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台風 |
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| 台風をめぐる思い出はたくさんあるけど、その中でも、母が突然「眼が見えない!」と言った、あの年の台風は忘れられない。
家の周辺は、大小いくつもの製材所が立ち並ぶ地域だった。子どもの眼で見渡せる範囲からすれば、ものすごく広大に感じた広場には、太い丸太や、足場でも組むような長い丸太が、いくつもの山になって連なっていた。近所は製材所関係の家だけだった。お互いの家が、材木の山で隔たっていた。昔は、球磨川の上流から 筏(いかだ)に組んで運ばれて来た木材を 河口のそのあたり、海と川がちょうど接する川の流れがゆるやかになった所で受けとめていたという。私が子どもの頃には、もうトラック輸送オンリーになっていた。 製材所の裏手の川岸に、コンクリートと石を塗り固めたような突堤があって、よくそこに行っては、川を行き交う小さな漁船とか砂利船を眺めていた。あそこが、筏の停泊場だったのだろう。川のすぐ横の生活は、広々と海へ拡がる風景があっても、昼間はいつも 製材所のブンブンと回る鋸の音があたりに響いていた。 その時の台風は、その接近の前日から、製材所の人たちは、ワイヤーロープで、丸太が流されないように繋いで留めていく作業に追われていた。 機械の止まった製材所の中で、父も被害を最小にとどめようと、緊迫した様子で働いていた。 母は、やっと軌道に乗り出した袋工場が、台風に耐えられるかという心配でいっぱいだったのだろう。袋工場も、川沿いの道路より川岸に下った所にあった。台風の接近と共に、水嵩がズンズン増えていく。その時の台風は、海の満潮とちょうど重なって、川岸の家や工場を水に埋めていった。 病院に連れて行かれて診察してもらった。眼に細かい傷が無数に付いていたという。眼をカッと開いたまま、閉じることもせず、ひとり台風と戦っていた母は、身体の疲労も 眼の痛みも気を留めずにひたすら動き続けていたのだろうか。 ずーっと時は経って、その母も亡くなって随分年月も過ぎたある日、義兄が、同じように突然一時的に眼が見えなくなったという話しを聞いた。それは、彼の母親の入院がキッカケだった。それで、その時ふっと遠い記憶が蘇った。そしてその時理解した。極度の不安感や喪失感が、すべての存在を無化してしまう。つまり何も見えなくしてしまうんだ!と、、、。バイタリティーの塊だったような母の あの時の不安と焦燥。生きるということが、ほんとうに孤独で、挑戦的なものだったような嵐の時代を、誰が、何があの人を支えていたのだろう? |