1.イエス・キリストは本当に処女マリアから生まれたのですか?
まず、旧約聖書には救い主は処女から生まれることが預言されてあります。
『そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」』
(イザヤ書 7章13−14節)
と書かれています。
マリアは処女であったかどうかですが、当時婚約者のヨセフがいて、結婚するまでは共に清く生活していましたので処女でしょう。
次にマリアはヨセフに「御使いからのお告げがあって聖霊によって身ごもりました。」とヨセフが聞いたらどう判断するでしょうか?
普通に考えると聖霊によって子供が産まれるはずがない、他の男性との子供じゃないかと判断するのが普通でしょう。もしマリアが他の男性と交渉があって身ごもったとしたら、当時のユダヤ社会ではそのような女性とは離縁しても別に良かったわけで、ヨセフはマリアを離縁して、また他の女性と結婚しても良かったはずです。ユダヤ社会からのさらしものになるはずのマリアをヨセフは無理に結婚する必要は無いと思います。そのようなマリアと結婚しても共に軽蔑の目で見られながら結婚生活をおくるのですから何のメリットも無いはずです。別にマリアの苦しみをヨセフが背負い込む必要はないはずです。
ヨセフがマリアの苦しみを背負ってでも結婚しようとしたのは、マリアの告白は真実であり、またヨセフにも主の使いから
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ばれる。」(マタイの福音書 1章23節)
とのお告げがあり、ヨセフ自身がそのお告げを信じてマリアを妻として迎え入れたのです。
2.新約聖書にはイエス・キリストのおこなった奇蹟が多く書かれていますが、本当のことですか?
確かに新約聖書にはイエス・キリストのおこなった奇蹟が多く書かれていますが、それはイエス・キリストが神の御子であり、旧約聖書で預言されている救い主であることを示すため、盲人の目を開け、足の萎えている人を立たせ、病人を癒し、死人を生き返らせ、旧約聖書の救い主に関する預言が、イエス・キリストにより成就されました。これらの奇蹟をおこなうことにより、イスラエルの民がイエス・キリストを神の御子、救い主と認めさせるためでした。
このことが事実かどうかは、イエス・キリストが天に昇られた後に新約聖書が書き始められていますから、その時代に生きていた人たちが目撃していますので読んで事実でないならとうに無くなる書物でしょう。しかし、約2000年もの間この新約聖書が保ち続けているのは、この新約聖書は事実であり、またイエス・キリストのおこなわれた奇蹟も事実なのです。
3.なぜイエス・キリストは十字架にかかったのですか?
当時、十字架刑は最高の処刑でありました。ということは、イエス・キリストは何か重大な犯罪を犯したのでしょうか?
イエス・キリストを嫌うイスラエルの指導者たちは、「自分は神の子、ユダヤ人の王」だとするイエス・キリストの主張に憤りを感じました。「自分を神」とするこは神を冒涜することだと、十字架にかけるよう当時のローマの総督ピラトに願いましたが、ピラトは「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。」(ルカによる福音書 23章15節)の言葉どおり、十字架にかかるような罪を犯してませんでしたが、民衆が十字架にかけろと要求したため、ピラトは仕方なくイエス・キリストを指導者たちに引き渡し、十字架にかけました。
しかし、このことは旧約聖書において預言されていたことです。イザヤ書53章には、
「まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼(イエス・キリスト)は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちのとがのために砕かれた。
彼(イエス・キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(4〜5節)
この聖書箇所は、彼=イエス・キリストを示しています。イエス・キリストは私たちの病=罪の為に、十字架にかかり、苦しみを受け、死なれることを預言しています。
本当の理由は、私たちの罪のためなのです。
4.なぜ私たちの罪のために十字架にかかったのですか?
この天地万物を創造した神様は、私たち人間を愛の対象として造られました。しかし、アダムとエバが食べてはいけないと言われた木の実を食べ、罪を犯して以来、その罪の性質が今の私たちにもあるのです。私たち人間は罪人なのです。神様は愛のある方ですが、同時に聖であり、義なる方なのです。少しばかりの罪も見逃すことができません。だからこのままでは、私たち人間は死後、その罪により裁かれて地獄に行くことになるのです。その裁きは永遠です。これでは神様の愛と義の性質を満足できません。
ヨハネによる福音書 3章16節には、
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(人間)を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
と書かれています。神の最愛なる御子(ひとり子)であるイエス・キリストを、この世(人間)に遣わし、私たちの罪のなだめ物として、十字架にかけ、死に渡されました。
しかし、イエス・キリスト御自身は死んで三日目によみがえられました。御自身が神の御子であり、私たち人間の罪の救い主であることを示して下さいました。。私たちクリスチャンはイエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって、罪の赦しと天国に行ける約束を得ているのです。
これを読んでいる方がまだイエス・キリストを信じていないのなら早く信じられるようお勧めします。
5.本当にイエス・キリストはよみがえったのですか?
イエス・キリストは様々な奇蹟をおこなったと聖書には書かれていていますが、その中でも最大かつ重要な奇蹟は、イエス・キリストの復活です。
イエス・キリストが十字架にかかって死んだという記事は、聖書のみならずほとんど全ての百科事典にはっきり書かれていることです。歴史上の事実です。しかし、復活の記事についてはあいまいな記述が多く明言を避けている書物が多いようです。
では本当にイエス・キリストが本当によみがえったのでしょうか?それには、まず2つの事実があることを知って下さい。それは、イエス・キリストの遺体を納めた墓が空になっていること、復活したイエス・キリストが500人以上の者たちに同時に現れたことです。
まず、イエス・キリストを納めた墓が空になっていることについてですが、イエス・キリストは御自身が死んで3日目によみがえると言っていたことを弟子たちだけでなく、イスラエルの指導者たちも知っていました。
弟子たちがイエス・キリストの遺体を盗んでいたらどうでしょう?
イスラエルの指導者たちは「イエス・キリストはよみがえった」と言いふらさないように、墓にローマの番兵をおき、昼夜と墓を監視させました。しかし弟子たちはイエス・キリストが処刑されたことに失望し、次は自分も危ないと誰も表にでることもなく、隠れていました。イエス・キリストの遺体を盗み出す勇気もありませんでした。盗みにいっても捕まるだけです。例えイエス・キリストの遺体を無事に盗み出して「イエス・キリストは復活した。救い主だ。本当の神だ。」と言ったところで、後にイスラエルの指導者たちが彼らを捕まえ「イエス・キリストが復活したというデタラメを言いふらすとおまえたちも十字架だ。」と宣告されたらどうでしょう? 本当は復活していないのに、ウソを言い広めて、そのウソのために自ら死を選ぶことができるでしょうか?絶対にそんなことは出来ません。人間はウソのために命を捨てることは出来ません。ですから、きっと弟子たちも「あれはウソです。命だけは助けて下さい。」と命ごいをするでしょう。だから、弟子たちはイエス・キリストの遺体を盗んでいません。
イスラエルの指導者たちが盗んでいたらどうなるでしょう?
弟子たちが墓を見て空っぽになったのを知り、「イエス・キリストは復活した。救い主だ。本当の神だ。」と言いふらすと、指導者たちは「おまえたちの言いふらしている、イエス・キリストはここにいる」と遺体を持ってくれば、弟子たちの証言はウソであり、その後の弟子たちの活動は止まり、この世にクリスチャンと呼ばれるものは存在しなかったでしょう。
以上のことから、弟子たちやイスラエルの指導者たちが盗んだのではないことが分かります。
次に500人以上の者が復活したイエス・キリストを見たということですが、彼らは幻覚を見たのでしょうか?もし幻覚を見たとしたら、500人以上者たちが同時に同じ幻覚を見たのでしょうか?まるで、映画館で映画を見るように同時に同じ幻覚を見たのでしょうか?復活から昇天までの40日間だけ幻覚を見たのでしょうか?希望を持ってそれを幻覚として見る人はいるでしょう。しかし、同じ幻覚を見る可能性はあるでしょうか?イエス・キリストが処刑され、弟子たちに失望しかない状態で幻覚を見て「イエス・キリストは復活した」と希望のある、命がけの証言できるでしょうか?弟子たちが命がけでイエス・キリストをのべ伝えるには幻覚以上の「事実=復活」があるのではないでしょうか?