大鏡 口語訳  第一回 雲林院の菩提講にて(一) 先日、私が雲林院の菩提講に参詣し、しばらくそこにおりましたところ、 普通の人よりたいそう年老いて、異様なかんじのする老翁二人と老女一人が偶然に出会って、 同じところに座っているようだった。しみじみと、よくまあ似たような人達だなあ。 と見ていたら、老人達が笑って顔を見合わせていうには、 「ここ数年、昔から生きている人に会って、 どうにかして今まで見たり聞いたりした世間のことをことをお話しあいたい、 また、今栄華を極めておられる藤原道長様の様子もお話しあいたいと思っていたところ、 あなた方に会えて、大変うれしく思っています。今こそ安心して冥土へと行けるというものです。 思っていることをいわないのは本当に腹のふくれるいやな思いがするものです。 だから、昔の人は物が言いたくなると、穴を掘ってその中に思うことを言っていたと思われます。 ここでお会いできたことは大変うれしく思っています。 ところで、あなたはいくつにおなりでしたか?」と言うことだった。 すると、もう一人の老人が「いくつかということは、全く覚えておりません。 ですが、私は、今は亡き藤原忠平様が、蔵人少将であった頃の小舎童である大犬丸です。 あなたは、私が使えていたときの皇太后様の召使で名高い大宅世継といった方ですね。 ですから、あなたの御年は私よりぜんぜん上ですね。 私が子供だった時、あなたはもう二十五、六歳ではありませんでしたか」 と言えば,世継は 「そうそう。そういうことでしたなあ。それにしても、あなたのお名前はなんともうしましたか」 と言えば、 「太政大臣殿のお邸で元服したとき、『おまえの姓はなんという』とたずねられましたので、 『夏山ともうします』と申し上げたところ、すぐに重木と名づけられました」などと言うので、 聞いていた私はすっかりあきれてしまいました。だれも、少し身分が高く教養がある人達は、 この老人達のほうに目を向けたり、近寄って来たりしました。 三十歳ほどの侍のような格好をした者が老人達のすぐそばに座って、 「いや,全くおもしろいことをおっしゃるご老人がたですね。とても本当とは思えません」 と言いますと、老翁二人は顔を見合わせてあざ笑いました。 侍は重木と名乗る老人のほうに目を向けて、 「あなたはいくつかということを覚えていないとおっしゃっていたようですね。 それならば、もう一人のあなたは覚えておられますか」とたずねますと、 世継が、「当然です。今年百九十歳になります。 ですから、重木は百八十歳になると言うことは大体知っていましょうが、 おくゆかしく、知らないと言ったのだよ。私は清和天皇が退位なされた年の、 一月十五日に生まれましたので清和天皇以降十三人の天皇にお会いしているのです。 おかしくはないでしょう。人々は信じないでしょうけど。 けれども、私の父が学者見習に仕えていたので、 身分は低かったけれど都の端に住んでいたので字を読むことができて 私の産衣に生まれた都市を書いてくれたものがいまだにございます丙申の年でございます」 と言うにつけてもなるほど、と思われる。 第二回 雲林院の菩提講にて(二)  侍は、もう一人の老人に向かって、「ぜひともあなたのお年をうかがいたいものです。生まれた年は知っていますか。その年から、たやすく数えてあげましょう」と、いうよう言うようでした。「私は本当の親のと一緒におらず、他人の元で育てられ、十二、三歳までおりましたから養い親ははっきりと私の生まれた年を申しませんでした。ただ、養父が『私は子を産む方法も知らなかったのが、あるとき主人の使いで市場に出かけた時、自分の銭十貫を持っていったところ、そう憎たらしくもない子供を抱いていた女が「子供を人に渡してしまおうと思っています。子供を十人産んで、これは十番目の子でおまけに5月生まれなのでうっとうしいのです」と言ったので、この時持っていた銭と交換してきたのです。女に「姓はなんというのか」とたずねたところ、「夏山です」と申していた。』と実父から聞かされました。そうして十三歳のときに太政大臣の所へ奉公に参りました」などと言った。「それにしてもお会いできてとても嬉しい。仏様のおかげでしょう。最近、そこかしこで説教と騒いでいたけれど、どれほどの物かと思っていって降りませんでした。しかし、今回は賢いことに思い立って参上いたしましたが、うれしいことです」と言って、さらに「そこにいらっしゃるのはあなたの奥さんですか」と尋ねると、重木の返事は「いや、そうではありません。私の妻はずっと前に亡くなってしまいました。これは、その後一緒にいる小娘です。あなた様はどうですか」と言ったので、世継が応え、「私の妻は今もおります。今日も一緒に行こうと思い、身支度もしたのですが、童病みにかかって、発作の日だったので残念なことに来ることができませんでした」などと、しみじみ語り合って泣くように見えるけれども、涙が落ちているようにも見えなかった。 このように講師を待っている間、私も他の人も、長い間退屈でいると、この翁達の言うには「いやいや、まことに寂しいので、語りましょう。昔の話をしてここにいる人々に昔はこのようであったのだ、ということを聞かせてあげましょう」と世継が言うと、もう一人が、「そうそう、それは大変面白いことです。さあ、思い出してください。時々、いくつかのことは答えましょう。重木も思い出すでしょうから」と言って、しきりに話そうとしている二人の様子に、私も早く聞きたくて、待ち遠しく思っていますと、大勢の人が集まっていて、その中には話をしっかり聞こうという人もいるけれど、目立ってこの侍がよく聞こうとしているようだ。世継が言うことには、「世の中はなんとも面白いものですね。私のような老人こそ、世の中の多少の事は知っておりましょう。昔、賢い天皇が政治をなさるときには「国内に高齢の翁や老婆はいるか」、お召し尋ねになって、昔の規範の様子などをお尋ねになられては、老人どもの奏上することをいろいろと参考になさって、政を行っていたということです。ですから、年寄りというものは、まことに賢いものなのだ。若い人たちは老人を馬鹿にしてはいけない」と言って、黒書きの骨が九本あり、黄色い紙が張ってある扇で顔を隠して気取って笑うのも、さすがに趣がある。  第三回 六十五代 花山院(一)  次の天皇は花山院天皇と申されました。冷泉院の第一皇子です。永観二年八月二十八日に位につかれました。十七歳の時でした。寛和二年六月二十二日の夜、驚きあきれたことにございましたことに、人にもお知らせにならずに、こっそりと花山寺にお出ましになって、出家され、仏道に入られなさいました。十九歳の時でした。ご在位は二年でした。ご出家の後、二十二年間生きておられました。しみじみと心の痛む思いのいたしますことは、ご退位なされた夜のことですが、天皇が藤壺の御局よりお出ましになられたところ、夜明けの月がたいそう明るかったので、「際立って輝いているなあ、どうしたらよいだろう(抜け出すのに不都合なため)」と、おっしゃったのですが、「だからといって、やめるわけにはいきません。すでに神しと封建が東宮の元にわたってしまったのですから」と、道兼が急き立てたのは、まだ天皇がお出ましになる前に、自ら、東宮の御方に渡してしまったので、万が一天皇が宮中にお戻りになられることがあってはとんでもないとお思いになり、このように申し上げたということです。天皇が、清らかな光をまぶしいと思っていると、つきの表面にむら雲がかかり、少し暗くなったので、「我が出家は成就するだろう」とおっしゃられて、歩き出されたところ、前年亡くなられた、弘徽殿の女御の手紙で、日ごろ破らずに肌身離さずお持ちになっていた手紙のことを思い出しになり、「ちょっと待て」とおっしゃって、取りに行こうとなされたら、道兼が、「どうしてこのようなことをお思いになるのか。今を逃せば、自然と支障も出てきましょうぞ」と言ってうそ泣きしたそうだ。  第四回 六十五代 花山院(二)  こうして、道兼が、代理から東に向かって連れ出し申し上げた時、安部晴明の家の前をお通りになられたところ、晴明の声がして、手を激しく打ち、「天皇が退位されると見える天変があったが、すでに退位なされたようだ。参内し奏上しよう。すぐに、車の支度をせよ」という声をお聞きになられたのであろうか。そうは言っても胸を打たれただろう。晴明が、「まずは、式神一人内裏に参上せよ」と命じたところ、人の目に見えぬものが戸を押し開けて、天皇の後ろ姿を見たのであろうか、「ただ今ここを過ぎていかれたようです」と、答えたそうです。晴明の家は、土御門の町口だったので、通り道だったのです。  花山寺にお着きになって、天皇が剃髪なされた後に、道兼は「ちょっと退出いたしまして父親に今の姿をもう一度見せ、出家する事情を説明して、必ず戻ってまいります」と申し上げられたので、「私をだましたのか」と言ってお泣きになられた。なんともお気の毒で悲しいことです。常日頃から、「一緒に出家して、弟子となります」などと約束しておきながら、おだまし申し上げたとか言いますが、本当に恐ろしいことです。父の兼家は「もしかしたら息子が出家させられているかもしれない」と心配して、立派な、分別のある某という有名な源氏の武者達を護衛として添えられたのでした。武者達は、京の町の間は隠れて、賀茂川の堤のあたりから姿を現して、お供したのでした。寺では、「道兼を出家させるようなことはないか」と用心して、一尺ほどの刀を抜いてお守り申したということです。  第五回 六十七代 三条院(一)  次の天皇は三条院天皇と申し上げます。冷泉院の第二皇子です。上皇におなりになられて、目がお見えにならなかったのは、たいそうおいたわしいことでした。他の人が拝見するところには、少しも普通の人と変わりがございませんでしたので、嘘のようでいらっしゃいました。瞳なども大変澄んでおられました。どういう時か、時々はお見えになる時もありました。上皇は、「簾の編み糸が見える」ともおっしゃることもおありでした。また、禎子内親王が参上なされました時に、お供をしていた弁の乳母が飾り櫛を左に差しておりましたので、「どうして櫛を変なふうに挿しているのか」とおっしゃったこともありました。上皇はこの宮をたいそうかわいがられて、御髪がたいそうきれいでいらっしゃいますのを、手探りでお撫で申されて、「こんなに美しい髪を見ることができないのはまことに残念だ」とおっしゃられて、はらはらと泣かれるのが、本当においたわしいことでした。禎子内親王が、父君の所に参られるたびに、上皇はしかるべき贈り物を必ずさし上げられなさいました。ある時は、三条院のご地券を頂いて持ち帰っておられたのを、道長がごらんになり、「お利口でいらっしゃる姫君ですね。幼いお心ながら、古い反故紙と思ってお捨てになることもなく、ちゃんとお持ち帰りになっておられる」と、面白がって冗談をおっしゃいましたので、「人聞きの悪いことをおっしゃりますこと」と言って乳母達はお笑い申し上げたことでした。上皇は、さらに冷泉院の地券もさし上げられましたが、「昔から、天皇のご領地であった所が、今となって私人の所有になるとしたら、不都合なことです。やはり、朝廷の所有にしておくべきかと存じます」とおっしゃってお返し申し上げました。  第六回 六十七代 三条院(二)  上皇はこの眼病の為に、いろいろと手を尽くし、治療なさいましたが、いっこうに効果は現れず、まことにおいたわしいことでした。元から精神的な病が重かったので、医師たちが、「小寒から大寒までの寒中の水を頭にかけさせなさいませ」と、申しましたので、凍って塞がっている水を沢山かけさせなさったところ、たいそうひどくお震えになり、顔色も真っ青になってしまわれて、まことにお気の毒で悲しく、人々が見舞ったということでした。ご病気のため、金液丹という薬を服用なされていましたのを、「その薬を飲んだ人は、この様に眼病を患うのだ」などと人は申しましたが、桓算という、供奉僧の霊が、物の怪として現れて申しますには「私が、御首に乗って、左右の羽で目を覆っているので、羽を動かすときに少しだけ見えるのだ」ということでありました。上皇が退位なされましたのも、もっぱら比叡山の根本中堂に健康祈願の為にお登りになろうと考えられたからでした。しかし、それほどまでしても、いっこうに効果は現れず、まことに残念なことでした。完全に治るとまではいかなくても少しくらいの効果はあってもよさそうなものなのですが。ですから、いよいよもって比叡山の天狗がしたことであるなどと、さまざまな噂が立ちました。広隆寺にもお篭りになられました。それで、仏の御前から、東のひさしの間にかけて御座所になるというので、格子天井を作られたのです。 七回目 この大臣は、基経公の長男です。醍醐天皇の御時に、左大臣の位についていて、 年がたいそう若くていらっしゃいました。菅原道真が、右大臣の位についておられました。 その頃はまだ天皇もたいそう若くていらっしゃいました。天皇は、この左右の大臣に 天下の政を執り行うべき旨をの宣旨をお下しなされましたが、 当時、左大臣は二十八、九才ほどでした。右大臣の御年は、五十七、八歳だったでしょうか。 このお二方は一緒に天下の政治をお執りになりましたが、 右大臣は学才がまことに優れていらっしゃる上に、ご思慮も格別深くていらっしゃいました。 左大臣は年も若く、学才も格段に劣っておられましたので、 右大臣に対する天皇のご信頼もまことに高く、左大臣は心穏やかでなくお思いになって いらっしゃいますうちに、そうなるべき運命であったのでしょうか、 右大臣の御身によくないことが起こって、昌泰四年正月二十五日、大宰権帥に 左遷されて、流されておしまいになられました。  道真にはお子様が沢山いらっしゃいまして、姫君は結婚なさって、 男君たちは、皆、分相応の位についておられましたのですが 皆、方々へ流されて悲しい思いをしていると、 幼い男君や姫君たちが父君を慕って泣いておられましたので 朝廷も、「小さいものは差し支えなかろう」と 連れて行くのをお許しになられました。 天皇の処置が極めて厳しいものでしたので、 お子様たちを同じ方面に流すことはなさいませんでした。 道真はあれやこれやとひどく悲しくお思いになられ、 庭先の梅の花をご覧になって 春になって、東風が吹く頃になったら、おまえのその懐かしい香りを 風に乗せて筑紫まで届けておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、 花を咲かせる春を忘れるなよ。 とお詠みになった。また、宇多天皇に次の歌を差し上げなさいました。 配所へ流されていく私の身は、水中のごみと同じになってしまいました。 我が君よ、どうか水屑をせき止める柵(しがらみ)となって 私を救い今日におひきとどめください。 無実の罪により、この様に罰せられなさったのを、ひどくお嘆きになって、 そのまま、途中の山崎にてご出家なされましたが、 次第に都が遠ざかるにつれて、しみじみと心細くお感じになり あなたが住んでいる家の木立の梢を、流罪の道をたどりつつ、 すっかり見えなくなるまでも、何度も振り返ってみたことですよ。 とお詠みになられた。  また、播磨国にお着きになり、明石の駅という所にお泊りになられましたが そこの駅長が、このたびの左遷をたいそう嘆き悲しんでいるご様子をご覧になって お作りになった詩は、たいそう悲しいものでした。 駅長よ、そんなに驚くことはない。時勢が変わり、 今や私が配流の身になって落ちていくことを。春に花咲き、秋に落ち葉するのは 自然の摂理で、人の世の栄枯盛衰もまた同じなのだから。 八回目 こうして、筑紫にお着きになりましたが、何もかもが心細く思われるそんな夕方、 遠方に煙が立つのをご覧になって、 夕方になると、野にも山にも煙が立ち昇るが、その煙は 私の嘆きによって、いよいよ激しく立ち上るのだなあ。 また、雲がうかび漂うのをご覧になって 山を過ぎて、飛び去った雲が再び山に帰ってくる姿を見ると、 やはり頼みに思われる。自分もいつかあの雲のように京に帰れるのではないかと。 いくらなんでも、いつかきっと自分の罪が晴れる時もあるとお思いになられたのでしょう。 月の明るい夜に 海よりも、深い水のそこまで月は照らしてくれるに違いない。 私の心が底まで潔白であるのも月だけは知っているだろう。 と、詠まれた。この歌はまことに賢くお詠みになったものですなあ。 なるほど天の月と太陽だけは潔白な心をお照らしくださるというお気持ちでしょう。 まったく、政治向きの大事は言うまでもなく、このような和歌や漢詩などまでも、 世継はたいそうなだらかに、意味ありげに再現しますので、 見聞きする人々は目もおどろき、感に堪えぬようにして、見つめ座っていました。 教養見識のある人なども、近くによって、わき目もふらずに見聞きしている様子を見て、 世継はますます興に乗って、物を次々と繰り出す様に言いつづける様子は まことに珍しいものでした。重木の方は涙をぬぐいながら喜んでおりました。 世継は話を続けて、筑紫では、道真はお住まいの門を堅く閉ざして謹慎していらっしゃいます。 大宰府ははるか遠くにありますが、建物の屋根の瓦などが、 見るともなく自然に目に止まります上に、すぐ近くに観音寺という寺がありましたから、 その鐘の音をお聞きになられてお作りになったのが、次の詩です。 はるか遠くに見える大宰府の楼は、わずかに屋根の色が眺められるばかりだし、 近くの観音寺は詣でることもせず、ただ鐘の音に耳を傾けて聞くばかりである。 この詩は、「白氏文集」にある白居易の、 「遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹(そばだ)テテ聴キ、香炉峯ノ雪ハ簾ヲ掲ゲテ看ル」 という詩に優れているほどにお作りになっていると、昔の学者達は申しました。 九回目 また、雨の降る日に、物思いにおふけりになられて、詠まれた歌です。 雨の振り続く天の下は、乾いている所がないからであろうか、 強いられて着たこの無実の濡れ衣は晴らしようのないことだ そのまま、かの地筑紫にてお亡くなりになられましたが、道真の霊が 一夜のうちに、この北野の地に、沢山の松をお生やしになられて、 移り住まわれたその場所を、今の北野天満宮と申して、 現人神でございますようなので、帝も行幸されます。 たいそう大切に崇め奉られたそうです。筑紫のご遺体がおさめられたところは 安楽寺と申しまして、朝廷から別当や所司を任命なされまして、 たいそう尊いお寺であります。内裏が炎上して、度々ご造営になりましたが、 円融院のご治世の時には、大工達が、屋根の裏板を大変きれいに鉋がけをして退出して、 その翌朝参ってみますと、昨日鉋をかけた裏板に、何やら煤けて見える所がありましたので、 はしごに登って見てみますと、夜のうちに虫が食って文字の形をしていたということがありました。 その文字は 内裏をいくら造り替えても、また焼けてしまうだろう。 この無実の菅原の胸の痛みの傷口が合わぬ限りは。(授業では棟と棟の隙間が合わない限りは) とありました。それもこの道真がやったのだともっぱら噂するようでした。 こうして、道真は筑紫にいらっしゃったまま、延喜三年二月二十五日に 御年五十九才でなくなられました。 さて、そのあと七年ばかりたって、左大臣時平公は、延喜九年四月四日にお亡くなりになられました。 三十九才でした。大臣の位に十一年いらっしゃいました。本院大臣と申します。 この時平の娘の女御も亡くなられました。 また、孫の春宮も、ご長男の八条大将保忠卿もお亡くなりになられました。 この大将は八条に住んでいらしたので、参内なさる途中が大変遠く、 何を思われたのか、冬は餅の大きいのを一つと、小さいのを二つ焼いて、 焼き石のように体につけてお持ちになっていらっしゃって、 これが冷めてくると、小さいのは一つずつ、大きいのは真ん中から割って、 供人たちに投げて与えられたそうです。大変用意がよろしいことですなあ。 その当時でも、人々が耳にとめ、(珍談だと)思ったからこそ、 この様に今日まで言い伝えられているのでありましょう。 この殿が、病になって、いろいろとご祈祷をなさって、 薬師経の読経を枕元でさせていたところ、祈祷者が 「所謂宮毘羅大将」と声を張り上げたところ、 「私の首をしめるのか」と思ってしまい、その臆病心のゆえ、 そのまま息が絶えてしまわれたのですから、 お経の文句といっても、恐ろしい物の怪に取りつかれている人に、 全く変なふうに読み上げてしまったことですね。 そうなるはずの前世からの約束事とは言いながら、 物事には、ちょうどその時々の言葉の霊力というものが あるものなのでございます。 十回目 もってのほかの悪事を行った罪により、時平の子孫はいらっしゃらないのです。 とはいうものの、世間的な知恵、才覚などはたいそう優れていらっしゃいました。 醍醐天皇は(延喜儀式、延喜式より)世の法式を整えお正しになりましたが、 度を越した贅沢を、どうにもお静めになることができないでいらっしゃったところ、 時平が、禁制を破ったご装束で、とりわけ立派なものを身につけて宮中に参内されて、 帝の前に参上したので、帝が大層機嫌を悪くなさって、 「世間の贅沢に対する禁制の厳しい折に、左大臣で心かで最高位にある身とはいいながら 格別に華美な服装をして参内したのは不愉快だ。早速退出するよう申し伝えよ」 とおっしゃいましたので、時平は大層驚いて、恐れ慎んで言葉を受け止めて、 御随身が先払いをするのもお止めになって、急いで退出なさいましたので、 御前駆の者たちも不思議なことだと思っておりました。 それから、時平は本院の御門を一ヶ月ほど閉じさせ、御簾の外にもお出にならず、 人などが尋ねてきても、「天皇のお咎めが重いので」といってお会いになりませんでした。 それによって、世の中の贅沢はおさまりました。 内々によくお聞きした所では、こうしないと世の中の贅沢はおさまらないだろう、 ということで時平が天皇とお心をお合わせになってなされたことだということです。 時平は、何かおかしいことがあると、我慢することがお出来になりませんでした。 一度笑い始めると大層お乱れになったそうです。 道真と一緒に天下の政治をお執りになっていらっしゃった時、 時平が非道なことをおっしゃったので、相手の方が身分が高いので、 強引になさることをどうして止めようかと考えられて、 「時平公のなさることなので、不都合であるとは思うけれど、どうすることもできまい」 と嘆息なさいましたところ、何某という史が、 「造作もないことです。私が、策をめぐらして、その事を止めさせて見せましょう」 と申したので、「できないであろう。どうやってするのだ」などとおっしゃいましたが、 「とにかくご覧になっていてください」 と言って、時平が座について、厳しく裁定をして、大声を出している時に、 この史が、史刺に書類を挟んで、わざとおおげさに動作をして、 この大臣に渡す時大層たかだかとおならをしましたところ、 時平は、文も取らず、手を震わせて、すぐに笑い出して、 「今日はどうしようもない。右大臣にお任せする」 とすら満足にいえないほどでしたので、 そのおかげで、道真は思い通りに政をなされました。 また、道真が神にお成りになって、大層恐ろしく雷がなり、稲妻が光って、 清涼殿に今にも落ちかかりそうに見えたが、 時平が刀を抜いて、 「あなたは生きている間も私の次の位にいらっしゃっただろう。 仮に今日、神となられても現世では私に遠慮するのが当然だろう。 どうしてそうしないわけがあろうか」 と、空の方をにらんでおっしゃった。 するとそのときはお鎮まりになったと、世間の人は申しておりました。 しかし、それは時平が大層な人物だったからではなく、 天皇の御威光が限りないものであらせるので、 道理と不道理の分別をお示しになったからなのです。 十一回目 伊周も、教養が大変優れていらっしゃったゆえに、このような災い(大宰府流し) もおこってしまったのです。さて、その後式部卿の宮がお生まれになったため、 罪を許されて、お召し還されなさったのでした。 それから、大臣待遇の宣旨をお受けになって、御外出なさる御様子も、 あまり落ち着いているとは思われませんでした。 ずいぶんと見苦しいことは、いろいろと噂されていたようです。 ある日、伊周が参内なさった時、北の陣からお入りになって、 西の方においでになりますと、ちょうど道長も控えている時であったので 梅壷の東の塀の外側に、道長の下人たちが大層多くいたのを、伊周のお供の人々が ひどく追い払ったので、行き場がなくなって梅壷の塀の中にばらばらと入りますのを、 これはどうしたことかと道長はご覧になります。 けしからんとお供の人も見ておりますが、 (伊周に遠慮して)どうにもしようがなかったところ、 何某と言った道長の御随身が、そ知らぬ顔をして、下人たちを荒々しく追い出しましたので、 下人たちは、また戸のへりにそって大層乱暴に出てきましたので、 伊周とお供の人々も今度は追い払いきれなくて、その上伊周は太っていらっしゃったので、 さっさと歩み去ることもできず、登花殿の細殿の小蔀に押しつけられてしまわれて、 「やや」とはおっしゃったものの、狭い所に下人が大変多く払われ、おしかけられたので、 伊周は急に退くこともできず、大変不都合なことでございました。 それは確かに伊周の過失というわけではありませんけど、ただ派手な出歩きや振舞を なさらなければ、このように軽んじられる羽目にはならなかったでしょう。 十二回目 また、道長が御嶽に参上される道の途中、伊周方に不穏な動きがあるようだという 噂があり、いつもより特に警戒されて、無事にお帰りになりました。伊周の方も、 「こういう噂が耳に入っておられる」と人が申しましたので、 たいそういたたまれなくお思いになりましたが、そうはいっても、 そのままで済ましておくわけにはいきませんでしたので、 道長のお宅にご挨拶に参上なさいました。 (当時は高貴な人が長旅から帰ってくると、無事を祝ってその人の家に行く慣習があった) 道長はご参詣の道中の話などなさいますが、 伊周がたいそう気後れしてなさっている様子がはっきりとしていたので それがおかしくもあり、さすがに少し気の毒だとも思われて、 「ながらく双六をいたしませんで、ひどく物足りないので、いっしょにやりましょう」 とおっしゃって、双六の盤をお取り寄せになり、表面を拭ったところ、 伊周の様子がたいそう良くなって見えたので、道長をはじめ参上されていた方々は かわいそうにと思って見ておりました。 あれほどの噂をお聞きになったからには、少しは冷たく扱われるのが当然だと思いますけど、 道長はあくまで情け深い性質のお人ですので、他人が必ず思うことの反対をして、 親しい態度でもてなされている。このお二人の博打は、始まりますと、 お二方とも上半身裸になって、衣服を腰に巻いて、夜半、明け方までもおやりになります。 「伊周殿は、心が幼くあられる人なので、何か不都合なことが起きると困ります」 と、道長の家来は賛成いたしませんでした。 双六の勝負には素晴らしい賭け物がございました。 伊周は古くてなんともいえぬ立派な品々、 道長は新しくて、興趣のあるものを、 それぞれ風雅な体裁にしたてられて、 お互いに取ったり取られたりなさいましたが、 このようなことでも伊周は常に負けつづけ、帰ってしまわれました。 このようにお遊びになっていると、伊周がいろいろと姿勢を変え、 足を差し出したその裏に道長と書かれていたのを 道長が見つけなさって、伊周の足をひどく突かれなさいました。 このような呪詛をしていて、そのように忘れられるでしょうか。 分別のない殿でありますなあ。 十三回目 伊周と同じ母親から生まれ、十七で中納言になったりして、天下の乱暴者といわれた隆家殿の ご幼名は阿古君と申されました。伊周のご騒動のせいで、出雲の権守に左遷され、 但馬にいらっしゃいました。 その後、伊周が許された時、隆家も京に戻られて元の中納言の位に戻られました。 もしくは兵部卿になったとも伝えられていると聞きました。 この方も、大層分別があり、信念をお持ちになっている方と、世間の人に思われておりました。 左遷の結果、多くの人々より低いご身分になり、 あれやこれや不快に思われながら、世の中をぶらぶら歩き回っていた頃、 道長の賀茂参りのお供としてお使えなさっていた時、 身分が低いので、大層後ろの位置にいらっしゃるのを、 道長はお気の毒にお思いになり、ご自分の牛車に乗せられて、 ねんごろにお話をなさいましたが、そのついでに 「昨年のあのこと(伊周、隆家の左遷)は、私が仕組んだと世間では言っております。 あなたもそうお思いでしょう。しかし、そんなことはありませんよ。 宣旨でもないことを、もし一言でも付け加えておりましたら、 どうして今日、こうしてここに参詣できましょうや。天の神もご覧になっておられることでしょう。 大変恐ろしいことですよ」 と、こまやかにおっしゃったので、 「かえって合わせる顔がなく、どうしようもなく思われたよ」 と、後日隆家がおっしゃっていたそうです。 それも、相手が隆家だったから、このように丁寧だったのです。 伊周にはそこまで弁解なさったでしょうか。 隆家は、この用に、やむをえない時だけ出歩きなさって、 昔のように、人々とご交際なさることはありませんでしたが、 あるひ、道長の土御門殿で、ご遊宴がもよおされた時、 「このようなことに、中納言殿がいないのは、やはり物足りないなあ」 とおっしゃられて、わざわざ手紙をお寄こしになりましたが、 その間、杯の数も重なって、人々が酔っ払って、お召し物の紐を解き、 くつろいでいらっしゃる時に、この中納言が参上なさったので、 皆、座りなおしました。すると、道長が 「はやくお召し物の紐を解きなさい、せっかくの興が冷めてしまうから」 とおっしゃったので、かしこまってためらっていらっしゃるのを、 公信の卿が後ろから、「私が解いてあげましょう」 と言って寄っていくと、隆家は機嫌を悪くして、 「隆家は不運な境遇にあるとはいえ、おまえなどにこのようなことをされる身分ではない」 と、荒々しくおっしゃったので、人々は顔色を変えられましたが、中でも今の 民部卿は、呆然として、一座のお顔をあれこれ見渡しながら、 何もできずに、ひどいことだと思われておりました。 道長は笑われて、 「今日はそのような冗談はなしにいたしましょう。私が紐を解いてあげましょう」 と言っておそばに寄られ、紐をはらはらとお解き申し上げたので、 「こうでこそあるべきである」 と機嫌をお直しになって、前に置かれあった杯をお取りになり、 杯を重ねられて、いつもよりお乱れになっていたご様子など 好ましくあられました。道長も、大変ご歓待申し上げなさいました。 十四回目 隆家は、目を患ってしまわれたことが大変残念でございました。 いろいろと治療なさいましたが、いっこうに治らず、また、参内も絶えてきた頃、 大弐に欠員ができ、人々が望み騒いでいたところ、 大宰府に唐人で目を治療する医者がいて、それに見せようと思って、 「治療を試みるために大弐になってみたい」 と、ご請願なされたところ、三条天皇の時代だったので、 また、天皇は気の毒にお思いになられたのでしょう。 一度のお願いですぐに任官なさったのでした。大宰府ご在任中は、 政治をよくなさるので、筑紫の人々がみな従いましたので、 並みの大弐の十人分ぐらいの仕事をなさって、 上京されたということです。九州にいらっしゃった頃は、 刀伊国の賊どもが急にわが国を討ち取ろうと思ったのか、 海を越えて攻めてまいりましたが、この筑紫の大宰府には 以前からの準備が全くなく、 隆家は、弓の本と末も知らない有様でございましたから、 どうしたものかと思し召したものの、 大和心の優れているお人でありましたので、 筑後、肥前、肥後をはじめ九つの国の人達を奮い立たせたことはもちろん、 大宰府の中に仕えている人たちを団結させて闘わせなさいましたので、 相手方の人々は大変多く死にましたよ。 なんといっても、家柄が高くていらっしゃるために、 重大事件を解決された殿なのですよ。 朝廷は当然その効を賞して、大臣にも大納言にも任じられるべきでありましたが、 出仕が絶えておられたので、もとのままでいられたのでしょう。 けれども、隆家は、この武士の中で、主として敵と勇敢に戦ったものの名を記して、 朝廷に奏上なさいましたので、それらのものは皆、恩賞を賜りました。 その中でも、大蔵種材は壱岐守に任ぜられ、その息子は大宰監にさえなられました。 この種材の一族は、藤原純友を討ち取った者の一族です。 この純友は、平将門と心を合わせて相談し、恐ろしいことをたくらんだ者です。 将門は、「帝を討ち取ってやろう」と言い、純友は、 「関白になろう」と言って、同じ心を合わせ、 この世界に自分で政をして、君となって暮らそうということを お互いに約束して、将門は東国で軍勢を用意して、 純友は、西国の海でいくつとなく大筏を数多く集めて、 その筏の上に土を盛って、植木で覆い、沢山の田を作り、そこに住みついて、 一般のいいかげんな軍勢ではびくともしなくなってきたのを、 上手く謀をめぐらして、討ち取ったのは、大した手柄でした。 それは、ただ武将たちが賢かっただけではなく、 朝廷のご威光のあられる限り、どうやってそのような謀反の成功があるかと思いますが。 さて、刀伊の賊は、壱岐、対馬の住民を大層多く捕虜として連れて行きましたが、 新羅の帝が軍勢を派遣なさって、捕虜を取り返されました。 そして、使者をつけて、確かに日本に送られましたので、 新羅の使者には隆家が、黄金三百両を持たせて、お帰しになりました。 今回のことも、大変上手く処理なされましたので、 道長は、やはり隆家を捨てがたい人物だと思われていらしゃるのです。 十五回目 藤原公任が、あの通りに、何事にも優れ、素晴らしくいらっしゃったのを、 兼家は、「どうしてあのように諸芸に優れているのだろうか。 うらやましいことだなあ。我が子達が彼の影さえ踏めそうもないのは残念なことだ」 と、申し上げなさったところ、道隆や道兼は、なるほど、父はそう思っておられるだろうと、 恥ずかしそうなご様子で、物もおっしゃいません。 それなのに、この入道殿は、そのときは大層若くていらっしゃったけれど、 「影を踏まないで、面を踏めるか」とおっしゃったことでした。 本当にそのお言葉通りになっていらっしゃるようです。 公任は、内大臣さえ、近くでは見れないのですよ。 そうなるべき人というのは、若いうちから、魂が強く、 神仏のご加護も強いらしいと思われます。 花山院の時代の5月下旬の闇夜に、五月雨が度を過ぎて激しく降っていて、 まことに仰々しく雨が降った晩、帝は物足りないと思ったのだろうか、 殿上の間にお出ましになられ、管絃の遊びなどをなさっていらっしゃって、 人々が何やらいろいろと話をして、昔の恐ろしかったことを話していると、 帝が、「今夜はひどく気味の悪い感じのする晩だなあ。こんなに大勢人がいてさえ、 不気味な感じがする。まして、遠く離れた人気のない所などはどうだろう。 そのような所にひとりで行けるだろうか」 とおっしゃいました。人は皆、「とても参れないでしょう」と申し上げたのに、 道長だけは「どこへなりとも参りましょう」と申されたので、 そういうところのあられる帝ですので、「まことに面白い。ならば行け。道隆は豊楽院、 道兼は任寿殿の塗篭、道長は大極殿に行け」とおっしゃられたので、 関わりのない君たちは、道長はつまらないことを奏上したものだ、と思っていました。 また一方、勅命をうけたまわられた殿たちお二人は顔色が変わって、 困ったことだ、とお思いになられているのに、道長は全くそういう様子もなく、 「私の従者は連れて行きません。この陣の吉上なり、滝口なり、誰か一人に 『昭慶門まで送れ』とお命じになってください。そこから内へは私一人で参ります」 と申し上げました。すると帝は、「それでは証拠がないではないか」 とおっしゃいましたので、「もっともでございます」と言って、 帝が御手箱に入れていた小刀を願い出て、お出かけになりました。 十六回目 他のお二方も、苦々しい思いで出かけられました。 「子四つ」と申し上げて、それからこういう仰せがあって相談しているうちに、 丑の刻にもなっていたでしょうか。 「道隆は右衛門の陣から出よ、道長は承明門から出よ」 と、道筋まで別々になされたので、三人は勅命の通りお出かけになりました。 中関白殿は、右衛門の陣までは我慢しておられましたが、 宴の松原のあたりで、得体の知れない声が聞こえましたので、 どうしようもなくて、戻ってこられました。 道兼は、露台の外まで震え震えおいでになりましたところ、 任寿殿の東面の棚のあたりに、軒と同じくらい大きな人がいるように見うけられましたので、 何も思われないで、「命があってこそ、帝の命もお受けできましょう」 と言って、それぞれたち帰り、参上なさったところ、 帝は扇をたたいて、お笑いになりましたが、道長がたいそう長くお見えにならないのを、 どうしたのか思われていると、まことに平然と、何もなかったご様子で帰ってこられました。 帝が「どうであった」とお尋ねになりましたところ、 大変落ち着いたご様子で、小刀に削られた物をそろえて差し上げなさいます。 「これはなんだ」と仰せられますと、 「何ももたずに帰って参りましては、証拠がございませんので、 高御座の南側の柱の根元を削って参りました」 と平然とおっしゃいますので、帝もおどろきあきれるばかりでした。 他のお二方のご様子は、なんとしてもやはりなおらず、 道長がこのように帰ってこられたのを、帝をはじめ、人々が感じて、 大騒ぎしていたのをうらやましく思っていらっしゃったのでしょうか、 それともどういう気持ちなのでしょうか、 ものもいわずに控えていらっしゃいました。 帝は、それでもやはり疑わしいと思いになり、 翌朝、「蔵人を行かせて、削り屑を合わせてみろ」 と仰せになりましたので、 持っていって押し当ててごらんになりますと、 全く違いませんでした。その削り跡は大変はっきりしていたそうです。 後の世でも、その跡を見る人は、やはり驚きあきれたことでした。 十七回目 世の中の光でいらっしゃる道長が、一年ほど、物事を不安に思われながらお過ごしになりました。 どのようにこのことを天道はごらんになったのでしょうか。 そうでありながらも、いささか卑屈になったり、がっかりなされたことがありましたでしょうか。 公の仕事ややるべきことでは、身分相応に振舞いましたが、 私的な場では遠慮なさったりはしませんでした。 伊周が、南院で、人々を集めて弓の競射をなさっていた時に、 道長がふらりと現れましたので、これは思いもよらず不思議なことだと 道隆は驚かれて、たいそうもてなしないました。 道長は身分が低かったけれども、先にさせ申し上げ、 まず弓矢を射させたところ、伊周の方が二つ劣っておられた。 道隆や、そばに御仕えしている人々も、 「あと二勝負延ばしなさいませ」と申して決着を引き延ばしなさったので、 道長は心中穏やかでなくなり、 「それなら、お延ばしなさい」 とおっしゃって、また射ようとしておっしゃることには、 「この道長の家から、天皇、皇后がお立ちになるのはずなら、この矢当たれ」 とおっしゃって矢を放たれたところ、同じ当たると言っても、 なんと的の中心に当たったではございませんか。 その次に、伊周が射られたところ、たいそう気後れなさって、 手も震えて、的のあたりにさえ近く寄らず、全く見当違いな所を射られましたので、 道隆は顔が真っ青になってしまわれました。 さらにまた、道長が射られるときに、 「私が将来摂政、関白をするべきならば、この矢当たれ」 とおっしゃって、矢を放たれたところ、最初と同じように、 的が割れるほどに真ん中を射られました。 こうなると、もてなしなさった興も冷めて、 気まずくなってしまいました。道隆は、伊周に、 「どうして射るのか。やめておけ、やめておけ」と静止なされたので、 その場は白けてしまいました。道長は、矢をしまって、すぐにお帰りになられました。 その頃は、左京大夫と申しました。弓がたいそう上手で、また、大変お好きであられました。 おっしゃったことが、今すぐ実現されるものではありませんが、 道長のご様子や、言ったことの趣旨に圧倒されて、 伊周は気後れなさったのでございましょう。 十八回目 詮子は道長だけを特別扱いされて、たいそう可愛がられたので、 伊周は、詮子のことを遠ざけていらっしゃった。 帝が一条の后を、心からご寵愛なさっていたゆかりで、 伊周はいつも帝のそばに使えていらっしゃいました。 そして、入道殿のことは言うまでもなく、詮子のことまでも、 何かにつけてよくないと申し上げるのを、自然と詮子もお気づきになられていたのでございましょう。 まことに不本意なことだと思われておりました。もっともなことです。 このようなわけで、道長が摂関となって、政治を行うということを、 帝はたいそうお渋りになられました。 一条の后が、道隆が亡くなって、世の中の情勢が一変してしまうことを大変に心配されていたので、 道兼にもすぐには関白の宣旨をお下しになりませんでした。 けれども、詮子が、当たり前の兄弟順に従うということをお考えになり、 また、伊周のことをよくなく思われていたので、道長を関白にするのを、 天皇はたいそうお渋りになりましたけれども、 「どうしてそのようなことをお考えになっておっしゃるのですか。 伊周に大臣を先んじられたことだけでも、本当に気の毒でございましたのに。 それは、道隆が勝手にやったことでしたから、陛下もお断りになれなかったのでしょうけれど。 関白の宣旨を道兼にお下しになりながら、道長にお下しになられないとしたら、 道長ガかわいそうと言うより、陛下自身にとってもまことに不都合なことである、 と世間の人も非難申し上げることでしょう」などと、語気強く申し上げられました。 ですから、天皇は面倒だとお思いになったのでしょうか、 そのあとは詮子のところへはお渡りになりませんでした。 そこで詮子は、清涼殿の上の御局においでになり、 天皇に、「こちらへ」とは言わずに、自ら天皇の寝所にお入りになって、 なくなく関白のことについて天皇を説き伏せなさいます。 その日は、道長は上の御局に控えていらっしゃいました。 たいそう長いこと出てこなかったので、胸の締め付けられる思いでいらっしゃいますと、 すこしして、詮子が戸を押し上げて出てこられました。 詮子の顔は紅潮し、涙で濡れて光っていて、口のあたりは喜ばしげに微笑まれて、 「ああ、ようやく宣旨が下りました」とおっしゃられたそうです。 世の中のことは、少しのことでさえ、前世の宿縁で決まるということですから、 ましてや、これほどの大事については、 人がともかくお思いになったことのせいとは言えないけれども、 道長にしては、詮子のことをおろそかにお思いになるでしょうか。 その中にも、一般の道理以上に報いて仕えられました。 ご葬送では、ご遺骨までも首にかけてお務めをなされました。 道隆、道兼が相次いで亡くなられまして、 道長に天下の実権が移った時には、本当に胸が潰れるほど驚いたものでした。 ずっと古い時代のことは存じませんが、私が物心ついてからは、 こういうことはございませんでした。 このような強運に圧倒されて、 御兄達はなすすべもなく滅びられたのでした。 後書き 今回、途中にやった参考資料の和訳はしてません。 めんどくさかったし、やる必要がないものだったからです。 三学期は多分もうやらないと思います。源氏物語ですし。