲「TEARS IN HEAVEN」は最愛の息子を事故で亡くした時の気持ちをうたたものであることはあまりに有名だが、そんなアクシデントを乗り越えて、後世に残るアルバムを作り出したのだから、いくつもの山を越えてきたのだと思う。そんな彼は今後どんな音楽を作ってゆくのか。やがて60歳をむかえようとするこれからの彼の活動を見守ろうと思う。

クラプトンの歴史?

’65 ヤードバーズ プロデビュー。
’66 ブルースブレイカーズ 当時のイギリスの代表的ブルースバンド。
’66 クリーム 最強のブルースロックトリオ。クラプトン弾きまくりの時期?
’69 ブラインドフェイス スティーブ・ウィンウッドらと結成。わずかアルバム一枚で解散。
’70 デレク&ドミノス ブラインドフェイス解散後すぐこのプロジェクトに参加。名曲「レイラ」を発表。
’70 ソロデビュー。 アルバム『エリック・クラプトン・ソロ』を発表。ソロ活動に入る。
’74                『461オーシャン・ブールバード』シングル「アイ・ショット・ザ・シェリフ」ヒット。
’77 『スローハンド』大ヒット。タイトルが彼の代名詞ともなる。
’78 『バックレス』
’83ごろ この頃多分『461・・・』を買った。
’85 『ビハインド・ザ・サン』プロデュースはフィル・コリンズ。
’89 『ジャーニー・マン』
’91 名ライブアルバム『24ナイツ』発表。
’92 『アンプラグド』発表。全世界で記録的セールス。
’93 来日コンサートに行った(^^
’94 ブルースだけのアルバム『フロム・ザ・クレイドル』発表。
’96 ジョン・トラボルタ主演の「フェノミナン」の主題歌「チェンジ・オブ・ザ・ワールド」が大ヒット。
’98 『ピルグリム』発表。ファン層を広げる。
’01 『レプタイル』

クラプトンのギターよりちょと派手・・・

(第11回)イーグルス

「ホテル・カリフォルニア」の衝撃

  学生時代は僕が洋楽へとのめりこんでいくきっかけとなった時期だ。そのきっかけの一つとなる曲として、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がある。それまでの僕は、中高時代のフォーク(拓郎や陽水)を初めとして、どちらかと言えば日本の音楽を聴くことが多かった。もちろん洋楽も聴いてはいたが、ごく限られたものだった。それが洋楽にどっぷりとはまってゆくことになったのは、大学時代にバイトをしたときだった。このバイトは、東京の新宿に勤務地があり、短期のものだったが、ほぼ3ヶ月くらいの間、僕は新宿まで通った。年明けに学年末試験が終わるとしばらくは時間が空いた。僕はバイトに精を出した。そして、何回かバイトの先輩たちに連れられて新宿の街に飲みに出た。そういうとき、たびたびBGMでかかっていたのが、当時大流行していたイーグルスのこの曲だった。僕が当時思ったのは、「何て完璧な曲なんだ!」と言うこと。この曲は、初めて聴いたときからそうだったが、ロックのかっこよさをすべて兼ね備えている。哀愁を帯びたメロディー、構成の見事さ、詞の深さ、絶妙なコーラス、そしてサウンドのすばらしさ・・・どれもロックミュージックには欠かせない要素だと思うが、この曲はロックを飛び越えた普遍的なスタンダードとしての要素も持っていた。誰が聞いても耳に残るメロディやフレーズと言うものは、早々あるものではない。この7分近い長い曲がなぜあれほど売れたのか。それはこの「普遍性」であろう。老若男女、民族を超えて、どんな人の心にもインパクトを与えるだけのものがこの曲には備わっていたのだと思っている。それがこのバンドの最大のヒット作となり、この楽曲を含んだアルバムもまた、空前の大ヒットとなった。
時をさかのぼって

  それから僕は洋楽に深入りしてゆく。ハードな曲もそれまでも聴かないわけではなかったが、次第にハード路線に入り込んでゆく。でも、メロウで穏やかな曲も好きだった。僕の聞くジャンルは少しだけ広くなったような気がした。ただ、イーグルスに関しても、初期の「テイク・イット・イージー」や「ニューキッド・イン・タウン」のような曲が好みだった。僕は、「ホテル・カリフォルニア」から時をさかのぼって、一つ一つ彼らのアルバムを聴いていった。彼らは、カントリーミュージックを基調としたサウンドから出発したバンドだから、本来はその音の持ち味はメロウだった。それが変化してゆくのは、アルバム「呪われた夜」あたりからだ。サウンドが重くなり、軽快さに加えて重厚さを表現するようになる。途中から加入したギタリストのドン・フェルダーとジョー・ウォルシュの存在によるものだ。彼ら二人は、「ホテル・カリフォルニア」の中でも、いかにもロックギターの定番ともいえるような印象的なギターソロの掛け合い(エンディングへ向けての大きな山場を作る独特のフレーズだ)をしている。象徴的だったのは、初期からのオリジナルメンバーだったバーニー・レドンが脱退した後、サウンドが大きく変化したこと。さわやかなサウンドイメージだったイーグルスがハード路線へ移行して言ったのは、そのことと無関係ではないだろう。
巨大な成功の影に
  中心メンバーの一人、ドン・ヘンリーは「ホテル・カリフォルニア」でのあまりにも大きな成功の後、それを越える作品を生み出さねばならないと言うプレッシャーのために体調を崩したと言う。彼はそのことを意識するあまり、自由な創作ができなくなってしまったのかもしれない。メンバーみんなが巨大な成功の影に生まれた予想もしなかったものと戦わねばならなくなったのか。3年と言う月日をかけてそのプレッシャーと戦ってようやくリリースされたアルバム「ザ・ロングラン」はおおむね評価が低く、中には酷評する人もいた(それでもトップ1ヒットも生み出しているんだけどね・・・)。確かに「ホテル・カリフォルニア」はアルバムとしても完璧だった。トータルなコンセプトアルバムの様式もあって、余計にそう思わせる。アーティストは常にこのプレッシャーと戦いながら、作品を生んでゆくのだろうが、その評価がべらぼうに高かった作品の後にやってくる途方もないプレッシャー・・・それがどれだけのものか、凡人には想像もつかないし、知りたくもない。しかし、もろもろの事情が重なって、結局イーグルスは「ザ・ロングラン」を最後にオリジナルアルバムを発表することはなく、1982年に解散する。大方の見方はあまりに大きな成功に押しつぶされた悲劇のバンド、と言うものだった。ただ、僕はイーグルスの10年の歴史はやはりロック史に残るものだと思うし、ちょうどロックという音楽に魅力を感じてゆくきっかけとなったグループとして、僕の音楽史(なーんてね、えらそーだが)の中でも輝きを失うことはない。最後に個人的なイーグルスのベスト10を上げて、この項を結ぶこととする。余談。1995年11月の再結成日本公演はやはり感動的だった。


イーグルス個人的ベスト10

@ホテル・カリフォルニア E駆け足の人生
Aテイク・イット・イージー Fラスト・リゾート
Bニューキッド・イン・タウン G魔女のささやき
C呪われた夜 Hテキーラ・サンライズ
Dテイク・イット・トゥー・ザ・リミット I言い出せなくて


巨大な成功・・・


(第12回) ドゥービー・ブラザース

1.ジェットマシーンの思い出?   (ドゥービーとの出会い)

  ドゥービーとの出会いは、中学生ごろだ。例によって、兄貴のステレオからそれは流れてきた。兄貴は洋楽狂であり、少なからず僕は影響を受けた。その曲は、印象的なギターのコードカッティングから始まり、ボーカルの澄んだ声とバッキングコーラスとの絶妙のハーモニーが耳に心地よく響いた(これは今だからこそこういう書き方ができるが、当時はもっと漠然とした印象だっただろう)。そして、これは当時もとてもはっきりと記憶に残っているのだが、曲の途中で、「シュワーッ」と言う感じで、加工された音が入ってくる。この音が独特で、その後エンディングに掛けてこの音は続く。不思議なことにこの音は、ギターやボーカルの声とともに、上がったり下がったりするのだ!擬音で表現すると、「シュワーーーッ、キュウーンン、ジュワッ」てな感じかな??(←表現力が乏しくて申し訳ございませんです、笑)。後に洋楽にはまった僕が、得た知識によれば、これは当時は「ジェットマシン」と呼ばれ、現在で言えば、「フランジャー」とか「ディレイ」とかいうエフェクター(楽器やボーカルの声を様々に加工し変化をもたせる技術)に相当するものであった。70年代頃のロックではよく使われた表現だ。
  僕の心をとらえたその曲のタイトルは「Listen to the music(リッスン・トゥー・ザ・ミュージック)」というものであった。歌っているのはドゥービー・ブラザース。記憶の中にインプットされたその曲とは、その後再び出会い、僕は洋楽への傾倒とともに、彼らの音楽にも惹かれていった。

2.ドゥービー天国   (その全盛期)

 80年代に入って、ますます洋楽へののめりこみが強まり、僕はそれまで聴いたことがなかった70年代の名アルバムを少しずつコレクションしていった。その数も少しずつ増え、ドゥービーのものもいくつか入ってきた。「リッスン・トゥー・ザ・ミュージック」の入った『トゥールーズ・ストリート』、73年に発表され、彼らの代表作とも言われる『キャプテン・アンド・ミー』。このアルバムに収められた「ロング・トレイン・ランニング」と「チャイナ・グローブ」は、彼らの魅力を余すところなく伝えてくれます。この2枚は愛聴しましたね。
 74年の4枚目のアルバム『ドゥービー天国』は、「ブラック・ウォーター」という大ヒット曲を生んだ。この曲は、それまでの彼らの曲の個性を持ちつつ、また少し違った味付けを加えて、新たな魅力をアピールし、初の全米No.1に輝いたのであった。まさにドゥービー天国。彼らの名声もこの頃ピークに達したような感もある。

3.これがドゥービー?    (ヒットはしたけれど・・・)

 その後しばらくいろいろな音楽にはまって、僕はドゥービーのことは忘れていた。そんなとき、新しいドゥービーのアルバムを兄貴に聴かせてもらった。そして思った。「えっ!これがドゥービー?」確かにあの素晴らしいコーラスは健在であり、アメリカ南部っぽい雰囲気もそこここに見られたのだが、アルバム全体のムードや曲の一つ一つの味付けが以前のドゥービーサウンドとは全く別物になっていた。その最大の理由は、75年バンドに加入し、病気で倒れたメインボーカルのトム・ジョンストンに変わって次第にグループの主導権を握っていったマイケル・マクドナルドの存在だ。彼は、ドゥービー加入前は、スティーリー・ダンのメンバーだった。スティーリー・ダンは激しくメンバーチェンジを繰り返しながらも現在も活動を続けているが、その特徴は一言で言って『粋』。凝りに凝ったサウンドとアレンジ。何度もオーバーダビングを繰り返して音を加工して行き、高価なギャランティを必要とするミュージシャンたちを惜しげもなく使ってレコーディングされた彼らの音楽は、まさに職人芸。詞も難解なものが多い。ウエストコーストの音楽界では、その音作りの緻密さとコダワリ振りは右に出るものがいなかった。
 そのメンバーだったマイケルがバンドに入ったことで、ドゥービーはいわば泥臭さと都会的センスが絶妙にマッチしたサウンドから、妙に洗練度が勝ちすぎたサウンドへと変貌していたのだ。70年代の後半は折からのAORブーム。AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)というこのジャンルは、都会的なしゃれた雰囲気の耳になじむ音楽で、世界中にファンを獲得して行った。そんな流れにドゥービーも乗ったような感じであった。
 僕は、初めてこの「新生?」ドゥービーを聴いたとき、「うーん、いいんだけど、なんかイメージ違うな」と思ったのでした。

4.来日公演     (あの頃を思い出しながら)

 結局、新しいサウンドを引っさげたドゥービーは、当時の音楽情勢のせいもあったのか、より多くのファンを得て、このアルバム『ミニット・バイ・ミニット』も大ヒット。グラミー賞で大きな評価を勝ち取る。だが、昔からのドゥービーのファンにはことごとく評判が悪かったようだ。あのドゥービーサウンドがまた聴きたい。ちょっと無骨で南部や西部の香りを持ち、郷愁を誘うような独特の音楽。しかし、そのドゥービーサウンドの中心だったトム・ジョンストンはもはやバンドを去っていた。
 「ミニット・バイ・ミニット」のヒット直後、オリジナルメンバーのジョン・ハートマンとジェフ・バクスターがバンドを去る。これはやはり新しいドゥービーの方向性についていけなくなったと見てよいのではないか。そんなグループの求心力の失墜に伴い、1982年、ドゥービーはいったんその歴史に幕を下ろす。
 しかし、1987年限定期間つきの再結成ライブを行って、オリジナルメンバーを中心に再結成が実現した。1989年に発表したアルバム『サイクルズ』はかなりのヒットをとばし、ドゥービーは復活した。
 僕が彼らのライブを見たのは、多分この頃だったと思う。正確な時期は忘れてしまったが、代々木体育館で見た彼らの来日公演。往年の(すなわち70年代前半から中盤の乗りに乗ってる時期の)ドゥービーサウンドはその魅力を失っていなかった。見事なコーラス。そしてボーカルはあのトム・ジョンストンであった。しかし、根っからのドゥービーファンには受けが悪いとはいえ、グループを一時期支えたマイケル・マクドナルドもこのツアーに同行していた。
 ライブの後半、ヒット曲のオンパレードで、客席も大興奮していた様子は今でもうっすらと記憶に残る。「チャイナ・グローブ」でのイントロのギターが聴こえてきたときは、結構じーんときましたね。初めて彼らのサウンドに触れた頃を思い出しながら、スタンディングで手拍子をしていたのを覚えています。ドゥービーは、70年代のアメリカのロック界でひときわすぐれた個性を生み出したバンドの一つだと今でも思っているのです。


南部の香り・・・


(第13回) クイーン

1.衝撃の出会い(こいつはすごい声だ!)

 それはラジオから聴こえてきた。当時は受験勉強の真っ最中。と言えば聞こえはいいが、夜のラジオに夢中な時期でもあったのだ。時には勉強よりもそちらの方に傾いていってしまう気持ちを何とかセーブしながらも、ラジオ放送の音楽番組に、中でも洋楽番組に僕の心は惹きつけられて行った。いわゆる「ベスト◎◎」というようなヒット曲を流す番組のいくつかがお気に入りだった。そうした頃、ある日そのグループは僕の心にまさしく「衝撃」を与えたのだった。
 何しろすごい声だ。人間業とは思えない。どこまでも伸びるボーカル。そして表現力。ハイトーンはあくまでも透き通るような美声。低音は凄みのあるダミ声。そうした使い分けもテクニックを感じさせた。そして、僕の弱い分野、すなわちクラシックの要素をふんだんに取り入れた曲のスタイルや、刻一刻と変わる曲のテンポは、このグループを只者ではないと思わせるに十分なものがあった。さらに、決定的だったのは、抜群のハーモニーだ。4人編成のメンバーの誰もがボーカルを取れる。そして、メインボーカルの声だけでも十分個性的ですばらしいのに、曲のさびになると、分厚いコーラスが入り、そのハーモニーの完璧なことと言ったら!!こんなグループがいたんだ。僕はその名を心に刻み込んだ。グループの名は「クイーン」。デビューからすでに4枚目のアルバム『オペラ座の夜』はシングルカットされた「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットと共に、売れ行きを伸ばしていた。


2.「ボヘミアン・ラプソディ」のすごさ

 彼らはなぜか日本で人気があった(出身はイギリス)。当時ベイシティ・ローラーズというこれもイギリスのグループが日本を始めとして大ブレイクし、日本での人気(特に女性ファンに)は何しろすさまじかった。しかし、僕はクイーンの方が好きだった。たまたま同じ時期に人気が出たせいか、両者は比較されることもあったが、僕はローラーズの人気は理解できたが、比較されるのはちょっと納得がいかなかった。クイーンの特質とローラーズのそれとは全く異質のものである。僕はクイーンのこれからに注目しようと思った。前述の「ボヘミアン・ラプソディ」のシングルを真っ先に買った。この曲は今までの僕のロックに対する概念を打ち破るものだった。まず、曲の構成だ。シングル盤としてはかなり長めの約6分という流れの中で、大きく曲の調子が二転三転する。この構成が絶妙。まるでクラシックの組曲のよう。途中に入るコーラスはオペラのコンサートさながらで、これもこの曲の特徴だ。そして、ピアノ主体の前半、オペラチックな中盤、ハードロックの持ち味十分の終盤、と見事な構成で、ラストを再び静かなピアノのソロで締めくくる。このあたりのセンスが素晴らしい。僕はこのシングル盤を何度聴きなおしたか分からない。苦手な英語の歌詞もかなり正確に当時は覚えていたくらいだ。この曲を収めた『オペラ座の夜』も後に買ったが、これまた愛聴した。このアルバムは全盛期のクイーンの持ち味がフルに発揮された傑作である。「ボヘミアン・ラプソディ」(フレディ作)以外にも、「’39」(ブライアン作)「アイム・イン・ラブ・イズ・マイ・カー」(ロジャー作)「ラブ・オブ・マイ・ライフ」(フレディ作)など、個性的な名曲ぞろい。彼らの曲は始めて聴くと、コーラスの素晴らしさと共に、アレンジの巧みさが目立つ。オーバーダビング(何度も音を重ねて録音する)をふんだんに使い、4人編成というハンデをカバーする。このあたりも彼らの大きな特徴であろう。

3.やはり好きなのは初期

 クイーンのメンバーは不動の4人。ボーカルのフレディ・マーキュリー。ギターのブライアン・メイ。ドラムスのロジャー・テイラー。ベースのジョン・ディーコン。彼らはメジャーデビューからおよそ20年間このメンバーでクイーンとして活動した。その間には色々とトラブルもあったようだが、ファンにとってはクイーンとはこの4人以外は考えられなかったのだ。バンドの作り出す曲自体は時期によってかなり評価が分かれる。初期は特に自国イギリスでこきおろされたし(今もって僕にはこの理由が分からない。イギリスのメディアはビートルズやローリングストーンズがデビューした時もけなしたらしいから、新人をこき下ろすのを仕事と思っているのかもしれない・・・)。そして、『オペラ座の夜』で大ヒットした後、アルバムを出すごとに新たな挑戦をする彼らに、評論家は疑問の声を投げかけたことも多い。だが、今彼らのアルバムを聴くと、ベースになるものは変わらないがそのつど大胆なチャレンジを繰り返してきたことがわかる。世間では不評だったが、僕は『世界に捧ぐ』なんていうアルバムは結構好きだ。クイーンのバリエーションが楽しめる。『ザ・ゲーム』のジャケットでロカビリーしてた時はちょっと驚いたけど。。。
 クイーンは登場した時さんざん批判されたイギリスでの人気も圧倒的で、ビートルズ以来の国民的英雄とさえ言われた。しかし、グループ自体は80年代後半から求心力を失っていたように思う。何とかこなしていたという感じもする。グループとしての充実したイメージは80年代の前半ごろまでだろう。もともと70年代に一時代を築いたハードロックの流れを汲んだバンドだけに、僕はやはりハードさとクラシカルなイメージが絶妙に融合した初期のクイーンがなんと言っても大好きである。

4.劇的な解散

 1991年11月、クイーンは消滅した。フレディの衝撃的な死による解散だった。それはあまりに劇的であり、潔くもあった。彼らはフレディなしでの活動は考えられないと語った。それは中身こそ違うが、同じイギリス出身の、しかも同じ4人編成でデビュー後不動のメンバーを最後まで守ったあのレッド・ツェッペリンの解散とどこか通じるものがあるように思う。彼らもまた、ジョン・ボーナムというなくてはならないメンバーを失ったことが解散の原因となった。くしくも、クイーンのドラマー・ロジャー・テイラーはツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムを尊敬していたという。クイーンのハードロックの香りは僕の過ぎ去った青春時代と重なり、彼らがバンドの歩みを止めた後も、心に響き続けているのである。

クラシカルなロック


(第14回)ヴァン・ヘイレン


1.「新」ハードロック

 ヴァン・ヘイレンのデビューは1978年。もうこの頃はすでに70年代ハードロックシーンを席巻したレッド・ツェッペリンやディープ・パープルの時代は終わったかのようにロックファンの間では言われていた。ちなみにこの項を書くにあたり、70年代のハードロックシーンを引っ張った上記の両バンドが1978年当時、どのような状況だったか、ちょっと調べてみた。すると、惨憺たる状態であった。まず、ツェッペリンは、77年にボーカルのロバート・プラントの子供が事故で亡くなり、ロバートはこの時期バンド活動から完全に離れていた。アルバムやツアーには意欲的だったが、70年代中期のパンクロックのムーブメントのせいで、パンク勢からは旧態依然としたロックの代表格として槍玉に挙げられるなど、さすがのZEPにもややかげりが見られると言われていた。一方のパープルはと言うと、何と!1976年に「第一回目の??」解散をしていた!ディープ・パープルがメンバーチェンジを繰り返してきたのは有名だが、その人間関係のしこりの結果である記念すべき(?)第一回目の解散の頃は、すでにパープルの重鎮・リッチー・ブラックモアも、リッチーの天敵?イアン・ギランもバンドを去っていた。その後、たびたびパープルは復活することとなるが、この当時、あれほどファンを熱狂させた70年代ハードロックは、風前の灯とさえ言えるオサムイ状況なのであった・・・
 さて、こういった時期にヴァン・ヘイレンはロックシーンに登場した。アレックスとエドワードのヴァン・ヘイレン兄弟を中心とした分かりやすいバンド名の彼らは、テッド・テンプルマンという有名なプロデューサーが手がけたことからもわかるように、相当期待されてデビューした。デビュー作「炎の導火線(Van Halen)」はその期待にたがわず彼らの存在を十分に知らしめた。このバンドの特徴は数々あるが、何よりインパクトがあったのは、やはりエドワード(エディ)・ヴァン・ヘイレンのすさまじいまでのギターテクニックである。ロックギターを変えた、とまで言われた独特の個性的な奏法はギターと言う楽器の可能性がまだまだ多く残されていることを証明した。イギリスのベテランバンド・キンクスのヒット曲をコピーした「ユー・リアリー・ガット・ミー」でのプレイは原曲と聴き比べると全くの別曲に聴こえる。前述したように、ハードロックと言う言葉はこの時期死語になりつつあったにもかかわらず、これは70年代ハードロックの復活ではないかと思えるようなスタイルだった。ただ、従来のハードロックとは明らかに異なった。それは、エディの画期的で斬新、かつ誰にもまねのできないオリジナリティを持ったギタープレイによるものだった。それはまさに新しい時代のハードロックだった。彼は技術的なレベルは勿論だが、ギターを言う楽器がこれほどまでに多彩な表現力を発揮できると言うことを、改めて我々の前に示したのだ。それもニヤニヤと笑いながら、いかにもあっけらかんとした彼独特の表情で!瞬く間にエディはギターヒーローとなった。


2.個性派ぞろいの革命児たち


 彼らの特徴はエディのギターばかりではない。ボーカルのデヴィッド(デイヴ)・リー・ロスは破天荒なスタイルのボーカリストだった。キャラクターがそれまでのロック・ボーカリストとは一線を画していた。まずその声。むしろ悪声といってもいいようなだみ声であるが、これがハードロックと言えば金切り声という旧来のイメージを払拭し、むしろ新鮮だった。それにブルースっぽい曲では逆にその声が映えた。そして彼の天性のショーマンシップや運動神経のすごさは、エンターテイナーとして、このバンドにもう一つの魅力を付加した。いかにも「ワル」と言ったデイヴの風貌はバンドの重要なキャラだった。ベースのマイケル・アンソニーはなかなかのテクニシャンである。それに彼はボーカルも取れるほど歌がうまい。声も恐ろしく高音部までカバーできる。ヴァン・ヘイレンが4人編成のバンドでありながら、バラエティにとんだ曲作りができたのも、マイケルの力による部分が大きい。最後に、やや地味ながらしっかりとした技術に裏打ちされたドラミングでまさにバンドの要として活躍を見せるアレックス兄の存在も忘れてはならない。その後80年代に入って、ハードロックはへヴィーメタルへと変化するが、それとともにギターの速弾き競争が起こる。スピード違反で逮捕者続出というような状況を呈してくるのだが、この時期では他のギタリストを圧倒する超特急だったエディのプレイを支えるためには、ドラマーを初めとするリズム隊がいかにテクと体力を必要としたか、想像に難くない。
 このような個性あふれる4人によって、ヴァン・ヘイレンは瞬く間にメジャーへとのし上がったのであった。


3.「1984」は愛聴しました


 デビューアルバムの大ヒットの後、ほぼ1年に1枚のペースでアルバムを作り続け、80年代に入ってヘヴィーメタルが台頭してきても、彼らは70年代テイストを残すハードロックバンドとして独自の位置をキープする。人気も常に安定していて、日本での人気も高く、エディのギタープレイもさらに多彩なものになっていった。当時、ロックファンの中で有名だったエピソードに、「ドリル論争」がある。ヴァン・ヘイレンと並んで人気の高かったバンド・Mr.BIGのギタリスト・ポール・ギルバートがギターピックを小型ドリルの先端にはさんで、それを高速回転させてプレイをするということをやり始めた。しかし、エディはこの奏法は自分の方が先に行っていたと反論。どちらが先か、論争になったと言うのである。この結末ってどうなったのか僕は覚えていないが、法廷闘争になったのかどうか、それは定かではないが、いずれ劣らぬテクニックの持ち主同士、プライドが許さないって言うのがあったのだろう。
 1983年の末に、彼らはそのキャリアの中でエポックメイキングとも言える素晴らしいアルバムを仕上げる。その翌年がタイトルと言うシンプルな命名のアルバム「1984」は発売後すぐに売れ始め、シングルカットの「JUMP」は彼らとしては初の全米No.1ヒットとなった。この曲のプロモーションビデオは鮮明に覚えている。この頃テレビでもようやくアーティストのプロモビデオが放映されるようになり、「ベストヒットUSA」なんていう番組もあったりして、洋楽がお茶の間に少しずつ浸透してきていた。そんな時、ヴァン・ヘイレンが作った「JUMP」のビデオはただただこの一言に尽きた。「かっこよすぎる!!」(表現力不足を露呈・・・でも本音)これは確かアメリカの有名な賞を取ったと記憶している。ビデオは特に凝った映像ではないが、何しろデイヴの動きがすばらしいのと(バクテンや開脚で何メートルもジャンプするなど、まさに体操選手顔負けの運動能力を発揮)、エディのギターソロの素晴らしいフレーズを堪能できる、実においしいビデオでありました。このアルバムからは他に、「PANAMA」「I'll WAIT」などが大ヒットした。エディはこのアルバムあたりからシンセにも才能を発揮し始め、ギター同様素晴らしい指使いを見せて、さらにバンドの音作りに貢献している。このアルバムはヴァン・ヘイレンの魅力が網羅された代表作で、僕も何度も聴いたものであった。


4.ボーカルの交代、日本公演の感動


 大ヒットを飛ばした「1984」だったが、デイヴとエディの確執がうわさされ、その真意の程は分からないが、結局ソロ活動を開始していたデイブがバンドから脱退して、第一期ヴァン・ヘイレンは終わった。豊富な活動歴を持つサミー・ヘイガーを迎えて発表された「5150」はまた違った意味で、ヴァン・ヘイレンの魅力をファンに知らしめた。サミーはデイヴと違って旧来のハードロック的な高音の持ち主だったが、ベテランらしいステージングや歌のうまさで、安定した存在だった。このアルバムからは「DREAMS」がヒットしている。その後80年代から90年代にかけても「OU812」「FOR UNLAWFUL CARNAL KNOWLEDGE」など、完成度の高いアルバムを次々に送り出し、新生ヴァン・ヘイレンはデイヴの穴を感じさせない存在感をシーンに示した。脱退したデイヴはすぐにソロアルバム「CRAZY FROM THE HEAT」をリリースし、シングル「CARIFORNIA GIRL」は全米3位まで上昇し気を吐いた。本家ヴァン・ヘイレンは、1995年の「BALANCE」ではその充実振りをまざまざと見せつけ、クオリティの高い作品をいくつも提供している。シングルヒットの「CAN'T STOP LOVIN' YOU」は彼ららしいポップなさわやかさが印象的な曲で、エディの流麗で素晴らしく叙情的なソロも耳に残る。重厚さと繊細さ。相反する両面をブレンドして仕上げたこのアルバムは、ロック界での彼らの存在をますます確固たるものにしたかと見えた。
 ちょうどこの時期に僕は来日公演に行った。武道館で始めてみた彼らの演奏は、想像以上にハードで何しろ音がでかかった!さらにエディのプレイは遠めに見てもその素晴らしさが伝わってくる気がしたものだ。何しろ彼はステージでよく動く。ほとんどギターの方など見てはいない。ただ本能のままに指が別の人格を持ったように動き回る。こういうものを見せ付けられるともう言葉など無力な気がする。サミーの声もよく高音が伸びていい出来だった。ただ、一つだけ、「JUMP」をやったときは、やはりこの曲はデイヴのものだな、と感じざるを得なかった。それ以外は大満足の公演だった。
 こうした安定した活動をしていた彼らがこのあとすぐに次のステップに進むとは到底想像できなかった。しかし、サミー・ヘイガーの突然の脱退。すでにバンドにすっかり定着したかに見えたのだが、そこには難しい人間関係があったのだろうか。ともあれサミーはバンドを去り、新たに元エクストリームのゲイリー・シャローンがボーカルとして加入、一枚アルバムを出したが、僕はこのボーカリストがどうもバンドに会わないように感じた(どことなくというあやふやな理由だけど・・・)。そうしたら案の定と言うか何と言うか一枚限りで脱退!その後エディは病気と伝えられ、しばらく活動も休止になっていた。その一方、ボーカルに再びデイヴが復活すると言ううわさもひっきりなしに起こっていた。ファンの間でもやはり初期のメンバーが一番ヴァン・ヘイレンらしいという声が圧倒的と聞く。
 ふとネットを検索したら、何と!エディ復活の記事が!ロスでライブが行われていたのだ!エディも完全復活をアピールしたとある。長年の確執を越えてデイヴを加えてのヴァン・ヘイレンの再起を願うのは僕だけではあるまい。


アメリカンハードロックの再来を!