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この愛を護る やっと生まれた子供は 愛の子供 人の子二人の間にいつもいて すべての悪意 憎悪からまもってくれるだから わたしたちに あるものは この愛だけ
だから わたしたちの護るものは この愛だけ
この愛を護る
************************************************************何もかもが上手く描けないような気がしていた頃、
何故絵を描くのかを自問し続けていた。
自分に絵を描かせるものは何か。
自分が絵を描く動機とは何か。
思わず筆をとって描いてしまった、という風な描き方が
自然な絵描きの姿勢だとするなら、私の場合は
ひどく不自然な姿勢で絵を描き続けて来てしまった。
動機のなかに不純なものが少しでも紛れていれば、
絶対絵はうまくいかない。
しかも、これは意識されている部分の問題なのではなく、
無意識の領域での問題なのだ。
金や生活のために絵を描く人が、必ずしも
不純な動機を持って仕事をしているとは限らない。
純粋を語りながら、不純なことを平気でやっている作家たちが、
その自らの汚さにまったく気がつかないでいたりする。
彼ら善人の仮面を被ったとんでもない偽善者たちは、
仮面の存在を知っていて知らないふりをしているのではなく
素顔の本当の純粋さを、知らないだけなのだ。
人は情愛のおかげで生きている。
情愛の強い人ほど、イキイキと活動している。
色々なものに愛情を持てる人は、色々なものに興味を持ち、
知り、かつ記憶するという行為を非常に喜ぶ。
絵描きが仕事をするということは、結局この情愛のメカニズムを
絵を描きながら生きる、ということに他ならないのではないか。
絵がどれだけ上手く描けたかということは、
どれだけ描いたものを愛せたか、
という結果を表しているだけだ。
何を描くにしても、描かれたものに対する愛の表現としての絵。または、描かせたものへの愛を抱いた人間の記述。それが見るものを惹きつける、というこの不思議。
こういうすべての人間の活動を芸術と呼ぶのだ。
だから、芸術の深みとは、この情愛の深さに全てを負っている。あらゆる芸術家の真の存在理由はここに在る。愛するものの記述。愛の記述者だ。
********* 私たちの愛する子どもは、
うちで可愛がっている犬と遊んでいる。
日が沈みかかっている。
今日も一日このような生活だった。
台所の流しと、いつも私たち二人が過ごすテーブル。
そこには開かれた本。
本を開く手、窓の白い影は、
私たちをいつも見守ってくれている何ものか。
2001.2/1記
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