もくじ

母の

 病気らしい病気をしなかった母は、いつも元気なタフな人だというイメージがあった。風邪をひいて熱がある時でも、たいてい近くの薬局で強力な抗生物質の薬を買って来ては、それを服用して済ましていた。今思えば、自分の身体についてよりも他にいっぱい気を使うことがあったから、病気さえしてる暇などなかったし、母から相手にしてもらえない病気の方が、つまらないから寄り付かなかったのかもしれない。

 そんな母でも、女学校の寄宿舎で蔓延した腸チフスに感染した時は、たいへんな闘病と療養を強いられて辛かったそうだ。その女学校は、戦時中の占領地韓国にあった。ほとんどの生徒が寄宿舎に入っていたらしい。医療体制も医薬品も乏しい中で多くの学友が亡くなって行った。なんとか生き延びる方法は、体力を消耗しないようにするために、ただじっと動かないで耐えて寝ていることだったという。
 ----じっとしているというのは、ほんとに辛いものなのよ。苦しいからベッドにじっとしていられなかったり、わがままなお嬢さんが多かったから、食べてはいけないものを食べたりしてねえ。そんな人達はみんな亡くなって行ったよ。お母さんの付き添いをしてくれたおばさんが、とっても親切な人でねえ。気持ちがまぎれるように、いろいろ身の回りのことをやってくれたし、いつもきれいに身体を拭いてくれたりしたのよ。それでがんばれたんだと思うよ、と語る母だった。

 その看護の付き添いをしてくれたおばさんのイメージを 子ども心に描いた。それは、いつか聞かされた母の大好きだった「ばあしゃま」に重なるようでもあった。

 それともうひとり、母の叔母に当たる未亡人だった人にも似ていた。その人達は、みんな小柄な身体で働き者だった。そして、よく笑う明るい人達だった。

 母の罹った最期の病気は肺癌だった。私が会った時には、母はもう思い切って笑うことも出来なくなってしまっていた。レントゲンに写った母の肺臓は、もうすっかり白くなってしまっていたから。それでも、
 ----身体は動かんからってバカにしてるけど、これでも頭ははっきりして生きているのよ、と私に訴えて来た。
 そう言われて、なるべく明るくうんうんと頷いて見せたが、私は自分の今とこれからの立場の不安定さの方ばかりに気を取られて、母の言いたいことを真正面から受けとめられなかった。そしてさらに、
 ----今に見てなさい。この病気が治ってここを出て立場が逆になった時「看病というのは、こうやるものだ」って、今度は私がほんとうの看病を見せてあげるから、と言うのだ。
 もうそこまで言われると、母が何を言いたいのか、何を求めているのかは、いくらぼんやりの私でも解った。自尊心が傷付き、人権が踏みにじられ、誇りも取り上げられ、愛情も薄い状況。

 可哀想だと思いながら、勝手で無力だった私は、ほんの短期間の付き添いに、急いで学ばねばならないもの、理解してあげなければならない母のことで気が焦った。そしてある日、とうとう聞いてみた。
 ----ねえ、お母さん。ほんとうの看病って、どんなもの? すると母は、
 ----Kの看病たい。 もう顔を向けられないほど恥ずかしかった。
  酸素吸入のホースを鼻に付けていてガリガリに痩せているこの人が、まだこのような思いやりのある言葉を返しながら、しかもにっこりと微笑みさえしてくれている。
 確かに母は、最期まで生きていた。

 ぽつぽつとしか話さない言葉の中には、不思議なこともあった。
 ----おかしなことを言うようだけど、自分の肺が見えるのよ。四つの部屋に分れていてね、可愛いものたちが互いにクルンクルンと入れ替わるようにしていて動いている、、、おもしろいねえ、と。
  母が見ているものと同じものを見たいと思って想像してみた。その時浮かんだそのイメージは、ガラスで出来たような空中に浮かぶ四つの美しい宮と、そこに住んでいる小さな子どものようなものが、自由自在に互いの宮を行き来している。でも四つの宮自体も、以前流行っていたキューブという玩具みたいに、噛み合わせが変わると、まったく場所が移動したり入れ替わったりも出来るという構造のようだった。

 担当していた医者も父も、
 ----すでに少し頭がぼんやりしているようだ。脳にも転移している可能性もあるから、と言っていた。
 でも私は心の中ではぜんぜんそんな意見には納得していなかった。むしろ沈黙しながらも反発していた。

 そして、もうだいぶ悪くなった頃、
 ----Kちゃん!お母さんをちゃんと見てないと、いつ来るかわからんじゃないね、とやや叱るような口調で、個室に備え付けたTVに見入っている私を振り向かせたのだった。

 それからは、母から目を離さないように過ごすようになった。

 そしてその瞬間は、母とふたりきりの私の目の前で訪れた。

 「目覚めていなさい。その時がいつやって来るのか、あなたたちは知らないのだから・・・」という言葉を聖書の中に見つけたのは、それから九年後のことだった。
 あまりに苦しいことばかりだったので、生と死を理解したいと、いろんな本を調べていくうちに行き着いた言葉だった。