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※人物(その2)もご覧下さい。 福沢諭吉、中江兆民、渋沢栄一、東郷平八郎、 明治の日本主義者、尾崎行雄、吉野作造、西岡常一 |
●和の精神 ●国柄 ●君と民 ●日の丸 ●君が代 ●人物 ●武士道 ●歴史 ●自然 ●世界の声 |
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■聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方
日本の歴史には、立派な人物、優れた指導者が、数多く現れています。中でも聖徳太子(574-622)は、日本の国柄を明確にし、政治や外交や文化のあるべき姿を打ち立て、今日に至るまで大きな影響を与えています。 聖徳太子は、敏達3年(574)、用明天皇の皇子として生まれました。聖徳太子は死後につけられたおくり名で、本来は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といいます。20歳の時に、皇太子となり、推古天皇の摂政となりました。推古元年(593)のことです。 推古天皇から政治を任された太子は、政治の改革に乗り出しました。その頃は天皇の跡継ぎのなどのことで、朝廷内部に争いごとが起こり、豪族同士がいがみ合っていたのです。また、太子が摂政となる4年前、西暦589年に、シナでは隋がシナを統一し、大帝国が誕生していました。隋は勢力を伸ばし、周辺の朝鮮などの国々を従えようとしていました。太子は、天皇を中心とした強い国家を作ろうと考えて内政の充実を図り、「和の精神」を理念として打ち立て、国家の骨組みを確立し、日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たしました。また、外交においては、隋に対して独立自尊の精神をもって毅然とした外交を行い、また外国文化を積極的に採り入れて自国の文化を豊かにしました。 太子は、推古8年(600)、隋との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣したようです。国内には記録がありませんが、隋書には記載されています。 内政において、太子は皇太子の立場で天皇を補佐し、政治の基本を作り上げました。古代日本においては、政治(まつりごと)と祭事(まつりごと)は同じでした。太子は、日本古来の「神ながらの道」を根本とし、天皇を中心とした政治を行おうとしました。そのために重要なものが、官位十二階と十七条憲法です。 太子は推古11年(603)に冠位十二階を制定しました。徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳というように大小をつけて12種の位をつくり、それを冠の色によって区別し、個人の能力や功労に応じて位を与えました。これは、官位は、豪族の中から氏(うじ)や姓(かばね)にかかわりなく、能力や功績によって授けるとするもので、豪族の支配する世の中から、公の官僚が政治を行う国にしようとしました。これが中央集権国家建設の基礎となります。 次に太子は、推古12年(604)に十七条憲法を制定します。十七条憲法は、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。もっとも憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものとなっています。しかし、その中に、わが国のあり方、国柄が表現されています。 まずその内容を簡約にて示すと、各条の大意は次のようなものです。(樋口清之著『逆・日本史』祥伝社より引用) 第1条 和を以って貴しとなし、忤(さから)うることなきを宗とせよ〔調和・協力の精神〕 第2条 篤く三宝を敬え〔仏教への尊崇〕 第3条 詔を承りては、かならず謹(つつし)め〔忠君の精神〕 第4条 群卿百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼をもって本とせよ〔礼節の精神〕 第5条 餐(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ〔贈収賄の禁止〕 第6条 (略)人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ〔勧善懲悪〕 第7条 人各(ひとおのおの)任(よさし)あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし〔職権濫用の禁止〕 第8条 群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ〔遅刻・早退の禁止〕 第9条 信(まこと)は是れ、義(こころ)の本なり、事毎(ことごと)に信あれ。〔誠実の精神〕 第10条 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。〔叱責の禁止〕 第11条 功過(いさみあやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまいものつみなえ)かならず当てよ〔信賞必罰〕 第12条 国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ〔地方官の私税禁止〕 第13条 諸(もろもろ)の任(よ)させる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ〔職務怠慢の禁止〕 第14条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ〔嫉妬の禁止〕 第15条 私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり〔滅私奉公〕 第16条 民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良典(よきのり)なり〔農繁期の労役の禁止〕 第17条 大事(おおきなること)を独り断(さだ)むべからず〔独断専行の禁止〕 要点となるところを詳しく見ると、十七条に及ぶ憲法のキーワードは、「和」です。第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。 また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説いています。そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。 太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」でした。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。 第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。聖徳太子は、仏教の興隆に力を入れました。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたのではありません。聖徳太子の父・用明天皇(第31代)について、『日本書紀』に「仏法を信じ、神道を尊ぶ」と書いています。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。太子もまた、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようと言っているのです。敬神崇祖は、口にするまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も憲法の中では、神道については特に触れていないわけです。 太子伝の補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されています。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのです。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現したのです。 太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教)を摂取して共存させるという形を可能にしました。これは、わが国が外来文明を受容する際の型となりました。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させる仕方です。 こうして日本文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、自己の特徴を失うことなく、日本の独自性を維持していくことができました。それは聖徳太子に負っているのです。 次に国内的に重要なことは、天皇と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」なのです。十七条憲法は、第1条の「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まることは、先に述べたとおりです。以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。 「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公」が「私」より尊重されなければなりません。太子の憲法第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であることを明記しました。太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。 第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、第15条には「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。ここに日本における「公と私」のあり方が示されました。 太子は、天皇を中心として国民が統合された国のあり方を、理想として打ち出しています。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場となり、天皇を主と仰ぎます。一方、天皇は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おほみたから」(大御宝)とする伝統が確認されます。この理念は、大化の改新において実現され、公地公民制が創設されました。それは、天皇―公民制というわが国独自の国家原理の樹立でした。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民は皇帝の私物であり、官僚は皇帝に私的に仕える者でした。日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、シナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違います。わが国では、天皇は公の体現者となり、人民は私的に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、日本の天皇は公民を「おおみたから」と呼び、自らの徳を磨き、人民のために仁政を行いました。 太子の理想は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けます。 さて、官位十二階と十七条憲法によって内政の充実を図った聖徳太子は、外交の面においても、画期的な活躍をします。 古代の東アジアでは、シナ文明が独り栄えていました。シナの皇帝は、シナこそが世界の中心国(=「中国」)であり、周辺諸民族は野蛮人だと見下していました。中華思想であり、これによる国際秩序を華夷(かい)秩序といいます。周辺諸国は、シナに貢ぎ物をして册封(さくほう)をうけていました。册封とは、シナ王朝の臣下となり、自分に「王」の位を与えてもらうことを意味します。東アジアは、こうした册封体制が支配しており、シナを核とした中心―周縁構造がつくられていました。 聖徳太子は、大国・隋を相手に気概ある外交を行い、シナ中心の国際秩序から離脱し、日本の独立を守り、独自の文化を築く道を開きました。 聖徳太子は、推古天皇16年(608)に、シナ大陸にできた大帝国・隋の煬帝に対して、国書を送ります。遣隋使には小野妹子が遣わされました。国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という言葉が記されています。「日出づる処」とはわが国のことであり、その「天子」とは、日本の天皇のことを意味します。この国書を見た煬帝は「はなはだ喜ばしからず」と伝えられています。「天子」とはシナの皇帝一人とされていたからです。 さらに第2回の国書には、「東の天皇、西の皇帝に曰(もう)す」と記されています。太子は、もはや紀元1世紀以来使われてきた「王」という称号を用いませんでした。「王」は、シナの「皇帝」に仕える立場だからです。代わって「天皇」という言葉がここに初めて使われました。「天皇」の称号は皇帝と対等のものでした。これは、隋の煬帝の逆鱗(げきりん)に触れ、武力攻撃を招きかねないことでした。 しかし、聖徳太子は、シナの册封体制から離脱し、対等な国際関係を築こうとしたのです。これは画期的な外交方針の転換でした。そこには、大国をも恐れず、自己を卑下しない気概があったのです。こうした聖徳太子の毅然とした姿勢は、国家外交の基本を示しているものと言えましょう。また、日本が海に囲まれ、大陸からの攻撃が難しいという自然条件に恵まれていたことが、こうした外交政策を可能としたのです。 太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の時代に、「天皇」の称号が定着しました。また、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになりました。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。その後、シナでは、咸亨元年(670)の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。ここに1世紀以来、「倭」と記されてきたわが国の国号は、「日本」という名称に公式に改められたのです。 大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。しかし、我が国は、こういう主体性のない状態を、よしとしなかったのです。 こうして聖徳太子の国家方針樹立によって、わが国では7世紀の初めに、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めました。その結果、我が国は政治的・外交的に、シナを中心とした政治秩序である册封体制から離脱しました。それによって、独自の文化を発展させ、一個の独立した文明を創造する基礎が固まったのです。 太子は、積極的に外国文化を採り入れました。太子は、繰り返し小野妹子を隋に派遣し、先進的なシナ文明に学ぼうとしました。ただし、自主的な姿勢を持ってこれを行うところに、太子の方針がありました。 太子が遣わした遣隋使には、留学生が一緒に大勢送られました。留学生たちは、帰国後、外国文化の知識をもとに、様々な形で、国家のために活躍します。 西暦618年に隋が滅び、唐が興りました。その4年後、推古30年(622)、聖徳太子は49歳の生涯を閉じました。 大化の改新(645)では、聖徳太子によってシナで学んだ留学生たちが太子の意思を受継いで活躍し、その後の国家建設においても、彼らの知見が生かされました。 聖徳太子による留学生の海外派遣が先例となり、明治維新の時にも、政府使節の海外視察や留学生の派遣が行われ、維新国家の建設に大きな成果を生み出しました。第2次大戦後、有色人種が白色人種の植民地支配から独立すると、先進国に多くの留学生を送り込みました。彼らは帰国後、祖国建設に活躍しました。これは、明治以来の日本のやり方を模倣したものです。それはまた、聖徳太子の政策にならったものともいえます。太子の留学生派遣には、世界史的な意義があったと言えましょう。 聖徳太子は、内政においては、天皇中心の国柄を明確にし、和の精神による公共秩序をつくり、神道を根本とした豊かな精神文化を創造し、外交においては、毅然とした独立自尊の外交を行いつつ、積極的に外来文化を摂取しようとしたと言えましょう。こうした太子の姿勢は、明治維新においても貫かれ、21世紀の今日においても日本国の一貫した基本方針たるべきものです。 私たちは、聖徳太子の姿勢に学び、自主性と創造性のある国家・文明を発展させたいものです。 参考資料 ・拙稿「聖徳太子が文明化と自立を推進」 |

■孝を尽くし人を愛した聖人・中江藤樹
2003.1.17 人間と動物の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。親が子をかわいがるということなら、動物もやっています。それは本能だからです。しかし、子供が親を大切にし、年老いても面倒をみるのは、人間だけです。親に孝行をする点が、人間と動物を分けているわけです。実はそこに人間が動物より優れている点があるのです。 この孝行を道徳の根本とし、自ら実践した人に、中江藤樹がいます。藤樹は、わが国でただ一人、聖人と称えられたほどの人格者でした。 藤樹は江戸時代初期の人で、慶長13年(1608)、近江国小川村(現在の滋賀県安曇川町)に生まれました。9歳の時、米子藩の家臣であった祖父の養子となり、父母の元を離れて米子に行きます。翌年、藩主の国替えにより、祖父とともに伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住みます。15歳の時、祖父が死ぬと、藤樹は武士の身分に取り立てられます。その3年後、郷里の父が亡くなると、藤樹は近江へ駆けつけ喪に服した後、また大洲へ戻ります。藤樹は、この時、母を説得して大洲に連れて帰ることができませんでした。そのことを、藤樹は悔やみ続けることになります。 少年の日、11歳の藤樹は儒教の経典『大学』を読みました。そして、誰もが身分に関係なく聖人になれるという教えに感動し、自分も聖人をめざそうと心に決めました。なかでも『孝経』にある、孝行は人倫の第一であるという教えに、深い感銘を覚えていました。そうした藤樹は、母親と離れ離れのままであることに、強い自責の念を感じていました。27歳になった時、藤樹は、母親を見捨てたような状態で、天下国家を語っていることはできない、自分は何をおいても親孝行を実行しなければならないと決意しました。そして、母への孝行と自身の健康を理由に、大洲藩士の辞職を願い出ました。しかし、事はうまくはかどりませんでした。しびれを切らした藤樹は、ついに藩主の許可を待たずに脱藩し、近江へ帰ってしまいます。 親孝行のために武士の身分を返上した藤樹は、老母を養うため、近江でわずかな金で酒を買い、商売を始めました。また刀を売り払って資金を作り、村民を相手に金貸しをしました。その後、生計の一助にと医学を学び、医師として人々の病を治療するようになりました。そのかたわら、藤樹は私塾を開き、大洲藩から自分を慕ってやってきた武士や、近くの村人に学問を教えました。藤樹の人柄や生き方や思想は、多くの人々に感化を与えたのです。 藤樹の門人に大野了佐という男がいました。了佐は生まれつき愚鈍のため、武士としてはやっていけないと父親は行く末を案じていました。それを知った了佐は、せめて医者になりたいと思い立ちました。了佐の覚悟を聞いた藤樹は、その熱意に感心して、何とかしてやろうと決心しました。藤樹はまず了佐に短い語句を二、三句教えてみたのですが、了佐はなかなか頭に入りません。朝から200回も同じ事を教え、ようやく覚えて読めるようになったかと思うと、夕方には忘れてしまいます。日々この繰り返しですから、藤樹は精も根も尽き果てるばかりでした。しかし、それでも了佐は教えを乞い続けます。その熱意に動かされた藤樹は、了佐のために医学書を書き、それを少しづつ読んでは説明して覚えさせました。おかげで了佐は一人前の医者となることができました。そして、家族を養うこともできるようになったのです。 藤樹は初め朱子学を学びました。朱子学では「性即理」とし、「理」は宇宙の絶対法則を意味します。そして、理に合った生き方をするために、経典の教えや規範を厳守するように説きます。しかし、藤樹は朱子学に満足できず、疑問を感じるようになりました。そして、自分の内なるものを信じて進むことにします。 自己完成をめざして努力を続ける藤樹は、37歳の時、王陽明の『陽明全書』と出会いました。陽明学は「心即理」とし、心そのものが理であり、心のほかに理はないとします。そして、人間の心に備わる生来の道徳的直観力を「良知」とし、この「良知」によって物事の是非善悪を判断して行動することを説きます(「致良知」)。 王陽明の思想に感激した藤樹は、自身の思想を一層深めることができました。そして、道徳的規範は自己の外にあるのではなく、内に求めるべきで、心の自発にあることを悟り、自らの心学を確立します。このことにより、藤樹は、日本陽明学の祖ともいわれています。 藤樹の思想は、「孝」を中核においています。そこには少年の日に触れた『孝経』の影響が色濃く表れています。すなわち、孝行を人倫の第一とする考え方です。 朱子学を批判して、厳しい内省を続けた果てに、藤樹は、人の心に備わる「理」を「孝」と表現します。藤樹において、「孝」は宇宙の根本原理とされます。そして、「孝」が人間生活に現れる形を、藤樹は「愛敬」と呼びます。「愛敬」の「愛」とは「人々が親しく睦まじく交わること」、「敬」とは「下は上を敬い、上は下を軽んじないこと」という意味です。いわば、縦のつながりと横のつながりの両方において、人と人が愛し合い、助け合う姿です。それが「愛敬」であり、宇宙的な原理、「孝」の表れだとするのです。 そして藤樹は説きます。「人間の内面には、天下に二つとない霊宝がある。この宝は、天において『天の道』、地においては『地の道』、人においては『人の道』となる。この霊宝を、昔の聖人は『老いた親を子が背負う姿』をかたどって『孝』と名付けたのである」と。(『翁問答』) 現代人にとって、こうした「孝」の思想はなじみにくいかもしれません。それならば、「孝」を「愛」に置き換えてみると理解しやすいでしょう。親子の「愛」を宇宙の原理にまで高め、人間の共同性の根本においたのが、藤樹の思想であるわけです。キリスト教のように、無差別的で観念的な隣人愛を説くのとは違い、現実的な親子の愛を、身内から周囲に押し広げるところに、東洋的また日本的な特徴があります。自分の親を大切にすることを実践せずして、遠くの人への愛を説くのではないのです。 藤樹は、体が弱く喘息もちでした。彼の生涯は、41歳で幕を閉じます。その短い人生において、藤樹は母を愛し、妻子を愛し、門人を、また村人を愛しました。そんな藤樹は、いつしか「近江聖人」と称えられるようになりました。 「人は誰でも生まれつき美しい心を持っている。心を磨き修養に努めれば、誰でも立派な人になれる」と藤樹は説き、実践しました。こうした思想は、後の石田梅岩や細井平州や二宮尊徳にも見られるものです。封建的な身分制を超えた彼らの人間平等の思想は、庶民における日本精神を豊かなものにしていったのです。(1) (ページの頭へ) 註 参考資料 ・ 『日本の名著 11 中江藤樹・熊沢蕃山』(中央公論社) ・ 『人と思想 45 中江藤樹』(清水書院) ・ 滋賀県安曇川(あどがわ)町のホームページ http://www.biwa.ne.jp/~adogawa/ 郷土の偉人・藤樹を紹介しています。 |

■日本人が好きなヒーロー〜水戸黄門
「このお方を、どなたと心得る」−−ご存知、天下の副将軍・水戸黄門は、テレビや映画で、悪を懲らしめるヒ−ロ−として描かれています。日本人に最も人気のある歴史的人物の一人です。 水戸黄門とは、水戸藩主・徳川光圀のことです。「黄門様」と呼ばれたのは、水戸藩主に朝廷から与えられた「中納言」という官職によります。「中納言」のシナ風の呼び方が「黄門」だったからです。 さてこの黄門様ですが、少年時代は不幸な生い立ちのためか、ひどい暴れん坊で、ごろつきとケンカをしたり、辻斬(つじぎ)りまでしたとか…。「あれでも、家康様の孫かと皆が後ろ指を差しておりますぞ!」と、養育係がいさめるほどでした。 しかし、18歳の時、光圀は、シナの歴史書『史記』を読んで感動します。そして『史記』のような歴史書を編纂しようと思い立ちます。30歳となった時(1657年)から、その歴史書『大日本史』の編纂を始めます。歴史認識が、暴れん坊を変えたのです。 当時は、「日本はシナの呉の国から分かれた国である」と書かれた『本朝通鑑』が広く読まれ、それを疑問に思わないようなシナ崇拝の時代でした。現代の日本に似ていなくもありません。 「放っておくと日本はシナの属国ということになってしまう。日本の正しい歴史を明らかにしなければならない」。 そう考えた光圀は「彰考館」を設立し、優秀な学者を集めて、史料調査を行います。「彰考」(しょうこう)とは、「彰往考来」(過去を明らかにして未来を考える)という言葉に由来します。なんと光圀は、藩の収入の4分の1をもこの事業につぎこみました。それほど、事の重要性を感じていたのです。「正しい歴史観が、日本人の誇りを取り戻す。なんとしても…」。 しかし、光圀は志半ばにして73歳で亡くなります。『大日本史』の編纂は、その後250年もの間続けられ、明治39年(1906)についに完成しました。これほど壮大な歴史編纂は、世界にも希です。 今日の我が国でも、歴史観の見直しが急務となっています。歴史の研究とは、過去の事実を明らかにするばかりではありません。国の本来の姿を明らかにするとともに、国の将来のあり方、理想を掲げるものでもあります。同時に歴史上の人物の生き方を鏡として、自己のあり方を正すこともできます。 『大日本史』は、膨大な史料を調査・研究することを通じて、日本独自の歴史を明らかにしていきました。 シナは易姓革命の国であり、王権が何度も交代しています。しかし、日本には革命がなく、古代から現在まで一貫して皇室が続いています。こうした歴史的事実によって、日本の国の本来の姿が確認されました。 『大日本史』は、南北朝期に関し、南朝正統論を説きました。光圀は楠木正成の尊皇の精神を称え、正成ゆかりの地・湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建てました。 『大日本史』の研究は、朝廷と幕府のあるべき姿を明らかにし、幕藩体制の矛盾を浮かび上がらせました。その結果、幕末の王政復古の運動を導く役割を果たしました。 『大日本史』を基に書かれた頼山陽の『日本外史』は、幕末のベストセラーとなり、日本人に自国の歴史を自覚せしめました。また『大日本史』編纂を通じて生まれた水戸学は、日本の国柄を明らかにし、西郷隆盛・吉田松陰などの草莽(そうもう)の志士たちを、尊皇攘夷の運動へと発奮させました。 こうして『大日本史』は、幕末の日本が、西洋列強のアジア侵略の中で、民族の独立を守り、明治維新を成し遂げる原動力の一つとなったのです。光圀の手がけた『大日本史』こそ、後の日本の歴史を変えた、偉大な歴史書と言えましょう。 さて、水戸黄門と言えば、「諸国漫遊記」というイメージがありますが、光圀自身は、諸国の旅はしてはいません。名執権・北条時頼(時宗の父)の実話と、光圀のイメージが結びついたもののようです。 おともの助さんは佐々介三郎、格さんは安積覚兵衛(澹泊・たんぱく)という実在の人物。彰考舘で光圀に仕えた家臣です。佐々介三郎たちは、史料を求めて何度も全国各地を旅しました。その話が、明治に入り、講談の話として脚色されたのです。そして、水戸黄門は、弱きを助け、強き(悪)をくじくヒーローとして描かれ、今日も庶民に愛されているのです。 (ページの頭へ) |

■庶民の中の日本精神〜石田梅岩
2002.1.23 台湾には今も「日本精神」という言葉が残っています。台湾の言葉で「リップンチェンシン」といいます。台湾では「日本精神」は、正直、勤勉、滅私奉公、向学心、礼儀正しい、約束事を守るなどを意味するそうです。(1) 「日本精神」は、わが国の国の初めから、長い歴史の中で成長してきた心です。中でも武士道は、日本精神の精華ともいわれ、よくその特徴を表しています。しかし、日本精神とは、武士道に表れた心ばかりではありません。日本精神は、庶民の中でも豊かに成長してきました。たとえば、江戸時代の石田梅岩とその弟子たちは、商人の立場から心学を説いて、庶民の心を育み、大きな影響を与えてきました。 今日の日本人は、自分ではそれと意識していなくとも、どこかで神道・儒教・仏教の考え方や慣習を身に付けています。これは江戸時代に熟成したもので、徳川260年のうちに、神道・儒教・仏教が融合し、特定の宗教を超えた心の文化が生み出されたのです。また、日本人は基本的に、正直・勤勉・奉仕をよいことと考えています。これは、日本人の常識ともいえます。また、日本精神の特徴ともなっています。 こうしたわが国の精神文化の来歴を探ると、ルーツの一つとして浮かび上がってくるのが、梅岩らの心学なのです。 心学の始祖・石田梅岩は、貞享(じょうきょう)2年(1685)に丹波国桑田郡東懸村、現在の京都府亀岡市の農家に生まれました。11歳の時、京都に出て商家に住み込み、丁稚(でっち)として奉公するようになりました。22歳からは、黒柳という呉服商に勤めました。厳しい仕事の毎日でしたが、梅岩は暇があると書物を読んで勉強しました。神道、儒教、仏教などに関する本でした。また、儒者の話を熱心に聞いて歩きました。そして、45歳の時、黒柳家の番頭をやめて、自分の家で講釈をするようになりました。 「聴講無料、紹介がなくても結構、興味のある方は遠慮なくお入りください」。梅岩は家の前に、こんな張り紙を出しました。講釈を始めた頃は、出席者はたった一人という状態でした。当時の人々には、商家の番頭がある日突然、人に向かって道を説くとは、思いもつかないことでした。しかし梅岩は、難しい話をするのではありません。庶民の言葉で、生活に根ざした思想や道徳を説くのです。そして聴講者と問答をしながら講釈を進めていきました。学者や僧侶にはない、分かりやすい話が評判を呼び、しだいに聴衆は増えていきました。 心学は、宗教ではありませんが、教えの中には神道・儒教・仏教が採りこまれています。これら三教を融合した三教一致の道徳を説くのが、心学といえます。梅岩は宗教・思想を広く学び、それを現実に当てはめて、実際生活に合うところを摂取しました。生活の役に立たない観念は、採り入れません。この態度は商人であるがゆえの現実主義ともいえますし、日本的な合理主義ともいえます。観念的でなく現実的であり、生命と生活の実際に即しています。 梅岩の生きた江戸時代は士農工商の身分があり、商人はその最下位でした。武士階層から、卑しい職業として蔑まれていたのです。しかし、梅岩は、「商人(あきびと)の売買するは天下の相なり」と言います。商人がものを売買することは、世の中の役に立つことであるというのです。商人がみな農民や職人になれば、ものを流通させる者がなくなります。それでは、社会生活が成り立ちません。梅岩は、貨幣経済の発達を踏まえ、商人の立場を主張したのです。時節は元禄のバブルが過ぎ去った頃でした。 梅岩は 「商人の道と云うとも、何ぞ士農工の道に替(かわ)ること有らんや。孟子も、道は一つなりとの玉ふ。士農工商ともに、天の一物なり。天に二つの道有らんや」と言いました。武士は主君に仕え、国を富ませるのが仕事です。農民は農業に励むのが仕事、職人はものを作るのが仕事です。商人はものを流通させ、物価を下げ、人々の生活を豊かにするのが仕事です。すべての人は、自分の能力にしたがって仕事をしており、それに対して報酬を受けるのは当然だと梅岩はいいます。暴利をむさぼらない限りは、どれが正しく、どれが不正ということはない。どの職業が上というわけでもない。どの人も、自らの職業によって社会の役に立っているのです。梅岩は、このように主張しました。 しかし、彼にとって最も重要だったこと、それは、利益の追求ではありませんでした。梅岩は商人の基本的な役割は、社会に仕えることだと考えていたからです。 梅岩は、自分の地位を私欲のために利用する人ではありませんでした。「広く人を愛し、貧窮の人をあわれみ…」と説いた梅岩は、洪水や飢饉が起きた時は苦しんでいる人々のために慈善活動を組織しました。町人によるボランティア活動です。 梅岩の生活は質素でした。彼の死後残っていたのはわずかな物品だけでした。財産のほとんどを寄付してしまっていたからです。 梅岩は、利益より徳を養うことを目指しました。いわば商業の倫理が、そのまま人間の倫理となるような道を説き、実践したのです。またそこには、自利と利他が一致する自他一如・共存共栄の精神が表れています。 こうした梅岩の思想は、日本的な経営哲学の原形ともいえるものです。すなわち、「論語と算盤」の一致を説いた明治の渋沢栄一や、「水道の哲学」を説いた昭和の松下幸之助の先駆を、梅岩に見ることができるでしょう。 さて石田梅岩の死後、彼の教えは弟子の手島堵庵、柴田鳩翁に引き継がれました。彼らの教えを石門心学といいます。彼らは、心学の教えを「道話」と呼びました。「道を説く話」という意味です。道というのは、天地人を貫く道理・法則のことです。 梅岩の弟子たちによって「道話」の聴講者は著しく増えました。特に梅岩の孫弟子・中沢道二は、心学をわかりやすく説き、各地に広めました。聴講の地域は28カ国、69都市にまたがりました。商人だけでなく武士までも教えを受けるようになり、全国65の諸藩から大名や家老も相次いで門をくぐりました。こうして心学は四民全体に広まり、それが日本人の常識を形作っていったのです。 心学では、正直・勤勉・奉仕の大切さを教えます。 キーワードの第一は、「正直」です。これはただウソをつかないとか、人を欺かないということだけではありません。人間の本心そのままの状態を意味します。 梅岩のたとえによれば、赤子が自ら行なっているのは呼吸だけですが、呼吸は自分の意志ではなく、意志を超えたものによって、呼吸させられているのです。それが赤子を生かしているのです。そこに梅岩は、人間を生かしている宇宙の法則を見出します。同時にまた、宇宙の法則にそって生きている人間の姿を見ます。そして「赤子は聖」と言い、そこに人間の本心を見るのです。その本心のとおりにあることを、梅岩は「正直」といいます。現代の言葉でいうと「素直」という言葉に、最も近いでしょう。そして、「心学」とは、本心どおりに素直に生きることを学ぶ学問といえます。 心学の残りのキーワードは、「勤勉」と「奉仕」です。実践においては、梅岩は、勤勉と奉仕の大切さを説きます。商人が一生懸命、勤勉に働くと利益が得られるわけですが、そこで梅岩は私欲を自制せよといいます。そして倹約を実行し、経費を減らし、ひたすら消費者に奉仕することを心がけよと説きます。欲を出してはならない。貪欲になると道を外れるから、必ず倒産する。「奉仕に明けて、奉仕に暮れる」なら、必ず栄えると彼は説くのです。 心学には、日本人が庶民にいたるまで外国思想をよく消化し、すっかり自分のものにしている例を、見て取れます。シナに生まれた儒教には、「修身斉家治国平天下」という言葉があります。四書の第一である『大学』の一節です。身を修め、家を斉(ととの)え、国を治めて、天下を平らかにするという意味です。本来これは君子つまり為政者の道でした。武士階層にはこの道が当てはまります。ところが梅岩は、身分が低いとさげすまされていた商人も同じ道を実行すべきだと説きました。 「倹約の事を得心し行ふときは、家ととのひ国治り天下平なり。これ大道にあらずや。倹約をいふは畢竟身を修め家をととのえん為也」 私欲を抑え、倹約をすることは、身を修めることだ。それによって商家という家を斉える。店で働く人々の生活を保障する。そして商売を通じて、社会に奉仕する。そうすれば、社会全体が豊かになり、国が栄え、世の中が平和になる。梅岩は、商人の道も、修身斉家治国平天下の大道だと誇り高く言うのです。それを広げて、さらに次のようにも説いています。 「天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本(もと)私欲なき者也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借りたる物は返し、毛すじほども私なくあるべかりにするは正直なる所也。此正直行なわるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。我願ふ所、人々ここに至らしめんため也」 天地を父母として生まれた人間が、本心どおりに素直に生きれば、人々は和合し、世界人類はみな兄弟のようになる。梅岩はそういう気宇壮大な願いを抱いて、庶民に「道」を説いたのです。 最初に、台湾では「日本精神」は、正直、勤勉、滅私奉公、向学心、礼儀正しい、約束事を守るなどを意味すると書きました。こうした、ごく当たり前の道徳は、庶民の日常の中で育まれ、受け継がれてきたものです。そして梅岩らの心学に見るように、江戸時代の庶民の中で成長した日本精神が、近代日本の発展の力となったのです。(ページの頭へ) 註 (1)拙稿「日本人よ、しっかりしなさい」をご参照下さい。 参考 ・心学参前舎のホームページ http://www1.neweb.ne.jp/wb/sanzensha/ ・山本七平著『日本資本主義の精神』(祥伝社) |