大理石の彫刻

光る梢

2000年

W38×H84×D30cm 大理石

  後ろから見たら

画像の拡大

Home

 家のすぐ前にある山の斜面に生えた一本の樹木。風にゆれる、その梢を見るのが好きだ。 15年前にこの家に住むようになってから、その木はずいぶん大きくなった。誰が植えたのでもない、野性の広葉樹。すごい急斜面に生えていて、剪定などされたこともないし、邪魔だからといっても切るには切り難い場所にある。その自然な広がりを持つ枝の優雅さと言ったら、スカートやドレスがいくら可憐だと言ってもかなわない。
そこには、光りがある。その枝先にとまる葉の輝き。黄緑とも金色とも言える光。
 かつて私がこの家で倒れた時、つらくて痛かったけれど、あの梢が風に吹かれてゆれる姿は、そんな時でも美しいと思った。
どんな時でも美しく見えるものが傍にあるというのは、ほんとうに幸せなものだ。
 この頃はあまり聴かなくなったバッハの曲。あの頃は痛みに耐えるために、夜じゅうカセットを自動リターンにして枕元で響かせていた。
立ち上がれるようになって改めて見上げる梢。バロックの時代そのままの感興に浸れた。きめ細やかなハープシコードの音に合わせるように、光り輝いて、その梢はゆれていた。
 天界のことを読むことが始まったのは、それからしばらくして、本から本へと導かれるように読み進めて行った結果だった。
 試練がなければ、再生はない!と、はっきり書いてあった。苦しむということは、剥奪(ハクダツ)を受けることだ。戦うという段階をとうに越してしまっている。ほとんど何も自分には残っていないようなみじめな状態。
ただ、生きているだけ。
 その頃飼っていた猫は、真っ黒の虚勢手術を受けていたシッポのない大猫だったが、寝たきりの私のお腹を踏んずけて通った。
取るに足らない存在。そこまで落ちてしまった生存。
たしか、アルベール・カミユの本の中に、病気で寝ている人間なんて『虫けら』ほどに軽んじられると書いてあった。
飼い猫にバカにされて怒るというより、物事の冷たい真実のような姿を見た。
役に立たない人間は、虫けらなのかー! と。
 もしも、もう一度立てるようになったら、これだけをやろうと決めた。なんでも欲しがって苦しんで来たけれど、ひとつのことが出来ればそれだけで幸せなのだと思った。それが、私に与えられた剥奪だった。再生のはじまりとして。 天界の3っつの段階。ひとつ目は、花園や庭園のある美しいところ。善良な人々が営んでいるところだというから、世界の何処かにありそうな気もする。
ふたつ目は、壮麗な宮殿や庭園があって、真理を語り合う人の住むところ。この世のどんな建造物にもない壮麗さで、人々の優雅さは、想像を絶するらしい。行ってみないことには解らない。
私が憧れるみっつ目は、子どものように無垢なものたちが、はだかで何の恥ずかしさもなく、そこの輝く太陽の元でいろんなことを まるでゲームでもしているように楽しみ喜んでやっているというのだ。ほんとうの生活のあるところ。 「光る梢」という彫刻。梢の上にはいつも強烈な太陽が輝いている。梢の下を裸の男女が、でも子どもの姿で走って行く。彼らは逃げているつもりだ。何か暗いものから、、、。でも、近づいているのだ。明るい方へと、、、。何故かって?
彼らの頭上には、いつも真っ白い雲が現れて、彼らを導くように浮かんでいたから、道を迷うこともなくまっすぐに走って行った。まるで行き先をとうに知っているみたいに、、、。天界へと。                              2001.7.9.記