もくじ

母とお金

 母の六十年の人生のスランプとは、やっぱりお金に関わることか、愛情問題のどちらかだろう。幾度ものスランプをひとりで決断して切り抜けて生きた人であったから、このような乱暴な分類もきっと許してくれるだろう。

 母が電話をしているのを横で聞いていて、その内容に驚いたことがある。いつもの相手を安心させるような朗らかさがなくて、新聞に載っているような難しい経済用語をおりまぜて話していた。そのうちに、脅しにも聞こえるような事まで言っている。
 たぶん小学生の三、四年くらいだった私は、受話器が置かれると同時に、猛烈に反発した。その頃は知らなかったが今は知っている、それは「どう喝」ではないかと。
 今電話の向こうの相手を見据えていた眼をやっとはずして、今度は私に焦点を合わせるために一瞬間を置くと、ゆっくり母は説明を始めた。

 電話の相手は同業の人で、粗悪な製品をダンピングして売っているというのだ。よその会社の取り引き先まで横取りするようなことをしているから、忠告と警告を伝えたということらしい。
 その頃やっと、母の会社のような再生品で袋を生産する工場が集まって、組合を組織したばかりだった。小さな工場が互いに、ひと袋の数円をめぐって厳しい競争を繰り返していた。 でもやっぱりさっきの話ぶりは、人間的ではないと不満は残った。しかし母は、
 ----商売は、きれいごとだけではなくて汚いところもあるけど、それが面白いところでね、両方をうまく使い分けていくのがまた面白いのよ、とその時は言っていた。

 月末の給料の支払い日になると、製材所の二階の六帖の畳みの上でよく手伝った。母が並べた従業員の名前が書いてある茶封筒と給料の明細書の上にお金を置いていくのだ。大きい一万円札から次第に小さい桁のお札や硬貨まで順番に配っていく。お金を並べながら、子どもの私だがよく知っている人たちの誰がたくさん貰えるかが分かるから、そんなことを気にしながら手伝った。とても少ない人があると、どうしてかとたずねたりした。
 ----あの人は、今月は休みが多かったからね。
 それにプラスされたりマイナスされたりする評価の金額もあるのだという。 聞くと何でも答えてくれる母だった。

 ある年のお盆前、わずかなボーナスを従業員に支払ってしまった後に三千円しか手許に残らなかったことがあった。そのお金で、母は兄と私を連れて旅行に出た。片道の旅費で、行き先はそのころ長崎の離島で変わった暮らしをしていた母の弟Tの家。

 私はその時は小学三年くらいで、その旅行が母の会社経営のスランプの最中の事とは知らなかった。すべてもっと大きくなった後で聞かされたことだ。長崎の名所を観光タクシーを貸し切って見て回った。あの時の費用は考えてみるとT叔父がぜんぶ支払ってくれていたわけだ。
 その時車酔いしてしまった私は原爆記念館に着いた頃にはすっかり青ざめて、入り口のロビーのソファーにぐったりしてしまった。みんなは陳列品や写真パネルを見てまわっていた。帰ってくるなり母は、
 ----Kちゃん、ちょっとだけ見ておきなさい。大事なものだけでも、と言って、私を抱えるようにしながら、すでに頭に入れてあるポイントになる陳列品を解説しながら歩かせた。
 サイダーのびんが何十本もいっぺんに融けたのだとか、手が焼き付いた瓦だとか、止まった時計を覚えている。 その後グラバー亭のオランダ坂とかを歩きながら、坂の隅で吐いてしまった。
 その数泊した離島の風景もよく覚えている。夜の軍艦島が暗い海の向こうに見えて、島の団地の明かりが異様に立ち並んでいた。

 お盆を過ぎて工場の仕事の機械がまた動き出した。それまで途切れていた注文が急にいくつか来たのだそうだ。母のスランプの中でもその時のはかなり過酷だったようだ。  

 ほとんどいつも偶然というしかないギリギリの切り抜け方で乗り切ってきた母は、これから特別な秘術を伝授すると言わんばかりに、

 ----ふしぎだけどねー。お金のことを考えている時はお金が入らずに、お金のことを何も考えていない時にお金が入るのよ。だからー、逆に言えば、お金のことは考えんようにした方がいいね。