申請番号22
平成8年7月
平成7年5月22日に本倫理委員会に下記の申請がなされた。
申請番号22「性転換治療の臨床的研究」
主任研究者: 原科孝雄(総合医療センター、形成外科)
分担研究者:木下勝之(同、産婦人科)、内藤 豊(同、泌尿器科)、鍋田恭孝(防衛医大、精神科)
研究の概要:性転換治療は本邦では全くタブー視されている問題である。これらの患者は肉体の性と、頭脳の中のそれとの相違に苦しみ、自殺にまで追いやられる場合もある。そして闇で行われる手術を受けたり、海外での治療を求めるなど、暗黒時代とも言える状況にある。諸外国、特に欧米諸国ではこの治療が合法化され、健康保険の対象にさえなっている国もある。この治療を医学的に系統づけ、これらの患者の福祉に役立つことを目的に、女性−男性の性転換をおこなう。
対象症例:代表症例 2例
本申請に対し当倫理委員会では12回にわたってこの問題を討議した。
討議はおおむね次のような流れにそって行われた。まず、性の決定に関する生物学的、心理社会的因子について学習し、ついで、性の分化の障害について主として文献的検討をしたうえで、本申請に関する審議を行った。
以下、これらの討論の概要とともに本申請に対する委員会の審議結果を報告し、答申を行う。
一般に、ヒトの性には生物学的雌・雄(female, male)を表す性(sex)と、心理的・社会的な女性性・男性性(masculinity ・ feminity)を表す性意識、性別 (gender)があるとされる。
前者の生物学的性(sex)は遺伝的に決定されるもので、染色体上のY染色体の有無によって決まることは周知のとおりである。しかし、両性の中間型であるいわゆる間性と呼ばれるものがあるように、その区別は必ずしも絶対的なものでは無いこともまた、事実である。
後者の心理・社会的性(gender)は、遺伝的に規定された生物学的性にふさわしい心理・社会性を備えているかどうかの問題である。一般に男性が男性性を、女性が女性性を身につけることには、生物・心理・社会的な要因が関与しているとされている。したがって、「自分は男(女)である。男(女)らしい」という認識のもとに、「生物学的性」と「心理・社会的性」が一致するとき「性 同一性 (gender identity)」があるという。そして、この男性性・女性性がなんらかの理由により一致しないとき、これを性同一性障害 gender identity disorder と呼ぶ。性同一性障害のもっとも主要なものは性転換症 (transsexualism) あるいは性別違和症侯群 (gender dysphoria syndrome) と呼ばれるものである。
性転換症とは「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきりと認知していながら、その反面で、人格的には、自分が別の性に所属していると確信し、日常生活においても、別の性の役割を果そうとし、さらには変性願望や性転換願望を持ち、実際に実行しようとする人々である」と定義することができる。
そこで、性と性意識(同一性)の分化、確立の過程をみるなかで、その同一性に障害のあるものの臨床ならびに治療の実態を明らかにし、外科的性転換術の必要性と倫理性につき判断することにする。
1)生物学的性(sex)の決定
(1)性の分化
遺伝的な性は精子と卵子が合体した受精の瞬間に決まる。すなわち、性染色体がXXであれば女性、XYであれば男性となる。ただし、その後の身体的性の分化発達には次のような性による時期的ずれが存在する。
以上の性分化の過程はY染色体上の遺伝子(SRY抗原)やそれにひきつづく性ホルモン、特に男性ホルモンが方向づけの鍵をにぎるとされており、それぞれの性分化にはそれらのホルモンが作用しうる適切な時期、すなわち臨界期があり、その時期をすぎると別の性へと転換ができない、非可逆性がある。
そして、いったん性への分化が始まると、すべてがその流れにそって、脳が分化し、神経回路網や脳内神経の部位差が生じ、その結果、周期的な排卵や性特有な性行動をとるなど脳の性差が形成されるにいたる。また、骨格もホルモンもあらゆる身体的なものが性の分化にしたがって変化し、男性あるいは女性の特徴を示すようになる。
その意味では、ヒトの生物学的性(SEX)は遺伝的に厳密に規定されており、それにしたがって、後戻りのきかない一定の順序で性差が決められているということができよう。
(2)性分化の障害
このように、生物学的性 (sex) はきわめて明瞭に、画然と分れているかに見えるが、必ずしも男女の境界線はつねに明瞭とは限らない。すなわち、性分化の途中で、過誤が生じ、そのために遺伝的な性と異なる形態的な性を有することがある。これらは間性あるいは半陰陽などとよばれるが、これらのものの多くは遺伝的な原因や、染色体の異常、あるいは特別な病気のため、発生の途中でホルモンの異常が生じ、性の分化に障害が起こり、遺伝的な性と外性器の不一致が生じたものである。
例えば、精巣と卵巣をともに持つもの、性腺はひとつでも内・外性器が性腺の性と逆に分化していたり(半陰陽)、時には性の判定の困難な場合(間性)もある。
これらの代表的な疾患として、副腎性器症侯群、クラインフェルター症侯群、ターナー症侯群などとよばれるものがある。
以上に述べた生物学的性の分化に関する障害に対しては、以前から医学的治療の対象として、外科的治療が行われてきており、今回の申請対象にはこのような障害は含まれない。
2)心理・社会的性の決定
生物学的性(sex)とは別にひとが「自分は男 masculinity(女 feminity)であるとか、男(女)らしい」と意識する性別(性意識、gender)はどのようにして形成されるのであろうか。
「個人が自分の性別、性差(男性−女性 male/female、男であること−女であることmaleness/femaleness、男らしさ−女らしさmasculine/feminine)について抱く、すべての感覚、認知、実際的な言動、文化的・社会的規範や価値観」を総称してgender
identity (性同一性、性の自己認知) という。このような性の自己認知(同一性)がどのようにして形成されるのかをまず、みることにする。
* 日本ではidentityという言葉の訳語として「同一性」をあてることが多い。それはこの言葉がErikson,E.H.の理論とともに精神分析学領域のひと達によって紹介されたためである。しかし、同一性という言葉は専門領域以外の人達にはなじみにくいことを考え、あえて、自分の性に対する意識、認識、という意味で「性の自己認知」という言葉をあてた。Identityという言葉は単なる認識だけではなく人格全体を表現する力動的概念であるとの指摘も承知のうえであえて同一性という言葉を避けた。ただし性同一性障害という言葉はすでに固定化しているので、性の自己認知(同一性)の障害を表す時は「性同一性障害」という言葉をそのまま用いることにした。
(1)中核的性の自己認知 core gender identity の確立
いわば生物学的な性に対する原初的自己像ともいうべきものとして、「自分が男性である I am a male か、女性であるか I am a female についての確固とした自己認知と基本的確信」がまず生まれるが、これを中核的性の自己認知(性同一性)とよぶ。
この中核的性の自己認知は
言い換えると、中核的な性の自己認知は、その後の心理・社会的性(gender) の発達の進路を決定する中核であると同時に、その個人の一生を通して変化することのない不変で、不動の自己定義であるといえる。そして、この中核的な性の自己認知の形成に関与する特定の臨界期があり、その時期を逸すると形成が困難となるといわれている。
中核的な性の自己認知の形成に関与する因子についてこれまでの報告をまとめると次のとおりである。
このように、中核的な性の自己認知は生後のかなり早い時期に形成されるが、例えば半陰陽など、外性器に異常のある場合には両親や医師など、周囲の人々の性認知が曖昧で、男子として養育すべきか、女子として育てるべきか、こどもの性に対する一貫した態度がとれず、そのために安定して、明確な中核的性の自己認知ができず混乱をきたすことが多い。
ところで、このように生後のかなり早い時期に確立された中核的な性の自己認知は、その後の心理・社会的影響を受けながら、変容を遂げると考えられる。
(2)性の自己認知の形成
中核的性の自己認知を基盤として形成される心理・社会的な性の自己認知(gende identity) は一生涯をとおして絶えず変化、発達していくといわれている。すなわち、両親のしつけ、教育、友人、社会関係の中で育まれ、ライフサイクルに応じて変化するが、なかでも性別役割 gender roleが性の自己認知の形成にとくに重要である。
人は社会の中でその個人の年齢、地位、性別、職業などに応じて行動しなければならない「義務」や、行動することが求められる「期待」がある。性にかかわる役割、すなわち性別役割も日常生活における何気ない言葉使い、衣服の身のつけかた、家族内の関係、社会的人間関係、儀式などさまざまな場面で求められ、期待されている。したがって、性別役割はその個人をとりまくさまざまな環境因子との絶えまない相互作用のなかで学習され、修正されるわけで、その意味では性別役割は文化、社会、歴史によって変りうる相 対的なものであるということができよう。そして、性に関する自己認知もまた性別役割を通して形成、確立されるものであり、それは可塑的、機能的で、そのあり方も多種多様で時代や文化によって変化する、といいかえることが出来る。
3)性同一性の障害
生物学的性 (sex) と自らの有する男(女)性 性、心理・社会的性の自己認知(gender identity)とが一致しないとき、これを性同一性障害 gender identity disorder あるいは性転換症 transsexualism、性別違和症侯群 gender dysphoria syndromeと呼ぶ。
性同一性障害は先に述べたように「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している」と定義される。すなわち、男(女)性の肉体を持ちながらも本来自分は女(男)であって、男(女)性に生まれてきたのはなにかの間違いであると考え、こうした確信に基づいて、日常生活においても女(男)性の装身具類を身につけ、女(男)性の性別役割を実行する。さらにこのようなことだけで安心せず、本物の女(男)性になりたいという変性願望や性転換願望を持ち、ホルモン投与や性転換術までも行おうとする状態をいう。
言葉をかえれば、性同一性障害とは中核的な性の自己認知の混乱と逆転した性の自己認知であり、強い性転換願望を持ち、それに基づいた性転換への要求が特徴といえる。
このような性同一性障害についての概要を次に述べる。
1)性同一性障害の臨床
(1)発現率
米国の研究によれば、成人男性の24,000-37,000人に1人、女性の103,000-150,000人に1人くらいの割合で性同一性障害が存在する といわれるが、実際の数は把握しにくいこともあり、不明である。治療を求めているものはおおよそ男性では 30,000人に1人、女性では 100,000人に1人くらいとみなされ、それによると米国では4,029名との計算もある。その計算でいくと日本にも2,200人から7,000人程度の数の存在が想定される。しかし、実際にはこの10倍くらいとの推定もある。
(2)症状
例えば国際診断基準であるDSM-IVによれば、
A.反対の性に対する強く、持続的な同一感。
子どもの場合、その障害は以下のような形で現われる。
青年および成人の場合、次のような症状で現われる。
B.自分の性に対する持続的な不快感、またはその性の役割についての不適切感。
子どもの場合
男の場合;自分のペニスまたは睾丸は気持悪い、またはそれがなくなるだろう、と主張する。またはペニスを持っていない方がよかったと主張する。または乱暴で荒々しい遊びを嫌悪し、男の子に典型的玩具、ゲーム、活動を拒否する。
女の子の場合;座って排尿するのを拒絶し、または乳房が膨らんだり、または月経が始まって欲しくないと主張する、または、普通の女性の服装を強く嫌悪する。
青年および成人の場合
自分の第1次および第2次性徴から開放されたいという考えにとらわれる。反対の性らしくなるために、性的な特徴を身体的に変化させるホルモン、手術、または他の方法を要求する。または自分が誤った性に生れてきたと信じる。
C. その障害のために臨床的に強い苦痛または社会的、職業的、または他の重要な 場での機能に障害を起こしている。
と定義している。
(3)診断
以上のような臨床特徴を主体にするが、基本的には次のふたつの側面から生物学的性 (sex) と心理・社会的性 (gender)の一致、不一致を検討し、診断することになる。
いずれにせよ、性同一性障害の診断は生育暦、性行動の経歴、心理社会的経歴などについて詳細な情報を集めることが大切である。また、臨床経過、人格構造、家族環境などを含めた多面的な検討により、はじめて診断しうるものと考えられる。
さらにまた、身体的診察で半陰陽などの障害がなく、諸検査でもなんら異常の認められないこと、精神病などの精神疾患を有していないことも性同一性障害の診断にあたっては重要なことである。
2)治療
性同一性障害の治療には精神療法、ホルモン療法ならびに手術療法の3つの方法がある。
(1)精神療法
性同一性障害に悩む人はしばしば孤立感、恥、おそれ、不幸、社会的被差別感などの感情を抱き、社会的不利益や就職上の困難などの現実的な問題をかかえている。さらにまた、宗教的な意味も含めて、罪の意識を有していることも少なくない。
したがって、精神療法ではまず、このような悩みを持つことは本人の罪ではないことを納得し、性に関する自己認知がどのようにして形つくられるかを科学的に理解すること、そして、この世を快適に暮すためにはどの性役割で暮すのが良いのかについて十分な検討をおこなうことなどの、教育ならびに洞察のための精神療法が行われなければならない。
このような精神療法により、性同一性障害が軽減し、日常の生活に支障をきたすことなく、生活することが出来るようになることも少なくなく、本人ならびに家族、親しい人も含めての精神療法により70%のひとが、満足いく結果に達し、手術治療を必要としなかったという報告もある。
精神療法はホルモン療法や手術療法の前、少なくとも6〜12か月、時には1〜2年にわたって行われることが必要と主張する報告もあり、またホルモン療法や手術療法が継続あるいは終了した後にも、精神療法は引き続いて行わなければならないことは性転換術後の自殺率がたかいことからも容易に推察されることである。
精神療法は個人療法、集団精神療法、あるいは行動療法や家族療法など、さまざまな方法がとられうるが、いずれにせよ、専門家によって行われることが重要である。
(2)ホルモン療法
性同一性障害の治療としてホルモン療法が用いられることがある。
男性が女性性を望む時にはエストロゲン治療を行う。その結果、テストステロンの分泌が抑えられ、陰茎の勃起が抑えられ、身体つきが丸みを帯び、柔らかくなり、脂肪のつき方が変るなどの身体的変化とともに情緒的、精神的な女性化がおこる。
一方、女性の男性化のためにはテストステロン治療を行う。その結果、月経の停止、体毛の変化、身体つきの男性化などとともに情緒的、精神内界の変化もひきおこされる。
これらのホルモン療法にあたっては、事前の十分な精神療法と、ホルモン療法の手技、目的と効果、適応、副作用、投与期間と最終目標などについて十分な説明と納得が必要であると同時に、治療全期間を通しての精神療法も重要である。
(3)外科的療法
外科的に性の再認定をする(性転換術)ことはかなり古くから行われていたが、1970年中ごろまではきちんとした基準を設けて行っていたわけではない。そのために1980年までに米国では約1,000人の人が手術を受けたと推定されるが、その中には手術がうまくいかずに骨盤周囲の感覚障害や醜い外形となったり、心的外傷を受けたりして、後悔する結果が少なくなかった。しかし、1977年に Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association が基準づくりをして 、手術成績は一段と良くなったといわれる。
すなわち、おおよそ10〜15%のものが手術の失敗、あるいは悲劇的な結果と判断され、女性の男性化では1%、男性の女性化では1〜1.5%が後悔し、自殺者が0.8〜2.1%あるが、多くのものはその結果に満足しているという。性転換術の効果 を性転換手術施行者の追跡調査からみると以下のとおりである。
生物学的性とは異なる性への転換を希望し、転換術を施行してものの手術成績を
- 本人の満足度
- 家族の受入れ
- 社会的適応
- 性機能
- 精神状態など
の観点から検討した外国の報告がいくつかある。
それぞれ対象や評価方法が異なるので、一律には論じられないが、それらをとりまとめるとおおむね次のとおりである。
Meyer と Reter は The Johns Hopkins Gender Identity Clinic で取り扱った患者100名について、性転換手術を受けた群と受けなかった群、同施設で診察した後に他の施設などで手術を受けた群の3群を比較したところ、性転換術を受けたことを後悔するものはなかったが、教育、職業など社会的、経済的な側面について3群間で差は認められず、転居の回数が術後減ったことだけが違いであった。このことから、性転換術によって社会的、経済的な面での改善があるとは思えないと述べている。
一般に、手術の結果に影響するのは十分な術前の精神療法、長期間にわたるtrue-life test をおこなったかどうか、ならびに術後の精神療法ならびに医学的経過観察の有無であると思われる。
3)対象選定と経過観察
The Harry Benjamin International Gender Dysphoria Clinic の基準によれば性転換を希望して行なわれるホルモン治療ならびに性転換術治療に際して配慮すべき点として下記のいくつかを列挙している。
以上の基準が示されているが、大まかにいって、手術を受けた10〜15%のものが手術が失敗に終わったか、社会的、精神的な側面からは満足した結果ではないとの評価があるが、女性から男性への転換者の1%、男性から女性への転換者の1〜1.5%が手術をしたことを後悔しているに過ぎないとのデータもある。これらの問題はきちんとした診断、true-life testをしなかったことに起因すると思われ、また術後の精神療法も手術を効果的にするのに重要である、という。
これまでみてきたような、生物学的性 (sex) ならびに心理・社会的性(gender)
の形成とその障害、性同一性障害に関する臨床、治療的試みの現状をもとに各委員が性同一性障害とその治療について議論を行った。
その概要を述べると以下のとおりである。
1)性同一性障害について
性同一性障害、あるいは性別違和症侯群、性転換症などとよばれる一連の障害に関する報告はこれまでにも多くなされており、そのような障害の存在することには疑問の余地はない。しかし、その障害の原因、発現機序については必ずしも明確ではなく、生物学的要因、心理的・社会的要因などの関与が想定されているが、いずれにせよ、それらの要因が複合的に関与し、その結果として性の自己認知の混乱や、性役割の変容が起こるものと理解される。しかしながら、それらの要因の関与の程度や機序は個人により異なり、また出現する障害の症状や程度も多様であり、性同一性の障害とされるものの中にも、さまざまな病態や症状が存在するものと考えられる。
2)外科的治療の倫理性について
外科的治療の倫理性についての審議の経過中に出された委員の意見はさまざまであり、これを手術に対する肯定的意見と否定的意見にわけ、その概要を記すとおおむね次のとおりである。
<外科的治療に対する肯定的意見>
この意見に対して、現在確立された手術適応基準があるのかとの疑義があったが、一応 Harry Benjamin International Gender Dysphoria Association で作った基準を考えるのが現段階での妥当な線との意見がだされた。
<外科的治療に否定的意見>
この意見に対して、もし、脳が構造的に生物学的性(sex)と異なる 仕組をもって、それが性意識(gender)に影響を与えているとすれば、それを訂正することが倫理に反するのかという疑問がだされた。
以上の議論をもとに、委員会として、最終的に以下のような意見のとりまとめをおこなった。
性という a priori に決定されているものに、人為的に手を加えることが倫理に反するかどうかという問題に答を出すことはわれわれの立場ならびに能力の限界を越えているので、ここでは医学的倫理 medical ethics に立場を限定して考えたい。
生物学的性(sex)と自己の性に対する意識(gender) が一致しない、いわゆる性別違和(gender dysphoria) という現象が存在すること、またその不一致に悩む人々がいることは確かであり、その原因として、単に心理・社会的要因のみならず、胎生期、幼小児期の生物学的要因の関与する可能性が指摘されている状況において、それらの人々をその悩みから解放するために医学が手助けをすることは医療の立場からは正当なことといえる。
その手段として、これまで、欧米諸国においては精神療法、ホルモン療法ならびに手術治療が行なわれてきた。しかし、日本では性同一性障害が学術的に公共の場で正面からきちんと討議されることが少なく、その診断や治療に関する経験が積み重ねられてこなかったため、日本人に関するデータや経験に乏しく、多方面からの検討を行なうための総合的な組織や体制を欠いている。
このような状況のもとで、直ちに不可逆的操作である手術を行なう事には慎重であるべきであろう。したがって、当面は一定の診断基準と治療適応の判断に基づき、複数の専門家による対象の選定をおこない、しかるのちに、侵襲の比較的少ない精神療法、ホルモン療法をまず試み、学術的観点から性同一性障害に関する経験と知見を重ね、治療に関する体制を整備し、そのうえで、必要と判断した場合には十分なinformed consent を得たうえで、手術療法も考慮に入れるべきである。
なお、性転換手術が行われるようになった場合、性別変更などの戸籍上の問題やさまざまな公文書の変更などの法律的問題、あるいは社会生活上の問題や公衆道徳にまつわる問題など、解決しなくてはならない多くの問題が予想される。これらの問題については性同一性障害に関する医学的知識が公開されるなかで、各方面の認識が高まり、取り組みが行われることによって解決されることを期待する。
申請のあった代表症例2例が手術適応かどうかの判断は資料のみからでは困難であり、また、たとえ資料が充足したとしても、本倫理委員会が手術適応の可否を論ずることはその職責の範囲を越えていると考える。また、性同一性障害の診断基準や手術適応の基準作りをすることも本委員会に課せられた任務とは考えられない。以上の判断にしたがって、本倫理委員会としては次のように結論づける。
外科学、内分泌学、精神医学をはじめとする性同一性障害の診断、治療に関係する各領域の専門家からなる委員会を組織し、そこで個々の症例の診断、治療方針などについて審議することを勧告する。当倫理委員会はそれらの専門家組織の判断をもとに、先に述べた原則に照して、改めて個別例の審議をおこなうことにする。
これまでに述べてきた審議の結果をとりまとめると次のとおりである。
埼玉医科大学倫理委員会委員
委員長 山内俊雄(埼玉医科大学精神医学教授)
- 委員 東 博彦(埼玉医科大学整形外科学教授、病院長)
五十嵐 節(埼玉医科大学短期大学部教授)
池田 斉(埼玉医科大学総合医療センター中央検査部教授)
石井 淳(埼玉医科大学図書館長)
磯田和雄(埼玉医科大学総合医療センター内科学教授)
片山 勲(埼玉医科大学病理学教授)
木下清一郎(埼玉医科大学進学課程主事)
村松正實(埼玉医科大学生化学教授)委員会開催日
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