もくじ

日曜日

 私が知っている日曜日は、父が不在の日曜日だった。うーんと幼かった頃は、きっと家族で過ごしていたのかも知れないが、覚えていないから仕方がない。たまに居たりするのは、職場対抗の野球大会があったり、景気が良くて日曜日も製材所が操業しているとか、そんな時だけだった。

 父が出かける時は、
 ----おい、出かけるぞ、の一言。
 母が背広を出して、後ろから着せている。パチンコだったら後で缶入りドロップのおみやげがあのポケットから出て来るはずだ。何処に行くともはっきり言わないまま父は日曜日になると出かけた。

 そのうちに土曜日の夜から出かけるようになった。母に聞いても、
 ----きっと、阿蘇でしょう〜、と曖昧な答えだった(父のふる里は阿蘇で、馬や家畜がいろいろといて、それはのどかな風景だったが、、、)。 それに母も
 ----いつ帰られますか? とだけ聞いて、決して何処へ?とは聞いてはいなかった。

 子どもながらその微妙なニュアンスの変化を感じ取りながら、たまたまその土曜日とか日曜日が自分の誕生日だったり、クリスマスだったりすると、父に出かけないようにと迫った。そんな時の父は、ニコッと笑みを浮かべはするが、自分の予定を変えることはなかった。

 あたりまえのようになっていた父の外出をうちでは『おでかけ』という言葉で表すようになっていた。
 慣れて来ると、恐い父がいない日曜日はのびのびとしてくつろいだ気分の日になった。母も勝手に過ごして、母と子どもたちだけで買物とか食事に出かけるようになっていった。

 そんな家庭の状況を利用して、母は『日曜会』というものを作った。
 子どもの保育園で親しくなったお母さんたちの集まりだ。小学校に行くようになっても 月に一度でも集まって、お茶とお菓子で語り合おうという訳だ。
 決して広くはない、製材所の二階の六畳は、楽しいパーティー会場だった。母の企画力というのは、誰でもが気楽な気分にさせられる雰囲気作りだった。どこの家庭も経済的にも家族の間にも問題を抱えていたようだったが、集まって話すうちに気がまぎれるようだった。

 その日曜会の最中に、何故か突然父が帰って来たことがあった。一瞬みんなが慌てた。取り繕う母と、
 ----どうぞ、ごゆっくり、と言う父。しばらくやって行くうちに、だんだんと参加者が減り、とうとうなくなってしまった日曜会。もう私も小学二年生になっていたと思う。

 袋工場を始めたのもちょうどその頃で、みんながワサワサとして来て、わが家も経済成長期に突入して行った。母の日曜日の過ごし方は、平日にやりきれなかった袋の印刷や、袋の縁のミシンがけをしていた。兄や私も お小遣いの餌に釣られて手伝ったりした。ほんとうに休みの取れる日は、母はよっぽど疲れているらしくて、TVを見ている子どもたちの横でゴロゴロしていた。そんな時は決まって、
 ----お昼は、なんかとろうかね〜、と電話をつかんだものだ。中華料理店から酢豚の大皿が届くと配達の人に、
 ----お皿は、今日中に取りに来てください、と付け加えていた。厳しい父への用心なのだと子どもにも分かった。

 夫婦という家庭の根源がうつろなままで、母が工夫して作って行った生活の楽しさやおもしろさは、近隣の人や、お友だちには暖かく映っていたようだ。袋工場の女の人たちの夫婦問題にも、しっかり相談に乗っていたのだから。少し大きくなった私に、ある時母は言った。
 ----男の人は、あちこち遊び回るけど、結局最後は、妻の所にしか帰るところはないのよ。他の誰が、最後までめんどう見切るねー。

 最後には、母が予告していた通りに、父はもうあんまり出かけなくなっていた。しかしその頃は、兄も家を出て下宿していたし、私も中学生でクラブ活動。もう家族が揃うことは、少なくなっていた。