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自分が見たものは何か?それを特定できないままだった。ある日、柳田国男の「遠野物語」のなかに、日本の各地に残る伝説のひとつとして「山人」の存在が書かれているのを見つけた。
平地にいる我々一般人の住む世界とは違う『山地』という謂わば別世界が存在し、そこに住むもうひとつの種族として『山人』というものがいる、またはいた、それらのものの特徴は、背がやたらに高い(時に二、三メートルに達する)色が白い(!)または赤い(?)そして居所が知れない、神出鬼没のごとく何処にでも現れ動きが早い、と。
氏が取材した頃に比べてもうずいぶん世の中も変わってしまって、今ではロマンチックにさえ思える深山の別世界も失くなってしまっているだろうから、まさか山人でもあるまいが、、。
ただここで問題に思ったのは次の箇所なのだ。
『うそとまぼろしの違いはそんなにはっきりしたものではなく、自分が考えてもなおあやふやな話しでもそれを人に何度となく語り、聞いている者が少しもそれを疑わなかったなら、ついには実体験と同じだけの強い印象となって話し手自身をも動かすに至る』(柳田国男の文章より)
これはつまり「うそ」がそれを聞く人によって、話し手自身にもなかった(嘘をついているのだから)ものを、一つの(リアル!な)「まぼろし」として存在させ得る、ということだ。
「あのさぁ、あの晩ぼくが見たものを話した時に全くそいつを疑わなかったよねえ、きみは。あれは何で?」
「何でって、どうして疑わなきゃいけないの? だってそう見えたんでしょう?」
「それはそうだけど、錯覚じゃないのぉ? とか動物かしら? とかさ、そんな風に質問、というか疑問が浮かばなかったの?」
「あなたがこのまえ言ってたこと覚えてる?」
「言ってたこと、て?」
「寝ている私の頭のまわりが光ってた、ていうようなことや、天井裏で人の話声のような音がする、て言ってたでしょ?」
「ああそれなら覚えてるよ、ぼそぼそと何か会話してるような声だったなあ」
「そうでしょう、あなたはこのところアツが上がっているのよ、精神的に。そんな時はね、ただこちらは聞くだけで、反射的に思いついたような疑問を口にしちゃいけないのよ。むしろ邪魔しちゃダメなのよね、トランスレートしてる状態かも知れないから、、。」
「とらんすれーと?、、、」
実は最近ぼくは知ったのだが、彼女は神秘的なものにもともと興味があって、幼い頃は自分で習わしを決めた祈祷のような、神事の真似事などをするのが大好きだったのだそうだ。
例えば(昔はほとんどの家にあった)神棚を前にして座り、母親の鏡台の引き出しから選びだして来た化粧小ビンなどを前に並べ、子どもの玩具のタンバリンや鈴を鳴らしながらそれらのビンを並べ替えたり、その都度恭しくおじぎをしたりする。そしてそういう一連の所作を全ていちいち工夫もするし、儀式として、きちんと繰り返す為にルールを決め守るようにしていたのだそうだ。
そういう遊びの習慣が彼女についたのも、親戚の結婚式に小さな巫女として、三三九度の神酒をつぐというような重要な役回りをさせられていたことがあったからのようだ。こっちの方は遊びではなく、本来の大事な儀式として参加していた訳だが。
そんな人なのだから、ぼくが幻影を見た、と言ったところで何の違論を唱えることがないとしてもおかしくはないし、むしろそんな話しをこそ好むとも言える。
子どもの頃の杉本君といい、妻といい、ややもするとぼくにはそういう過剰な理解者とでもいうような人たちが、よく周りにいるようだ。
『われわれの先祖たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見て来てくれることを望んだのである』
と柳田国男氏も書いている。
「トランスレート、て恐山のクチヨセみたいなあの状態のこと?」
「そう、霊が降りた状態よね。ねえぇ、私の頭が光ってた、てどんな感じだったのお?」
「えーっと、それはぁ、、、」
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