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■国境のない世界へのモデル・廃藩置県
2001.12.13 日本の歴史の転換点において、日本人は変化に対する不思議な適応力を発揮しています。日本という国は、それまで停滞しているように見えても、わずかの間に大転換してしまうのです。この国は、一人や二人で動かすことはできませんが、百人、千人と変革者が増えてゆけば、国全体が急速に変わりうる国だといえます。日本人はそういう凄い可能性をもった民族なのです。 たとえば、明治維新です。幕末の日本は、アメリカのペリー提督が黒船を引き連れて登場したときから、激動の時代に入りました。それからわずか15年で、維新が実現しているのです。それによって、260年間も続いた徳川幕藩体制が一気にひっくり返り、新しく近代国家が誕生しました。 この過程で、開国か鎖国か、倒幕か佐幕かなど、日本の進路をめぐっての争いがありました。しかし戊辰戦争から西南戦争までの死者は、わずか2万人ないし3万人です。フランス革命の死者が200万人といわれることに比べると驚くほど少ない数字です。 どうしてこれほど大きな変革が、これほど短期間に、しかも流血が極めて少ない形で、実現できたのでしょうか。その一つの理由は、幕末の日本人はペリー来航以来、非常な危機感を感じていたことにあります。欧米列強は強力な軍事力と高い科学技術をもっています。不平等条約を余儀なくされました。ここで外圧の対処に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねません。また、もし日本人同士が争えば、その隙に欧米諸国に付け入られるおそれも感じていました。この絶体絶命の状況をどう乗り越えるか、その危機意識が明治維新を促進したのです。 維新の過程で、政権は、大政奉還(1867)によって、幕府から朝廷に移動しました。新政府ができたといっても、まだ全国に大名がいて各地方を支配する封建体制はそのまま残っています。この社会の仕組みを根本的に変えなくては、変革にはなりません。そこで行なわれたのが、廃藩置県(明治4年、1871)です。 明治4年、サンフランシスコで行われた岩倉使節団歓迎会で、伊藤博文は「数百年の強固さをほこった日本の封建制度は、一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして撤廃せしめられたのだ。この驚くべき事実は、政府と人民の共同行為によって達成され、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつある。戦争なくして封建制度を打破した国がどこにあるだろうか」と述べています。ここに言うのが、廃藩置県です。明治政府はそれまでの「藩」を廃止して、「県」という近代的中央集権国家の単位を作りあげたのです。
廃藩置県は、鎌倉幕府以来、700年もの間日本を支配してきた武士階級を一挙に廃止するものでもありました。これは、西洋でいえば領主の身分を廃止して土地を取り上げ、明日から平民にするといった大変革でした。ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。ところが日本では、明治新政府が一片の通知を出しただけで、その大事業を一日にして実現してしまったのです。当時261名もいた藩主は、全員そろって、先祖代々、保持してきた絶大な特権を返上したのでした。伊藤が言うように、廃藩置県は、「政府と人民の共同行為によって達成」されたのです。 当時、欧州ではこのことに驚き、大英帝国の首府ロンドンの新聞は、一面扱いで大々的に取り上げています。まさに廃藩置県は、世界史上にも類例のない無血革命だったのです。 今日の世界は、国境というものが必要のない世界に近づいてきています。しかし、実際に国境をなくし、世界が一つになるためには、大改革が必要となるでしょう。いわば「世界の廃藩置県」です。そのとき、日本の廃藩置県は、変革の最高のモデルとなるでしょう。(ページの頭へ) 参考資料 ・
廃藩置県については、以下の拙稿をご参照下さい。 |
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■日露戦争は帝国主義的侵略だった?
日露戦争は、日本による「帝国主義的侵略戦争」だった、というのが試験のための決まり文句のようですが、果たしてその見方は正しいのでしょうか。 21世紀を迎えた今、20世紀を振り返ってみると、20世紀とは、数世紀にわたる白人の支配から、有色人種が自由と独立を勝ち取った世紀でした。日露戦争での日本の勝利は、夜明けの到来を告げる鶏鳴でした。そこで有色人種が白人を初めて打ち負かしたことは、抑圧された人々に希望の火を灯したのです。 新興国日本にとって日清・日露戦争は国運を賭けた戦いでした。わが国は、東アジアの安定のために、まず日清戦争で大国シナと矛を交えました。千年以上もの間、文明の源と仰いできたシナに勝つことができたのです。その結果、日本とシナの地位は逆転しました。かつては遣隋使・遣唐使を送っていた日本に、シナから日本に留学生が来るようにもなりました。日本文明のほうが、シナ文明に影響を与える関係になったのです。 日本がロシアに勝つと、世界は驚嘆しました。中国の国父・孫文は、有名な「大アジア主義」という講演で、次のように語りました。「どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります」(1) インドの初代首相ジャワ八ルラル・ネールは、自伝に次のように記しています。「日本の戦捷(せんしょう)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった」(2) こうした感激と興奮は、アメリカの黒人たちにも広がりました。「日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本人を『アジアの黒人』と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物も流行。さらには、黒人野球チームの中から、『ジャップ』を自称するチームも出ていたという」(3)。 当時、「ジャップ」という言葉は、侮蔑語ではありませんでした。 ロシアに侵略・支配されてきた国々でも同様です。フィンランドの大統領パーシキピは、次のように記しています。「私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛ぴ込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した」(2) ポーランドでは、日露戦争で活躍した乃木希典や東郷平八郎は、英雄でした。初代国連大使・加瀬俊一氏は、ポーランドのある教会に立ち寄った時のことを伝えています。「傍らに、小さい男の子が来てね。それで私は、『君の名前はなんていうの』って聞くと、『ノギ』って言うの。『えっ。ノギ?』。すると神父さんが言うんです。『ノギ』というのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ」(4) 日露戦争における日本の勝利は、有色人種や被抑圧民族を奮い立たせ、独立への情熱を駆り立てました。15世紀以来の西洋白人種の優位を、初めて有色人種が打ち砕いたのです。近代西洋文明の世界支配体制は崩れ始めました。日露戦争は、世界史を西から東へと動かす、歴史的な出来事だったのです。 (ページの頭へ) 参考資料 ・日露戦争で活躍した東郷平八郎、乃木希典については、以下の拙稿をご参照下さい 註 (1)『大阪毎日新聞』大正13年12月3日〜16日号 (2)名越ニ荒之助著『世界に生きる日本の心』(展転社) (3)レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観 1900〜1945』(五月書房) (4)加瀬俊一著『大東亜会議とバンドン会議』(『祖国と青年』平成6年9月号 日本青年協議会) |

■日露戦争は負けた方がよかった?
中学や高校の歴史の教科書を読むと、「日露戦争は間違った戦争であり、戦わないほうが良かった」というような気がしてきます。そこでは、幸徳秋水や与謝野晶子の「非戦論」「反戦歌」が強調されているからです。 確かに平和への願いは貴いものです。しかし、当時の国際情勢において、ロシアとの決戦は避けようのない課題でした。もし日本が日露戦争で敗れていたら、日本は、そして私たち日本人はどうなっていたか、と考えてみる必要があるでしょう。 当時のロシアは大国でした。陸軍力は世界一であり、コサック騎兵を中心とする軍隊は、無敵と謳われたナポレオンをも敗退させたほどに強力でした。海軍力もまた、東洋を支配するバルチック艦隊を有していました。近代国家の仲間入りをしたばかりの日本など、敵ではないと見られていました。 そもそも西洋諸国が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを侵略支配して以来、有色人種は白人の奴隷にされ、人権無視の扱いをされていました。白人に反抗して勝てるなどとは誰も思わない、そんな時代でした。なかでもロシアは、日本にとって、恐るべき存在でした。 明治維新の志士たちは、イギリスがアヘン戦争で大国・清を破り、蹂躙(じゅうりん)していることを知って、このままでは日本も欧米の植民地にされる、と強い危機意識をもちました。なかでも北から迫ってくるロシアは、日本の独立を脅かす最大の脅威だったのです。 維新の英雄・西郷隆盛は、征韓論に敗れて鹿児島に帰ったのち、かつて彼を訪ねた庄内藩家老・菅実秀に、こう語りました。「ロシアはいずれ満州、朝鮮半島を経て、日本に迫ってくる。これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題となる」と。その「第二の元寇」こそが、日露戦争でした。(1) 日露戦争は、奇跡的な勝利でした。日本海海戦の勝利が、日本の運命を開きました。 逆にもし日本海海戦で、連合艦隊が敗れていたら、日本は海軍力を失い、丸裸同然となりました。ロシアの艦隊は、日本海・太平洋を自由に航海できることになります。東洋一の艦隊が東京湾沖に停泊し、帝都・東京に艦砲射撃を行うと恫喝する。わが国は、極めて不利な条件で停戦せざるを得なかったでしょう。
その結果、どうなっていたか。名越ニ荒之助・元高千穂商科大学教授は、日露戦争敗戦の場合について、次のように推理しています。 「日本はロシアとの間に屈辱的な講和を結ばされ、朝鮮はロシアの支配するところとなったことは必定である。日本が勝ったことにより、南樺太を割譲したのだから、負けていたら、北海道はロシアに割譲することを余儀なくされていたであろう。 ロシアはその勢いをかって日本国内各地に租借地を作り、三国干渉の相手国であった仏、独も租借地を作り、阿片戦争に敗れた清国のような末路をたどっていたかも知れない。 あるいはまた李王朝末期に朝鮮の国内が親日派、親露派、親清派に分裂して収拾がつかなくなったように、日本の国内政治も、親露派、親英米派、親独仏派に分かれて、独立国の機能も果たせなくなる状況さえ予想される。やがてはこれら西欧各国の利害をめぐって、日本を舞台に争奪戦が行なわれたかもしれないのである」(2) ロシア帝国そして革命後のソ連に支配された国々の運命は、惨めでした。第2次大戦後、「解放」という名の下に共産化された国々、ポーランドやチェコスロバキアなどが、力で支配され、資源をほしいままに奪われました。日本がもし日露戦争に敗れていたら、これらの国のようになっていたかもしれません。 敗戦による過酷な運命を回避できたのは、明治の日本人は、日本精神で団結していたからです。天皇も将兵も国民も海外居留民も、心一つに国難に立ち向かいました。アメリカに終戦の仲介を求めた金子堅太郎、英米で資金調達に務めた高橋是清、ロシアとの交渉に骨折った小村寿太郎など、外交での働きも素晴らしいものです。当時の日本の指導層は武士道を根っこに持っており、戊辰戦争での実戦の経験のある世代もおり、政治と軍事を総合的に進めることにたけていたのだろうと思います。 また、当時のわが国は世界的にも高い科学技術の水準に達していました。日本海海戦で使用された下瀬火薬は、大きな威力を発揮しました。砲弾が炸裂すると、命中した場所は3000度になり、直ぐにバルチック艦隊は戦闘不能となりました。 また、陸戦では、わが国の馬は西洋種よりも劣るところを、騎兵に機関銃を持たせ、敵のコサック騎兵と遭遇したら、馬から下りて機関銃で掃射するちょいう新しい戦法を取りました。また、無線電信。マルコーニの大西洋横断交信実験から5年しかたっていないのに、国産無線機を艦船に搭載していました。 日露戦争後のわが国のあゆみについては、いろいろ検討すべき点があります。成功体験のパターン化、過剰適応、官僚制度の硬直化、帝国憲法の欠陥、指導層の世代交代等々です。 (ページの頭へ) 註 (1)元寇については、以下の拙稿をご参照ください。 (2)名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社) (3) 日露戦争をどうとらえるかは、私たちの歴史観を大きく左右する。日露戦争の時代に日本人はどう生きたのかーーそれを知りたい人に、一度はひもといてみるべき小説がある。司馬遼太郎氏の名作『坂の上の雲』(文春文庫)である。 |

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日露戦争といえば、学校では「日本によるアジア侵略」「帝国主義戦争」などと教えられます。しかし、当時の日本国民のほとんどは、ロシアとの戦いを避けられない運命と感じ、開戦となるや一丸となって、大国ロシアと戦いました。そして、奇跡的な勝利を得、日本は国家の主権と民族の独立を、かろうじて保つことができました。 教科書では、内村鑑三や幸徳秋水の非戦論、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」が強調され、日本はロシアと戦わないほうが良かったかのように書かれています。しかし、そのような考えを持っていたのは、ごく一部の人間だけでした。私たちの先祖は、この一戦に命をかけて戦ったのです。それによって、子孫の私たちが、今日、居られるのです。 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」についても、単純に反戦の詩と見るのは無理があります。それは詩の全体を自分で読んでみるとわかります。 晶子は堺の商家出身でした。当時の商家においては、戸主という家督相続者を守ることと、家を存続を絶対視していました。そうした思いが、「君死にたまふことなかれ」の熱唱にも結実しています。 「…… 堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば、 君死にたまふことなかれ、 …… 君は知るべきやあきびとの 家のおきてに無かりけり ……」(『明星』 1904年9月号) 君とは、晶子の弟・鳳(おおとり)籌三郎(ちゅうざぶろう)のことです。弟は、晶子の実家である駿河屋の家督を相続し、三代目宗七という「旧家をほこるあるじ」となったのです。晶子は、反戦どうこうではなく、駿河屋の断絶をおそれ、弟に家の存続のために生きて帰れ、と身内としての真情を歌ったと理解すべきでしょう。 事実、晶子は、大町桂月が晶子を「乱臣なり賊子なり」と罵ったのに対し、「あれは歌に候。この国に生れ候私は、私等は、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき」「無事で帰れ、気を付けよ、万歳」というほどの意味であったと反論しています。 大東亜戦争において、晶子は、海軍大尉となって出征する四男・与謝野c(いく)のために「水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ」と詠んで我が子を激励し、また一方では、「戦ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く」と詠んで遠方洋上の子を思う母として泣いているのです。 ここには、国を思い、家を思い、子を思う、一人の日本女性がいます。反戦主義者という晶子像は、戦後に作られた虚像にすぎないといえるでしょう。そうした虚像を教科書に掲載し、晶子の半面を伏せ、一面だけを誇張するのは、バランスのとれた教育とはいえないでしょう。採り上げるなら、戦地に送った息子のことを詠んだ歌なども載せ、一国民としてまた母親として、国を思いまた子を思った晶子の心を考えさせる内容にすべきだと思います。 (ページの頭へ) 参考資料 ・平子恭子編著『与謝野晶子』(河出書房新社) ・『教科書が教えない歴史@』〜『好戦でも反戦でもなかった 与謝野晶子』(扶桑社) |

■大東亜戦争は戦う必要がなかった
今日、日本の国を思う人は、誰しも大東亜戦争(アメリカのつけた名称は太平洋戦争)をどうとらえるべきかを考えるでしょう。 昭和前期、世界に戦雲がたれこめ、日本は軍部が台頭し戦争への道を進もうとしていました。「明けゆく世界運動」の提唱者・大塚寛一総裁は、当時、事態を深く憂慮し、戦争に反対する建白書を送付して、指導層の誤りを指摘しました。 しかし、時の指導者の多くは戦争の道を選び、昭和20年8月15日、未曾有の敗戦を喫しました。当時のことについて大塚総裁は、次のように語っています。 「明治以後、日本は西洋の物質文化を模倣して、日本古来の精神文化を見失ってしまったのだ。ちょうど牛肉を食べたからといって牛になったり、豚肉を食べたからといって豚になったりするような愚かな真似をしてしまい、自己の本質を忘れてしまった。そしてヒトラーやムッソリー二等の覇道をまねた東条英機が、第二次大戦を起こしたために、建国以来はじめての敗戦を喫してしまったのである。 その開戦に先立つ昭和14年9月以降のことだが、わしは上層指導者たちに警告を発しつづけた。それはこういうことである。いま日本の指導者は、ヒトラーやムッソリー二の尻馬に乗ってアジアで旗を上げようとしている。だが、それをやれば、大都会は焼きはらわれ、三千年来ないところの大敗を招くことになる。だから絶対にやってはならぬーーそういう意味のことを印刷物にして三千部ほどつくり、当時の閣僚から大政翼賛会の主だった人々、参謀本部の人々と陸海軍の少将以上に度々送付した。 ところが、それらの人々はみんな熱に浮かされて、道を忘れてしまっているから、ほとんどの人は耳を貸そうとしない。そして、とうとう真珠湾攻撃を始めてしまった。その反動が戻って来て、最後には広島、長崎のあの悲惨な状態を招いたわけだが、それもつまりは国政をあずかる指導者が、神の道から外れてしまっていたからである」 大塚総裁は、指導者について次のように語っています。 「物ごとをするには、今日にして百年の計を立て、戦いをするにも、居ながらにして千里の外に勝敗を決すべきものである。だが、それは心眼が開けて、はじめてなし得られることであって、肉眼や五感をもってしては、今日にして今日を看破することが不可能である。そのよい例が、先の大東亜戦争であった」 「大東亜戦争は戦う必要がなかったし、戦えば負けることは最初から決まっていた。それはちょうど弓を放つのでも、矢が弦を離れるときすでに、当るか当らないかは決定している」 大塚総裁の心眼には、次のように、時の流れが映っていました。 「すでに裏半球の欧米は、四季でたとえれば木枯が吹きはじめる季節であり、表半球のアジアの方は、春がおとずれ、発展期に遭遇する時である」と。 そして、総裁は、次のように語っています。 「あの時、わしの言う通りに厳正中立を守っていれば、日本は一兵を失うこともなく、領土も縮めず、第三国からは敬われ、いまは米ソをしのぐほどの立派な国になっていたにちがいない」と。 大塚総裁の建白書は、「不戦必勝・厳正中立の大策」を説くものでした。わずかながら、大塚総裁の建言に耳を傾けた人々もいました。政界を動かす巨頭・頭山満、憲政の大家・田川大吉郎、陸軍大将・宇垣一成、陸軍中将・林弥三吉、海軍大将・山本英輔、高級官僚・迫水久常の各氏などでした。(1) しかし、東条英機ら指導層の多くは建言を受け入れず、日本は神の道から外れてしまいました。誠に残念なことであり、日本はこの失敗を教訓として二度と道を誤ってはならないのです。 戦後、大塚寛一総裁は、国民大衆に神の道を広め、真の世界平和の実現をめざす運動を、行ってきました。それが、「真の日本精神」を伝える運動です。 (ページの頭へ) 註 (1)以下の拙稿をご参照ください。 参考資料 ・
「真の日本精神」を伝える運動については、以下をご覧下さい。 |

■大東亜戦争は、こうすれば回避できた
2005.6.28 私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできました。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思います。浅学非才ではありますが、現時点での私なりの考えを記しておきたいと思います。 ◆ハル・ノートにどう対処すべきだったか
◆三国同盟と日本の進路 話が後先になりますが、20世紀の日本の運命を大きく左右したものに、日独伊三国軍事同盟があります。三国同盟は、昭和15年9月に締結されました。これが米英に敵愾心を抱かせ、経済制裁を招き、遂にわが国は米ソの策略に引っかかって、無謀な戦争に突入してしまいました。
註 (1)小室直樹+日下公人著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社) (2)(3)『昭和天皇独白録』(文春文庫) |

■陸軍にあって和平を希求〜宇垣一成
2003.11.30 「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、戦前、『大日本精神』と題する建白書を、毎回千余通、時の指導層に送付しました。(1) 大塚総裁の建言に耳を傾け、国政に努力した指導層の一人に、陸軍大将・宇垣一成がいます。 ◆陸軍を抑える実力者との期待 宇垣は、陸軍軍人には珍しく高い識見をもち、つねに国家の進路を見つづけた人物でした。戦前、彼は独断専横の陸軍を抑え、シナ事変を解決し、対米戦争を回避できる実力者として期待を集めました。幾度も首班候補に挙げられたほどでした。 宇垣は大正期に長く陸軍大臣を務め、陸軍の四個師団削減と軍備近代化を成し遂げました。昭和5年(1930)1月、ロンドン軍縮会議が開かれた時には、閣僚の一人として、海軍軍縮条約の批准を促進しました。しかし、時の首相・浜口雄幸は襲撃され、重傷。軍部は統帥権干犯を唱えて政府に反発し、以来、わが国にテロリズムが横行するようになりました。中でも陸軍の一部が反乱を起こした2・26事件は、全国を震撼させました。事件後、陸軍では統制派が主導権を握りました。そして政治の主眼は、この陸軍の抑制か陸軍との協調に置かれました。ここにおいて陸軍を抑えられる者として期待をされた人物こそ、宇垣なのでした。 昭和12年1月、昭和天皇より、宇垣に首相指名の大命が下されました。宇垣は、中国との紛争の早期解決に情熱を持っていました。ところが、陸軍では石原莞爾ら反宇垣派が、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出しません。そのため、宇垣は組閣ができず、大命拝辞に追い込まれました。期待の宇垣内閣は流産に終わったのです。 この時、宇垣の側近・林弥三吉(やさきち)中将が、新聞記者に談話を発表しました。林は、宇垣の考えを伝えたわけです。「軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります」「自分の大命拝辞後の軍の成り行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいま、ファッショか日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます」と。ところが、林談話は、同じ陸軍によって新聞への掲載が禁止されまたのです。 宇垣内閣流産に、無所属の代議士・田川大吉郎は、衆議院議長・富田幸次郎を訪問しました。田川は、“憲政の神様”尾崎行雄の代理として、次のように伝えました。「現下の時局に対し、宸襟(しんきん=天皇の心)を悩まし奉ることはまことに恐懼(きょうく)にたえない。今日は憲政の危機であり、さいわい議会も開かれていることだから、議会において憲政並びに時局に対する国民の意思を発表することにしたい。これが議会当然の義務と思うから、民政・政友両党に交渉していただきたい」と。しかし、議会も政党も、この重要な危機に、積極的に動こうとはしませんでした。テロを恐れていたからです。 宇垣内閣への妨害・不成立は、憲政の大きな曲がり角でした。これ以後、陸軍を中心とするファッショ的な運動が日本を支配していきます。 もし宇垣内閣が成立していたら、日本の進路は変わっていたことでしょう。宇垣は命がけで陸軍を正常に戻し、中国問題を解決しようと決意していたからです。しかし、それは成りませんでした。そして、この年7月8日、廬溝橋事件が勃発。わが国は、コミンテルンの戦略による中国共産党の謀略にはまり、紛争は長期化しました。昭和13年1月に近衛文麿首相は、「爾後国民政府を対手とせず」という第1次近衛声明を出しました。戦争をしている相手国の正統政府を相手としなければ、戦争を終らせることは不可能です。こうして日本は戦争目的不明の泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。 宇垣は、この事態をなんとかしようと考えていました。彼にチャンスが訪れました。昭和13年5月、近衛内閣の外務大臣に就任したのです。宇垣は支那事変の解決に情熱を燃やし、和平工作を行いました。そして、蒋介石の国民政府の行政院長・孔祥熙を相手とする会談を進める方針を決めました。ところが、9月に入り、近衛が新聞記者会見で「蒋介石を相手とせずという帝国政府の方針は終始一貫不変である」と声明しました。これは宇垣の和平交渉を抹殺するものでした。また、軍部と外務省の一部は和平交渉に反対し、支那事変処理の仕事を外務省から別に移すために、興亜院を設立することを提案。近衛は、これに賛成しました。またも、宇垣への裏切りでした。憤った宇垣は、外相を辞任。「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ない」と宇垣は語りました。 宇垣の和平交渉は頓挫し、わが国は支那事変の解決のチャンスを失い、大陸で泥沼の消耗戦に陥っていきました。誠に残念なことでした。以後、反宇垣派が主導する陸軍は暴走を続け、わが国を危険な方向へ誤導したのでした。 ◆反東条派が擁立工作 「宇垣一成を首相に」という宇垣待望論が、戦前、繰り返し現れました。宇垣擁立をめざして行動した者の一人に、戦後首相となった外務官僚・吉田茂がおり、また一人に、当代随一の雄弁を誇る代議士・中野正剛がいました。 吉田茂はいわゆる英米派の外交官でした。昭和5年(1930)のロンドン軍縮会議のとき、吉田は外務次官として、陸軍大臣の宇垣とともに軍縮を推進しました。吉田は以来、宇垣を深く信頼していました。 吉田は、昭和14年3月に駐英大使を辞めて帰国すると、独伊と図って英米を敵視する時勢を憂え、日米開戦回避に奔走し、宇垣擁立を工作しました。東条英機の登場によって、大東亜戦争が開始された後も、吉田は擁立工作を止めませんでした。 「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、昭和14年9月に『大日本精神』と題する建白書を送付し始めました。建白書は、毎回千余通、時の指導層に送付されました。その中に、宇垣が含まれていたことは言うまでもありません。宇垣は大塚総裁の建言に耳を傾けました。側近の林中将もまた総裁に意見を求めました。 昭和17年9月、吉田茂は宇垣の意見書を預かり、元首相・近衛文麿に渡しました。宇垣の意見書は、欧州と中国に実情視察の名目で有力な使節を派遣して、戦争終結を図るものでした。欧州には近衛を先頭に吉田ほかで中立国スイスに乗り込み、そこで各国各界の士と広く接触を図り、和平への道を探る。中国へは蒋介石の恩人たる頭山満を派遣する。「行け」と言われれば宇垣もその随員に加わる、というものでした。また、敗色が濃厚になった20年1月には、吉田は近衛を動かして、天皇に戦争終決の上奏文を提出します。しかし、吉田の動きは憲兵隊の知るところとなり、この年の4月、遂に吉田は逮捕されました。終戦まであと4ヶ月という時期でした。 吉田は宇垣にあてて約30通の書状を出していますが、その内容はいずれも国を思う熱情に満ちており、宇垣への傾倒を示しています。吉田は和平を希求し、日米開戦回避、早期終戦、日中関係正常化のために、宇垣宰相を期待したのです。 宇垣擁立のために行動したもう一人の人物が、中野正剛です。中野はジャーナリストとして活躍した後、34歳で代議士になりました。中野は学生時代に玄洋社の頭山満と出会い、その感化を受けました。また、三宅雪嶺の『日本及び日本人」に学生時代から寄稿し、雪嶺の娘と結婚しました。仲人は頭山でした。(2)(3) 中野はアジアの民族自決を目指す東方会を興しますが、一時、独伊のファッショ思想の影響を受け、三国同盟を推進し、米英決戦を唱導していました。しかし、開戦後は、自分の意見を改めました。昭和17年4月の翼賛選挙では、中野の東方会は、東条のファッショ的な候補者推薦制度を批判し、非推薦で選挙戦に臨み、激しく反対意見を投げつけました。これに対し、東条が言論統制を強化し、中野らを圧迫するようになると、「東条のやり方は間違っとる。これでは、国を誤った方向へ |