「泳ぐ人」から続けてこの絵を描いたつもりが、日付けを見るとすでに4年経っている。
そんなに経っているかなー?というのが実感だ。
多分いつものように描いたり潰したり色々としているうちに
気が付いたらそれだけの時間が経っていた、というのだろう。
それにしても4年とは。
少しでも気に入らない絵は、描き直してしまいたい衝動にかられるが、
一方どんな絵でも長い間手元に置いておくと一種の既成事実のようになってしまい、
それはそれで良いかなと思ってしまう。
それで「泳ぐ人」は今のまま生き残ってしまった。
さて(「泳ぐ人」の覚え書きに書いた)空中遊泳の感覚についてもう少し。
夢を見た後でもけっこう長い間その感覚が、身体の中に残っていることが多かった。
部屋の中を見回した時に、夢の中でこの同じ部屋を泳ぎ回ったことを思い出して、
今でもその気になればこの室内を自由に泳ぎ回ることができるような錯覚に陥る。
それは、部屋の中のあるものを見ている時に、それを別の角度から、
特に上方からも同時に眺めているような気分でいることがあり、
それを美術家特有の目と意識の訓練の結果だと言ってしまえば簡単だが、
ぼくの泳ぐ夢と結び付けてみることもできる。
ある狂言師によれば、日本の料理の盛り方は、食べる人から見て前に何を置き、
その右に何を、左そして向こう、という具合に前後左右に並べる。
食べる人の横からの視点から、全てが配分される。
日本では神様は玄関から、つまり横から入られると考えられているからだ、というのがその理由だ。
だから鯛の尾頭付きなんかが、立食パーティーに出ていたりすると、なんともブザマなのだという。
それに対して西洋では、神様の位置はわれわれの上にあり、
上方から神はわれわれを見ていらっしゃる、という理由から、
料理の盛り付け方は上から眺められた状態を念頭において作られ、
結果として立体的な配分になる。
つまり良く言われる日本の平面的なものの見方と、西洋の立体的なそれの違いがここにあるというのだ。
このことから推論すると、われわれは美術学校で立体物の把握つまり立体的なものの見方を学びながら、
実は西洋的な神の視点をも無意識に学んでいたことになる。しかし自分は純粋(?)に日本人であり、
その意味では充分に「平面的」であるはづなのだ。
それが油絵という、「立体(空間)」を描き表すために生まれた技術の前で、
日本人である私自身独特の使い難さを体験しているのではないだろうか?とも考えられる。
それともうひとつ。夢のような曖昧で捕らえ所のないものを画面に定着させようという行為に
しっかりしたメチエ(技法)で使われるべき油彩という技法との対立を
肉体的に体験しているということも言えるかも知れない。
謂わばこういった葛藤の中で、自分なりの何かを表そうとしているところにこそ
わたしが油絵を描いている本来の意味もあって、「泳ぐ夢」を見る理由もまた
案外そこら辺から来ているのではないか、と勘ぐってみたくもなる。
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