「ケルビムの部屋」を描きながら、逆方向の視点からの構図でもう一枚描いてみたくなっていた。
部屋のもう半分を描けないでいたのが心残りだったのだろう。
それに人物を実際上もっと大きく描きたかった。
それまで人物を実物大またはそれ以上に描こうとしてもなかなか描けなかった。
絵のなかで何かしっくり来ないのだ。今度は実際の大きさ位に家具を配置して(描いて)、
そのなかに人物を置いてみると、それほど難かしくはなかった。
ハイパーレアリスムという手法にちょっと惹かれる。
「写真のように」そっくりに描くのではなくて、「写真を」そっくりに描く手法を言っているのだが。
あれは、文学で言うところの「私小説」のような絵ではないかと思っている。
と言っても、「私的」生活や心情を小説という形式にまとめたもの、という意味ではない。
大江健三郎氏の小説を読むと、「私小説」的手法が意識的に使われている。読む方はそれによって、
現実と虚構の間で不思議なずれに入り込み、文学的でない妙にナマなものを感じる。
この場合の(いわば)「私小説」性は、むしろそう見せているだけで、実際には「私的」に見えるという意味でのナマナマしさ=近さと、形式を持った「表現」であるという意味での客観性=遠さを隣り合わせにすることで、表現の新らしいリアリティー=遠近感を獲得しようとしているのだと思う。
わたしは、これと同じ作用をハイパーリアリスムの絵は持っているように思う。
見る(読む)人は、絵(小説)という表現形式の前で安心して作品を鑑賞することができず、
常にこれは本当にある(起こった)ことなのか。それとも作られたもの(その意味では虚構)なのかという問いかけを強いられる。
その結果、見る(読む)人はそこに表れているものごとを、筋書きのあるエンターテイメントとしてではなく、
どうなるか予測のつかない現実空間として疑似体験する。
また、写真をそっくりに写す、という行為は自分というものを入り込ませない。
この写真を絵に描くということを決めたということだけで作者はこの絵に関わる。
あとは、人為的と思われるものは排除される。タッチは見えないし、画面はフラットで、
描かれたものだということは一見分からないようにされている。それでいてひどく人間的でもある。
むしろあまりにも人間的に感じる場合は息苦しささえ感じる。
とにかくそういう一種の禁欲主義を経て、原点に帰るということもあるし、
何よりも芸術という大きなものにまともにぶつかっている。
そしてずいぶん苦しんでもいる(ようにわたしには見える)。
その真面目さ(もしかしたら全てが計算された戦略なのかもしれないが)が好きだ。
わたしは、自分の私生活をテーマに描くことができたという確信のおかげで、ずいぶん表現の自由度が広がったと思う。
それまでに描いていた精霊たちの絵も、その後に描き始めた夢の絵も、自分たちの生活そのものから出ているということが今は分かる。
生活の「私的」なものを芸術表現という「普遍的」な場所へ着陸させられないだろうか。
2001.6.1. 記
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