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ミシン |
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母がミシンを買ってくれた。結婚したての頃だ。 結婚ということの内容だけを考えていた私たちには、周辺のことはすべて面倒で、省略したかった。結婚式だけは母の説得でやることにしたが、家具なんかは適当にふたりで持ち寄ったもので生活していた。 しかしその後、その「パターン縫い」でたくさんの服を作ることになろうとは、、。まさに母の思惑通りになった。今でも夫のシャツとズボンは、私のオーダーメイドだ。痩せっぽちの手足が長いアブノーマルな体型に合う服を探すのが厄介なのと、経済的理由で、、。 母の思惑とは、何か説教するわけでもなく、自然とある方向に導くというやり方だった。子どもの頃いろんなことをいっしょにやったのもみんなまるで遊びのようにして、しかしそれがひとつの躾にもなっている、そんな具合だった。 袋工場を始めてからはミシンの前に座ることが少なくなった母だったが、子どもの時の記憶を辿れば、黒い足踏みミシンと母とは今でもかっちりと映像化できる。彼女に良く似合う服は、絹の光沢のある赤紫の横糸が縞模様をつくっているスカートとジャケットだった。それはその当時なかなか手に入らない婦人服地の代わりに、紳士用の明るい色の服地で作ったのだと言っていた。それを縫っていたのを見た覚えはないから、私が生まれる前後のことかもしれない。 父の製材所の野球チームの応援に行った時の写真。セピア色のモノクロの写真には、きゅっと腰をしぼった型のそのスーツで、髪から頬にかるくスカーフを巻いている母の姿を見つけた。すぐ横に写っている私の着ている服は、白いレースに赤い小さな水玉もようのワンピースだった。この服を作ってくれたことはよく覚えている。 でもだんだん忙しくなって、そんな場面よりショッピングの場面が多くなって行った。お金を持って服を買いに行く。 ある時、袋工場の仕事着のままで洋品店に買い物に行って来た母が、 工場の経営が順調になると、街のブティックの女主人から度々電話が掛かるようになった。すてきな服地が入ったのよ〜! という誘いに釣られて、シーズンごとに出かけては服を注文していたが、どうも母がワーストドレッサーになって行ったのは、そのあたりからではないか?対外的な効果を考えてもいたのだろうが、、。 そんな母の最後の服を病院の個室のロッカーで見つけた。淡いベージュに白い水玉もようのやわらかい素材のワンピースだった。それは、ぜんぜん母のイメージにはない静けさだった。 母の七回忌にだけは、出席した。母の女学校時代からずーっと付き合いのあった二人のお友だちに会った。三回忌に会えなかったことを 何となく察してくれている様子だった。その二人が語る思い出に、ある年の同窓会を企画することになった母は、その案内状に、「宮崎は、もめんの服が よく似合います」と印刷したそうだ。例年になく参加者が多かったという。 母が洋裁を学んだのは学生時代で、服飾を専攻していたらしい。青年学校というのがあった頃、そこで教えていたこともあった。
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