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水辺の絵 |
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----いつもおかあさんが習字する部屋に、桐の箱に入っとる画集があるから、あれを持って行きなさい、と前置きなしに病床の母に言われて、その時には完全に互いに「これが母娘で過ごせる最期の時間なのだ」と了解していたようだった。もう食べなくなってから久しい母の身体は、テレビで時々見る飢餓地帯の人のようで、目だけが生きていた。だから短い言葉にすべてを込めて話すのだ。 小さな三畳ほどのスペースを書斎風に使っていた母が集めた本は、壁の本棚にぎっしり詰まっていた。中国の書家の本に混じって目指す画集を見つけた。「石濤 黄山八勝画册」 母の絵を描く体験というのは、私の聞いたところでは、東京での学生時代に油絵やデッサンを習ったりして、不忍池なんかにスケッチに出かけていた頃に始まる。 そう言えば、私の幼い頃の製材所の二階での生活の中で、一枚の油絵が、しかもベニヤ板に描かれて額にも入っていない裸のままで浮かび上がってくる。 戦後の混乱や慌ただしい結婚までの生活の中で、一枚だけ残った油絵。小さい頃の記憶を頼りに思い出すと、その絵には、茶色の文机と畳。他にも何か描いてあったかもしれないが、よく覚えていない。全体にくすんだ色あいで、あまりぱっとしない出来だったと思う。母はいつも影なんかはプルシャンブルーで塗る癖があったので、おそらくその絵の机の下の影にもプルシャンブルーが使われていたに違いない。 今でもよくある「親子スケッチ大会」に母とふたりで参加したことがある。市内の城跡が会場で、私たちはお堀を隔てて石垣と樹木をねらって描いた。 母は普段くすぶっている表現意欲から熱心に描いていた。私はというと、すぐ飽きてしまってそこらをぶらついたりしてあんまり筆が動かないまま時間が過ぎて行った。 その次の年だったか、県の主催の親子スケッチ大会にも出かけた。今度は、遠くまで遠征して来たという緊張と張り切った気持ちと、前回の反省もあって、まじめに描いた。結果は忘れてしまった。たぶんふたりとも入選だったかな? 会社の経営が順調になった頃、母は南画の先生に絵を習うようになった。 絵であればどんな技法や手法のものでも好きな母は、これまた熱心に描いていた。 やがてその先生のいちばん弟子にされてしまい、大きな絵を描くようになって、すぐに南画院展に出品することになってしまった。先生がさんざん手を加えて入選。母は東京都美術館まで見に来たが、もう出品はやめようと言っていた。自分の絵じゃないみたいでつまらなかったようだ。 今、私たちの住む山間の風景には、そんなせせらぎがある。母のことを想い出す度に、川の流れと草の関係や配置を気にするようになった。 そして、改めてあの画集を、今は私たちの家にある「石濤 黄山八勝画册」を久しぶりに開けてみた。 知らない間に、母のメッセージは彼にも伝えられていたとは。
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