もくじ

女の系譜

 祖母のこと

 母の両親は、母の祖父が開拓した土地と家を継承するために、祖父の采配で結ばれたらしい。古い写真を見ると、築山がある庭園を背景に皆が揃って写っている様子は繁栄の物語りを偲ばせていた。小さな子を膝に乗せて写っている彼女の母親は、写真の人々の中でも飛び抜けて目立っていた。目鼻立ちがすっきり通っていて美しい人だったらしいが、母の思い出話しからは厳しくて冷たい人としてしか語られなかった。

 立て膝をついてアイロンをかけていると、静かに後ろから近づいて来て、パシッと膝を叩かれたそうだ。私は、そんなことをされたことは一度もないから、母と祖母ふたりのタイプが違い過ぎていて驚いたものだ。まだ一十才ほどの年齢で、二度目の父親の仕事先の韓国にある学校の寄宿舎に入ることになった彼女は、最初だけホームシックになりはしたが、すぐに母親から離れて暮らす喜びと解放感が優ったと言っていた。自分の母親のことを嫌いだったと、躊躇なく話していた。そんな彼女を見ていると、何でも話せる親しい母娘の関係を持てる私は幸せだとも思ったものだ。

 私が一十才くらいの頃、彼女は自分の年齢を気にし出した。彼女の母親が脳いっ血で倒れて死んだ年齢に近づいていたらしかった。
 ----今の私くらいの歳で、お母さんのお母さんは死んだんだからねえ。そう思うと、なんだか気持ち悪くなるよ。
 あの時彼女は、四十才を過ぎたばかりの年齢で突然に死ぬということの意味を実感しようとしていたのか、それとも自分の母親のことを思い起こしていたのか、、、。

 曾祖母のこと

 母の母親が亡くなる以前に、父親の方もすでに亡くなっていた。そして、その弟がすぐに再婚の相手として選ばれた。昔は家の存続の為によく行われたやり方だったらしいが、すべてを采配した彼女の祖父の権威について想像したりする。家族のすべての人々が従っている人とは、どのような人であったのか、、、。

 その権威ある祖父の妻、つまり彼女のお祖母さんのこともよく聞かせてくれた。
 寄宿舎に入っていた彼女の元に季節ごとに送られて来る枕は、いっぱいお菓子の詰まった袋をカモフラージュしたものだったという話は、聞かされている私にも暖かさやユーモアが伝わって来た。家族の間でも互いを“さん”付けで呼ぶ習慣だったから、いつも母親からは「哲子さん」と呼ばれ、お祖母さんからは「てっこしゃん」と呼ばれていたという。
 そのお祖母さんの呼ぶ声の方が、彼女の耳にはやさしく響いていたことは確かだ。そのお祖母さんの死のイメージが私の中では、壮絶でありながら静かで荘重な場面として刻印されている。長男もその嫁も死んでしまった後、家長である自分の夫も亡くなってしまった後のことだろう、戦争ゆえの窮乏生活が続いていた頃、長生きしていたその人は、ある朝納屋の土間で、自らの頭の上に持ち上げた漬け物石を、自分の頭に落としたという。
 驚いて聞いている私に、
 ----戦争で食べるものも事欠くようになっとったからねえ、、、まだ元気だったのに、、、自分が迷惑にならん内に死ぬことにしなったのかねえ、と静かで温和だった祖母の中に隠されていた、激しい自尊心のようなものを見せられる思いがした。

 ----もう少し生きとってくれれば戦争は終わり、その後きっととても長生き出来たと思うとよ、と淋しくその話しは結ばれていた。

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 私の母は、その最期を病院のベッドで、きっかり六十才で終えた。ある意味では充分生きたし、漠然とした運命への恐怖というものは克服していたはずの女だった。もちろん私は最後まで母が大好きだった。病室へ付き添いに出かける私に父が、
 ----かあちゃんは、あれでも気性が激しいから、自分が助からんと分かったなら、なんばするか分からん。果物ナイフも病室には置かんようにしとっとよ、と「余計なこと」を言わないように注意された。
 しかし誰もはっきりした病状を伝えてはいなかったものの、彼女は、既に自分の肉体の不可逆的死にうすうす気づいていた節がある。
 同じ人に対して、あまりにも認識が違うのに私は驚いた。また、一度に理解出来ないもの、解決出来ないものを毎日突き付けられているようにも感じていた。そしてもう知らない土地のようになってしまった街を、病院に向かって歩いたものだ。

 人の為に死ぬ人と、自分の為に死ぬ人がいる。女たちの苦しみは、自分の子どもと他人に囲まれた生活の中で自分を捨てなければならない時、最高潮に達する。自分自身を既に充分に殺して来た彼女が、この期に及んで、どうして果物ナイフなどで自殺なんかしようか。それでもあの時彼女を目の前にして、ほんとうのことを何も言ってあげれなくて、勇気も愛も乏しかった私を お母さん、どうか許してください。