サンゴ礁に囲まれたぱいぬ(南)の島々
 
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リゾートホテルのビーチ 小雨ふる初秋の東京の朝は肌寒く、長袖のシャツにジャンパー姿で出発した。那覇空港に着いたときはこの服装では暑く空港ロビーでTシャツに着替えた。今回、沖縄は八重山諸島の石垣島、竹富島、与那国島に行くことにしていたが、沖縄訪問はこれで三回目となる。最初に訪れたのは、1972年の本土復帰の二年前のまだアメリカ施政権下にあった頃で、内閣総理大臣が発行した身分証明書と琉球列島米国民政府が発給した入域許可証を必要とされていた。予防接種も種痘を受けることが要求されていた。現地の通貨は当然ドルであったが、そのドルの持出しも千ドルまでと、今の時代では考えられないほどの様々な制限があった。次に訪れたのは本土復帰後の1974年であるが、その頃に比べると那覇は本土の都会と少しも変らない大都会となり、石垣島などは本土系のホテルや洒落たリゾートホテルが出来、当時の素朴な島からマリンレジャーを中心としたリゾート地域に変貌していた。しかし、サンゴ礁に囲まれた島の自然は変らない。年間の平均気温23.3度、冬でも平均18.3度という、亜熱帯性気候と海洋性気候を併せ持つ島の自然の中で、野生生物がくらし、手つかずの多くの自然が残されている。年間300万人もの観光客の訪れる地域であるが米国テロ事件の影響で観光客や修学旅行のキャンセルが相次ぎ、観光産業が大きな割合を占める沖縄経済にとって、今後どうなるかといった不安が連日、新聞、テレビ等で報じられていた。
  
石垣島
花と緑とサンゴ礁に包まれた島
ヤシガニ 二時間ほど飛行機待ちをして那覇空港を飛び立ち石垣島に向かった。八重山諸島の最南端から北海道の最北端にいたるまで日本列島の住民の歴史、生産文化の基層に多大なる影響を与えてきたのが眼下に広がる黒潮で、この巨大な流れは奄美大島あたりで二つに別れ本土を包み込んで行く。石垣島は、沖縄本島から南西に約430Kmの東シナ海上にあり,大小16の島々からなる八重山群島の中心となる島で、八重山諸島の人口の八割にあたる四万7千人がこの島に集中している。沖縄本島、西表島に次ぐ3番目の大きな島だけあって、島の周囲の海岸線は約120Kmある。サンゴ礁に囲まれた中は外洋の色とはまったく異なる翡翠色の美しい海で、ダイビング、ウインドサーフィン、ジェットスキー、釣り、クルージングなどさまざまなマリンスポーツのパラダイスとなっている。北部の吹通川や南部の宮良川の河口の泥地には水中に奇妙な根を張るマングローブ(ヒルギ)の群落があり、北部の米原には高さ20mにも達するヤエヤマヤシの自生地がある。森の中に一歩入ればまさにジャングルだ。トカゲが多く、ハブも出てきそうな森だ。このあたりでは10月頃になると産卵のためか、ヤシガニが海岸に下りてくるので、それを掴まえ料理している。掴まえるにしても下手すると指などは砕かれてしまうので、かなり危険な捕獲だ。料理はヤシガニの肛門をちぎって腸を引きずり出し、ボイルして味噌で味付けして食べるそうだが、ボイルした時、赤くならないヤシガニは毒を持っているので食べないという。
 
赤瓦の美しさ
 石垣島は今次大戦、ほとんど戦火を見なかっただけに、古い文化財や自然の美しさが、そのままの姿で残されている。変化に富んだ海岸線、緑濃い山並み、昔ながらの赤瓦の屋根の民家など沖縄本島では味わえない美しさがある。ただ最近の家はコンクリートが多くなっている。赤瓦の家はコストが高く、職人も減っていて、コンクリートの家のほうが台風にも強いのであまり造られないのが現状だ。石垣港から歩いて15分ほどのところに1819年創建の琉球王朝時代からの原形を留めた士族屋敷の宮良殿内(みやらどぅぬず)がある。沖縄本島では戦火のため壊滅したため、沖縄で唯一、ここだけに残されている。石積みの塀がめぐらされ、塀と六十坪ほどの家屋は琉球瓦で葺かれ、何とも言えない美しさを感じさせる。庭は中国風に見えるが日本の枯山水の方式で造られているという。
 
石垣島にもあった震洋艇格納壕
 先の戦争末期に日本軍は人間を爆弾装置に置き換えた特攻兵器を開発し、瀬戸内海の大津島、奄美諸島の加計呂麻島、伊豆七島の八丈島などに基地を作ったが、ここ石垣島にも潜水艦から出撃する特殊潜航艇「甲標的」、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」の三種が配備された。島の南部の宮良には隊員184名、震洋艇52隻を備えた第23震洋隊幕田隊があったという。そのためここだけが石垣島の中で空襲を受けたらしい。
  
ハブの多い島
ハブ  今回、泊まるホテルはよく調べず、旅行社任せにしてしまったので、石垣島に到着して始めてホテルが島の北の外れにある底地ビーチだということが分かった。バスで1時間30分かかり、しかもバスの本数は少ない。市街地をベースに動こうと考えていたので大失敗だ。車だと20分ほどなのでタクシーで行くことにした。三日間同じタクシーの運転手さんに石垣港付近とホテルを往復してもらったが、お蔭でハブに関する興味深い話を聞くことができた。この島はハブが非常に多く棲息している。むやみに木の穴に手を入れたり、石垣に手を入れたりすると危険だという。昼間はあまり心配ないが夜になるとゾロゾロ出てくるそうだ。同じことをホテルの人からも言われ、砂地は心配ないが草木のあるところは夜出歩かないほうがよいと言われた。ハブは大きいものになると2mを越え、沖縄本島の玉泉洞王国村にあるハブ博物公園には2m1pもある、現存する世界最大のハブを見た。ハブは島ごとに種類が異なり、気の荒さ、すばやさ、毒性、色、大きさなどが違う。奄美大島や徳之島のハブは気が荒くすばやいため被害も多い。沖縄本島は動作がのろいヒメハブが中心で、石垣島などの八重山諸島はサキシマハブが中心で毒性が弱い(但し、10月13日の八重山毎日新聞には全く反対のことが書かれ、猛毒を持つとあった)ので咬症部を切り開き、口で毒を吸い出し、口をゆすいで、傷口から身体の中心部に近い方を手拭などで縛り病院へ行くという。診療所で血清を打つが、血清の方が強いことがあり、ショック死をすることもあるので血清を打たないで治療することもあるそうだ。昔の家屋の場合は床下の隙間からも入ってきたので、子供が寝ている間に寝返りを打ち、カヤの外に足を投げ出したときに咬まれたこともあったという。
 砂糖きび畑などで農作業をしている時にハブを見つけたら必ず殺すという。ハブは必ず同じ場所に戻る習性があるので、取り逃がした場合は危険なのでその日はもう作業をやらないそうだ。
  
竹富島、与那国島にもいるハブ
ハブに注意 運転手さんから道を歩く時は真ん中を歩くようにしたほうが良い、暑くても木陰で休まないほうが良い、山道を歩く時は三番目の人が危ないとか色々脅かされた。また観光地のやぶの辺りには必ず「ハブに注意」の看板が出ていた。しかし、これから行く竹富島と与那国島にはハブはいないと言われたのでそちらの島では安心して、一人で様々な場所を訪れた。しかし、同上の八重山毎日新聞には次ぎのような内容が書かれていた。
 「10月1日から31日までハブ咬症防止運動が展開されている。沖縄県内では毎年百五十人前後の咬症患者が発生し、患者の中には後遺症に悩まされる例も多く、日常生活、農業などの生産活動や観光産業にも影響を及ぼしている。ハブの種類は、沖縄本島が、ヒメハブであるのに対し、八重山は猛毒を持つサキシマハブのみで、昨年、石垣島23人、竹富島11人、与那国島2人がハブ咬症の被害に遭っている」
  
川平湾の黒蝶真珠
川平湾 石垣島の中でも特に美しい場所といわれているのが北部にある川平湾一帯で、湾内に散在する小島と、エメラルドグリーンに輝くサンゴ礁の海のコントラストは素晴らしい。約250種類のサンゴ群の中で色鮮やかな熱帯魚がたわむれているのをグラスボートから覗くことができる。世界で最も美しいサンゴとも言われているが、この美しさも毎年やって来る台風のお蔭でサンゴ礁に堆積したさまざまなカスが押し流され、その美しさが保たれているという。この美しいサンゴ礁の湾内で黒蝶真珠の養殖が行われている。天然の黒蝶真珠は40万個の母貝に1個の割合でしか発見されないため、「幻の真珠」と言われていたが、1968年に、ここ川平湾で琉球真珠株式会社の渡嘉敷 進会長が世界で初めて養殖に成功した。
 
唐人墓
唐人墓 石垣港から海岸沿いに西へ4Kmほど行ったところに、わずか2Km先に竹富島が見える公園がある。この園内に唐人墓がある。1852年、アモイで集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船(ロバート・バウン号)でカリフォルニアに送られる途次、船中で辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなど、あまりの虐待に耐えかね、苦力たちは暴動を起こした。船長ら七人を撲殺し、船を台湾に向けたが、この沖で座礁したため三百八十人が石垣島に上陸した。石垣島の人は中国人を手厚くもてなしたが、しかし米英の兵船が来島し、苦力たちは追手の兵隊により銃撃され殺されるか、逮捕されるといった惨憺たる状況となった(ロバート・バウン号事件)。このときの犠牲者の御霊を祀るため、1971年に石垣市の補助、中華民国の支援などにより墓石が建設された。苦力たちは、十六世紀以降世界各地に多数送り出されたが、十九世紀半ば、奴隷解放運動のために黒人奴隷を使えなくなった先進国が、新たな労働力を中国に求めていった。人権が無視された時代を象徴する慰霊碑だ。
  
竹富島
魔除けの「シーサー」と「石敢當」
屋根の上のシーサー  石垣港から近辺の島へ行く船が出ている。星の砂で有名な竹富島、手つかずの自然の残る西表島、NHKの朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」で一躍有名になった小浜島、ウミガメの産卵地として有名な黒島、日本の最南端の有人島である波照間島などの島に行く船が出ているが、竹富島まで10分ほどで着くのでそこへ行くことにした。
 この島は周囲9.2Km,面積5.4平方Kmの山も川もない平坦な島で、お盆のような島とも、箱庭のような島とも言われている。石垣に囲まれた赤瓦の家並みが美しい。そして赤瓦の屋根の上には魔除け獅子の「シーサー」が鎮座している。琉球の時代は中国との交流が盛んであったのでこのような習慣が入ってきたと言われているが、沖縄に来るとよく見かけるもう一つの魔除けがある。石敢當(いしがんとう)の文字の刻まれた石で、T字路の突き当たりなどでよく見かける。これも中国の英雄の名前からとった魔除けの石と聞いた。それもT字路しかないのが面白い、こちらの邪悪な悪霊は一方通行のようである。
 
八重山方言
水牛車による観光  竹富島や石垣島、西表島などで話されている八重山方言は、日本語の母語という説がある。しかし、島の人の会話を聞いてもちんぷんかんぷんでまるきり理解できない。しかも島が違うとまた言葉が違ってくる。そのため共通語(標準語)教育は、戦前はかなり厳しく、「方言撲滅運動」なども行われ、国家主義による方言の抑圧などとの論議もあった。がしかし、これが離島間の人々のコミュニケーションに役立ってきた。以前、台湾の高砂族の部落に行ったが、そこでも同様のことを聞いた。高砂族は9種族ぐらいあり、種族が異なると言語が違うので、そのコミュニケーションの手段として日本の植民地時代に教育された日本語が役立っていた。現在の沖縄は悲しいことに、方言の話せない若い人が増えているという。
 自転車で簡単に周れる島であるが、ゆっくりと進む水牛車に乗り、ガイドのおじさんによる竹富島の歴史を聞きながら見学するのもよい。
 
マラリヤのなかった島
 隆起サンゴ礁の砂地にすぎない竹富島には古来多くの人が住み、総督府(蔵元)が置かれ、八重山諸島全体を支配してきた。となりに大きな石垣島や西表島があるにもかかわらずちっぽけな竹富島に蔵元が置かれ、政治の中心となっていたのは、この島の最大の歴史上の人物である西塘(にしとう)がこの小さな島の出身であったので、ここに蔵元を置いたという見方と、八重山諸島はマラリヤなどの風土病で苦しめられたがここ竹富島だけはその心配がなかったからという説もある。
 
安里屋ユンタ
 古い史跡や由緒ある民俗芸能も豊富で、沖縄の代表的な民謡「安里屋ユンタ」はここの民謡だが、全国的に流行した歌は古調のユンタが発展して、さらに近代風に編曲され昭和九年に誕生したものだ。歌われる美女クヤマの生誕の地がこの島にある。本土の江戸時代のころになると八重山諸島の支配は竹富島から石垣島に移り、石垣島から、役人が竹富島の役所に赴任してくる。役人はたいてい妻子を置いてくるので、身の回りの世話をする婦人を必要とした。まさに任期限りの妾といっていい。赴任してきた役人は美少女だった安里屋のクヤマを所望した。ところがクヤマはその役人に対して肘鉄砲をくらわした。これが島中から喝采され、民謡として残った。しかしこの話には続きがある。クヤマはこの役人の上役ならよいと言ったので、そのクヤマの態度に納得できない八重山の人たちは、役人もその上役も嫌、島の男が好い、と改作した。
  
出店しないマクドナルド
人口僅か278人(2000年12月現在)だが、住民票を移さずに住みついている人も多いと聞く。これは石垣島や本島でも同じことで、石垣島の2001年10月の人口が約4万7千人で、住民票を移さずに住んでいる人が約八千人もいるという。3DKの鉄筋アパートで二万五千円〜三万円ほどで借りることが出来、一年中温かいので衣料費はあまりかからず、収入はそれほど無くとも生活できるので、素晴らしい自然環境が気に入り住みついてしまったのであろうか。竹富島にはないが石垣島には本土と同様、お馴染のファーストフードがたくさん出店している。しかし、マクドナルドは出店してない。これはマクドナルドが、人口五万人以下の市には店舗を出さない方針だからだそうだ。この幽霊住民をカウントしてくれないかなと島の若い娘が言っていた。
  
与那国島
日本最西端にある国境の島
荒々しい島の断崖  石垣島から127Km、台湾から125Kmの位置にあり、島のほとんどが断崖に囲まれ、荒波が打ち寄せる絶海の孤島。古くは女護ヶ島の噂の高い島の一つで、船が着くと、島の乙女たちは波多浜(なんたはま)に、めいめいが手製のアダン葉の草履をならべておき、持主の草履をはいた男性を恋人とも夫ともして、滞在するあいだじゅう、まめまめしくサービスしたという(当然、男の身勝手な理想が作り上げた伝説で、青ヶ島など日本各地にある)。周囲は約27Kmあり、起伏に富んだ地形は多彩な表情を見せる。牧草地帯も多く、天然記念物の与那国馬や牛がのんびりと優雅に草を食んでいる。与那国馬は与那国島において独特の発達をした純粋の在来馬で、おとなしく人に馴れやすい。高さ120cmほどと小さめであるが強健で持久力に富み、粗食に耐えるという。
 翅を広げると18〜24cmもある世界最大の蛾ヨナグニサンの生息する島でもあり、保護地区になっている。また年中、巨大カジキマグロの捕れる島としても知られている。波照間島が有人の日本最南端の島とすると、与那国島は有人の日本最西端の島となる。
 石垣空港から日本トランスオーシャン航空の130人乗りのジェット機が1日2便運航しており、30分ほどで着くことができるが、1972年に石垣島に行った頃は南西航空のDHC・6型という20人乗りの機種であった。与那国島周辺は風が強く、天候も変り易いので欠航することが多く、その当時、石垣島で知り合った友人は毎日、与那国島行きの飛行機が今日、飛ぶかどうか確認に行き、そのうち石垣空港の職員からお茶まで出してくれるほどの間柄になったと聞いた。それほど欠航が多かったわけだ。1987年からはYS11機に変り、1999年から現在のジェット機が就航するようになり欠航も少なくなった。
 
浦野墓地群
門中墓 この島の周囲は約27Kmとけっこう距離があるのでスクーターを借りて周ることにした。最初に行ったところは島の中心地となる祖納(そない)集落の北から東にかけて、高麗芝が広がる中にトーチカのような門中墓が延々と続く浦野墓地群だ。こちらでは死者が出ると海に面した岩壁の自然の横穴におさめる風葬であったが、それが中国の福建省あたりの習俗が影響して亀甲型の堅牢な墓を造るようになった。人体の腹部に似ているので、人が墓に入るのは、母胎から生まれた人間が母胎に帰るようで、フロイドの精神分析を想像させる。このような墓は琉球諸島だけでなく台湾でも見ることが出来る。墓は堅牢に出来ているので、沖縄戦のときはそれが住民の避難壕となり、かれらを艦砲射撃から守ったという。海風の吹き渡る丘の緑の高麗芝が敷き詰められた一帯では牛たちがのんびりと草を食んでいた。大小さまざまな墓を後にしてティンダハナタに向かう。
  
ティンダハナタ
ティンダハナタ  祖納の南西にそそり立つ標高100mほどの丘で、登り道の右側は崖で、眼下に祖納部落が一望できる。さらに昇って行くと巨大な大岩が垂れ下がり、天然の庇のようになっているところに出る。ここは伝説の女酋長サンアイ・イソバが島を治めた拠点で、中央台地(ティンダハナタ)という。今は島の人々にとって憩いの場となっている。
 与那国島は十五世紀いっぱいまで、他の影響を受けることの無かった社会であったらしい。このことは朝鮮の済州島の漁民が与那国島に漂着し(1477年)、後に朝鮮に戻ったかれらが書き残した『成宗大王実録』のなかで伺うことができる。済州島の漁民の見た与那国島は鉄器の普及も十分でなかった社会であったが、その二十年後ぐらいに女酋長サンアイ・イソバの名前が歴史上に登場し、島民を指示して琉球王府の軍隊を撃退したという。宿泊していた旅館のそばに与那国民俗資料館があり、そこでたまたま『与那国の歴史』(池間栄三著)を買った。この本によると与那国島が琉球中山王の支配下に置かれたのは1510年で、それまでの土着民は独立自守の自由な生活を営んでいたらしい。サンアイ・イソバは琉球王府軍を撃退したが、十年後には琉球の支配下に入っていったということになるが、このサンアイ・イソバは巨体で剛力の持主で、呪術力を持った巫女のような立場であったらしい。邪馬台国の卑弥呼を彷彿させる話だ。
  
人頭税時代
 島の中央部と西側に人頭税時代の悲惨な歴史を今にとどめる地、トゥング(人升田)とクバラバリ(久部良割)がある。琉球王府が1609年に薩摩に敗れてからは、それまで独立国として富み栄えてきた琉球は日本の幕藩体制に組み込まれていく。琉球王府は島津に年貢を納めなければならない立場となり、王府は農民への収奪を強めざるを得なくなった。それまでは全村ごとの石高に一定の税率を掛けて徴税する方式であったが、これだと台風や干ばつ、大雨に見舞われることの多かった宮古島や八重山諸島では決められた額の年貢が徴収できず、琉球王府は薩摩から厳しく咎められた。そこで考え出されたのが人頭税で、男女とも15歳以上50歳まで、身長が約1.4mの人頭税石の高さになると課税するようにした。これは障害者にも一律に課せられた。一人当たりに換算すると、男は米一石八升、女は上布など五反を納税しなければならなかった。その義務を果たすのに、朝から夜中まで働いても納期に間に合わなかったと伝えられている。人間の姿に似た人頭税石は今でも宮古島の平良港から歩いて10分ほどのところで見ることが出来る。信じがたいことに、この過酷な税制は、一部免税が行われたが明治三十六年(1903)の地租条例の発布まで続いた。この当時の明治政府は国家として基盤整備の時期であったせいなのであろうか、離島のことなど顧慮だにしない行政の史実が時々ある。流人の歴史を持つ離島が幾つかあるが、八丈島の場合、流人全員が赦免され、流罪史に終止符が打たれたのは、明治14年(1881)のことであった。
 
トゥング田(人升田)とクブラバリ(久部良割)
クラブバリ一帯 現在の与那国島の人口は44,537人(平成12年6月末)であるが、過酷な人頭税に苦しめられていた時代、与那国島ではやむなく人減らしを行っていた哀しい歴史がある。島の中央にあるトゥング田では、その昔、村々から満15歳以上満50歳までの男子をこの田に非常召集し、遅れてその中に入れなかった不具廃疾者や老人は惨殺され、弱い者は淘汰されていったと伝えられている。また島の西に、断崖絶壁の上部に美しい芝生で覆われたクブラバリという風光明媚な景勝地があるが、ここでは人口制限のため、村々の妊婦を集めて岩の割れ目(長さ15m、深さ7m、幅3.5m)を跳ばせた。妊婦たちは必死の思いで跳んだが、多くは転落死したり、流産したと伝えられている。このようにして納税者と収穫量との均等を保っていたらしい。
 
海底遺跡
 島の南部にあたる新川鼻周辺の海底で、昭和61年(1986)に巨大構造物跡が地元のダイバーによって発見された。段々畑のような階段状になった巨大な壁が高さ25m、幅は東西に100mに渡って海底にそそり立っているそうだ。石質は砂岩で、水深は頂上で約3〜5m、最大水深25m、透明度は高いが周辺海域の潮流は早いので、見学するにはインストラクターと一緒にダイビングするか、グラスボートで眺めることになる。現時点では遺跡であるかどうかはっきりした断定がされてないが、自然に出来たとは考えられないことから内外の学者に研究が進められている。また与那国島と県による海底遺跡発掘調査計画の話も持ち上がっている。地殻変動により古代文明が海底に眠ってしまったなどの説や、「ムー大陸説」など、夢とロマンをかきたてる話だ。

 灼熱の太陽、澄んだ海と青空にすっぽり包み込まれた緑の島の明るさの中にいると、この島に哀しい歴史があったことなど微塵も感じさせられることなどない。島の東には黒潮の荒海が創りあげた垂直に切り立ったサンニヌ台という断崖があり、この一角には軍艦岩と呼ばれる巨大岩礁がある。ここから少し南へ行くと立神岩と呼ばれる、海面から空に向かって垂直にそそり立っている奇岩がある。この島のほとんどの周囲は男性的な迫力ある断崖絶壁で囲まれているが、島の東端の岬一帯は全体が牧草地となっていて、与那国馬がのんびりと草を食んでいた。ただ馬糞だらけなので歩くのには困った。
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