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日本の心  世界の声

 

題 目

目 次

■01 宣教師たちが称えた日本人の美徳

■02 日本の「魂」を伝えた小泉八雲

■03 リシャールの名詩『日本国に告ぐ』

■04 20世紀の知の巨人達が神道に感動

■05 神道イストを自称したJ・メーソン

■06 日本美の原点を発見したB・タウト

■07 東京裁判で正義を貫いた米国人弁護士

■08 パール博士は「日本人よ、日本に帰れ」と訴えた

■09 ネールは愛国者・頭山満に感謝した

■10 恥の文化が忘れた「恥」〜ベネディクト

■11 天皇と三種の神器に注目するシロニー

12 日本は文明の大転換を促進すべき国〜カプラ

13 「日本人よ、しっかりしなさい!」〜金美齢

■14 アジア諸国は日本精神を学ぶ〜黄文雄

15 「日本が嫌いな日本人」に一言〜呉善花

■16 ジェルマントマは「日本を待望する」

■17 いにしえに帰るニュートレンド〜ピッケン

和の精神

国柄

君と民

日の丸 

君が代

人物

武士道

歴史

文明と倫理

自然

世界の声

 

 

宣教師たちが称えた日本人の美徳

2006.10.6修正

 

 今日、わが国では、親が子を殺し、子が親を殺し、夫が妻を、妻が夫を殺す事件が多発しています。ちょっとしたもつれで、男女が殺人に至る事件も続発しています。教師が児童に性的ないたずらを、警官が婦女に暴行をする事件も珍しくありません。老人を相手にした振り込め詐欺が横行し、食品企業が食品販売物に不正表示をするなど、世相の乱れは例を挙げればきりがありません。

 しかし、つい半世紀ほど前までは、日本人は、正直で勤勉で礼儀正しい国民であると世界から尊敬を受けていました。そのことを初めて日本人に出会った西洋人の言葉によって、振り返ってみましょう。

 

 今から450年ほど前、初めて日本に来たヨーロッパ人宣教師たちは、日本人の徳の高さや優秀性に驚きました。

 フランシスコ・ザビエルは、イエズス会東インド管区長として、天文18年(1549)に日本に来ました。滞在3ヶ月後、ザビエルはインドのゴアにあるイエズス会にあてて、次のように報告しました。

 「この国民は自分たちがこれまで接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほどに優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。……日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥だと思っている者は一人もいない」

 ザビエルは、さらに続けて書いています。

 「日本人は侮辱や嘲笑を黙って忍んでいるようなことは決してない。平民は武士に敬意を払う。同様に武士は誇りを持って領主に仕えている。領主への恭順は内面から発している。領主に反逆して受ける処罰の屈辱よりも、忠誠の美徳に欠けることが自分の名誉の否定になると考える、その名誉心の誇りが強いからである」

 またザビエルは、日本人が「理性的」であることを強調しています。ここでいう「理性的」という言葉は、単に感情的ではないということではなく、ものの道理を理解し、その道理に従うということを意味します。日本人に「理性的」な特徴を認めたザビエルは、賛辞を惜しみませんでした。

 

 天正7年(1579)に来日した東インド管区巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、司祭オルガンティーノ・ソルドの日本人観に強い影響を受けました。ヴァリニャーノは『東洋巡察記』に、オルガンティーノの言葉を書き記しています。

 「日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同よりはるかに優っている。我らの主デウスが人類に何を伝えたもうたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい。……彼らは不必要なことを外面の表情に表すことはなく、甚だ忍耐強く、大度ある国民で、悔悛は真摯にして信心深く、儀礼に大いに気をつかい、交際においては丁重である」

 オルガンティーノは、39年間も日本に住み、日本語を話し、米を食べ、最後は77歳で長崎に没しました。当時、彼ほど日本を深い理解した外国人はいないでしょう。その彼は、次のように記しています。

 「信仰のことはともかくとして、我らは日本人より顕著に劣っている。私は日本語がわかるようになってからは、世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った」

 

16世紀に日本に来た西洋人の宣教師が見た日本人は、このように多くの美徳を持っていたのです。その後、徳川幕府の下、約260年の間、天下太平の時代が続きました。この平和の時代に、さらに誠実や正直、礼儀や勤勉を重んじる国民性が発展していきました。

 安政3年(1856)、下田に来航したアメリカの初代駐日公使ハリスは、『日本駐剳日記』に、開国後の日本の姿について、「日本の国民にその器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本はやがて偉大な、強力な国家となるであろう」と将来を予想しています。

 また幕末から明治の初期に日本を訪れた欧米人の多くが、日本人の善良で親切、互いに助け合う思いやりに満ちた姿を、驚きをもって書き残しています。

 その一人であるロシア人宣教師ニコライは、次のように記しています。

 「上は武士から下は町人に至るまで、礼儀正しく弱いものを助ける美しい心を持っている。忠義と孝行が尊ばれ、これほど精神の美しさを持つ民族を見たことがない」と。

 

 私たち日本人の先祖・先人は、多くの西洋人に称えられるような美徳を持っていたのです。そのことを思い起こし、日本人が本来持っていた日本精神を取り戻しましょう。ページの頭へ

 
 

日本の「魂」を伝えた小泉八雲

2004.9.16

 

ラフカディオ・ハーンは、日本名・小泉八雲。『怪談』等の名作で有名です。彼は日本文化を世界に知らしめた外国人として、しばしば第一に挙げられます。

彼が世界に伝えようとしたもの、それは日本の「魂」でした。

 

ハーンは、アメリカで新聞記者をしていた時、日本に魅力を感じるようになりました。運よく明治23年(1890)、日本に派遣されて、憧れの国にやって来ました。そして、通信員の仕事をやめ、英語教師をすることにしました。場所は、島根県の松江中学校です。ハーンは英訳の『古事記』などを読んでいたので、神々の国・出雲へ行けることを非常に喜んだのです。8月末に松江に着き、翌月から学校に勤務し始めました。

当時、彼はアメリカの友人に宛てた手紙に、こう書いています。

「私は強く日本にひかれています。(略)この国で最も好きなのは、その国民、その素朴な人々です。天国みたいです。世界中を見ても、これ以上に魅力的で、素朴で、純粋な民族を見つけることはできないでしょう。日本について書かれた本の中に、こういう魅力を描いたものは1冊もありません。私は、日本人の神々、習慣、着物、鳥が鳴くような歌い方、彼らの住まい、迷信、弱さのすべてを愛しています。(略)私は自分の利益を考えず、できるなら、世界で最も愛すべきこの国民のためにここにいたい。ここに根を降ろしたいと思っています」

 

ハーンは1850年6月27日、ギリシャのレフカス島で生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人でした。2歳から17歳まで、ハーンはアイルランドで育ちます。そこはヨーロッパの辺境にある島であり、キリスト教浸透以前のケルトの文化が残存していました。

こういう土地の影響でしょうか。幼い時から妖精や精霊の存在を感じていたハーンは、一神教にはなじめませんでした。自然の中の神秘を排除していく西洋近代文明にも違和感を覚えていました。そんなハーンが日本に魅力を感じるようになったのは、ゆえあることだったのです。

 

ハーンは、古い伝統と文化を守る城下町・松江が、この上なく気に入りました。そしてこの地で約1年半を過ごします。その間、松江で見た光景を、ハーンは次のように書き留めています。

「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。……人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。『こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない」

 

ハーンは、西洋では失われた自然への畏敬、八百万(やおよろず)の神々への信仰が、日本では生きていることに驚き、心から共感します。そして、日本の民話や伝説、怪談などを聞き集め、それを作品にまとめて、海外に紹介していきました。

ハーン自身、昔ながらの日本の家に住み、着物を着て、日本食を食べ、日本の習慣に親しみました。日本女性と結婚するように勧められると、拒むことなく、明治24年(1891)、士族の娘・小泉節子と結婚しました。結婚式も和風で行いました。明治29年、45歳の時には日本へ帰化し、小泉八雲と名のります。小泉は夫人の姓、八雲は出雲の枕詞「八雲立つ」に因んだものでした。

 

日本人として生活するなかで、ハーンは、西洋が失ってしまった古きよきものを見出しました。ハーンは言います。

「西洋文明から日本の自然な、完全にノーマルな生活環境にとけ込むと、プレッシャーがだいぶん減ります。西洋文明の根本的特徴である個人主義が、ここにはないのです。それは私にとって日本社会の魅力の一つです。ここでは、個人は他人を犠牲にするところまで、その範囲を広げようとはしないのです」

「私の考えでは、日本人の生活を一層客観的に見ているその他の多くのオブザーバーもそうであろうが、日本はキリスト教に改宗しても、道徳やその他の面に関して何の得もない。むしろ損をするところが多い」

 

ハーンが亡くなったのは、日露戦争の最中、明治37年(1904)の9月でした。当時、日本は大国ロシアを相手に驚くべき善戦をしていました。ハーンは、絶筆となった『神国日本』の最終章にて、次のように書いています。
 「日本のこの度の全く予期しなかった攻撃力発揮の背後に控えている精神力というものは、もちろん、過去のながい間の訓練のおかげであることは全く確かである。……そしてすべてのあの天晴(あっぱ)れな勇気 ―― 生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気なのである。現在戦争に召集されている何千何万という若者の口から、名誉を荷ないながら故国に帰りたいなどという表現を一言も聞くことはできない。 ―― 異口同音にいっている希望は『招魂社』(註 靖国神社)に長く名をとどめたいということだけである。 ―― この『社』は『あの死者の霊を迎える社』で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられているところなのである。この古来の信仰が、この戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。……日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は、昔そうであったように、今なお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである。―― 国民のあらゆる行動の動機であり、指導力なのである」
(1)
 ハーンは、「死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気」と書いています。彼が感じた日露戦争における日本人の精神力、勇気の源泉は、天皇を中心とする忠誠心・団結心であり、それと結びついた日本人の宗教的伝統だというのです。

そして、ハーンはこの宗教的伝統の核心は、祖先祭祀であり、神道であるとします。わが国では、死者の魂を神として祭り、家の先祖を祀る家族的祭祀、氏神を祀る社会的祭祀、国の祖先を祀る国家的祭祀が、古代からハーンの見た近代まで貫く宗教的伝統となっています。この祖先祭祀は、天皇を中心とする忠誠心・団結心と結びついています。そこに、ハーンは、日露戦争において発揮された日本人の強さ、優秀さの根源を見出していたのです。

ハーンは、次のようにも述べています。「日本の強さは、伝統的宗教の強さと同様に、物には現れていなくて、その民族の底に潜んでいる『民族の魂』にある」と。

ハーンは、日本人の「民族の底に潜んでいる『民族の魂』」を深く感じ取っていました。それは古代から近代まで日本人の心底に保たれているものであり、明治日本の活力の源となっているものでもありました。

ハーンが追求し、作品の中に描こうとしたもの、それは日本の「魂」だったのです。日本の「魂」を伝えるものであるからこそ、彼の作品は、海外でも多くの人々を引き付けてやまないのです。ページの頭へ

 

(1)日露戦争については、以下の拙稿をご参照ください。

日露戦争は帝国主義的侵略だった?

日露戦争は負けた方がよかった?

参考資料

・小泉八雲著『神々の国の首都』(講談社学術文庫)

    同上『明治日本の面影』(同上)

    同上『神国日本』(第一書房、平凡社東洋文庫)

    小泉節子+小泉一雄著『小泉八雲』(恒文社)

    拙稿「小泉八雲が伝えた日本人の公共心

 
 

リシャールの名詩『日本国に告ぐ』

 

 ポール・リシャールは、フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師でした。彼の生涯は、東西の精神文化の交流と人種差別撤廃の活動に捧げられました。

 

 20世紀初頭、西欧文明に行き詰まりを感じていたリシャールは、西欧文明の欠点を克服するには東洋の精神に学ぶしかないと考えました。そしてすべての事業をなげうって、アジアへの旅に出ました。

 大正5年(1916)に日本を訪れた彼は、約4年間の滞在期間に、日本の愛国者たちと交友を結び、彼らに多大な影響を与えました。

 

 大正8年に、第1次世界大戦後のパリ講和条約で日本が人種差別撤廃案を提案しました。日本国内では人種差別撤廃を求める期成大会が行われるなどの動きが高まりました。これに感激したリシャールは、大会の決議文をフランス語に翻訳して、各国の指導者に送るなど、人種差別撤廃の実現に努めました。しかし講和会議では、日本の提案は米英により不当にも否決されてしまいました。

 

 リシャールは大正9年に日本を去り、その後は長くインドに居住しました。彼は、西洋人でありながら、インドの宗教哲学者オロビンド・ゴーシュの弟子となり、東洋の精神的伝統の実践・伝道に努めたのです。

 

 リシャールが滞日時代に書いた『告日本国』(大正6年、1917)という詩があります。この詩は日本の世界史的使命と日本人への期待を歌い、今日も多くの人の魂をゆさぶり続けています。

 

「曙の児等よ、海原の児等よ

花と焔との国、力と美との国の児等よ

聴け、涯しなき海の諸々の波が

日出づる諸子の島々を讃ふる栄誉の歌を

諸子の国に七つの栄誉あり

故にまた七つの大業あり

さらば聴け、其の七つの栄誉と七つの使命とを

独り自由を失はざりし亜細亜の唯一の民よ

貴国こそ亜細亜に自由を与ふべきものなれ

曾て他国に隷属せざりし世界の唯一の民よ

一切の世界の隷属の民のために起つは貴国の任なり

曾て滅びざりし唯一の民よ

一切の人類幸福の敵を亡ぼすは貴国の使命なり

新しき科学と旧き知慧と、欧羅巴(ヨーロッパ)の思想と

亜細亜の思想とを自己の衷(うち)に統一せる唯一の民よ

此等二つの世界、来るべき世の此等両部を統合するは貴国の任なり

流血の跡なき宗教を有てる唯一の民よ

一切の神々を統一して更に神聖なる真理を発揮するは貴国なる可し

建国以来、一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴せる

唯一の民よ

貴国は地上の万国に向かって、人は皆な一天の子にして、天を永遠

の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんが為に生れたり

万国に優りて統一ある民よ

貴国は来るべき一切の統一に貢献せん為に生れ

また貴国は戦士なれば、人類の平和を促さんが為に生れたり

曙の児等よ、海原の児等よ

斯く如きは、花と焔との国なる貴国の

七つの栄誉と七つの大業となり」(大川周明訳)

 

 このように歌うリシャールは、わが国の国柄を高く評価しています。そして、デモクラシーについて、次のような主旨のことを述べています。

「現在のデモクラシーは、議会主義的、金権的個人主義である。真のデモクラシーとは、選挙によって金権政治を実現することではなく、数によって匿名の専制政治を行うことでもない。それは制度ではなく、態度である。個人の力と集団の偉大な精神が、個人の魂と集団の偉大な力が、つまり、個と全体が相互に尊敬しあうことが、真のデモクラシーなのである」と。

そして、「日本人は、君権と民権を調和統一した理想国家を実現せよ」とリシャールは言います。「そもそも君権といい民権といい、その源は天に発する。君主は、天の統一的方面を、人民は天の差別的方面を、地上に代表するものである。従って、本来両者の間には何ら矛盾衝突があるはずがなく、真のデモクラシーとは、真の天皇主義の別名であるはずである。君民は本来一体である。君主にとって、人民が『大御宝(おおみたから)』であるとすれば、人民にとっても君主は『大御宝』である。これは相補い一体となっているものである」と。

 

 ルソーの国から来た賢者リシャールは、我が国の伝統に真のデモクラシーを見出し、日本人に理想国家実現を期待したのです。私たち日本人は、自国の国柄を理解して日本の使命を自覚し、平和な世界の建設に貢献したいものです。(1) 

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(1)リシャールの説く「真のデモクラシー」については、以下の拙稿をご参照下さい。

中江兆民尾崎行雄吉野作造

 
 

20世紀の知の巨人達が神道に感動

 

 世界中のどの民族も、かつては固有の世界観を持っていました。それは固有の生き方ともいえるものです。我が国では、それにあたるものに、神道(しんとう)があります。

 

 神道というと、戦前の軍国主義と結びついた「国家神道」を思い浮かべる人もあるでしょう。また、原始的な宗教だと思う人もあるでしょう。しかし、神道はもっと豊かなものであり、そこには自ずと「日本の心」が現れているのです。

 日本人の多くは未だその価値を自覚していませんが、外国人の中には、日本の精神文化の中に、人類を導く可能性を感じている人々がいるのです。

 

◆トインビー

 

 アーノルド・トインビーは、世界の文明史を書き表した20世紀最大の歴史家です。彼は、日本は、明治維新による近代化や日露戦争の勝利によって世界史を転換させた、と高く評価しています。そして、次のように述べています。

 「日本はアジアで最初に近代文明を受け入れ、欧米に対等に対抗できたのだから、アジア諸国はその声に耳を傾けるだろう。そして、そこに人類が一つの家族となるための、日本の先駆けとしての役割がある」

 トインビーは、こうした日本の文化の根源には、神道があることを見出しました。彼は、昭和42年に来日し、11月29日、伊勢神宮に参拝しました。そこで彼は、毛筆で記帳し、次のように書きました。

 ”Here in this holy place I feel the underlying unity of all religions.”(この聖地で私は、すべての宗教の根底にある一体性を感じる)

1)

 

◆マルロー

 

 アンドレ・マルローは、フランスの作家です。文化・芸術の研究家としても名高く、初代・文化大臣もつとめました。昭和49年に来日したマルローは、5月27日に、熊野の那智滝で飛瀑を前にし、「アマテラス……」と言ったなり絶句しました。彼は、そこで啓示を受けたと言います。さらに2日後には、伊勢神宮で第2の啓示を受けた、と。

 記者団の質問に答えて、マルローは「伊勢とアインシュタインの相対論的宇宙観とは収斂する」と述べました。彼は、神道によって、科学と宗教、東洋と西洋が融合する可能性を直観したのです。

 その後、彼は神道を礼賛し、日本の使命への確信を著書に著し、2年半後に永眠しました。(2)

 

◆アインシュタイン

 

 アルバート・アインシュタインは、20世紀最高の天才科学者でした。彼は、自分の理論が証明された原子爆弾に対しては、核廃絶を訴えて行動しました。彼はまた、神への敬虔な感情を持っていたことでも知られています。

 アインシュタインは、人類が初めて世界戦争を体験した第1次世界大戦の後、大正11年11月18日に来日しました。彼は、伊勢神宮に参拝し、そこで、次のように語っています。

 「近代日本の発展ほど、世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一箇所くらいなくてはならないと考えていた。

 世界の未来は進むだけ進み、その間、いく度か争いは繰り返され、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類は真実の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬ。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた、最も古くまた尊い家系でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに還る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。

 我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を造っておいてくれた事を」(3)

 

 これらの3人は、20世紀を代表する世界的知性です。彼らは、歴史家、文化・芸術の研究家、科学者と、それぞれ分野を異にします。しかし、彼らは等しく、日本の精神文化の中に、人類の未来を開く大きな可能性を見出しました。

 私たち日本人は、神道の中に現れた「日本の心」を再発見したいものです。(4)ページの頭へ

 

(1)トインビーの神道論は、以下の拙稿をご参照ください。

 「明日への挑戦は神道への復帰〜トインビー

(2)竹本忠雄著『日本のレジスタンス』(日本会議)

(3)雑誌『改造』(大正12年)

(4)神道に注目・期待する外国人については、以下の拙稿をご参照ください。

神道イストを自称したJ・メーソン

ジェルマントマは『日本を待望する』」

いにしえに帰るニュートレンド〜ピッケン

 
 

神道イストを自称したJ・メーソン

2001.4.24

 

 ジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンは、アメリカ人でありながら、神道を信奉したアメリカ人でした。1879年生まれのメーソンは新聞記者となり、ロンドンに行って日露戦争の記事を書きました。それが、彼が日本に関心をもつきっかけとなりました。アジアの小国日本が大国ロシアを破ったことが、彼の心を揺さぶったのです。

 

 メーソンは、日本が急速に近代化できたという事実に驚きました。そして、その理由は、神道にあるのではないかと考えるようになったのです。昭和7年(1932)、満州事変の翌年に、彼は初めて来日しました。その年、30年間続けた新聞記者を退職すると、その後は晩年まで神道の研究に没頭しました。そして自分を「神道イスト」と規定して、神道への信奉を隠しませんでした。

 著書『神ながらの道』(たま出版)に、彼はこう書いています。

 「日本が有する永久的進歩の力は、日本民族の創造的精神に基づく。…人類と自然とを、全能の神によることなく、自ら物質的進歩を創造する神霊だと考える一つの原始的直観である。日本を知るには神道を理解する必要がある」

 

 メーソンは、神道は日本人が原始時代に発見した直観的真理であり、日本民族の創造活動の原動力であるととらえました。メーソンは、神道は一神論・多神論・汎神論ではなく、「汎霊論」であると主張しました。そして、一切は神霊であり、神霊は万物を離れては存在しない、万物そのものが神霊であり、物と神とは表裏一体であり、万物は神霊の自己表現である、と考えました。

 しかし、日本人はこれまで「言挙げせず」と言って、神道の真理を言葉で語ろうとはしてきませんでした。そのため西洋人にとっては、神道は原始的で低級な宗教と思われています。実際はそうではない、とメーソーンは言います。

 「違った霊性を有する西洋人が、日本人に神道の意義を問うたのに対して、日本人がその意義を知らぬと答えたとしても、神道は無意義なものであることにはならぬ。日本人は神道を分析していないというだけのことである。創造的原動力、詳言すれば、日本人に対する神霊的・心意的エネルギーの刺激としての神道の力は、言説的解釈の欠如に関係なく、常に存在しているのである」

 メーソンは、これまで語られることのなかった神道を客観的に解釈し、現代的な説明をしようと試みました。そして、神道は日本民族だけのものではなく、世界に通じるものとして紹介しました。メーソンは、「創造的進化」を説いた哲学者ベルグソンの「エラン・ヴィタール」(生命の飛躍)とは、神道精神のフランス版にすぎないと言っています。

 

 とはいえ、メーソンは決して盲目的な神道信奉者ではありませんでした。昭和11年の2・26事件の時、言論弾圧にたえかねた彼は、一時、日本を離れました。そのとき、彼は「日本にはもはや神道は滅亡しつつあるようだ。極端に言論の自由の許されるイギリスのハイド・パークに行って神道を学ぼう」と言いました。軍部が推進する神道は、本来の神道の精神とは違う、と彼は見抜いていたのです。

 そして、メーソンは、将来、真の神道が発展することを期待していました。

 

 「神道は日本の世界文化に対する主要貢献たり得るけれども、日本はまだいかにしてその貢献をなすべきかを知らない。神道は世界に対してメッセージを持っている。しかしこのメッセージ普及の使命は日本の負うべきものである」

 「日本における神道の影響は、あまりにも長く内面的潜在意識的心意の上にのみ局限されていた。知識が現代の如く発達した時代は、直観的意味と同時に自覚的理解としての知識を要求する」

 「もしも日本がその潜在意識的直観力を保持し、しかも同時に自覚的自己表現的分析力を発達せしめ得るとすれば、日本文化はいまだかつて他民族の企ておよばざりし高所にまで達するであろう。しかし、もし日本人が自己の内なる独創性を発展せしめることなく、徒らに海外に自覚的霊感を求むるならば、日本精神と神道の創造的精神とは潜在意識的沼地に埋没し、日本の将来における発展を促進する上でますます無力となり行くであろう」

 

 メーソンは、昭和16年(1941)にアメリカで没しました。亡くなるとき、彼は「遺骨は日本に葬れ」と遺言しました。パナマ運河を経て、遺骨が日本に着いたのは、日米開戦の後でした。しかし、彼の遺志は尊重され、遺骨は東京の多摩霊園に葬られました。彼の墓の隣にある記念碑には、「J・W・T・メーソン、米国の新聞記者にして然も神道の信奉者・日本精神の賛仰者なり」と刻まれています。(1)(2)ページの頭へ

 

 (1)神道に注目・期待する外国人については、以下の拙稿をご参照ください。

20世紀の知の巨人達が神道に感動

ジェルマントマは『日本を待望する』」