女武芸者

 

 作中では女武芸者(女性の武芸者)の佐々木三冬が登場するが、実際の女武芸者はどうだったのかを考える。武士の娘がたしなみとして武芸を学ぶことがあっても、三冬のように道場の四天王になる実力を持つ女武芸者がいたのか検証してみる。

 

○女性も武芸が必要な時はある

 普通の武家の女性は武芸の腕を披露する機会があるのは、女武芸者として身を立てる者ぐらいだろう。女性でも武家に生まれたからには自分の身を守る程度の武芸の心得は必要である。

 低禄を除けば、武家の娘が供を連れず、一人で外出する機会は皆無で、外出中に襲われることも希である。自身の身を守らなければならない事態になることはまずないだろう。

 武家の女性の場合で武芸が必要になるのは敵討ちである。武家では親か夫、兄が何者かに討たれ、敵討ちをしなければ相続できないきまりである。しかし、必ずしも殺された人物に息子、弟など男系家族がいない場合はその人物の妻か娘、妹が敵討ちを果たさなければならなかった。敵討ちを果たした後に養子か婿養子を迎えて家を継がせる。

 叔父か従兄など男性親族が助太刀になってくれることもあるが、原則として助太刀は脇役に徹し、敵は本人が討たなければならない。日頃から稽古を積んでおかなければ敵討ちの時に困る。

 

○役職としての女武芸者

 主とその家族が住む奥は主とその家族以外の男子は出入り禁止である。主の正室と側室、娘が他の男性と関係を持ち、男子が生まれると御家騒動の火種になる。

 そのため、剣の腕の立つ男性に奥の警護役を務めさせることはできない。そこで女武芸者を主の女家族や侍女の武芸指南役兼奥の警護役として召抱えた。主の女家族の外出には男装して警護した。藩によって名称はいろいろあり、別式女(べつしきめ)、帯剣女、刀腰婦などがあった。

 奥に仕えるのだから単に強いだけでなく、武家の女性にふさわしい礼儀作法と教養を身につけることも求められただろう。主の女家族が他家への訪問など外出時には警護役として付き添うだけに、礼儀知らずでは御家の恥になる。採用後に奥の監督役である老女に躾けられただろう。

 藩主以外に千石以上の旗本と藩主の一族や重臣の屋敷など高い俸禄を支給されている家では政務の場の表と、主家族の居住の場の奥に分けられる。奥には女性の警護役が必要になる。藩では江戸藩邸と国許に奥があるため警護役は両方に配置しているはずで、交代勤務させるなら最低でも各二名は配置しないとならず、各藩にいると考えると全国で相当の人数がいることになる。もっとも、財政難の家なら体格がいい侍女を使ったかもしれない。

 役職として存在するからには少数ながら一定数の女武芸者が常に存在していなければ適任者がいなくなる。藩の場合はおそらく別式女が指南役として道場を構え、藩士の娘から入門者を募るか素質のありそうな娘をスカウトし、入門させて稽古させ、その中から適任者を選ぶのだろう。

 旗本では家来の数は大名に比べて多くなく、江戸市中か知行地から探すことになり、確保するのが難しいだろう。たしなみとして武家の娘は武芸を習うため指南役の家臣か出入りする道場主に教わるはずで、その時に指導役の推薦により若いうちから御役目のため本格的に修行するように主が命じたのかもしれない。

 浪人か低禄の家の娘が女武芸者として雇われ、主か主家族に気に入られ家族が仕官か出世したという話もあったのかもしれない。

 

○女武芸者の登場

 江戸時代より前の時代には巴御前など有名な女武将がいた伝承はあるが実情はわからない。女武芸者は寛文年間(1661から1673年)より目立つようにあったそうだ。平和な時代になり武芸が合戦のために用いられることがなく、心身を鍛える自己鍛錬の手段に変わった時期でもある。

 池波作品の短編「妙音記」(短編集『剣客群像』に収録)に登場する佐々木留伊は、剣客商売の佐々木三冬のモデルで、留伊は作中の記述によると江戸時代の『責而者草(せてもぐさ)』の中で登場する実在の人物だそうだ。武芸指南役の佐々木武大夫は一刀流、柳生流の鎖、神道流の馬、関口流の柔術と捕手を究め武芸を一人娘留伊に残らず伝授したそうだ。 

 北辰一刀流祖千葉周作の弟・定吉の三人娘が女武芸者として有名である。特に長女左那は「鬼小町」と異名を持つ遣い手だったと伝えられる。他の道場では女性が皆伝を受けても伝書に名前を載せない中、定吉の道場が発行する伝書では定吉の娘の名前が記されている。

 女武芸者は親が道場主か剣術指南役、武方と呼ばれる番士(合戦では主戦力、平時は警備役)など武芸が盛んな家が多いだろう。

 女武芸者は男性の剣客同様に、実家の禄高に関係なく技量が優れていたら取り立てられる。別式女になり、主とその家族の側に仕え、彼らに気に入られれば親、兄弟の出世の道が開けることも考えられるだけに低禄の家を救うため女武芸者を目指した女性もいただろう。 

 

○稽古はどうしていた

 三冬のように道場に通い、男性に混じり稽古をすることは稀であろう。並の男性より強い三冬なら男性相手の稽古でも力量的に問題ないが、並みの女性なら体力的に厳しいだろう。

 また、儒学思想に「男女七歳にして席を同じくせず」があり、非難の的になる。例え道場主が許可を与えても、三冬のような美しく強い女性が道場で稽古を行えば、他の男性の門人が気になって稽古に集中できず、彼女目当ての入門者が増え、道場としては迷惑になるだけなのかもしれない。

 江戸中期以降は武士は官僚化し、男性でも武芸者を目指すものが少なく、武芸の稽古をしていれば同僚から不審な目で見られ、教養や社交性を見につけるため茶の湯など芸事の稽古を勧められるご時世である。女武芸者を目指すのは世間から「変わり者」扱いされたの可能性が高い。

 世間の噂になり「鬼小町」というありがたくない異名をつけられれば、自分より強い女性を妻にしたくないと考える男性が多いだけに婚期を逃がすことになる。そのため、一定数の女武芸者が存在していたのに関わらず、記録があまりないのは表立って稽古していると婚期に関わるため女性だけで稽古しているからだろう。

 別式女のように藩に召しかけられている女武芸者が城内か屋敷に道場を構え、稽古をつけるか道場主を自分の屋敷に呼び稽古をするのだろう。父親が道場主なら通常の稽古が終わった後に教わることもあっただろう。

 

○女性が習う武芸は?

 江戸時代では薙刀と鎖鎌を習うことが多いようだ。鎖鎌術を習うのは薙刀術には鎖鎌術が併記されていることが多いことが理由らしい。薙刀は刀より柄が長く、刀相手に有利な武器でもある。

 時代劇では「女性は非力」という理由で小太刀を使っている。小太刀対刀では柄が短い小太刀が不利である。小太刀で刀を使う相手に勝つのは相当の技量が必要になるため困難である。そのため、帯刀が許される身分なら刀を用いる。

 

○武芸界での女性の扱い

 道場を神聖なものと考え「女性を穢れたもの」と女性を差別し、道場に入れさせない道場もあったそうだ。武芸を極め相伝を受けても女性には花押(判子のようなもの)や諱名(辻平左衛門直正の「直正」が諱名)がなく、相伝系図に記されることはなく女性用の伝授巻を与えた。

 ただ、明治時代の直心影流の女武芸者の佐竹茂雄と園部秀雄のように、名前だけでは男性と区別できない名前を名乗る習慣があったのかもしれない。そう考えると男性の名前しか記載されていない伝書でも実は女性が含まれている可能性がある。

 なお、佐竹茂雄は講武所師範だった直心影流の佐竹鑑柳斎から直心影流薙刀術を継承し、園部秀雄は彼女から学び明治三十三年(1890年)の第一回武徳大会で優勝している。

 

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