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リスを見たことのある人ならば だれもがあの身体を 欲しいと思うだろう
いつかは"女"を彫りたいと思っていた。それまで彫って来た像は、男ばかりで、それも夫の広美がイメージされたものばかりだった。果たして、自分を離れて"女"というものを客観視出来るだろうか? いつもモデルを目の前に置いて、描いたり、彫ったりはしない。心に結んだイメージだけを じっと見つめて完成させて行く。重さのない軽やかさで 枝をわたってゆく リスには、森は広い野原のようだ 光るこずえのみどりの中で 暮らすのは楽しいだろう 腹に苦しみを胸に絶望を持つ女には リスの身体がうらやましい 初めに、強い動機さえあれば、後は次々といろんな想いやら、考えが湧いて来るので、それを重ねながら彫り続けて行くというのが、私の仕事の仕方だ。 「りすの女」というイメージが湧いて来たのは、その詩にも書かれてあるように、倒れて病んだ身体の回復のために、毎朝歩いた山の中で、たまたま見かけたリスの軽やかな跳躍。それを見た時からだった。リスを手に乗せたことはないけれど、小鳥ならあるから、それから想像するのだけど、おそらくリスにも、ほとんど重さというものがないに違いない。あんなに細い枝先を 次々と、木から木へと渡って行けるのだから。 ところが人間となると、重いものを 毎日どんどん積み上げて行ってるような 絶望的な存在に思えていた。あんまり苦しい時は、内臓を裏返して、めくりあげて、ジャージャーと 水ですっかり洗い流したいと思ったものだ。その頃の自分の中に、何か汚くて、重苦しいものが詰まっているように感じてもいたからだけど、、、。「りすの女」のお腹は、削ぎ落としたように、まるで木のうろのようにえぐって、お腹の中には、なんにも無いようにしよう。 高い枝に留まって、遠くを見つめているようにしよう。 両の手の中に、何かを入れているようにしよう。自分の魂だけど、自分のもの以上の清らかなものを、、、。結局、自分を離れて、"女"というものを理解しようとした試みは、女という重苦しい身体からの解放という事にあったようだ。 あれから10年も経ったこのごろ、この彫刻を見ると、その清らかさが、雪のように白く、それは美しいけど 淋しくて冷たい。光りを求めている頃の彫刻なのだ。 今は、"愛"という温もりが自覚出来るようになった。 "女"に、もう一度「愛する」という営みが与えられた時、世界も暖かく愛し返してくる。 2001.10.5.記 |