剣客商売の時代の食

 

 池波作品の特徴として食事のシーンが多いことが挙げられる。剣客商売でも料理本である『剣客商売包丁ごよみ』が出版されているほどである。食事のシーンが登場人物の日常生活に実態感を持たせ殺伐とした話をしている場面でも食事中が多く雰囲気を和らげる。

 個人的に印象的な場面は四巻・天魔の笹目千代太郎と立ち合う前に親子揃って鳩饅頭を食べて腹ごしらえをするという果し合いの前に饅頭を食べる意外性が面白く感じた。十四巻暗殺者で大治郎が狙われているわけが田沼意次暗殺のためだと小兵衛が大治郎の言葉でわかり大治郎が剣客としては正しいが冷静なことに珍しくヒステリックになった父は腹を立てるが「饂飩が煮詰まってしまいます」と大治郎に冷静になるように促されている場面も食事のシーンが効果的に使われている

 食通の池波氏は小兵衛に「剣客をやめて料理人の修行したほうがよかった」とまで言わせているが池波氏の本音なのかもしれない。

 池波氏が江戸時代の安永時代を好むのは現代の日本人に通じる食文化がこの時代から整ってきたことも一つである。作中の少し前の明和年間(1764年から1761年)に入ると人々の生活に余裕が生まれ屋台や道端の店が増え不二楼のような本格的な料理屋も登場し外食が身近なものになった。ここでは剣客商売の時代の食を中心に江戸時代の食について紹介する。

 

◆江戸時代の食事全般

○主食は?

 江戸御府内では米が主食である。武士の俸禄である一人扶持が成人男性は1日米五合と計算されているように普通の人でも米を五合食べていた。小兵衛たちもそれぐらい食べていただろう。健康志向の人や一巻女武芸者の弟子のいない頃の大治郎、下級武士、庶民のように経済的に苦しい家では麦飯を食べていた。地方では米に麦や雑穀を混ぜたものを食べて米をご馳走だと考えていた。

 江戸に来る前は麦飯を食べていた者が江戸に来て米ばかり食べビタミンB1不足から脚気になり田舎に帰ると直ることから「江戸患い」という名前の奇病として知られていた。特に常時米だけを食べられる裕福な者に多い。十代将軍家治も脚気が原因で亡くなったとも言われる。「江戸患い」は玄米を食べる人には起こらない。

 

○普段の食事

 一汁一菜が基本で御飯に味噌汁、香の物におかずが一品つく。現在のように日常の食事に何品もおかずが並ぶようになったのは戦後の話である。三巻嘘の皮で大治郎が村松伊織に言っているように大治郎の家では惣菜を欠くこともあった。黒白下で紹介されている松代藩主真田伊豆守信弘の朝餉は塩粥に梅干と香の物だけで禅僧のような暮らしだと池波氏は評している。

 小兵衛の家も御馳走の時以外は一汁一菜である。大名の普段の食事は一汁二菜か三菜で庶民と大差はない。武家が他家の者を招いた宴席、身内の祝い事などハレの日では贅沢な食事が出されるが御家の体面や見栄を重んじるからである。

 武家は親類と祖先の命日には精進日として魚肉は食べないが何代も続く家では精進日が頻繁にあり魚肉を食べられる日が限られる。 

 

○豆腐と納豆

 江戸時代では食材の旬の期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があった。十一巻・小判二十両では小兵衛は夏は毎日豆腐四丁を食べるとある。江戸の一丁は上方の四丁に相当し江戸の四丁だと十六丁になる。江戸の豆腐一丁は56文から60文で単純計算では一ヶ月1800文と出費が多いので江戸の一丁と考えるのが自然だろう。

 豆腐好きは小兵衛に限った話ではなく身分の上下に関わらず好まれ小兵衛の孫・小太郎が生まれた天明二年(1782年)に大坂で様々な豆腐料理を紹介する『豆腐百珍』が出版され好評につき翌年に続編が出された。江戸でも流通しただろう。

 納豆は一人前四文で文政年間(1818から1830年)は納豆と豆腐や葱を細かく切り薬味を添えすぐに味噌汁の具に使えたたたき納豆が一人分八文でよく売れたそうだ。

 

○野菜

 野菜は青物と呼ばれていた。タンポポ、ハコベラなど野生種も青物に加えられていて人参、大根、里芋、茄子、胡瓜、冬瓜が飢饉に備えて栽培されていた。江戸で食べられる野菜は近郊農家が栽培したものである。お浸しか煮物、煮物、和え物にして食べる。十四巻暗殺者で萱野の亀右衛門が練馬の百姓から届けてもらった大根を食べているが練馬大根など名物野菜も江戸時代に生まれている。

 

○魚介類 

 保存技術も輸送技術も現代と比べると乏しい中、小兵衛達が多くの魚介類を食しているのを意外に思うかもしれない。作中でも紹介されているように江戸前(江戸の前の海)は魚介類の宝庫であった。もちろん鰹や鯨、鮪など外洋魚や松前昆布、加工品は江戸前では捕れない。

 魚は膾、刺身、焼魚、煮物にして食べる。

 食べ物の好みにうるさくない小兵衛が作中では唯一嫌っていると紹介されているのが鰻である。上流階級は白身魚を高級な物と考え好んで食べ、脂の多い赤身魚は体に悪いとして嫌われ価格が安いため当時としては当然の感覚である。作中の約二十年後には鰻をいったん蒸して余分な脂を落としたれをつける料理方法が考案されると流行する。

 脂の多い鮪は節約のために食べるようにすすめられ、余れば畑の肥料にされた。鮪の握り鮨が登場したのは大漁で始末に困ったからである。『仕掛人・藤枝梅安 六巻 梅安影法師』によると子供時代(昭和初期)の池波さんは魚屋から鮪の大トロを無料でもらえたとある。健康志向の現代では海外でも鮪ブームが起こり国際会議を開いて各国の漁獲量割り当てを決めて鮪の資源保全を議論している。時代が変われば物の価値が一転したわかりやすい例である。もっとも江戸時代では魚は庶民にとって贅沢品だった。

 

○棒手振りなど行商 

 又六が魚の棒手振りを鰻の辻売りと兼業でしている。棒手振りは厳密に言えば「振売り」で魚売りだけは「棒手振り」と呼ばれる。

 いつも決まった道順を決まった時間に通るため自宅で待っていれば料理の材料は買える。冷蔵庫はなく長屋では独身なら作る手間もかかり外食も多く台所がないこともあり惣菜を振売りから買った。近隣の農家が江戸まで野菜の行商に来ることもあった。

 一人一人が扱う品や種類は異なるが長屋の井戸端で近所の人と話しながら待っていれば料理の材料だけでなく日常品もある程度揃うので便利である。惣菜売りは女性が少ない江戸だからこそ成立する商売のようで上方では少ない。

 

○一日何食食べるか?

 元禄年間(1688から1704)から江戸では一日三食が定着した。労働時間が夜に食い込んだことや経済的な余裕が生まれ灯りを灯す家が増え、一日あたりの起きている時間が長くなったことが要因だと考えられている。享保六年(1720年)に生まれた頃の小兵衛の生国ではわからないが同時代の八代将軍吉宗は一日二食を守っていた。

 

○酒

 酒は上方から輸入した。灘、池田、伏見、伊丹など上方の酒である。天明の飢饉で酒の原料である米が不足し、天明六年(1786年)には酒造制限が半分、翌年には三分の一に制限され流通量が減少した。天明三年(1783年)からは新酒の値段が天明の飢饉の影響で十二両くらいから二十両に値上がりしお得意先に配るのを配るのをやめたそうだ。

 小兵衛が八巻狂乱で友人の牛堀九万之助に彼の好物「銘酒亀の泉」を柄樽に入れて土産にした。樽は酒屋からの貸し樽が多く使えなくなるまで何度も再利用された。一升から五升の酒は樽、それ以下は大きめの徳利を酒屋から借りるか自分で容器を持参した。大名家では酒は薬の意味合いか食後と決まっているのは空腹時に酒を飲むのは酔いが回りやすいので食後にしたのが理由かもしれない。

 

○調味料

 味噌は自家製のものを作る家もあり、武家は屋敷は広いが金がなく出費を減らすために極力作っていたようだ。保存できるだけの場所がない長屋の住民は買い求める。一巻・剣の誓約では大治郎は味噌を買うという記述があることから味噌は作らなかったようだ。

 人気のあった味噌は仙台藩の祖伊達政宗が味噌醸造所を作らせて増産させた赤色辛口の仙台味噌、江戸近郊で作られた麦麹を使った赤味噌の田舎味噌、江戸産の江戸味噌がある。醤油は上方の「薄口醤油」を江戸へ輸入していたが文化文政年間(1804から1829年)に江戸独自の食文化ができると江戸近郊で「濃口醤油」が作られ人気が出た。

 

◆江戸の外食

 江戸の町は男性の比率が大きく単身男性相手に商売をする外食産業が起こった。作中の小兵衛達はよく不二楼や鬼熊酒屋、蕎麦屋など外食が多い。しかし、江戸で気軽に外食できるのは意外と遅く小兵衛が江戸の辻道場に入門した享保十六年(1731年)当時は予約なしで外食できる店が少なかった。初期の頃の大治郎のように経済的余裕がなければ外食は出来ないが職人のように経済的に余裕がある独身暮らしの男性は家で作るのが面倒なので屋台などの外食を楽しんだ。

 箸は文政年間(1818から1829)に引割箸(割り箸)が登場するまでは竹の箸を洗って使用していた。

 

○外食の元祖

 明暦の大火(明暦三年1657年)以降にできた浅草寺門前の「奈良茶飯屋」が江戸での外食の元祖と言われ緑茶で炊いた飯と一汁二菜の食事を出した。

○茶屋

 作中何度も登場する茶屋だが外食産業の元祖であった。都会の盛り場や観光地にある腰掛茶屋と街道筋にある立場茶屋が江戸時代以前からあり道に敷物を引いただけの簡単な作りであった。茶以外は団子、餅など菓子類しか出さず人通りがある昼間のみの営業だった。それでも商売が成り立つのは江戸中期に喫茶の習慣が定着したからである。

 建物を持った常設の店になったのは享保九年(1724年)のことで劇場の火事で焼けてしまい劇場が防火建築の蔵作りに再建され劇場前の茶屋も同様に防火建築にした。建物がある茶屋は水茶屋と呼ばれその後江戸の名所で水茶屋が生まれ作中の少し後の寛政年間(1789から1801年)には江戸中に二万八千軒ほどあった。

 競争が激しくなると「茶汲み女」という看板娘を置くようになり時代が連れると売春の温床になりついに茶屋とは名ばかりの店も出て幕府は何度も茶汲み女についての令を出した。また、作中で登場する上野不忍池の湖畔の「出会茶屋」という密会専門の茶屋が明和安永年間(1764から1781年)にできた。

 

○料理茶屋

 二階建ての立派な建物の水茶屋は寄合、饗応から句会や碁会など趣味の集まりに使われるようになり客の要望に応える形で酒や食事を出すようになり料理茶屋に発展していった。当初は一膳飯屋として簡単な料理を出していたが作中の黒白で波切が滞在した橘屋忠兵衛のように料亭と変わらないような料理を出す店もあり現代の軽食喫茶から料理屋、料亭まで幅広くあったようだ。

 本格的な料理を出す料亭が明和年間(1764年から1761年)に登場し、屋台や道端の店が増え本格的な料理屋も登場した。嘉永六年(1853年)の『守貞漫稿』には天保から嘉永年間(1830年から1853年)に料理茶屋で会席風の食事が銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)とある。庶民の中では給金がいい大工の手間賃一日分以上に相当するためけっして安い額ではない。小兵衛がなじみの不二楼での食事はこれぐらいか少し安いくらいの値段かもしれない。

 

○蕎麦と蕎麦屋

 作中では蕎麦屋は数十軒も登場する。江戸時代までは蕎麦掻や蕎麦煉りといって蕎麦粉を熱湯で練って餅状に汁をつけて食べていたが慶長年間(1596から1614年)に細長い蕎麦「生蕎麦」が登場し、元禄年間(1688から1703年)に小麦粉つなぎに使い「蕎麦切り」という現代の蕎麦と同じものに発展、安永年間(1772から1781年)に定着した。元禄までは菓子屋の副業で蕎麦屋やうどん屋を営んでいた。そのため、十四巻暗殺者で小兵衛が稲垣忠兵衛への見舞いの品である蕎麦落雁を蕎麦屋の明月庵で買ったのはその名残という設定だろう。

 寛文四年(1664年)に蕎麦屋の屋台が浅草で始まったといわれ一杯が六文、作中の時代である明和安永年間(1764から1780年)以降は十六文に定着した。十六文という中途半端な値段設定は明和五年(1768)に発行された四文銭が鋳造時は黄金に似ていることから高い人気で物の値段に四の倍数が増えた影響なのかもしれない。

 最初は蒸籠で蒸した「もり」だが上から汁をかけて食べる「かけ」に人気が出た。寒い時期なら「もり」より温かい「かけ」が好まれただろう。五巻白い鬼で登場する上州屋が寒い中でも上州風のもり蕎麦しか出さない頑固な商売をしているとあるので作中の頃は「かけ」が主流だったのだろう。

 

○居酒屋、煮売酒屋

 作中の「鬼熊酒屋」が印象深い居酒屋だがもともと居酒屋は享保年間(1716年から1735年)に酒屋の店先での立ち飲みが元祖で酒の肴に田楽を売り出した豊島屋が立ち売りを発展させて評判となり居酒屋や煮売酒屋が続出した。文政年間(1818年から1829年)で居酒屋で酒二、三合に肴が二、三品食べると百文になるそうだ。鬼熊酒屋は「安くて旨い」と評判なのでさらに安いのだろう。寛政年間(1789から1800)には煮売酒屋が盛んなため作中の時代にはすでに成立していただろう。煮売り屋は昼間は飯屋を兼業している。「なん八屋」という酒の肴を特別なもの以外は八文という店もあり繁盛した。

 豊島屋では酒を安値で飲ませることで客を集め、大量に出た空樽を売ることで儲けを出した。空樽は再利用され一樽約一匁(作中の時代では銀六十五匁が一両)で取引された。安値路線の鬼熊酒屋は明樽を売ることで経営を成り立たせているのかもしれない。

 時代劇では現代のように食卓の上で椅子に腰をかけて食べているが床机に腰掛けて横に食べ物を置いて手で持って食べるのが江戸時代では普通であった。

 

◆剣客商売の後の時代に流行した料理

○天麩羅

 十六巻浮沈では滝久蔵が天麩羅蕎麦を扱っていない万屋の主に苦情を言うが江戸に天麩羅が伝わったのは天明年間(1781年から1789年)といわれている。最新の天麩羅を好む滝と頑固な商売をする万屋の主という対比がおもしろい。ただ、天明五年(1785年)時点で天麩羅蕎麦があるかはわからない。

 屋台で材料を串に刺して揚げ、丼のたれを附けて食べる。一品四文から六文と手軽な食べ物として定着し嘉永年間(1848年から1853年)には専門店まで登場した。

 

握り鮨

 小兵衛達の時代には握り寿司はなく少し後の文政年間(1818年から1829年)に考案され流行した。ネタは江戸前のものを使う。それまでの鮨は押鮨や一夜で作る飯鮨で宝暦年間(1751から1763年)に屋台寿司が登場し、天明年間(1781年から1789年)には50軒以上の鮨店があった。

 握り鮨は用意ができていれば握るだけでできるためファーストフードのような手軽な感覚で食べられていた。屋台の鮨は一個四文から八文で現在の数倍以上の大きさの鮨が食べられ一個食べれば充分な量だったことからおにぎり並みの大きさだったのかもしれない。店を構えた鮨屋は庶民を相手にする屋台とは異なり高級志向になり金三両もする高級鮨も登場した。

 寿司で人気の鮪(マグロ)が寿司に使われたのは天保三年(1833年)に大漁で畑の肥料しても余ったのか始末に困りよい部分を鮨にして売ったといわれている。

 

○鰻と鰻丼

 嫌いなものがなさそうな小兵衛が唯一鰻だけは嫌っているとある。脂の多い魚は健康に悪いと嫌い、白身魚を食べる上流階級の影響がある。作中で語られているとおり肉体労働者の食べ物として扱われていた。店を構えてる者は少なく又六がしているような蒲焼の辻売りが多かったのだろう。

 土用の丑の日に鰻を食べる習慣は鰻が売れなかったころ平賀源内が鰻屋に頼まれて作った宣伝がきっかけと伝えられている。平賀源内は田沼意次の支援を受け各地を調査した、田沼の私的な家来という説もある。

 料理方法は江戸初期は鰻を串に刺したまま焼く蒲焼でその後、上方で腹を開いてから焼いてから切る料理法が江戸に伝わると腹を切るのは切腹を連想させるため江戸では背を開いて焼いて切った。元禄年間(1688年から1703年)に江戸で鰻屋が開かれた。作中にも何軒か登場しているがこの頃は鰻はあまり流行っていなかった。

 作中の二十年後には鰻をいったん蒸して余分な脂を落としたれをつけて食べる方法が開発されると流行しまさに鰻登りの人気になった。又六がもう少し後の時代に生まれれば商売は上手くいったかもしれない。

 鰻丼(鰻飯)は文化年間(1804年から1817年)に江戸堺町の芝居小屋の大久保今助が芝居を見ながら食べられるように考案し江戸で流行した。現代では信じられないだろうが江戸前の鰻が最高のもの。文政年間(1818年から1829年)には深川だけで鰻屋は22軒。値段は文政年間で蒲焼が高級なもので一皿200文から、安いもので172文。又六のような辻売りでは一串16文。鰻丼は一杯100文から150文、200文と人気が出るにつれ値上げしたようだ。

 明和安永年間(1764年から1780年)に鰻の蒲焼に飯を添えるようになったので小兵衛が小川宅で食べたのもこの種類の物だろう。

 

○割り箸

 食べ物ではないが外食産業を大きく変えたものの一つに割り箸がある。現代では多くのお店で割り箸が使われている。海外の森林資源保護の観点や国内産の森林資源の有効利用という観点から大半を占める海外産ではなく国内の間伐材を割り箸にして国内の林業を助けようという活動や割り箸を回収してチップボードや紙の原料などに再利用する活動が行われている。(私事だが私も大学時代に入っていた環境サークルで割り箸回収を行い、再利用される工場の見学にも行った)

 割り箸は約百九十年前に登場した。鰻丼の流行で従来使っていた竹箸など洗い箸では面倒ということもあるだろうが他の業者から箸の使いまわしに難癖をつけられたのかもしれない。「引割箸」と呼ばれる現代の割り箸の元祖である。文政年間(1818から1829年)には京、大坂でも使われたという記録がある。

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