| ■鷹島・黒島 |
| 離島物産品販売コーナー |
| 商売上手な松浦鉄道 生月(いきつき)、平戸を回り、今回の目的地、鷹島へ向かう。松浦鉄道でたぴら平戸口から今福駅に行き、そこから今福港に行き、鷹島へ行く予定にしていた。たぴら平戸口駅は日本最西端の駅ということで、観光スポットにもなっているらしいが、ここでジーゼル車を待っている間に、ここの駅長さん、石橋さんと仲良くなり、鷹島港へ行くのであれば、今福駅より鷹島口で降りたほうが良いと言われる。駅長といっても、一人しかいませんが、駅の業務だけでなく、観光案内、清掃でもなんでもやっています。どんな仕事でも大変なことだが、もし駅に勤めることがあれば、都会の駅よりこのような駅で仕事をするほうが自分にあっているなあと思いながら、よもやま話をする。せっかくここまで来たのだから証明書をだしましょう、と言われ、お願いすると「日本最西端の駅訪問証明書」となるものをたぴら平戸口駅長 石橋達也の名前で発行してくれた。そして200円とられた。最初に降りる予定にしていた今福駅でも、松浦鉄道には大学駅という名もあるので、今福駅から大学駅行きの切符をお守り袋入りで1,320円で販売していた。大学駅では、「大学駅」の入場券をラッキーセブンの7枚セットのお守り袋入りで、1,120円で販売している。松浦鉄道は第三セクター方式であるが、路線に学校が沢山あるので赤字路線でないと言う。そうでなくてもさもありなんと思った。 |
| 日本全国の船の時刻表が入手できるようになる 鷹島口駅に着き、船は午後1時30分を予定していたのであるが、今、すぐ出るフェリーがあるというので、まさに出港間際の船に飛び乗る。予定ではこの船は、午前10時55分の出港なので間に合わないと思っていたのだが、出港が少し遅れ、乗船が可能となったわけである。毎回、船の出港時間表は、手に入らないことが多いので直接船舶会社に問い合わせをしているが、もっと上手く入手出来る方法はないものだろうかと思っていたら、たぴら平戸口の石橋駅長さんは、日本船舶協会のホームページで、日本全国の船の発着時間表が入手できると言っていた。さっそくインターネットでやってみたが、しかし、いまだに探せないでいる(その後、友人のI君が探してくれた日刊海事通信社のホーム・ページで、日本全国の船の時刻表が入手できるようになった)。 |
休館日の歴史民族資料館を開けてくれる 船は40分ほどで、殿之浦港に着き、そこからバスで15分ほどゆられ、阿翁浦港に着く。事前に電話で予約を入れておいた宮崎旅館はバス停のすぐそばにあった。島に五軒ある宿泊施設の一つであるが、旅館というよりむしろ民宿に近い。明日は雨が降るとの予報であったので、今日はさっそく釣をやってみることにした。宮崎旅館のすぐそばに釣道具屋さんがあったので、そこでオキアミとコマセを買い、付近の防波堤でやってみた。どうしてだかここのところ何も釣れない。案の定、今日も小さなメジナ一匹である。雨が降ってきたので中断し、道具を片付け、旅館に置いて、バスで歴史民族資料館へ行ったが、あいにく今日は休館日であった。しかし、担当の女の子は、私が遠くから来たと知ると開館してくれた。このような事は、地方、特に離島や辺鄙な地域に行くと、いつもこのように対応してくれる。都会の大きな博物館や美術館では決められた通りにやらざるを得ないであろうが、このように決してお役所仕事にならず、親切に対応してくれたことに感謝するとともに嬉しい気持ちにさせてくれる。 |
| 神風はここで吹く ここ鷹島は、元寇終焉の地として名高く、東西5Km,南北13Km,島民3,200人だが、自然の美しさと元寇の歴史のロマンを感じさせる以外は何も無い島だ。弘安四年(1281年)7月30日の夜、本格的な日本侵攻を前に、鷹島沖に集結した総勢約4,400隻の船と、14万人と言われる元軍の大半が、にわかに起こった大暴風雨により艦船の大部分は沈没してしまった。世にいう「神風」が吹いたわけだ。そして700年後の昭和55年(1980年)、鷹島は文部省の特定研究の「水中考古学による遺跡、遺物の発見と調査・保存の研究」三ヵ年計画の対象に選ばれ、沈没船の遺物調査と引き上げ作業により元軍が携えてきた陶磁器や石弾、あるいは青銅製の印鑑(管軍総把印)など数多くの元寇遺物が発見され、歴史的事実が実際の遺物で見ることが出来るようになったわけである。この研究は考古学・日本史学・電子工学・海洋学など様々な学問領域の研究者により行われている。海底に埋もれている遺物を調査するため、電子工学の粋を集めた探査機器が投入され、ダイバーが潜って遺物を引き揚げ、考古学者たちがそれを分類し、研究しているのであるが、海に囲まれている我が国では、各地の海や湖で調査・発見のためにこの手法が用いられている。以前、行った神津島でも、沖合いで沈没した江戸時代の沈没船の遺物調査が、水中考古学の手法が用いられ、國學院大學により行われていた。ここ鷹島でも、今日まで鷹島南岸の数ヶ所で海底調査が行われ、大きな成果を挙げている。海底から引き揚げられたものは、脱塩処理をしないと腐食してしまうので、そのため、この歴史民族資料館の隣に最新設備を備えた埋蔵文化センターが設立され、遺物や文化遺産の永久保存と展示を目的として調査・研究が行われている。 |
| 島の悲惨な歴史を乗り越え、モンゴルとの交流 文永の役(1274年)、さらに7年後の弘安の役(1281年)で戦場となった地域(博多、平戸、壱岐、対馬、鷹島)を訪れたが、壱岐・対馬・鷹島では、元軍の上陸後、家は焼かれ、島民は首をはねられ、女・子供も殺され、一部の女の人は手に穴を開けられ、船に括りつけられたと言われている。鷹島では、生き残った者は僅か二人と伝えられ、他の島でも同様、しばらく人の住めなくなった無人島の歴史が続いたそうだ。 島の南部に開田という地があるが、ここに「開田の七人塚」という遺跡がある。元寇の役の時、山中の人目につきずらい一軒家で元軍に見つからないように隠れていた一家が、家で飼っていたニワトリが鳴いたため、山中を捜索され、見つけられてしまった。八人家族のうち七人が殺され、灰だめに隠れていたおばあさん一人が助かったと言われている。それ以来、開田ではニワトリは飼わないと伝えられている。 島の悲惨な歴史は今、時空を乗り越え、鷹島は元の国、すなわち現在のモンゴル国との交流を深め、カラコルム地方のホジルト市と姉妹都市となっている。そして「モンゴル村」が誕生した。 |
スズメ蜂?に遭遇 翌日、宮崎旅館の近辺を散策した後に午後12時の船で黒島へ行くことにした。海岸線をしばらく歩いていたのであるが、何故か山の中に入ってしまった。途中、スズメ蜂のような大きな蜂に出遭い、ぶんぶん音をたてて自分の周りを回られる羽目に陥る。こんなところで刺されたら大変なことになる、場合によるとショック死を起こすと聞いていたので、恐怖感に襲われ、恐る恐るその場を逃げた。島の人によると、蜂が下の方に巣を作った年は台風の当たり年になるそうだ。離島にいるともう一つ怖いのが蛇だ。特にマムシやハブだが、ハブに咬まれれると血清で命が助かった場合でも、場合によると壊死を防ぐため咬まれた部分を切り落とさなければならないケースもあるという。生息地は奄美大島を境にしていると言われているので、このあたりは心配ないと思うが。ヤマカカシも馬鹿に出来ない。最近、毒のあることが分かり、これに噛まれると血が止まらなくなるそうだ。またマムシの場合は、そばを歩いた場合、前から二人目の人が咬まれ易いと聞いた。治療のための血清も置いてある島と置いてない島があるので、病院の無い島は要注意である。緊急の場合でも、自衛隊の駐屯している島は、即、ヘリコプターで搬送してもらえるそうであるが、毒蛇の場合は早い治療をしないと馬鹿にできない。そうこうするうちに宮地嶽史跡公園に着く。玄海灘が一望できる展望絶景の地で、ここには元寇記念碑が立っていた。写真を撮っていたらまたスズメ蜂のようなのが飛んできたので早々にこの場を立ち去る。 |
モンゴル村 ここから20分ほど歩いたところにモンゴル村があった。18ヘクタールの広大な丘陵にモンゴルから運んだ移動式の住居、ゲルをはじめ、バーベキューハウス、温泉などの施設が作られている。この島の歴史がモンゴルとの交流を深めることになり、平成五年四月にオープンした。この村には温泉があると聞いていたので入ることを楽しみにしていたが、午前11時にならないと入れないと言われ、12時には黒島に渡る予定なので断念して阿翁浦港に戻る。 |
年寄りばかりの島、黒島 阿翁浦港の目の前にある黒島行きの船が12時に出て、20分足らずで着く。港から坂を登りながらしばらく行くと島の真ん中に着き、ここが村になっている。ビールを飲みたくなり、島に一軒だけあるという酒屋を捜して店まで行くが誰もいない。付近に駄菓子屋のような店があったのでそこに入る。その店の自宅で使っている冷蔵庫に一本だけビールがあったので、350円で売ってもらうと、店のおばあさんは久しぶりに島以外の人に会った所為なのか、話の出来る楽しみなのか、つまみまで出してくれる。そのおばあさんの話によると、黒島は二百人ほどの島民しか住んでいず、昔は石材加工が盛んであったが、若い人は長崎、平戸、広島などの都会へ出て行ってしまったので、今は、年寄りばかりの島になってしまったそうだ。これからは農業をしている人はもうやれなくなるとも言っていた。離島はどこも過疎化が進み、どこでも同じような悩みを抱えている。過疎化の解消と島の発展の為、若い人に教育の機会を与えたらその人たちは島に戻らなくなってしまったり、島と本土とつなぐ橋が出来、便利になった反面、若い人が島から出て行くようになったりと。最近は戻ってくる人もいるそうだが、八丈島では、最初に戻ってくるのは子供が出来てから離婚した女性だという。帰りは夕方の6時45分まで戻る船は無かったが、5時に子供たちが島に戻る為の修学船が出ると聞いたので、それに乗せてもらい阿翁浦港に戻った。 |
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