■「つれづれなるままに」(過去の掲載文)■



つれづれなるままに(2006年4月6日)

戦艦大和出撃(2006年4月6日記)

    「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」
  
本日、昭和20年(1945年)4月6日 戦艦大和 沖縄特攻作戦に出撃。
    翌4月7日 米軍の航空攻撃により撃沈。海の藻屑と消える。
    映画『男たちの大和』で、反町演じる登場人物が口にするのが
    冒頭の一句である。日本人として実に感慨深い。
    この時期、日本にいて櫻に思いを馳せることができるのは
    日本人としてまことにもって幸せである。

     「花は
櫻木 男は武士」
   「月に村雨 花に風 散りてはかなき世の思い・・・」
    

つれづれなるままに(2003年7月14日)

Japan should persuade Burma's military government
(BBCへの投稿)

Japan should persuade Burma's military government to
change the situation, namely to liberate Aung Sun Suu Ki immediately.
I think Asians should solve the problem by ourselves.
Western attitudes toward Burma looks very bully, and it is not our
Asians' way of problem-solving.


Ken SATO
Tokyo, Japan




つれづれなるままに(2001年7月12日)

日米は対等な立場にたつ真の同盟国にならねばならない


 基本的に同盟国というのは、対等な立場にたって、はじめて同盟国たりうる、というのが私の意見です。これは米国にとって「もっとも重要な同盟国である英国」をみれば一目瞭然です。
 ひるがえって日本と米国はどうか? とても対等であるとはいえないでしょう。特に軍事問題に関しては、現在にいたるまで米国が日本を「属国扱い」してきたことは、ハワイ沖練習船沈没問題しかり、沖縄の基地問題しかり、枚挙にいとまがありません。日本国民としてきわめて悔しく、かつ残念でなりません。
 真の同盟国なら、米国の政権交代にかかわらず、日本国のプリンシプルを貫かなくてはならないはずです。政権交代のたびにお追従をするのはやめていただきたい。京都議定書は断固批准すべきだと考えます。これは地球に対する日本国としての貢献であり、この原則に忠実であるのが、国としてのプリンシプルであるはずです。間違った政策をとろうとする同盟国には「それは間違っている」と説得をしなければならない。それが本当の同盟というものではないでしょうか。
 日米同盟の存在によって、東アジアの安全は保たれます。しかし、日本は絶対に侵略しない、この国是に忠実であることをコトバと態度の両方で示すことで、時間はかかっても周辺諸国の信頼を築き上げていかねばなりません。
 そのためにも、日米は対等な立場にたった真の同盟国となることが求められるのです。これが、日本がとるべき外交の基本となるべきです。

*ニューズウィーク日本語版「読者フォーラム」の投稿募集(制限600字)に応じて書いたもの(7/11 付けで下記サイトにアップされています)。http://ssl.tbsb.co.jp/nwj/forum/message0920.cfm?dt=200107

*なお、同じ文章を「首相官邸ホームページ」に投稿しておきました(7月12日)。小泉内閣メールマガジン」まだ購読していない人は下記サイトで申し込みましょう。基本的に、日本の中学生以上の日本語読解能力のある人が対象です。 http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/
 江戸時代なら、最高権力者(その当時は将軍様)に直訴などしたら、佐倉惣五郎のように処刑されてしまうのがおちだったわけですから、メール1本で首相に意見を直接述べることができるなど、なんだかんだいいながら、いい時代に生きているわけじゃありませんか、われわれは。


つれづれなるままに(6月25日)

タバコのマナーの悪さはすでに「危険水域」に達している

 
 最近目に余るのが、火のついたタバコを手にもったまま手をブラブラさせて歩いている者があまりにも多いことである。特に日本人の男、それもサラリーマンに多い。
 タバコの位置が、ちょうど子供の目線にあたるから「危ないなあ」と前々から思っていたが、自分は大人だから、火のついたタバコは避けることはできるはずだと考えていた。これが大間違いだった。
 本日、昼休み、交差点をわたろうと急ぎ足で歩いていたら、突然「あちッ」と大声で叫んでいる自分に気がついた。中年おやじの吸いかけのタバコが左手の甲にあたってやけどしたのだ。「じゅッ」と皮膚が焼ける音も聞こえたように思う。 
「何すんだ」と思わず声がでたが、先方は謝ろうともしないで立ち去ろうとする。自分が悪いことをしたという意識もないのだ。

 10代後半から20代前半の「切れた」若者なら、そんな中年おやじに対しては、そのまま殴る蹴るの暴行に移行するかもしれない(?)ところだが、30歳台の私はもちろんそんなことはしない。たとえ自分が「被害者」でも、先に殴った方が不利なことがわかっているからだ。急いでもいたし。
 だが、ここでいいたいのは切れるとか、切れないとかではなく、社会的な弱者である子供の顔にタバコの火があたったらどうなっていることだろうか、と考えるからである。子供をつれて歩いている母親なら気が気でないのではないか。
 タバコを製造販売しているJT(日本たばこ)にはこの問題に対して大々的なキャンペーンをはってもらいたい。タバコは、煙がすわない人の健康に害になるだけでなく、「火のついた凶器」でもある、という事実の喚起を(6月25日)。

*上記の内容のメールをさっそく作成し、JTにメールで送りました。機会をとらえて、さまざまなメディアに投書していこうと考えております。

「"火のついた凶器"問題、その後の状況についての補足7月6日)

私がe-mailで送った意見に対してJTの広報から封書で返事がきたが、おざなりな内容でがっかりさせられた。まったくもって企業の論理いってんばりの内容である。しかも人の名前を「菊地さま」と書いたまま間違えも訂正せず送ってきている。どういう神経をしているのだろう・・・。
 
ここのところ超多忙で、マスコミ等への投書するヒマなどない(この件についてはまだ検討中)が、「火のついた凶器」問題はけっして小さな問題ではないので、なんとかしたいとは思っている。一読者からの通信でAC(日本広告機構)が「あなたが持っているのは火です」と注意を促しているとのことだが、残念ながらあまり効果はないようだ。
 こんな折、「韓国が『2002年禁煙W杯』でWHOと合意」という記事を日経新聞のネット版でみた(2001/07/04)。記事によれば、韓国側では「禁煙ワールドカップ」と位置づけ、試合会場からたばこを締め出すなどの方針を明らかにした、とのことだ。試合会場内での禁煙やたばこ販売の停止、たばこ会社にワールドカップのスポンサー活動をさせないことなどをはじめ、包括的な「たばこ追放策」を目指している、という。
 「落選運動」や「ブロードバンド」だけじゃなく、「たばこ追放」でもまた韓国に先を越されたか。とはいえ、フーリガンによる乱闘も十分予想されるワールドカップだけに、「火のついた凶器」をサッカー場から締め出すのは当然だろう。私は韓国の英断を全面的に支持したい。日本政府はつまらないプライドは捨てて韓国にならってもらいたいものだ(7月6日)。


つれづれなるままに(6月10日)

ダイエット実行と意志の力

 どちらかというと、ダイエットというよりも日本語で減量といった方がピンとくるのですが、私はこの1ヶ月で約7kg体重を減らすことに成功しました。現在もまた、あらたな目標に向けてダイエット継続中です。
 現在、空腹時の体重は65kg台、体脂肪率は20%前後に抑えることに成功しています。体重が減っても、体脂肪が減っても、活動レベルははダイエット前とまったく変わらず、むしろ体重が軽くなったので爽快!な毎日を過ごしています。
 きっかけは、今年の5月にタニタの体脂肪計を購入し、はじめて体脂肪を計ったときの驚きです。体脂肪が、なんと25.3%!もあったのです。これは文字通りの肥満−男性30歳台以上は、23%以上は肥満!−。体重もさることながら、体脂肪率がこのままだと健康にとってきわめてまずい、と強い「危機意識」をかんじて、有無を言わさぬ「減量経営」に突入しました。夏痩せしない体質なので、いまのうちに減量しておかないとまずいのです。夏の次は馬肥ゆる秋だから。

 では、私の減量法の要点を説明しましょう。一言でいえば、トレーニングに入る前にまずムダな脂肪を燃焼してしまうこと、につきます。運動したってやせるわけありません。俗説にまどわされてはいけません。トレーニング理論ではあたりまえの常識ですが、脂肪は減ることなくそのまま筋肉に変わるので体重は減らないのです。怖いのは運動をさぼったときで、筋肉はたちまち脂肪にもどり、元の木阿弥になってしまいます。
 冬山で遭難したと思えばいいのです。何も食べるものがなくても、皮下脂肪をひたすら燃やしてしていれば数日生きることができる、というあれです。「筋肉経営」にいく前に、まず「ぜい肉」をそぎ落とすことが先決です。
 具体的には、食事の絶対量を減らし、食事の内容を野菜と発酵食品(豆腐、納豆、キムチその他)中心に変える。動物性タンパクを減らし、炭水化物はパスタ中心にする。パスタは米やパンにくらべてエネルギーとして代謝されるスピードが速いので脂肪になりにくい、といわれています。オリーブオイルは体にいのでイタリア(特に南イタリア・地中海系)料理がいいのです。朝はバナナ1本、昼はバナナ2本もあれば栄養的にも十分です。
 モデルで女優の川原亜矢子さんの『シンプル・ビューティ』(幻冬舎、2001年5月刊行)によれば、パリコレ(パリ・コレクション)時代のモデル仲間たちは「スパゲッティ・ダイエット」を実行して、みな成功をおさめていたとのこと。これをよんで大安心。自分がやっていることはまったく間違っていないな、と。
 
ダイエットでは、なんといってもきついのは最初の1週間です。なんせ見える形、つまり体重減少という形の結果がでてこないのです。この間、いくら食事の量を減らしても体重は減ってきません。でも1週間がんばってみてください。みるみる体重が減ってくるはずです。そこがいわゆる閾値(いきち)あるいは臨界点なのです。

 そのうち、肉を食べたいという気持ちもなくなってきます。まったく食べないわけではありませんが、ことさら食べたいという気持ちがでてこなくなります。ある種の「自己暗示」がかかっているからです。「肉を食べると太る」という自己暗示です。勤務先の同僚からは「肉を食べないなんて人生の楽しみを失っているのではないか」といわれたりもしますが、別に「欲望を押さえこんでいる」のではなく、「減量したいという欲望」が「肉を食べたいという欲望」に勝っているのです。贅沢病といわれる痛風なんかにかかって痛い思いをするより、ダイエットしているほうがよっぽどましです。もちろん価値観の問題でもありますが。
 要するにダイエットは意志の問題なのです。もちろん、意志が弱い人は上司とケンカして胃を痛めるという究極のダイエット方法もあります。私もかつてバブル時代の末期、ものすごいストレスの下で胃ポリープができ、心ならずも大幅減量実現という経験がありました。その当時の写真をみるとえらくスリムなのに驚かされます。ポリープは良性でしたので幸いなことにまだ生きています。
 実は、私はダイエットはほぼ毎年やっているのです。同じことをほぼ毎年繰り返しているのです。ですからダイエット方法としてはすでに何度も自らの体を使った人体実験済みの方法ですが、もうこれ以上、毎年、毎年、ダイエットを繰り返す生活とはおさらばしたい、というのがホンネですね。減量しても知らないうちにリバウンドしている生活は、考えるだけでバカバカしい。のど元過ぎるとすぐ熱さを忘れる自分。なんと意志が弱いことか・・・。
 ダイエット成功の「意志の力」もさることながら、ダイエット後のリバウンド阻止にも「意志の力」が不可欠なことは頭ではわかっていながら・・・。財政改革や、経営改革も似たようなものですね。危機意識が強いときは改革がすすむが、ちょっとでも景気がよくなるとすぐやめしまう。人間がやるものである以上、意志の力と実行力という要素がついて回るわけです(6月10日)。



つれづれなるままに(5月27日)

韓国映画『JSA』と異文化マーケティング

 JSAとは、Joint Security Area の略である。つい昨日封切られたばかりの韓国映画のタイトルでもある。韓国と北朝鮮を隔てる非武装地帯の板門店(パンムンジョム)に設けられた国連統治下の共同警備区域のことで、南北会談の会議場としてつかわれる部屋は、日本のTVでもおなじみである。
 韓国で大ヒットを飛ばし、日本で公開されてもヒットしたハリウッド張りの娯楽大作『シュリ』を超える大作、とのプロモーションが連日行われているのでご存知の方も多いと思う。私もさっそく封切り初日にロードショーを見に行ってきた。
 映画の内容は見てのお楽しみ、としておきたいが、乱暴に要約すれば、日々対峙する立場にある、国境最前線の南北の兵士たちの間に芽生えた「奇妙な友情」とその「劇的な破綻」、およびその「悲劇的な幕切れ」、とでもいっておこうか。もちろん、南北の兵士の間の友情というのは、あくまでも虚構であって実際にはありえない設定である。しかし、こういう虚構を設定することによって見えてくるものがあり、これが折からの南北和解ムードのなかで、特に若い韓国人を中心に大いに受け入れられた結果大ヒットになったのであろう。
 しかし、日本では『JSA』は『シュリ』を超えることはないだろう。『シュリ』も同じく南北対立という現実に、北の女性工作員と南の男性警察官との恋愛という虚構(しかしこの虚構はありえなくはない設定だが)をからませた作品だが、基本的に「北が敵であるという大前提」は崩していないので、そう感じている多くの日本人にとっては、ある意味では安心してみることのできる娯楽映画であったといえる。だから日本でも大ヒットした。
 それに対して『JSA』は、実はかなり重い映画だ。むしろ従来型の韓国映画の枠組みのなかにあるといっていいかもしれない。字幕という制約もあるが、日本人の観客からもれる笑い声も少なく、最後まで緊張感を強いられた。
 先に触れた虚構を軸にしているとはいえ(その虚構じたい、韓国人の濃密な人間関係の意味をしらないと理解しにくい)、テーマそのものはきわめて重い。韓国が置かれている現状、とくに南北問題の軍事的な意味と経緯、徴兵制がとくに若い韓国人男女にとってもつ意味、挿入主題歌が韓国人の若者にとってもつ意味・・・といったいわば韓国人にとっての「常識」、いいかえれば韓国に特有の文脈を理解することなく、大作映画の一つとして日本で流通させることは難しいのではないだろうか。
 JSA』には激しい戦闘シーンがあるが、通常の戦争映画につきもののある種の快感を感じることがまったくなかった。「奇妙な友情の劇的な破綻」をきっかけに勃発した、南北の国境警備隊の間でマシンガンの激しい応酬が数分間つづくが、なぜ自分はこのシーンをみていて快感を感じることがないのか、映画を見終わったあとしばらく考えていた。おそらく、北が敵なのか、南が敵なのか、そのどっちも敵なのか、あるいは敵でないのか、見ている人間にわからなくなってしまうためだろう。何のための戦闘なのかわからなくなってしまうのである。そういう意味では監督の力量はきわめて高いといわざるをえない。韓国で大ヒットした理由はこのあたりにあるのではないか。南北対立など民族にとってはまったく無意味なのだと、大上段にふりかぶって説教することなく生理的に訴えているから。
 とすると、おそらく大半の日本人にとって、この映画の意味は、頭ではある程度まで理解できても、体感することはきわめて難しいだろう。韓国特有の文脈を超えた、普遍的な要素があるとはいえ、これがそのままこの国で大衆的なヒットになるとは考えにくい。
 異文化のソフトをコンテクストの異なる他国の市場で流通させることは、ハードの製品の海外展開よりはるかに難しい。とはいえ、『JSA』は、2002年のワールドカップをひかえ、韓国人をより深いレベルで理解する必要のある日本の若い世代にはぜひ見てもらいたい。そしてこの映画をきっかけにいろいろ韓国と韓国人について勉強してもらいたいものだ(5月27日)。

<参考サイト>
http://www.jsa-movie.com/
『JSA』日本版公式サイト
http://cyberjsa.com/main.html
『JSA』韓国版公式サイト(こっちのほうがカッコいい)



つれづれなるままに(5月20日)

料理のプロジェクト・マネジメント?

 経営コンサルタントなどという仕事を長年やっていると、世の中の物事をすべて「マネジメント(経営)」いう観点から捉えていることに気が付く。
 とくに人生そのものをプロジェクトの連続と捉えており、こういう考えをふと口にしたとき、周りから軽い驚きを示されることも少なからずある。
 人生や生活を合理的に設計して実行していくのは欧米人にとってはあたりまえのことだが、どうも日本人にはなじみのない考えらしい。そういう自分もプランどおりに生きているというより、偶然を重視して生きているほうだが(そもそも経営コンサルタントなんて仕事をやることになるとは学生時代には考えたことすらなかった)、それでも自分でコントロール可能な範囲の物事は、できるだけ合理的に設計、実行していきたいものだと考えている。
 たとえば家事もマネジメントである。家事はアウトソース化して価格をつけないかぎりいわゆるシャドウ・ワークなのだが、家事の中身は立派なマネジメントそのものである。日本では、家政学が女子教育のカテゴリーのなかに閉じ込められているため気がつきにくいが、英語でいえば Home Economics であり、別に女性に限定されるものではないし、ヨーロッパでは17世紀ころまでは家政は男の領域だったらしい。もちろんそのころの家政は現在よりもっと広い概念で、領地経営まで含むものだったらしいが。
 家事全般だと話が広がりすぎるので、料理に話をしぼってみよう。料理は、プロジェクトであり、そのためのマネジメントをしていることがわかるはずだ。

 まず、キッチンと調理道具が必要だ。これはマネジメントでいえば「設備投資」にあたる。料理の目的は何か、一人で食べるのか、家族の夕食つくりか、パーティの準備か、そして何人分必要か・・・で料理の内容はまったくかわってくる。これは「生産計画」である。目的が明確になれば材料をそろえなければならない。これは「資材調達」にあたる。在庫は購入してもすべて1回限りで使ってしまうものではないから貯蔵の必要が生じる。これは「在庫管理」である。しかも、食料品は長期保存が難しいから、食中毒を防ぐために期日管理を怠るわけにはいかない。ここまでは前段階である。
 さて調理にとりかかろう。まず下ごしらえが必要だ。これは生産でいえば「部品生産」に該当する。同時にいくつかの部品つくりを行うが、時間の節約のため部品は外部から完成品を購入することもあろう。これをさして Make or Buy Decision という。これらの作業全体はいわゆる「工程管理」の対象である。

 いよいよ最終工程に入る。パスタを例にとれば、ソースつくりとパスタをゆでる工程は通常同時に行われる。これを生産管理では「パラレル・プロセッシング」とよんでいる。ゆであがったパスタとソースを和えれば完成品の出来上がり。
 だが、これですべて終了ではない。盛り付けを考えねばならない。いくらいい料理でも盛り付けがうまくないと台無しだ。これは企業経営でも同じで、いくらいい製品をつくっても「マーケティング」が下手だと消費者から評価されないこととなる。また、もてなしかた、すなわち「サービス」の優劣も重要な要素の一つである。
 ごちそうさま。でもこれですべてが終わったわけではない。後片付けがある。できるだけ合成洗剤は使わないようにしたい。生ごみと燃えないごみは分別して捨てなければならない。廃棄物処理の問題であり、企業でいえば「環境経営」に該当する。

 料理をプロジェクトと捉えると、料理づくりとはプロジェクト・マネジメントの実行そのものだとわかっていただけたものと思う。最近、定年後にこの事実に目覚めて「家事の合理化」と称して張り切りすぎ、かわいそうなことにかえって家庭内で顰蹙を買っている男性も少なからずいるらしい。要は程度の問題であり、マネジメント経験は定年前から家事に応用する習慣をつけておけばよいのである。家政とはもともと女性だけの領域ではなかったのだから(520日)。




つれづれなるままに(2001年5月13日)

外務省改革−組織改革と真のリーダーシップ−

 「大蔵省(現在、改革後は財務省)と外務省は国賊だ、万死に値する」、と言い切ったのは、政治学者の小室直樹博士である。
 『これでも国家と呼べるのか−万死に値する大蔵・外務官僚の罪−』(クレスト社、1996年)でそう述べている。いま手元に本がないので、詳しい内容を思い出せないが、出版当時、大蔵省が数々のスキャンダルで国民の信頼をいっさい失い、徹底的にバッシングにあっていたとき、問題は大蔵省だけではなく、外務省もその土下座外交によって国益を大いに損ねている、という主張をしていた。これには一国民、つまり一納税者として、強く感じるものがあったことを思い出す。
 したがって、小泉"改革断行!"内閣の外務大臣である田中眞紀子がやろうとしている外務省改革は基本的には歓迎だ。衆議院の代表質問の答弁で、田中氏は「外務省の体質と抱えている問題は極めて根深い。国民の目線で、外務省の組織を抜本的に改革する」と言い切っている。
 だが、組織改革というのが実に難しいことは、経営コンサルタントをやってきた私にもよくわかっている。田中外務大臣は、利権をバックにしたNとかSとかいう政治家たち(彼らこそまさに国賊だ。万死に値する)が外交政策にくちばしをはさむ構造をどこまで解体することができるか。
  「鯛は頭から腐る」というように、組織の問題はほぼ間違いなくトップに問題があるケースが大半である。おそらく外務省の場合も、キャリア官僚のトップ層に問題の根源があり、機密費問題でみられたように、実力派ノンキャリの問題を見てみぬ振りをしてきたことに、組織壊死の温床があるのだろう。
 旧体制下の責任者を総入れ替えするのは組織改革の定石である。ただし、その場合は条件がいくつかある。まず、このケースの場合、大臣がある一定期間以上職にとどまることが必要である。そうでないと、いたずらに組織が混乱するだけで、想定している改革と逆の結果がもたらされないとも限らない。改革の行方を十分にマネジメントできるだけの時間が必要だ。
 また、人事を掌握するのは改革においてきわめて重要なことである。ただし、組織改革目的の大きな人事異動は一気呵成に実行しなければならない。人事で失敗すると、その後の改革はまず失敗するといってよい。
 その後は職員のモラール(志気)向上に最大限の努力を傾ける。そのためには国民の支持だけでなく、組織内部の協力が絶対に不可欠である。職員のやる気を引き出すことである。組織のミッション(使命)を再確認し(この場合、誰のために奉仕する公僕なのか−もちろん国民である−の再確認)、進むべき方向性をビジョンとして見える形で示し、明確なコトバで組織内外とコミュニケーションしていくことが絶対に必要だ。これこそリーダーシップの基本である。
 今回の件は、外務省改革の成否だけでなく、田中眞紀子という政治家が本当のリーダーであるかどうかも試されているのである(513日)。

(追記)
上記の文章で危惧したとおり、どうも田中眞紀子は真のリーダーからは程遠い存在であることが急速に明確になってきた。内政問題である外務省改革はぜひ断行していただきたい。しかし、外政問題は国益そのものである。田中眞紀子は「反米=親中」という単細胞的発想が濃厚である。国民の世論よりも、自分の父親にかかわるルサンチマン(怨念)を前面に押し出すやり方には、自民党の守旧派ならずとも危惧の念を覚えて当然である。小泉首相はどの時点で田中眞紀子を切り捨てることができるか、ここに小泉氏自身のリーダー能力も大きく問われることになるだろう(5月20日)。


つれづれなるままに(2001年5月6日)

「日本化=無臭化?」がすすむ韓国

 連休の前半に、友人をたずねて久々に韓国のソウルに行ったが、旅行記を書きあぐねている。はっきりいってあまり書くことがないのだ。韓国にいくのはこれが3回目だが、日韓の文化的差異が限りなくミニマムになりつつあるので、「これが韓国だ」ということを書きにくい。時代は確実に変わりつつある。
 ソウルの地下鉄(チハッチョル)に乗る。七年ぶりにのった地下鉄車内では、傷痍軍人も、新聞売りも、ガム売りも見なかった。ベトナム戦争終結からすでに30年、韓国でも傷痍軍人を見ることが少なくなったのも当然か。新聞売りも、ガム売りも見ないのは、時間帯のせいかもしれない。
 
何よりも驚いたのは、地下鉄という地下を走る密閉空間が東京とほとんど変わらないことである。つまり「無臭化」がすすんでいるのだ。かつてはこれぞ韓国の臭いともいうべく、朝鮮人参エキス粉末の空気中充満状態があった。ムッとこみ上げるような不快感を感じたものだったが、今回はまったくこれを感じることがなかった。もちろん、汗をかく夏はまた別かもしれないが。
 車内に「コギャル」はいない。東南アジアで広がっているらしい(当の日本ではもう完全に下火だが)厚底靴のコギャルは韓国では皆無である。親がうるさいのだろう、少なくともソウルでも家庭崩壊はまだ少ないようだ。とはいえ援助交際はかなり広まっているらしい。韓国では援助交際した男の氏名を公表することに決定したという。ここらへんの「人権感覚」は日本とはだいぶ温度差がある。
 車内で化粧する女性はいない。少なくとも地下鉄車内が社会的空間であるという意識は共有されている。社会道徳はまだ生きているようだ。金髪は少ないが(たまに気合の入った金髪少年をみることはある)、女性の茶髪は日本で一般的になる前からはやっていたとのことである。また美容整形する女性は日本の比ではないという事実もある。来年2002年のワールドカップで多くの韓国人が来日したあと韓国社会はどう変化するか、社会学的に楽しみである。
 ノレバン(韓国語で歌の部屋、つまりカラオケのこと。カラオケというコトバを使わないのは韓国だけである)では日本語の歌が歌える。ブロードバンド先進国の韓国は、当然ながら通信カラオケが主流だからだ。日本語歌詞も、韓国語歌詞のリクエストも可能である。日本語歌詞の下に、ハングルで読みを示したものもある。このハングル歌詞をみて若い韓国人も日本の最新流行曲を日本語で歌う。もちろん日韓では好みの違いはあるが、限りなく近づきつつあるのは確かだ。
 いま韓国では日式料理(日本料理)が流行中とのことだ。市内のあちこちに日本料理店が開店し、お客でにぎわっている。ちょうどマスコミでは教科書問題をさわいでいたときである。さわいでいるのはマスコミ人を含む知識人で、一般大衆にはあまり関係ないようだ。韓国もだいぶ成熟してきているのだ。同様に日本人も教科書問題などあまり考えることもなく韓国に遊びにくる。ようやく日韓関係も大衆レベルでは自然体の時代に入ったといっていいだろう。
 日本に帰国したら、金正日の長男と思われる人物が日本の入国管理で拘束されたというニュースを知って驚いた。本当の目的は分からないが、家族で東京ディスニーランドにいくのを楽しみにしていたという。これはある意味では、不法入国してでも日本は行きたい国である、ということも意味していなくもない。日本人はもっと日本を自慢に思っていいのではないか。ただし、それは過去の自慰的(自虐的ではありません、念のため)な賛美ではなく、いまこの現在の日本をありのままに受け取るべきだ、という意味においてだが(5月6日)。


つれづれなるままに(2001年4月22日)

「四大学連合」と「脱・総合大学」モデルの誕生

 「四大学連合」が国立大学の生き残り策の1つの試みとして注目を集めている。
 「四大学連合」とは、東京に立地する「実学系単科大学」(大学院をもつので正確にいうと「総合大学」だが、いわゆる総花的に学部を寄せ集めた総合大学ではない)4校、すなわち東京医科歯科大学東京外国語大学東京工業大学一橋大学(旧 東京商科大学)四校の連合である(当初構想に参加していた東京芸術大学は学内事情から離脱)。この四大学の間で「四大学連合憲章」が締結され、構想が本格的に動き出した。
 先日、「四大学連合発足記念講演会」が神田の一橋記念講堂(学術総合センター内)で開催されたので、筆者も参加してみた。その際の講演内容と配布資料から、筆者なりに概要をまとめておこう。
 「四大学連合」構想を簡単に説明すると、4つの大学が合併することなく、それぞれの独立をたもちながら、人材育成(まず学部教育から)、学術研究等において、共同していくというプロジェクトである。企業でいえば、戦略的提携(アライアンス)を密接に行うためのフレームワークを作るようなものである。学生はそれぞれの大学に本籍があるので、たとえば一橋大学に入学して東京医科歯科大に移るということはできない。企業でいえば、企業連合がつくる合弁会社に出向するような形になる。
 提携関係はまず「複合領域」という形の学部教育のプログラムから開始される。いわゆる学際領域といってもよい。現段階では外語大の調整が遅れているので、残りの三大学間についてのプログラムが発表されている。三大学共通領域として、@総合生命科学コース、A海外協力コース、B生活空間研究コースの3つであるが、これは筆者にはあまり魅力的には映らない。むしろ、二大学間の提携で作られるコースが具体的で面白そうだ。一橋大と東工大の間では、C科学技術と知的財産コース、D技術・経営コース、E文理総合コース、東工大と東京医科歯科大の間では、F医用工学コース、東京医科歯科大と一橋大の間では、G医療・介護・経済コース、が設定されており、今年度入学の学生が2年次からこれらのコースの選択ができることになるという。いずれも本来なら大学院レベルで開講されるような領域だから、学生にとっては実学的観点のみならず、知的関心を大いに刺激するのではないか。
 「四大学連合」は既存の「総合大学」体制に対するアンチテーゼであるのだから、間違っても「総合大学」を目指したりしないでほしいものである。同じ大学内だと学部間対立があってなかなか融合領域がうまくいかないが、今回のケースの場合、大学間であるがゆえにかえって提携関係がうまくいく可能性があるかもしれない。内輪ではない、他大学という「外部の目」を意識せざるを得なくなるからだ。実験はうまくいくかわからないが、試みは大いに評価できるものである。企業世界ではすでに「総合モデル」は完全に落日にある。大学も「脱・総合大学」モデルの誕生で、国際競争力のある大学を目指してほしい(4月22日)。


つれづれなるままに(2001年4月15日)

「李登輝ビザ問題」と一国のリーダーの条件

 テレビ朝日に「サンデー・プロジェクト」という番組があり、日曜の午前中放送されている。本日(4月15日)のテーマは当然のことながら、自民党の総裁選に立候補している4人の候補(橋本、小泉、亀井、麻生の四氏・敬称略)に対して、司会の田原総一郎が鋭く、ときに限りなく誘導尋問に近い切り込みをする内容であった。
 主題は、経済問題、特にデフレ経済(先日ようやっと政府は公式に認めたが、日本マクドナルドの藤田田社長などはずいぶん前から日本はすでにデフレでまだまだ続くと喝破していたが・・・)対策、不良債権問題、構造改革に関する四氏の見解の共通点と相違点が明かにすることであった。あまりにも突出したキャラクター揃いで面白い内容になっていたのは言うまでもない。
 番組の終了前、「ところで李登輝前総統のビザ問題(注:心臓病の治療のため78歳と高齢の李登輝氏が倉敷の病院で日本人主治医の治療を希望している件)についてどう考えるか」、と田原総一郎が突っ込みをいれると、即座にビザを出すべきだと語ったのは亀井氏で、つづけて麻生氏も現実的に対応すればよいと答えていた。これに対して官僚のようなあいまいな答弁をしたのは橋本氏だけでなく、小泉氏も同様であった。親大陸派で有名な橋本氏の答弁は当然として、小泉氏の答弁にははっきりいって失望させられた。この人に日本という国を本当にまかせることができるのか、と。期せずして「李登輝ビザ問題」は、首相候補にとっての「踏絵」であることが明らかになった。
 李登輝ビザ問題は、書くと長くなるのでこれまでの経緯は省略するが、ペルー前大統領のフジモリ氏は法的にグレーでありながら依然としてかくまいつづけても、李登輝氏には、中国共産党の恫喝の前にへつらう宦官よろしく、「ビザは絶対に出しません」といいつづける外務官僚、それを押しきれない政治家にあらためて大きな失望を感じるのは筆者だけではあるまい。自民党という政党は、これまでずっと政治的亡命者をかくまってきた伝統があるのではなかったか。李登輝氏はもちろん亡命者ではないが、日本の京都帝国大学を卒業し、かつて日本国民であった人である。こんな日本びいきの、しかもすでに一民間人になっている人に入国を拒みつづけるとは正気の沙汰ではない。
 もちろん、現時点で日本と中国のあいだの政治問題はあまりにも多すぎて(セーフガード発動問題、教科書問題、米国スパイ機事件・・等)、虎の尾を踏みたくないという宦官、もとい外務官僚の気持ちはわからぬでもないが、今後ますますややこしくなる政治と経済の相関問題を、解決の試みさえ放棄している現状は是正されなければならない。政治と経済が密接にからみあっているのが現実である以上、経済のみを優先して政治的主張をしないのは卑屈で異常であるし、政治的主張のみ突出させて経済的利益をいっさい失うのもバカげている。とはいえ、一国のリーダーとして求められる条件が、バランス感覚というだけでは情けないではないか。
 真に国民をリードするリーダーが望まれるとともに、フォロワーである国民の側にもある種の覚悟が求められる。米中両大国におもねらず、しかも国民への大衆迎合ではない、「危機突破型リーダー」はいつ現れるのか(4月15日)。

(追記)
本稿の執筆後(翌日)、小泉氏は李登輝前総統の入国ビザ発給すべしと主張、結局日本国外務省がビザを出すにいたったことはまことに喜ばしい。こんなにぐだぐだせず、さっそとビザを出しておけば中台双方から非難の応酬もなくすませたのだが。森氏もこの一件についてはまことにいいことをした、というべきだろう。この一件だけをもってしても、後世の歴史家は森前首相に大きな評価をあたえるに違いない。来日した李登輝氏は流暢な日本語で「みなさんどうもありがとう」と取材陣に挨拶していた。小泉氏の予備選圧勝(!)とあいまり、歴史が動き出しことは間違いない。どっちに転んでいこうとも(4月23日)。


つれづれなるままに(2001年4月8日)

「米MIT講義資料をネットで無料公開」

 上記のタイトルの記事が日本の新聞に掲載されていた。筆者は毎日新聞のメールマガジンで一番始めに見たが、その他日経新聞にも記事がでていた。
 MITとはいうまでもなく、米国最高、というよりも世界最高峰の工科大学であるマサチューセッツ工科大学のことである。
 MITの広報資料によれば、MITが開講しているほぼ全ての講義資料をウェブ上で無料公開するプロジェクトを開始する。プロジェクトの名前は題して「MITオープンコースウェア」(略して MIT OCW)。今後2年間を運用試験期間とし、この間に大規模な運用試験を実施する。今後2年半を試験運用期間とし、この間にOCWソフトウエアおよびサービス、学生や教員の利用状況をモニターして評価するプロトコルを開発し、運用試験終了までに500科目以上、最終的に10年間でMITの全学部の2000科目以上の資料を公開する予定とのことである。
 10年間は無料で公開するという気前のいい話である。ただし、念のために付け加えておけば、このプロジェクトは資料は無料公開するが、残念ながら単位取得はできない。
 無料公開とは、もちろん思惑あっての計画であることはいうまでもない。関係者はこのOCWプロジェクトによって”Privatization of Knowledge”を図る、といっている。直訳すれば「知識の民営化」ということになるが、いわんとしていることは、知識を無料で公開することによって、来るべき「知識社会」における科学・工学教育のモデルの覇権を握ろうという意図である。1960年代にアポロ計画等のビッグプロジェクトによって科学工学教育のデファクト・スタンダードとなったMITは、2000年代にも「夢よもう一度」と大きな賭けにでたのだろう。
 もちろん無料で公開するといって、コストがゼロなわけではない。広報資料によれば、初期開発段階のコストが年間7.5〜10百万ドルになると予測し、広く寄付を募っている。MITなら集まるだろう。ただし株式不況の現在、ポンと私財を提供できる人は昨年より減少しているだろうが。
 世界のトップランナーであるMITもこのようなチャレンジをしつづけているのである。チャレンジしつづけなければ競争の激しい大学(大学院)教育市場で優位性を維持していくのも容易ではないのだ(4月8日)。


つれづれなるままに(2001年4月1日)

「季節はずれの雪」

 昨日3月31日、東京に季節はずれの雪が降った。いつもより1週間は早く咲き出した桜がちょうど満開になったのとほぼ同時だった。週末の土曜日だったので外出しないで一日中家にいたが、ベランダから眺める「雪桜」は何ともいえない美しさがあった。東京では「雪桜」は25年ぶりとのことだというが、25年前の記憶は自分にはない。理由はわからない。
 東京で「季節はずれの雪」といえば、思い出すのは日本フォーク史上の名曲「なごり雪」(イルカ)である。「♪…季節はずれの雪が降ってる。東京で見る雪はこれが最後ねと、さみしそうに君がつぶやく。…」というのが歌詞の一部だ。正確にはわからないが、この歌もけっこう昔のものだったような気がする。今回はじめてこの歌を実感することができた。
 日曜日、雪に降られた翌日だが、桜はほとんど散っていなかった。花は嵐には弱いが、雪には強いのか?。「花も嵐も踏み分けて…」というフレーズはあるが、「雪桜」なる表現が日本語にあるか知らない。「花見」も「雪見」も日本語にはある。「雪桜」として、「花見」も「雪見」両方鑑賞できたのは幸いだったというべきだろう。いずれにせよ、「花といえば桜」という日本語人にとって、桜について思いをめぐらすのは、いわば民族遺伝子のなせるわざとでもいったらよいかもしれない。「始まり」と「終わり」をこれほど意識させるものは、桜以外にないような気がする(4月1日)

つれづれなるままに(2001年3月25日)


「有終の美」を飾ったミール墜落作戦

 ミール墜落作戦が無事に完了した。世界(ミール)中の注目となっていた宇宙ステーション(ミール)の墜落作戦は、平和(ミール)裡に完了したといえようか。
 ここぞ、というところで底力を発揮するロシア人が今回も見られたといえる。安全が確保されたことにホッとするとともに、ソビエト時代から始まったロシア宇宙開発の歴史に有終の美を飾ったミール運航チームには心から祝福を送りたい。
 墜落作戦の成功は、今後ロシアの宇宙ビジネスを考えれば、関係者は大いに自信をつけたことだろう。と同時に関係者はさぞかしさびしいことだろう。ミールはソ連崩壊後混乱に陥っているロシア人の傷ついた誇りを癒す、ある意味でアイデンティティのシンボルだったのだから。
 『Made in Russia−ロシアは何を作ったか−』(森本忠夫・杉森康二・江南和幸、草思社、1997年)という本には、ロシア人の「メガロマニア」あるいは「ギガントマニア」といった性格が指摘されている。日本語でいえば巨大物信仰とでもいうべきもので、巨大建造物だけでなく、生産手段等々にまで及んでいる。かつて高度成長期末期の日本でも「♪大きいことはいいことだ!」というCMがあったが、その時期をのぞけば日本人は常に小さいものを愛好し、作りつづけてきたのとは正反対の性格である。
 日本の宇宙開発技術はロシアとは大きな差をつけられたままで、ここ数年はロケットの打ち上げそのものもうまくいってない。この日本に対して、ロシア人が優越感を感じているのも当然だろう。であるがゆえに、シンボルとしてのミール宇宙ステーションの喪失がロシア人、特に社会的成功者になれなかった一般人にとってのショックは大きいのだ。
 日本にとっては破片が落ちてこなかっただけでも幸いだったが、それもつかの間、墜落前のミールの軌道にも近い地域に、死者もでた規模の大きな地震が襲った。人工物はコントロールがある程度まで可能だが、自然の脅威にはなすすべもない。これは日本人のとっての宿命である(3月25日)。


つれづれなるままに(2001年3月16日)

米国RPI(レンセラー工科大学)に米国史上最大の個人寄付金

 「匿名寄付ポンと430億円−米私大に史上最高額−」のタイトルで、日経新聞夕刊(3月14日付け)の片隅に囲み記事が載っていた。この巨額の寄付金の背景から、現在の米国の一面が見えてくるので、やや詳しくみてみることとしよう。
 実は何を隠そう、この幸福な大学 RPI(レンセラー工科大学)とは「わが母校」(alma mater)である。世界最高の工科大学 MIT(マサチューセッツ工科大学)を個人寄付金の額で抜いた、というのが痛快である。
 それはさておき、もともと米国には個人が大学に寄付する伝統がある。いわゆるフィランスロピー(バブル崩壊後の日本ではとんと聞かなくなったが)の伝統がある米国では、マイクロソフトのビル・ゲイツも個人資産から多額の寄付を大学に対して行っている。
 背景には個人資産家の節税対策、公共機関への寄付で名前を残せる(大学の建物や、寄付講座には個人名が付く)があるが、重要なのは寄付の対象になる米国の大学が、研究開発(R&D)面での競争力があることであり、産学協同が完全に根付いていることである。ビル・ゲイツがバイオ医学関連に多額の寄付をしている理由は、単なる慈善行為ではなく、ある種の「タニマチ」的投資行為ともいえる。大学側からみても、大学の財政にしめる寄付のウェイトが高く、研究開発に個人や企業からの寄付は欠かせない。この点も日本の状況とは異なるものがある。
 巨額の個人寄付が可能となった背景は、米国の株高がもたらした恩恵といわれるが、現在株式市場崩壊に見舞われている米国からは、おそらくこの規模の寄付は当分ありえない、といわれている。
 今回の寄付金は匿名でしかもヒモつきでない、という実に寛大なものであるが、合計360億米ドル(日本円で約430億円)の使い道について、大学はバイオテクノロジーとIT(情報工学)の研究基盤拡大に使う、と表明している。そのうちの1つが、いわゆる「バイオ・インフォマティックス」あるいは「バイオ・コンピュテーション」とよばれる融合分野になるが、これは日本でも重要性が認識されるようになってきた分野で、日本は人材育成の点で大幅に遅れている分野である。さらに日米格差が開く一因ともなるかもしれない。
 なお、RPIの現学長のジャクソン博士は、米国原子力委員会の議長をつとめた原子力業界重鎮の黒人女性である。米国の工科大学では普通のキャリアパスで、私が在学していた頃のシュミット元学長(工学博士)は GE の R&D 担当副社長を務めた大物であった。その前には NASA(米国航空宇宙局)局長から学長に招聘されたケースもある。
 日本との違いがことさら目立つ記述となったが、皆さんはどういう感想をもたれるだろうか。筆者が RPI の経営学大学院で「技術経営」(Management of Technology)を専攻し M.B.A. を取得してからすでに10年近くたっているが、大学と社会の関係に関しては、依然として日米格差が大きいように思われてならない(3月16日)

<参考>
Rensselaer Polytechnic Institute (RPI) オフィシャルサイト


つれづれなるままに(2001年3月12日)

ハーバード大学の次期学長選出


 日本経済新聞によれば、ハーバード大学は次期学長(President)に、クリントン政権で財務長官を勤めたサマーズ氏を選出したとのことである。本年7月1日付けで第27代学長に就任するという。宮沢大蔵大臣(当時)について「あのちびの猿をとっちめてやった」と陰でいったとかいわなかったとか巷間いわれている、あの"マッカーサー"サマーズである。超大物の登場だ。
 さっそく検索してみると、ハーバード大学のウェブサイト(http://www.harvard.edu/)に次期学長選任の件が記載されている。ハーバード大学がサマーズ氏をなぜ次期学長に選出したかがわかるので、かいつまんで抜粋しておこう。「サマーズ氏は、大学ならびに公共サービス部門での深い経験に根ざした、アカデミック面での突出した非凡さ、リーダーシップ能力を持ち合わせた人である。叡智とバイタリティでもってハーバードを未来に導いていってくれるものと、われわれは確信している」(私訳)
 28歳でハーバード大学の最年少教授となった頭脳と実績に、連邦政府での行政手腕も買われてのことであるが、選出した側のハーバード大学は実に大胆である。かつてハーバードは41歳のボック氏(のちに名学長とうたわれている)を学長に選出しているから、年齢的には決して若いということはない。むしろ、現在46歳のサマーズ氏にとって、知力も体力もみなぎっている今現在こそ、大胆な改革を実行してもらうのにふさわしい、と大学はみているのだろう。次回の大統領選でブッシュ大統領が再選されれば、民主党のサマーズ氏は政界に復帰せず、学長として長期政権になるかもしれない。
 世界一の予算規模と学問内容を誇るハーバード大学は、企業でいえば
GE(ゼネラル・エレクトリック)のような存在だ。これまでも世界中の大学に戦略のベンチマークを示してきた巨大組織である。GECEO(最高経営責任者)ジャック・ウェルチ氏のような存在になれるか、サマーズ新学長のリーダシップに大いに注目したい。経営とリーダシップの観点からも実に興味深い学長選出である。米国の底力を見せつけてくれることだろう(3月12日)。


つれづれなるままに(2001年3月11日)

石原慎太郎にガツンとやってもらいたい(*)

 石原慎太郎が首相だったなら…と思っている人も多いのではないだろうか。原潜問題については、石原慎太郎にガツンとやってもらいたいものである。森だろうが誰だろうが、首相の器とはいえない。米国にいうべきことをいえるのは石原慎太郎くらいしか見当たらない。

 日本は米国の「衛星国」ではない。かつてのソ連と東ドイツの関係ではないのだ。いやしくも「同盟国」というのなら、政治的にも軍事的にも対等なハズである。いうべきことをいわないような関係では、日米関係はいっこうに深まることはない。米国はしつこく言いつづけなければ何もしない国であることは、私は留学経験を通じて熟知している。日本のように「思いやり、察してあげる社会」ではないのだ。
 原潜ではないのだから、水面下の「いわゆる政治決着」はしてもらいたくない。それはえひめ丸関係者だけでなく、日本国民に対する裏切りである。政治と経済は関連しあっているが、経済に関しては「ビジネス・イズ・ビジネス」と割り切ればいい。政治に関しては安易な妥協をすべきではない(3月11日)。

* Newsweek Japan Online(http://www.nwj.ne.jp)の読者フォーラムに投稿した原稿(掲載済み)を一部修正したものである。

つれづれなるままに(2001年3月7日)

安くて安全な牛肉を食べつづけたい!

 ドイツ在住の友人からのメールによると、ドイツ政府は「狂牛病」(mad cow disease)発生で大量に発生した余剰牛肉を、北朝鮮に援助物資として供与するらしい。このニュースは毎日のように報道されているとのことだ。ドイツ政府は、屠殺する予定だった40万頭の牛のうち20万頭を北朝鮮に支援するプラン案を北朝鮮に提示しており、支援の条件などで交渉を繰り広げている最中であるという。
 ドイツ政府の援助は、牛肉の値段が急落することを防ぐための価格調整の色彩が強く、北朝鮮への援助が主目的ではない点は、日本のコメ援助が、同様に古古米を放出することによってコメ価格を調整しようとした農家救済政策ときわめて似通っている。人道援助よりも、人為的な価格調整を通じた国内対策である。
 韓国の代表的日刊紙の「朝鮮日報」(日本語版)によれば、同様にスイスのある肉類産業団体も牛肉支援を決定したらしい。
 北朝鮮に援助されることになる牛肉が絶対に安全であるという保障はなく、ある意味では「廃棄物処理」のような色彩を感じないでもない。汚染された牛肉が北朝鮮人民の口に入れば大きな問題が発生するし、日本の援助米のように横流しで転売され、国際市場に流れる可能性がないともいいきれない。牛肉が回りまわってわれわれの口に入ることがないか、気になるところである。
 また、オーストラリア(オーストリアでない)も北朝鮮と同様の交渉を進めていると報じられている。聞くところによると、オーストラリアの肉牛飼育方法は基本的に英国と同じである。ということはつまり、死んだ羊から作った飼料を食べさせているので、豪州牛にも狂牛病の原因である悪性プリオン(タンパク質の一種)が発生している可能性がまったくないとはいえないわけだ。
 狂牛病の話は、ユーラシア対岸の火事とタカをくくるわけにいかなくなるのではないか、と思いつつも、30周年記念価格で1つ200円になった「ビッグマック」を2つ食べて満腹している私である。安くて安全な牛肉を食べつづけられることを切に願うのは、懐が必ずしも温かくない私だけではあるまい(3月7日)。

つれづれなるままに(2001年3月3日)

タリバーンによる「人類の文化遺産」バーミヤン仏教遺跡の破壊について

 アフガニスタンを事実上制圧しているイスラーム原理主義集団タリバーンが、「人類の文化遺産」バーミヤンの仏教遺跡の破壊を開始したと報道されている。考えただけで激しい怒りを感じる。このように不寛容なタリバーンに対しては、武力行使を含めた国際的制裁が必要ではないか。武力行使が仏教の理念に反することは十分わかっているが、とはいえ、このような文化破壊が公然と行われるのを座視していいのだろうか? 
 同じアジアでも、東南アジアの状況はまったく異なる。事実上のイスラーム国インドネシアには、世界の三大仏教遺跡の一つであるボロブドゥール立体曼荼羅があるが、ジャワ島民はこれを破壊するどころか、ジャワ島の誇りとして旗に描いているぐらいだ。アフガニスタン隣国のイスラーム国パキスタンですら、観光資源ともなりうるガンダーラの仏教遺跡を保護している。
 イスラームは本来的に寛容なはずである。オスマン帝国がかつてそうであった。しかしながら、タリバーンは違う。イスラームの国際的イメージをはなはだしく悪化させているタリバーンの行為は、イスラーム法に照らしてまったく問題がないといえるのだろうか。
 国連ユネスコの破壊中止勧告のほか、ニューヨークのメトロポリタン美術館やインド政府が磨崖仏を引き取ってもかまわないと申し出ているらしい。タリバーンには、イスラーム法の厳密な解釈にとらわれることなく、柔軟な交渉をおこなってもらいたい。イスラームの国際イメージを取り返しのつかないまでに悪化させることは、自らの命運に跳ね返ってくることを認識しなくてはいけない。それとも、イスラーム原理主義者には因果応報なんて観念は存在しないのか(3月3日)。


つれづれなるままに(2001年2月26日)

二・二六事件から65年

 本日は二・二六事件がおこってから65年目にあたります。昨年は『憂国』という小説を書いて、映画化し、主演した三島由紀夫が自決してから30年目にあたりました。
 筆者は右翼ではありませんが(もちろん左翼でもありません)、二・二六事件には昔から多大な関心を抱いてきました。最初は、日本近代史上唯一のクーデータの、決起した青年将校たちへの浪漫主義的な共感から。
 ところが、調べるといろいろな事実がわかってきます。クーデター実行のみに重点がおかれてクーデター後の構想を欠いていたこと。昭和天皇自らが鎮圧する意思を示したことの誤算。東北地方の飢饉について。決起した青年将校たちの多くが文学青年だったこと(軍隊は基本的に理工系で、社会科学的素養を欠いていた)。昭和維新という運動について。戦前の革新とは、反資本主義の国家主義者たちのことだったこと。陸軍という巨大組織の内部抗争(皇道派 vs 統制派)に利用されたこと。憲兵隊によって事件発生前から電話が盗聴されていたこと。一審のみ上告なしの非公開の軍法会議で銃殺刑が決まったこと。等々。
 アジア太平洋戦争における作戦面での「日本軍の失敗」に関しては、研究書も出版されて注目されていますが、組織と人間の関係を考えるにあたって、二・二六事件が示す意味も依然として大きいものがあるのではないでしょうか。いきすぎた「能力主義」がもたらした下克上による組織内価値観の混乱、徹底した合理主義者(統制派)と情緒的日本主義者(皇道派)との意識レベルのギャップ、視野狭窄の指導層と指揮命令系統の混乱、等々。
 きめつけや安易な教訓を引き出すつもりはありません。今年もまた2月26日を迎えたか、という感慨があるのみです(2月26日)


つれづれなるままに(2001年2月21日)

花粉症とともに苦節20年

 東京はもうだいぶ陽気が暖かくなってきました。
 気持ちいい季節の到来のはずですが、憂鬱な季節でもあります。ロシアの国民詩人プーシキンならずとも「私は春が嫌いだ」とつぶやきたくなります。
 花粉症。
 私は、もうかれこれ20年も花粉症にわずらわされていることになります。大学入学のため東京西郊に移ってから、突然花粉症におそわれたのです。以後、花粉症から解放されたことがありません。
 当時はセイタカアワダチソウ(ブタクサ)が原因といわれていました。杉の花粉が原因といわれだしたのはその後になってからです。
 大学一年で第2外国語としてフランス語を選択しましたたが、花粉症(その当時はそんなコトバさえあったかどうか?)で鼻をグズグズさせているので、いわゆる鼻濁音がだせない。語学ラボではフランス人教師のマダム・Lから「発音が悪い」と何度も注意されていたものでした。
 夏の乾燥したギリシャでも突然の鼻のグズグズに襲われたことがありますので、日本から脱出しても花粉症から逃れることはできません。
 花粉症からは死ぬまで解放されないのでしょうか(2月21日)。



つれづれなるままに(2001年2月1日)


学校の2002年問題について

 
 先日といっても昨年のことであるが、学齢期の子供をもつ一主婦から、こういう話をきいた。2002年施行予定の「新指導要領」によると、小学校では、円周率が3.14ではなく、約3になるという。
 驚くべきことだ。
 円周率を計算するために一生費やした数学者の話をかつてきいたことがあるが、その行為は一体なんだったのだろうかという気にさせられる。
 3.1415926…まで覚えろとはいわない(ちなみに英語圏では円周率はこう覚える:
Can I ride a horse? Certainly, of course. 単語の文字数が円周率の数値に対応)。だが、円周率といったら、いうまでもなく 3.14 だろう。それが「常識」というものだ。小学校では円周率を理解させるために、ヒモを使って円をつくらせて、ヒモの長さと円の直径の長さとを実際に測定させて、円周率の意味をわからせたはずだ。計算上とはいえ円周率が約3とは・・・。絶句する。
 その話を思いだしながら、最近「学力低下」問題に関する本を何冊かよむうちに慄然とした思いにとらわれてきた。そのせいか先週からひいている風邪が悪化したくらいだ。新指導要領は、「一億総愚民化」「一億総白痴化」を狙っているのではないか、そう勘ぐりたくなる。
 特にひどいのが数学力の著しい低下である。入試にないから数学を勉強しない?…そんなことでは論理的思考力も、分析力も育まれることはない。「生きる力」なんか身につくはずもない。先進国はみなそろって「知識社会」へと移行しつつあるというのに…。『シュタイナー学校の数学読本』(ベングト・ウリーン、三省堂、1995年)という本があるが、サブタイトルには「数学が自由なこころをはぐくむ」とある。こどもの自主性を育むシュタイナー教育では、中等教育レベルでハイレベルの数学をきわめて魅力的に教育している。日本の状況はどう考えても正常じゃない。
 すでに、いまここにある「学力低下」状況に、「新学習要領」は決定的駄目押しとなることは間違いない。この状態をほっておくと、日本は世界のつまはじきになるだけでなく、世界に人的な環境汚染を垂れ流す元凶となってしまうのではないか、と危惧さえする。約十年前「日本の高等教育はレベルが低いが、初等教育はすばらしい」と胸を張って米国人に説明した自分が恥ずかしい。
 ここに「学力低下」問題について訴えるサイトを紹介します。みなさんもぜひサイトを訪問して、ぜひ署名してください(勝手連です)。 (2001年2月1日)

2002年度からの新指導要領の中止を求める国民会議」(NAEE2002)
http://www.naee2002.gr.jp/img/naee_anime.gif


つれづれなるままに(2001年1月22日)

英文名刺の表記について考える


 私の名前は漢字で書くと佐藤賢一である。
 ルビ(振り仮名)をつけなくても「さとうけんいち」と読めると思うので(最近の学力低下の結果どうなっているか分からないが)、とくに名刺にはルビは振っていない。名刺の裏面には英文表記にしているので(海外ビジネスに縁のない人でも英文表記をしている人も多いと思うが)、ローマ字を読めば、漢字の読みがわかるはずである(いくら「学力低下」といってもローマ字くらい読めるだろう)。

 問題はその日本語の名前の英文表記のことだ。
 一般的に、明治以来、名前の次に苗字を書くという表記法が定着してしまっている。たとえば私の名前なら 
Kenichi Sato となる。しかし、アジア系民族でこういう表記をしているのは日本だけである。
 中国人なら
Mao Tse-tung(毛沢東)、韓国人なら Kim Dae-Jung(金大中)。
 西欧文明を全面的に受け入れて千年以上たつハンガリーでも
Mornar Ferenc(有名な劇作家は、モルナールが姓で、名はフェレンツ)のように書く。西欧文明を受け入れてたかだか百数十年の日本人がなぜ猿真似してアイデンティティを簡単に喪失してしまうのか?
 名刺のスタイルやデザインは、ブランド・マネジメントの観点にたてば、全社・全グループで統一しなくてはならないものである。
 そこで私はこうすべきだと提唱したい。
SATO Kenichi と表記せよ、と。本来 Sato Kenichi あるいは SATO KENICHI のいずれかでよいのだが、いかんせん百数十年にわたって誤った表記法を行ってきたツケ(後遺症)がある。プラクティカルな観点からいって、SATO Kenichi と表記するのが混乱を避ける意味で適当だろう。 SATOと表記することで苗字だとわかるはずだ。「グローバル=米国スタンダード」という愚かな思い込みは一刻もはやく捨て去らねばならない。
 ちなみに American Standard とは、米国の便器メーカーのブランド名である。脚の短い日本人が American Standard  にあわせるのは当人にとっては大変なことだが、端からみたら滑稽以外の何物でもない(ただし男の場合、念のため)(2001年1月22日)


つれづれなるままに(2001年1月19日)


 北朝鮮の首都ピョンヤンから中国東北の工業都市シェンヤンを経由して、ペキン、シャンハイへと、金正日(キム・ジョンギル)主席をのせた特別列車は、陸路中国大陸を南下していく。シャンハイの次はシェンゼン(深せん)特別区視察だそうだ(注:その後中止との情報)。
 なぜ鉄道なのか知らないが(飛行機が嫌いなのか?)、列車によるこの”資本主義”中国視察旅行は、朝鮮半島からはユーラシア大陸なら陸路でどこでもいけるという事実を示している。
 私もシェンヤンを夜の10時に発車してペキンに早朝到着する列車にのったことがあるが、いわゆる軟座(ソフトシート、4人部屋コンパートメント)であれば特に不快ということはない。
 いわんや「特別列車」をやである。オリエント・エクスプレス並の豪華さなのだろうか? 無線パソコンも装備されているのだろうか? ぜひ一度拝見したいものである。
 ちなみに、ピョンヤン発の列車1両は、シェンヤン(満洲時代は奉天)で、ペキン発マンチューリ経由モスクワ行きのシベリア鉄道の最後尾に連結される。私は中ロ国境のザバイカルスク駅にてこのことを確認した。北朝鮮は完全に閉ざされた国ではないのである(2001年1月19日)。


つれづれなるままに(2001年1月9日)

 「今年は暖冬」という予測はいったいなんだったのだろうか、という思いに駆られます。
 北海道・東北が大雪なだけでなく、先日はついに東京でも積雪がありました(といっても、たいしたことはありませんでしたが)。
 シベリア寒気団が早くも南下しているためとのことですが、そのシベリアでは大寒波らしい。昨年も大寒波でモンゴルでは家畜が大量に死んだとことですが、もしかするとまた今年も大被害が広がるかもしれません。
 BBCによれば、中央アジアのカザフスタンでは40年ぶりの大寒波、シベリアではマイナス57度まで下がって凍傷者が続出、モンゴルから中国東北部にわたってブリザードによる気温の急低下で、凍死者がかなりでているとのことです。
 地理的条件からいえば、日本はユーラシア大陸東端に位置するわけで、ある意味では運命共同体の一員といえるわけです。米国にばかり目を向けていないで、もっと大陸と半島に注目すべきでしょう(2001年1月9日)。


つれづれなるままに(2001年1月5日)

 東京の巣鴨に「とげぬき地蔵」というのがあるのをご存知でしょうか。
 俗に「おばあちゃんの原宿」といわれるとおり、一年中日本人老女たちの群れ、群れ、群れ・・・。そして門前町として賑わう商店街。
 なぜこんなにも女性が集まるのか。やはりどんな時代であろうと、生老病死は人生最大の問題であることは変わらないのでしょう。カトリックのイタリアでも同じように老女がたくさん集まる光景をみることができますので、これは女性に共通する現象かもしれません。
 50年後も巣鴨の「とげぬき地蔵」はいまと同じように賑わっているのだろうか、などと想像してみるのも面白いことです。生活が洋風化しても、心性(メンタリティ)レベルでは人間は容易に変わるものではないのかもしれない、と考えてみたりもします(2001年1月5日)。


つれづれなるままに(2001年1月1日)

 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

 すでに「戦国時代」に突入して25年(高度成長開始からすでに「戦国時代」と考えるべきです)、価値観もすべて500年に1回の大混乱の最中ですが(いずれ数十年後には落ち着くことでしょう)、こういう時代の大転換期はとにかく、どんな形であれ、生き続けることが重要です。
 惑わされることなく、粛々と生きていきましょう(2001年1月1日)。


つれづれなるままに(2000年12月20日)

 米国大統領選がようやく決着をみるに至りました。(日本がどうしようもないのは言うまでもなく)米国はどうなっているのか?と思っていた人も多いかと思います。
 ブッシュになろうが、ゴアになろうが、よその国の問題ですから、日本国民がとやかくいうことではないかもしれません。
 ただ、ひとつ面白いのは、ブッシュが米国史上初のM.B.A.取得の大統領になるということです。そのため、優秀なスタッフに実務をまかせるCEO型などと揶揄もされていますが、国務長官になるパウエルも陸軍から派遣されてM.B.A.を取得しています。米国大統領はいま日本でも話題のロースクール出身の弁護士が大半(クリントンも)ということもあり、注目してもよい点ではないかかと思われます(2000年12月20日)。


つれづれなるままに(2000/12/12記)

 今年は暖冬だ、などといっていますが、これは東京中心のものの見方のようです。
 先日出張で青森に行ってきましたが、青森空港からでたら外は吹雪でした。北海道も東北も、もうすでにかなりの降雪があるようです。
 昔のCMソングではありませんが「♪日本列島 狭いようで広い」ですね。固定観念を捨てることの必要性を強く感じます(2000/12/12記)。


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