香道の歩み


1.奈良・天平時代「供香」
  推古三年(595) 香木淡路島に漂着以降6世紀〜7世紀にかけ、仏教の興隆と共に仏に
  捧げるものとして、日本人(貴族)の生活の中に根付いていく。
  天平勝宝六年(754) 鑑真和尚来朝 数種の香料を将来し、蜜を用いて合香〈あわせこ 
  う〉の方を伝え、この方法が後に薫物〈たきもの〉として発展する。
  天平勝宝八年(756) 聖武帝崩御後、遺物として「蘭奢待(黄熟香)」正倉院へ納められ 
  る。

2.平安時代
  仏事以外に香が用いられるようになったのは平安以降。
  空香(そらだき)−衣服・髪等にたきこめる。
  承和元年(834) 左大臣藤原冬嗣、梅花・侍従・黒方の三種の薫物〈たきもの〉を合わせ 
  る。
  薫物合わせ等芸術的遊戯も行われる。
  寛弘五年(1008) 源氏物語 梅枝巻。
  長寛元年(1163) 「薫物類抄」 刑部卿範兼抄著。

3.鎌倉時代(14世紀)
  薫物から沈香へ移行。
  武士の台頭により戦時態勢となり薫物を作るゆとりもなく、又禅宗の影響等で濃く重い薫物
  の香りより、沈香の清微な香りが好まれるようになった。
  又琉球中継貿易等により、以前より多量の沈香が輸入されるようになった。
  建武二年(1335) 建武記 二條河原落首。
  「この頃都に流行るもの、夜討・夜盗・偽倫旨(中略)茶・香十の寄合も・・・。」
  貞治五年(1367) 佐々木導誉 大原野花会に大香炉二つに一斤の名香を一度にたく。 
  香風四方に散ず。
  応安六年(1374) 導誉死去。太平記にはバサラ大名と悪名高いが、当時一流の教養人
  であり、芸術的美的感覚にすぐれた武将であった。
  導誉所持の名香は東山殿に納められる。

4.室町東山時代(十五世紀)
  室町期は、今日の芸道の主なものが、殆どこの時代に興った時期である。
  香芸も平安朝薫物により根付き、貴族によって培養され、南北朝から室町期にかけて武士
  の庇護のもとに定着した。組香もこの頃から多く行われる。
  応永二年(1417) 後崇光院十種香を行う。
  これ以降十六世紀にかけて公卿・僧侶の日記の中に十香十種香の記事多し。
  康正元年(1455) 三條西実隆生まれる。
  寛正二年(1462) 足利義政 蘭奢待を載る。
  文明十一年(1480) 東山泉殿において香合わせ行われる。「五月雨之記」と称し義政の
  判詞あり。
  大永二年(1522) 志野宗信死去。八十二才。

5.安土桃山時代(十六世紀)
  戦国時代、武将の間では茶の湯が盛んに行われたが、名のある茶人(紹鴎・宗久・利休・ 
  宗及・光悦・織部・石州等)は皆香もたしなみ、利休は信長より少量の蘭奢待を与えられ秘
  蔵していたという。
  建部隆勝 天正元年(1573) 「香之筆記」中に香木分類「伽羅・羅国・真那斑・真那賀・新
  伽羅」の五品六十一種名香の記述。

6.江戸時代(十七世紀)
  徳川秀忠の女和子が後水尾帝中宮(東福門院)となり、帝と共に香をはじめ種々の芸を好
  んだ為、寛永文化サロンともいうべき文化が構成され、宗達・光琳・光悦等が活躍し、香木
  も勅銘香が最も多く出た時代となった。
  寛永三年(1637) 後水尾帝二条城に行幸。細川家より名香献上。白菊と勅銘。
  延宝四年(1676) 米川常白死去。通称小紅屋三右衛門、阪内宗拾(曽呂利)に香を学 
  び、東福門院後水尾帝の香道指南という。六國五味を完成し、法度を定め、中興の祖とい
  われる。

7.江戸時代(十八世紀)
  十八世紀にはいり版本の刊行が可能となった為、香道書の出版が盛んになった。
  現在多く行われる組香、殊に盤物は江戸時代中・後期に考案され、従来男性の芸能であっ
  たものが、将軍・大名の後宮や富裕な町人層の女性に拡まり大流行する。
  元文二年(1737)菊岡涼「蘭之薗」を大成す。

8.十九世紀
  十八世紀に大隆盛を極め、やや爛熟の気味にある香道界は、幕末明治維新により衰微す
  る。
  二大流派である志野流・御家流のうち、志野流は十八世紀初めに家元制度を確立し、御 
  家流は皆伝者による相伝によってその流れを伝える。

  *都筑成幸 ―――― *都筑幸哉 ―――― *一色梨卿
     (与力)     |     (蒔絵師)        (美術商)
               |
               ― *式守蝸牛
                    (行事家)

昭和の御家流香人





◇都筑幸哉 (号 木春居) 蒔絵師
  尊父都筑成幸 (御家流血脈号宗穆 八丁堀與力 明治四十五年二月没) より香道を習
 得、御家流血脈を継ぎ多数の門下を育成、一無我の境を座右の銘とされその穏健、誠実
 な人柄は多くの門人に敬慕せられた。
  昭和十七年五月没。

◇井上哉子 (号 園 都筑幸哉門)
  昭和二年より師につき香道の奥儀を極め師伝を正しく伝承、吾妻徳穂(日本舞踊家)を始
 め多数の門人を指導、古き良き時代の御家流香人の雰囲気を保ち、筋を通し厳しさも兼ね
 備える一方、暖かな思い遣りに溢れる優雅な香人で在られた。先師香友の追善香会 名香
 会等の他、平成三年 所持の蘭奢待を聞く会を開催し多くの後輩香人に貴重な経験の機会
 を与えられた。
  平成六年三月没。

◇一色梨卿 (利厚 漏尽庵 都筑幸哉門) 古美術商
  古美術の家業に携わる内、香道に親しみ、幸田露伴の知遇を得て益々深く研究に勤しみ、
 三十年の歳月を費やした名著{香道のあゆみ}に依り昭和香道界に大きな足跡を残す。
  文献 古書 伝書の研鑚に於ては他の追随を許さぬものであり、一方師幸哉の助手を勤 
 めて、深く道を極め香道に対する真摯高潔な姿勢は後輩香人の鑑となる。
  大倉久美子始め桂雪会連衆の恩師。

◇山本霞月 (増田秀月門 和歌山県人) 及霞楼
  秀月師没後一色梨卿師と共に香道研究に力をつくし、三條西尭山、大倉華桂始め岩波夏
 子、竹山千代子、沖田武子、正田富美子(美智子皇后生母)など多数の香人を養成、又新 
 組香の作成にも意欲を示し、多角的に香道研究をすすめ私財を投じて香道発展に尽力され
 現在の御家流香道の隆盛に多大の貢献を成し遂げた。
  昭和四十六年二月没。

◇大倉華桂 (久美子 大倉喜七郎、ホテルオークラ創立者、夫人)
  大正初期、都筑幸哉師に入門、第二次大戦後、再び山本霞月に師事し研究を続ける。霞
 月師引退後は一色梨卿師につく。霞月師の依頼により同門三條西尭山の尭山会に協力せ 
 しも、袂を分ち昭和三十八年、原田聴雪、沖田武子と共に桂雪会を発足理事長に就任。
  典雅な風格に鋭敏、洒脱な感覚を併せ持つ稀なる美意識の香人として桂雪会の後進に甚
 大な影響を与えた。香木、香道具、古書の蒐集に力を尽くし二十世紀後半を担う御家流香人
 として第一人者であり、又明治の生んだ最後の貴婦人明治大正の三美人として賞せられた。
  昭和四十七年六月没。

◇沖田武子 (早大競争部名誉会長 ベルリンオリンピック総監督沖田芳夫夫人)
  大倉華桂の導きにより山本霞月に入門 霞月師の真摯な香道研究の姿勢に心酔し、数々
 の教示を受ける。
  霞月師の推薦により、同門三條西尭山の尭山会の運営に協力の後昭和三十八年、大倉 
 華桂 原田聴雪と共に桂雪会を発足、御家流香道の本来の姿であるアマチュアリズムを厳 
 守し、会員の指導に努める。
  霞月師引退後は一色梨卿師につき香道の古法、古書の研究にはげむ一方、新組香の研
 究に熱意を持ち、昭和四十八年、桂雪会連衆と共に昭和の新組香集{桂乃雪}其の一、其 
 の二を出版、大倉華桂没後、桂雪会理事長に就任、会の発展に力を尽くした。
  昭和六十二年四月死去に至るまで常に香と桂雪会をこよなく愛し生涯を香りと共に生き  
 た。

◇原田聴雪 (英文学者原田治朗夫人) 茶道江戸千家顧問
  江戸千家大茶人として奥儀を極める一方、幼時より家庭で香に親しみ、第二時大戦後再び
 香道習得に熱意を持ち、大倉華桂、沖田武子と親交を結び華桂、聴雪の文字を取り桂雪会
 結成に賛同、副理事長として力を尽くす。
  古い時代の香の茶の湯の再現を沖田と共に試み、優美品位を兼ね備えた香元手前は他 
 の追随を許さぬ見事さであった。
  昭和四十三年十二月没。

◇江平達哉 (龍田屋 桂雪会理事) 実業家
  沖田武子友人、宮川いと子氏の誘いにより、尭山会に入会、その後、桂雪会の結成に協 
 力、会の発展に寄与した、茶道、書道に堪能、殊にその書風は野風(小野道風)を偲ばせる
 名筆であり生粋の江戸っ子で、温厚且つ洒脱な紳士振りにより桂雪会後輩香人に敬慕せら
 れた。会員の指導及び会の運営にも携わり桂雪会の発展の為力をつくされたが惜しくも昭和
 四十五年十一月早逝。



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