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「ねえ出てご覧よ。月がまん丸」
何度も外からそう呼びかけられて、それまで暖かなストーブの前にいたぼくもようやく庭に出て行く気になった。
ほんとうに寒い夜だった。しばらくしてドアを開けて出た時のぼくの出で立ちは、それにしても余りに重装備だった。痩せた体がその面影を残していないほど太って見える。サンダルをひっかけた足には冬山登山用の厚い毛糸の靴下、その足元を隠さんばかりの裾の長い棉入れ、首にマフラー、棉入れの袖口から見えるのはご愛用の厚いセーター。
すでに外で月を見ていた彼女の方も同じようなものだった。丈の長い花柄のガウン姿。
冬の深夜の庭にそんな着膨れした格好で立つ二人のシルエットは、例えて言えば、恰幅の良い中国の皇帝と皇后が月光の下にお揃いで立っていらっしゃるという感じだったろうか。
まさに外は満月の夜。見事に明るい。本が読めそうに思える。実際にはどうやっても読めはしないのだが。
さてその夜の月は、プルシャンブルーの空にすっきりと浮かび、澄んだ大気のなか見渡せる限りをとても明るく照らしていた。それはさながら夜の太陽とも言える。ただその光りは冷たく、青味がかっていて、今や庭の草も木も道も電柱も家の屋根も、その青い色を浴びて凍りついたように光っているのだった。背景に黒々と寄り添う山の暗部も青い色を帯びていた。かりかりに凍てついた地面がそこだけ濡れたように見える影、すべてが月夜の神秘性と厳粛さを演出しているように美しかった。
「明るいねえ」とぼくに言うでもなく発せられた彼女の声もが囁くように小さかったのは、寝静まっている近所への配慮ばかりではなかった。
やっぱりそんな月夜の神秘性に圧倒されていたのだろう、その時ぼくも青い風景のなかでただ立ち尽くしていた。
やがて、
「何を見ているの?」突然彼女がぼくに聞いた。
「別に何も」あわててぼくは答えていた。
暫くして家に入った。暖かいストーブに再びあたりながら、大好きなコーヒーを飲む。それまで口に出さずにいたことを思い切ってぼくは言った。
「今見たものなのだけれど」と、慎重に言葉を選んだ。
「さっきはきっと怖がるだろうと思って言わなかったのだけどね。見えたのさ、何か、うーん、人のようなものというか、光った、、、白い、、、もので」
「え?なに?見たって?何を?どこに?」
「ほらそんな風に怖がるだろ、だから言わなかったんだよ、、、」
「ええ?何を見たのよ?ちゃんと言ってよ。それこそ気持ち悪い」
そこまで言われれば仕方ない、はっきりさせようと思った。
「小川があるだろ?あっちの方に。その縁にさあ、なんか、うずくまっているように見えたんだよ。人のようなものが。おかしいだろ、こんな真夜中にあんなところにさ。怪しい奴か、とじっと見ていたら急に立ち上がってさ、それから歩くように動いた、と思ったらね、、、消えたのさ」
確かに相当夜も更けている時間だし、人気のない場所だ。暗いなかでそのものだけは、ぼんやりと白くまるで浮かび出ているように見えたのだ。
「、、、、消えたというか、見えなくなったのね。何かの物陰に隠れたというのではなくて、溶け込むような感じでさ」
「それはお墓の方へ歩いていったの?」
ぼくは墓地が横にあることに今初めて気づいた。
「だとすると、、、幽霊? ゆうれい? わー、なんか怖いよね」それほど怖がっている風でもない。
今思えばどうしてあの時その異常性にそれほどこだわらなかったのだろうと思う。幽霊とも思えば思えたかもしれないし、もっと具体的に人が本当にいたのかもしれないし、何かもっと別の特殊な現象だったのかもしれない、などと考えればいくらでも突っ込む要素があったはづなのに。恐怖もなく、懐疑もなく、驚きもなかった。とにかくその日はそれで終わってしまった。夜もぐっすり寝た。
その川は家の門から三、四十メートル離れたあたりにある。川というよりも沢と言ったほうが良いくらいの大きさだ。二つの低い山を分けるようにして流れ下っている。水は両側に迫っている山から集まってくるのだろう。縁に沿ってついている林道を辿って登って行くと、三十分くらいで源流あたりにも行ける程度の長さだ。途中に設けられた集水の為の大小の溜めマスに水をとられて、森を抜ける頃には、最初水音高く流れていた水量もわずかになっている。
朝そこへ行ってみた。昨夜のあの「人のようなもの」が座っていたはずのところには、腰かけるほどの丸太も切り株もなく、ただ林道に架かるコンクリートの橋があるだけだった。
橋に立って下を覗く。水は少ししか流れていない。台風シーズンには道まで溢れるほどの水量も、冬のこの季節は全く静かなものだ。枯れ草で覆われた土手も高さにして二メートル、ちょっと滑るようにして沢床に降りる。夏でもあれば石の陰から驚いたサワガニが飛び出して来ることもあるだろう。季節が良ければ水遊びをする子どももいないこともないけれど、普段はめったに人の来ないところなのだ。
「ましてあんな真夜中になあ」と改めて思う。
「人じゃないだろう、、、あんな寒さのなかで用事があるなんてなあ、、、それに、まるで昔見た幻燈かなんかのように浮かび上がって見えたしなあ、、、でも、、、暗いなかでものをじっと見ると、そういう風に見えないこともないかなあ」
沢床に立って周囲を見回してみても、何が見えるという訳でもない。足元にある大小の石は、水が多く出た時に流されてきたものだろうか、渇水期の今はそれらの石の根方を濡らす程度の流れでしかなかった。
林道脇の斜面をちょっと登れば確かに古い墓地はある。しかしぼくには今度のこのことにとって、それは余り関係のないものに思えたのだ。
「墓場の亡霊だったら全然つまらないもの」と再び道に出て、同じ方角を向いて今日の曇り空を映している大小の墓石ををあおぎ見ながらぼくは思った。腹にぴったりとおさまらないものを抱えてスッキリしない気持ちではあったが、結局これは「事件」ではなくぼくの見た「幻」というか錯覚だろう、という結論に落ち着いてしまった。曇ってはいても明るい光線の下では、事物に神秘性を与える何かが決定的に足らなかった。
「まあ、神秘的な夜には神秘的な幻想がふさわしいというところかなあ?」
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