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母のトラック

 「保証人倒れ」という言葉は、六才の私には、なんのことだか解らなかったが、何でも聞けば答えてくれる母は、自分が置かれている深刻な立場もあって詳しく教えてくれた。 自分で同情して自分だけで押した印だから、最後は自分がやるしかないかという覚悟のようだった。つまり父には相談なしで起きた事件だったわけだ。

 ある日突然、負債付きの社長になった母がまずやったことの一つに、運転免許取得がある。当時は女の運転手などめったに見かけなかった。自動車学校でも、母以外女の人は来ていないと言っていた。毎晩夕食が終わると丸いお盆をハンドルに見立てて、椅子に座った姿勢でくるくると手を交差させて、ハンドル送りの練習をしていたのをよく覚えている。

 工場の経営に乗り出してからもしばらくはトラックは買えなくて、父の勤めている製材所のトラックを、使ってない時を見計らって借りていた。

 初めて買ったトラックは、小さな軽トラックの中古で、車庫もないからいつも製材所の空き地に停まっていた。かわいい、それが母の最初のトラックだった。

 初めの数年の忙しさとにぎやかさのせいで借金の数百万円は返済出来て、その後にやって来たのが、ブルーの1tトラックで、しかも今度は新車だった。母が製品のセメント袋や石灰袋を配達することが多くなればなるほど経営は順調だったわけで、繁盛していたことになる。 学校から帰ってすぐに袋工場をのぞいてもいない時は、銀行か配達と決まっていた。銀行に行くにもトラックだったし、デパートへの買い物にもトラックで済ましていた。

 母の女学校時代の同級生でいつまでも親しい人たちが数人いた。ある時その中の一人のお嬢さんの結婚式に招かれた他のメンバーを、母は自分の車で乗せていく約束をした。たぶん電話で、だろう。当日きれいに装おった母の友だち二人が約束した場所で待っていると、そこにトラックが横付けした。怪訝に思っていると窓が開いて、
 ----はやく乗んなさい!きものに帯の「てっちゃん(母の愛称)」が運転していた。

 いつまでも語り種になっていたその話は、母からではなく、母の友だちが話してくれたのだ。その時のドライブの楽しかったことも含めて。

 私が中学に行くころには、いつの間にか1tから2tトラックになっていた。そして配達の区域も、市内県内にとどまらず九州全域に及んだ。遠くに行く時は夕方に出て、夜中に先方の倉庫に荷物を置いて帰ってくることもあった。 私はよく連れて行ってもらった。 すぐ車に酔うので車に慣れるために乗せられていたのが、そのうちに楽しくなってきて学校がない時はいつもついて行った。

 眠気をとるために立ち寄る夜中のドライブイン。トラック野郎ばかりの所に、母と二人で入っていくと目立った。コーヒーが大好きな母。

 国道3号線は九州の西海岸を縦断するルートだ。この道路の景色を母の運転するトラックからどれほど眺めただろう。

 マルタの甘夏みかんの直売所が立ち並ぶ田野浦(たのうら)の海岸線。

 フェリーに乗って、有明の海をトラックごとフェリーで渡る長崎の配達。帰りは助手席でずーっと寝ていて、家に帰り着いた時
「はやかったねー!」と言って母に笑われたこと。

 私が母にしてあげたことは、ひとつだけ。トラックのなかで、歌を教えたこと。

 あの時繰り返し繰り返しふたりで歌い続けて覚えた歌を、母は私の結婚式で歌った。無伴奏のアカペラで、堂々と!

 「ふたり〜のちいさな手〜なにも〜できないけど〜ふたりの手と手をあわせれば〜なーにーかーでーきーるー!」