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日本の心  人物(その2)

 

題   目

目  次

■11 文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉

■12 竜馬・海舟・西郷に憧れた男〜中江兆民

■13 私利を超え、公益を追求した渋沢栄一

■14 日本を守った英雄〜東郷平八郎

■15 世界の中の日本〜明治の日本主義者

■16 主体的で国際的な国民主義〜陸羯南

■17 個性尊重の日本主義を提唱〜志賀重昂

■18 日本主義は国民道徳の原理〜高山樗牛

■19 21世紀、東洋人の課題〜三宅雪嶺

■20 新語「日本精神」を活用〜芳賀矢一

■21 日本精神は偏狭にあらず〜安岡正篤

■22 東洋の理想と日本の目覚め〜岡倉天心

■23 日本的デモクラシーの旗手〜尾崎行雄

■24 尊皇と愛民のデモクラシー〜吉野作造

■25 木のいのち、人の心〜西岡常一

 

人物(その1)もご覧下さい

聖徳太子、中江藤樹水戸黄門石田梅岩、恩田杢、

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文明の目的は独立にあり〜福沢諭吉

2002.3.7

 

 我が国で初めて文明論を説き、文明という観点から国是・国策を論じたのが、福沢諭吉です。

 福沢は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を見て、日本人に西洋の新知識を伝え、これからの日本人はどうあるべきかを訴えました。そのポイントとなったのが、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論です。

 

若き福沢は安政2年(1855)より、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び、西洋の医学や科学・技術を学びました。これが彼の知識の基礎となります。その後、いち早く英語の重要性を見抜き、独力で英語を習得して、欧米の政治や経済、社会思想なども貪欲に吸収していきます。その旺盛な好奇心と鋭い理解力は、驚嘆に値します。

福沢は、万延元年(1860)、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、その後、ヨーロッパにも訪れ、西洋近代文明をつぶさに見聞しました。その経験をもとに書いたのが、『西洋事情』(1866-69)です。幕末の知識人でこの本を読んでない人はいないというくらいに、よく読まれました。徳川慶喜も西郷隆盛もみな『西洋事情』を通じて西洋諸国のことを知ったのです。

 

 維新後、福沢が、広範な知識と深い洞察をもって、これから日本人は何をすべきかを説いたのが、『学問のすすめ』です。

『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年(1872)に発表されました。これは日本はじまって以来の大ベストセラーとなりました。

 『学問のすすめ』の出だしは、誰でも知っているほど有名です。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。この一句を、人間は平等でなければならないという意味だと思っている人が少なくないようです。確かに福沢は、人間は生まれながらに平等だと言っています。しかし、その本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによると、結論しているのです。機会は平等でも結果は努力によって異なるのです。それが、彼が『学問のすすめ』を書いた理由です。

ここで福沢が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」でした。「実学」とは、サイエンスです。サイエンスといっても、自然科学のことだけではありません。政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問のことです。そして、福沢は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導しました。

 

 では、福沢が説いたのは、日本を西洋化することだったのでしょうか。話はそう単純ではありません。問題は、なぜ福沢は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説したのかです。それは、わが国の独立を維持するためだったのです。

『学問のすすめ』で福沢は、無批判な西洋賛美をいましめています。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べています。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福沢は明言しているのです。列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙(じゅうりん)されていた当時のアジア情勢において、独立を守ることは、至上命題だったのです。

 

 福沢は『学問のすすめ』を中断して、明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、同じ主旨のことを説いています。

 「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」

 そして、福沢は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。

 「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」

 この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福沢が日本人に最も訴えたかったことでしょう。

 

独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、もち得るものです。福沢自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。この点を理解して初めて、彼のいう「独立心」の意味も明らかになります。

 

 『文明論之概略』で福沢は書いています。

 「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」

 つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢は自らの歴史観を語ります。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でもありました。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢の愛国心の背骨となっています。

 

 福沢は書いています。

 「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり」

 この時つまり明治8年(1875)において、日本人の義務は、国体を保つという一事にある。国体を保つというのは、自国の政権を失わないことだ。つまり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだ。福沢はこう言っているのです。

さらに続いて彼は述べます。

 「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」

日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、西洋近代文明の精神を採り入れることだ、と。

福沢の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実があります。そして、福沢は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていたのです。これこそ、福沢の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示すものです。

 

福沢は、後年、皇室に対する敬愛の念を強めていきました。帝国議会開設に先立つ明治15年(1883)、福沢は『帝室論』を著し、日本皇室を論じています。「帝室」とは、皇室のことです。

 「今日、国会の将に開かんとするに当たって、特に帝室の独立を祈り、遥かに政治の上に立ちて下界に降臨し、偏りなく党なく以て其の尊厳神聖を無窮に伝えんことを願う」

 つまり福沢は、皇室は政治の上に立ち、不偏不党の立場にあるべきだとし、皇室の尊厳と神聖を未来永遠に伝えることを願ったのです。同書で福沢はこう書いています。

 「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し」

つまり皇室は日本国民の精神を統合する中心である。その功徳は極めて大きいと福沢は考えていました。続けて彼は述べます。

 「国会の政府はニ様の政党相争ふて火の如く水の如く盛夏の如く厳冬の如くならんと雖(いえ)ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は其冷たること水の如く。其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(いかり)を解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり」

 福沢は、皇室は、政治の外にあって、その徳によって国民に和をもたらすような存在であるべきだと説いたのです。この考え方は、戦後の象徴天皇制度にも通じる考え方と言えましょう。

 

 福沢諭吉は、単なる文明開化論者ではありませんでした。日本の独立維持を訴え、愛国心と尊皇心を持つ日本人でした。その言説には、維新の志士たちに連なる、日本人の精神が脈打っているのです。

この点を理解する時、「独立心をもて」という福沢の訴えは、私たちの心に、一段と強く響いてくるでしょう。

 

 福沢は明治34年(1901)に亡くなりました。その40年後、日本はアメリカと戦い、敗れました。戦後の日本は、敗戦国としてアメリカの占領を受け、その後もアメリカの強い影響下にあります。物質的には福沢が想像できなかったほどの豊かさを手に入れましたが、国の独立ということに関しては、逆に大きく後退しています。国民の多くは独立心を失い、政府は外交や国防を他国に依存しています。さらに金融による経済戦争にも敗れ、日本人の多くは日本人としての誇りや自信をも失っているようです。

ここで、私たちは、福沢が文明化の目的とした、国の独立ということをしっかり考えていかねばなりません。そして、独立心を持て、独立心は愛国心からだ、という彼の渾身のメッセージを受け止めたいものです。

そして、21世紀の今日、日本国と日本文明のあり方を考える際、福沢の訴えは、いよいよ深く、しっかりと理解する必要があるでしょう。

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参考資料

    福沢諭吉著『学問のすすめ』『文明論之概略』(岩波文庫)

    『福沢諭吉著作集 第9巻』(慶應義塾大学出版会)

・川村真二著『福沢諭吉』(講談社α文庫)

 
 

■竜馬・海舟・西郷に憧れた男〜中江兆

2002.4.3

 

 中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を紹介した自由民権論者として有名です。「東洋のルソー」とも呼ばれます。しかし、兆民の本質は、日本の国柄に基く社会改革を追及したところにあります。

兆民は土佐(高知県)の出身で、少年時代に同郷の坂本竜馬と出会い、竜馬を生涯、尊敬していました。少年兆民は、竜馬に「中江のニイさん、煙草を買うてきてオーセ」と言われると、喜んで使い走りに行ったそうです。また、兆民が日本の政治家の中で、もっとも敬服し親交したのが、勝海舟でした。兆民は海舟から西郷隆盛の話を聞き、西郷を絶世の英雄と信じました。西郷が征韓論で帰郷したときには、西郷を上京させ、西郷・海舟の連立政権を樹立しようと努めたりしました。兆民とは、まさに維新の英雄たちの息吹を、自由民権運動に伝えた人物だったのです。

 

 兆民は、明治4年(1871)に岩倉遣欧使節団の一員として洋行し、フランスで知ったルソーの思想を翻訳・紹介します。彼が漢文(一種の中国語)に訳した『民約論』は、わが国だけでなく、シナでも読まれました。兆民が「東洋のルソー」と呼ばれる所以です。そこで、兆民と言えば、ルソーと同様の共和主義を唱えた思想家と思っている人が多いようです。確かに兆民はルソーの「人民主権論」の主旨を、わが国に生かそうとしました。しかし、彼は、ルソーに大いに学びつつも、その思想を批判しました。兆民は、ルソーの思想が直観的感情的な特色を持つが、思考には論理性に乏しく、往々にして奇を好む誇張癖があると指摘しています。またその人物については、人間的に後世のそしりをまぬがれがたい薄情、無責任の性質があったと厳しく批評しています。

 

 ルソーの思想が暴力革命・君主制否定・共和主義であるのに対し、兆民の思想は議会主義・法治主義・君民共治です。兆民は「君主の存在する国であっても、公義公道の行われる国は共和国であり、形は民主大統領制の国であっても、公義公道の行われない国は真の共和国ではない」と説きました。つまり、政治を「私」する専制政治がよくないのであり、君主の有無にかかわらず、「公論」が反映される政治をよしと考えたのです。兆民は、外国思想の模倣に走る戦後の進歩的文化人とは、違ったのです。

 

兆民は洋学者である以上に、優れた漢学者でした。兆民は、フランス民権論は、孟子の民本主義の思想と通じると理解していました。彼はルソー等の思想は、欧米の専有物ではない。東洋にも孟子のような思想があると考えました。そして東洋的な革命思想を、近代的な理論とするために、フランス民権論が大いに有用だと、主体的に考えていたのです。そして兆民が目指したのは、民権論の知識をもった、東洋的な志士仁人(活動家であり人格者)だったのです。

明治8年、兆民は、東京外国語学校の校長に任ぜられました。現在の東京外国語大学です。ところが、兆民はわずか3ヶ月で、この職をやめてしまいます。その理由は、兆民が「徳育の根本」に「孔孟の教え」を用いようとして、文部省と衝突したためです。ルソーの紹介者が、伝統的な儒教道徳を学生に教えようとしたのは、意外に思われるでしょう。しかし、兆民には、当時の功利主義的な洋風教育を推し進めようとする政府の方針は、皮相なものと写っていたのです。

 

 こうした兆民に、維新の英雄、竜馬・海舟・西郷の人格的な影響を見ることができるでしょう。彼らを追慕してやまなかった兆民は、指導者は人格的に優れた人物でなければならないと信じていました。そして年少の友、頭山満(とおやま・みつる)に、大人長者の風姿を見出し、大きな期待を寄せていました。そして、玄洋社の頭山らが支援するアジア諸民族の独立運動を、兆民は積極的に支援しました。(1)

一方、兆民の門弟に無政府主義者の幸徳秋水が出ますが、兆民は秋水には批判的でした。思想や発想に大きな隔たりがあることは明らかです。兆民を日本の左翼の先駆のように見るのは、無理があります。

 

先に書いたように中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を評価しつつも、彼の急進思想には反対でした。そして、日本の国柄に基づいた社会改革を追求したのです。日本にルソー流は合わない、と。

 

 兆民は『東洋自由新聞』(明治14年、1881創刊)に掲載した『君民共治の説』において、当時のフランス第三共和国よりも、国王の君臨するイギリスの方が、より健全な「共和国」であると論じています。兆民は、「共和という字面に恍惚」として、フランス革命のような革命をめざす考えを退けます。兆民はフランスでは、革命後、ナポレオンという独裁者が出現し、さらに王政復古、七月王政、第二共和制などと、二転三転していることを、しっかり見すえていました。フランス革命を手放しで美化せず、その矛盾と限界を理解していました。そして兆民は、ルソー流の暴力革命・君主制否定・共和主義を採らず、議会主義・法治主義・君民共治を良しとします。日本は、イギリス流の君主政体でありながら、実質的な人民主権の国に向かうべきだと主張したのです。

 

確かに兆民は、政府対人民という関係においては、徹底して民権的であり急進的でした。「民権是れ至理なり。自由平等是れ大義なり」という言葉は、彼の民権思想をよく表しています。兆民の藩閥政府批判は鋭く、改革への情熱にあふれています。しかし、兆民は、天皇と藩閥政府との間には、明確な区別を設けています。兆民の目指す政体は、天皇を中心とする立憲君主政体でした。

 

兆民は、『三酔人経綸問答』(明治20年、1887)で南海先生の言葉として、次のように述べています。民権には「回復の民権」もあれば、「恩賜の民権」もある。前者はイギリスやフランスのように、君主と闘って取り戻した民権であり、後者はわが国のように、君主(天皇)が国民に賜った民権です。兆民は、「恩賜の民権」は「善く護持し、善く珍重し、道徳の元気と学術の滋液とをもってこれを養う」なら、「回復の民権」に匹敵するようになるだろうと説きました。そして、「立憲制度を設け、上は天皇の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院をおき、上院議員は貴族が継承するものとし、下院議員は選挙で選ぶ」という政治体制が目標だと語りました。

兆民の主張は、わが国の国柄を守り、天皇制度の下で、民主主義あるいは議会主義の拡充を図るものでした。兆民は、日本においては、天皇を中心とする伝統を尊重してこそ、民権は健全なる発展を期待しうると考えていたのです。

 

 兆民は、天皇に関し、政府対議会の政治的対立に介入せず、高い精神的な権威をもって、国民の統合を保つ地位にあることを切望していました。たとえば国会開設前に出した『平民のめざまし』(明治20年)で、兆民は次のように書いています。

 「天子様は尊きが上にも尊くして外に較べ物の有る訳のものでは無い。畢竟天子様は政府方でも無く、国会や我々人民方でも無く、一国衆民の頭上に在って、別に御位を占させ給うて、神様も同様なり。別して我日本の天子様は、神武天皇以来皇統連綿として絶えることなく……内閣が如何にしばしば更迭するも、天子様は常に一天万乗の君にて、国会の未だ開けざる今日と既に開けたる二十三年後と少も変る訳の物では無いと心得べし」

 天皇と国民が争うことなく、互いに理解し合い、最後には天皇が民権主体の国家を実現するように導いていくことを、兆民は期待していたのです。ルソー流の暴力革命による君主制否定・共和主義との違いは明白です。

 

自由民権運動といえば、国民の権利を追及し、共和制を目指す思想だと理解している人が多いようです。また、共和主義や社会主義までいかない未成熟の思想というイメージを持っている人も、少なくありません。そういう人には、兆民の実像は意外に思われるでしょう。しかし、実際の自由民権運動は、天皇を中心と仰ぎながら、国権と民権を共に拡充して、立憲議会政治をめざす運動でした。それは、幕末の尊皇攘夷思想を受け継ぎ、天皇と国民が一体となった「君民一体」の政治を理想としていたのです。

そして、中江兆民とは、竜馬・海舟・西郷の息吹を受け、維新の理想目標を受け継いだ、明治の志士だったのです。(ページの頭へ

 

(1)拙稿ネールは愛国者・頭山満に感謝したをご参照下さい。

参考資料

・『日本の名著 36 中江兆民』(中央公論社)

・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇學館大学出版部)

 
 

■私利を超え、公益を追求した渋沢栄一

2002.5.1

 

 生涯に関与した事業は実に千を数え、さらに千あまりの社会事業・文化事業に貢献した巨人。それが渋沢栄一です。渋沢は、日本資本主義の草創期に、その基盤づくりを強力に推し進めました。日本最初の銀行を設立し、近代的な金融制度を実現したことをはじめ、紡績、保険、製紙、鉄道、郵船等々、彼が創設・経営した事業は、枚挙にいとまがありません。もし明治の日本に、渋沢というたぐい希な人物が出なかったら、日本の近代化は、これほどの成功をみなかったでしょう。

 

 渋沢栄一は、天保11年(1840)現在の埼玉県深谷市に、豪農の長男として生まれました。彼は7歳から儒学を学びました。そこで出会った『論語』が、彼の人生の規範となりました。

元治元年(1864)、24歳の渋沢はその非凡な能力を見出され、一橋慶喜の家臣に取り立てられました。農民から武士になった渋沢は、一橋家の立て直しを成し遂げます。また慶喜が将軍となると、ブレーンとして将軍を支えました。慶応3年(1867)には慶喜の弟・昭武について、パリの万国博覧会に派遣されました。そしてヨーロッパ諸国で約1年間、近代資本主義の実態を徹底的に見聞しました。

滞欧中に明治維新が起こり、帰国を余儀なくされた渋沢は、維新の元勲たちに請われて、新政府の大蔵省に任官しました。当時、新政府は深刻な財政危機にありました。渋沢はこれを解決するため、欧州仕込みの新知識に基づく、大胆・斬新な財政改革を提言しました。しかし、その提言は用いられず、明治6年(1873)、渋沢は約3年半いた政府を去ることを決意しました。

 

このとき辞職をとめようとした友人に対し、渋沢は次のように答えました。

 「元より金を溜める為に辞官はしない。一体実業家が今日の如く卑劣で、全く社会の尊敬を受けぬと云ふのが抑々(そもそも)間違って居る。欧米では決して官商の懸隔が斯(かく)の如きではない。日本を早く官商同等の地位に進めなくては、到底実業の進歩する見込みがない。日本の商人が今日の如く社会の軽蔑を受けるのは、一つは封建の余弊でもあらうが、一つはまた商人の仕打ちが、甚だ宜しくないからである。予不肖ながらこの此風矯正のために一身を捧げたい。

宋の趙普は論語の半部を以て天子を輔(たす)け半部を以て身を修めといって居るが、予は論語の半部を以て身を修め、半部を以て実業界を救ひたい覚悟で居る。どうか先を永く見てゐて呉れ。……

その時、論語と云ふことを固く云ったのを今も能(よ)く記憶して居る。予が行往坐臥、事業を経営するも、事を処するも、是非論語に拠(よ)ろうと堅く決心を起こしたのは、此時の事である」と、渋沢は記しています。

こうして、渋沢の新たな挑戦が始まりました。その後、約60年間、民間にあって彼が成し遂げた偉業は、前代未聞・空前絶後のものでした。

 

彼の超人的な活動を支えた思想を一言でいうと、「論語と算盤(そろばん)」です。『論語』は東洋の伝統的な道徳を説くものです。これと「算盤」つまり経済的な利益とは一見、無縁です。しかし、渋沢は『論語』にある経世済民の考え方を、近代的な経営に生かし、道徳と経済は常に一体であると唱えました。

渋沢は「利益を棄てたる道徳は真正の道徳でなく、又完全な富、正当な殖益には必ず道徳が伴はなければならぬ筈のものである」としました。資本は利潤の追求を目的とします。しかし、渋沢は、私的な利益は「公益」の追求の結果でなければならないと考えました。

「勿論(もちろん)、当該会社の利益を謀(はか)らねばならぬが、同時に之によって国家の利益即ち公益をも謀らねばならぬ」「社会に利益を与へ、国家を富強するは、やがて個人的にも利益を来す」「私利私欲の観念を超越し、国家社会に尽くす誠意を以て得たる利は、是れ真の利と謂ふを得べく」と渋沢は、説いています。

 

 渋沢は、自分の言葉を文字通りに実行しました。第一国立銀行(現在はみずほグループ)、東洋紡、東京海上火災、王子製紙、日本鉄道会社、日本郵船会社等、彼が創設・経営・支援した企業は、彼の公共精神によって起こされたものです。渋沢はまた、今日の商工会議所をつくり、企業家が協力して社会に貢献する仕組みをつくりました。そして、渋沢は、事業によって得た利益を社会に還元しました。帝国劇場・日仏会館・一橋大学・日本女子大など、渋沢の寄与は幅広く、文化・教育にも及んでいます。また、浮浪者の施設である東京養育院の院長も50余年務め、そこに私財を投じています。

こうした彼の姿勢は、彼が渋沢の名をもつ財閥や企業グループをつくらなかったことにも、よく表れています。

 

渋沢が実践した、私を超えて公に尽くす奉仕の精神は、日本人の精神の特徴です。それゆえ、私たちは、伝統的な日本精神を近代社会に応用した見事な実例を、渋沢栄一に見ることができるのです。ページの頭へ

 

参考資料

    童門冬ニ著『渋沢栄一』(学陽書房)

・渋沢栄一原著/竹内均編・解説『孔子 人間、どこまで大きくなれるか』(三笠書房)

 
 

日本を守った英雄〜東郷平八郎

 

 アジア・アフリカが、欧米の植民地として支配されていた19世紀、わが国は明治維新を成し遂げました。そして、国家の独立を守り、半世紀足らずのうちに近代国家を形成しました。その間、日露戦争という国の存亡をかけた戦いがありました。

 日露戦争における日本の勝利は、西洋白人種による植民地支配を打ち破るという世界史的意義を持つ出来事でした。その日露戦争の勝利を決定的にしたのが、日本海海戦です。この海戦で活躍したのが、海軍大将・東郷平八郎でした。東郷は、近代日本を代表する英雄として、各国で深く尊敬されています。しかし、わが国では、戦後、教科書から消されてきた人物です。

 

 明治38年(1905)、大国ロシアは、日本海軍に対抗するため、その海軍の全力をあげて、東洋に回航させました。その進路によっては、戦いは全く変わってきます。東郷は、ロシア艦隊は、対馬海峡に現われると確信していました。そして、5月27日、38隻からなるバルチック艦隊は、東郷の予感通り、対馬海峡に現われました。いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は、「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号を、旗艦三笠に掲げました。東郷は、ロシア艦隊を取り逃がしてはなりません。なぜならば、取り逃がした艦船によって東京等を砲撃されたならば、日本には防ぎようがなく、敗戦は必至だからです。完勝する以外に、日本の明日はないのです。

 

 東郷は、「丁字戦法」という捨て身の戦法を採り、ロシア艦隊を驚嘆・狼狽(ろうばい)させました。世にいう「トーゴー・ターン」です。折りから風は強く、波の高い日本海でした。この気象条件は日本に幸いしました。 日本は砲力で劣っていましたが、相手の船体に沈没させるほどの穴を開けなくとも、波による浸水で被害をもたらすことができたからです。

 砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は、艦橋に立って微動だにせず、指揮を執り続けました。そして、日本海軍は、ロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。しかも、わが方は1隻も失うことがありませんでした。これほどパーフェクトな海戦は、世界の海戦史上、あとにもさきにもありません。実に奇跡的な大勝利でした。

 このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。東郷は「世界の英雄」と賞賛されました。そして、被抑圧民族に、独立への勇気と希望を与えました。トルコやフィンランドなど、多くの国の教科書に彼の英雄振りが記載されているほどです。

 もしこの日本海海戦で日本が敗れていたら、どうだったでしょうか。制海権を握られた日本は、日露戦争に敗れ、ロシアの過大な要求を飲まされたことでしょう。明治維新を経てわずか30数年にして、日本は植民地と化していたかもしれません。男は強制労働、女は暴行を受け、逆らうものは死。ロシアが支配する国では、それが当然でした。日本の資源や労働成果は、とことんロシア人に吸い尽くされたことでしょう。

 

 日本海海戦は、運命の岐路でした。この岐路に立って、日本と日本人の運命を救った東郷平八郎のことを、日本人は忘れていて良いのでしょうか。

 戦後教育を受けてきた者にとって、軍人というと、それだけで恐ろしい、悪人であるかのように思う人が少なくないでしょう。だが、東郷という日本人は、誠実な、私利私欲のない人でした。戦争終了後、彼の息子を文部大臣にしようという声が出ました。彼の名声をもってすれば、どんなわがままも通ったことでしょう。しかし、東郷は、「人間には器がある、器で生きてこそ幸せだ」と言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたといいます。

 東郷は、また「天佑神助(てんゆうしんじょ)というものは必ずある」と心より信じた人でした。日本海海戦において、東郷は天の恵み、神の助けを信じました。だが、それは人間が真心の限りを尽くすことによってのみ得られるというのが、彼の不動の信念でした。そこに、世界史の奇跡といわれる勝利も得られたのでしょう。そして、彼だけでなく、当時の日本人は、国家国民の一大事に、一致団結して向かったからでしょう。

 

時は移り、わが国は第2次世界大戦では米国に敗れました。この時の太平洋艦隊司令長官が、チェスター・W・ニミッツです。ニミッツ提督は、日露戦争の英雄・東郷平八郎を師と仰いでいました。そして、大戦後、東郷元帥に敬意を表して、日米親善に尽くしました。

 日露戦争の直後、当時、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。ニミッツは次のように言っています。

 

 「私は海軍士官候補生のとき、私の前を通った偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。

 東郷は私の師です。あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢(治三郎中将)の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で、日本の艦隊を破ったのです」と。