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※武士道(その2)もご覧下さい。 徳川家康、宮本武蔵、山鹿素行、佐久間象山、吉田松 陰、西郷隆盛、山岡鉄舟、廃藩置県、乃木希典等 |
●和の精神 ●国柄 ●君と民 ●日の丸 ●君が代 ●人物 ●武士道 ●歴史 ●自然 ●世界の声 |
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■現代に求められる武士道の精神
2001.6.20 武士道は、かつて日本精神の精華と称えられました。しかし、明治以降、徐々にその伝統は衰え、今日ではほとんど消え去ったかに見えます。 こうした現代において、日本には武士道の復活が必要だという意見が、根強く存在します。 俳優で武道家としても名高い藤岡弘氏は、あるインタビューで、若者に向けて、次のように語っています。 「いまの日本人、とりわけ若者たちになにが欠けているのかと考えると、先達が残してくれた偉大なる精神文化・武士道こそが欠けているのではないかと思います。『武士道』とは、己を自己管理するための精神的・肉体的修行です。自己を管理するためにはまず、自己発見の旅に出る必要があります。それは、自分の目の前にあるどんな些細な出来事にも、ひとつひとつ真摯に取り組んでいく姿勢です。マニュアルなど存在しません。他力本願。そんな逃げ道も皆無です。 やがてその修行は、自己分析の旅ヘとひろがっていきます。己の足りないところ、弱いところが見えてきます。『武士道』は、己の心身を強化し、我慢を重ね、調和をはかり、そして弱いものを守るための修行なのです」 経済ジャーナリストで「第二海援隊構想」を推進している浅井隆氏は、次のように書いています。 「武士道とは何か。私なりに解釈すると、それは自分を律するための『道』である。そのために死生観とか美学があった。そのような精神性が、いまの日本人にはいちばん欠けている」 「現在に、まったく武士道が残っていないかというと、……阪神大震災などを見ても明らかなように、感情的にはならず、冷静に整然と秩序を守ってことにあたる精神がある。公徳心もまだ大分残っている。あれがアメリカだったら、大変な暴動に発展し、さまざまな事件が起きていたはずだ。やはり武士道は細々とではあるがまだ日本に生きているのである」 「本当の意味の精神性の高揚がいまほど求められている時期はない。それこそ、武士道の復活に他ならない」(1) 東日本ハウス会長の中村功氏は、次のように述べています。 「(新渡戸稲造の)『武士道』に書いてあることは、大きく分けて二つあります。一つは克己を教えています。…欲望を抑え、辛いこと、苦しいことに耐え、自分を磨くこと…名誉を重んじ…勇気をもって悪と戦うこと…。二つ目は『公』のために生きることは立派なことだと教えています。…第3者のために役立つということ…明治の公は国家に尽くすということでした。… こう考えてみますと、なぜ明治時代に世界が日本を尊敬したのか、当然のごとく分かります。この二つを持っている人は世界中の人から尊敬されるのです。『克己』『公』のために尽くす人は、世界の人の目から見ても、立派な人なのです。この二つを日本人が完全に失ってしまったために、世界が今の日本を尊敬しなくなったのです。明治の人のように立派な人間、立派な日本人になろうということが今の時代に求められています…」(2) 最後に、作家で現・東京都知事の石原慎太郎氏は、世の父親や男性に向けて、次のように訴えています。 「日本固有の文化があるようでなくなってしまった本質的混乱が到来しようとしている今の日本で、家庭を立て直し社会を立て直し、国家を立て直していこうという時にわれわれは、宗教などを超えて、われわれのごく近い先祖が尊崇し、評価し、憧れた武士道というものの本髄がなんであったということをもう一度考え直してみるべきではないだろうか。 武士というのはやはり何よりも男だったわけですから、その武士の末裔の男として、自分の家庭の繁栄なり確立のために、武士道をいま改めて自分にどう取り込むかということをそれぞれの父親たちは素直に考えてみるべき時期に来ているのではないか」(3) かつての日本人は高い精神をもっていました。その精神のよき表れが武士道でした。武士道を見直すことを通して、現代の日本人が忘れている、日本の精神文化を取り戻すことができるでしょう。(ページの頭へ) 註 (1)浅井隆著『大世紀末シンドローム』(総合法令) (2)経営者「漁火会」の機関紙『漁火』平成11年12月1日号 (3)石原慎太郎著『父なくして国立たず』(光文社) |
■武士とは、武士道とは
2003.1.31 武士という階級が現れたのは、平安時代の後期、10〜11世紀頃です。 12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。それが、武士道です。 世界にもユニークな日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職をもらい、そこで専門戦士として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川慶喜まで、武士は天皇に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。 第二の特徴は、戦闘のプロフェッショナルであることです。武士は古くは「もののふ」といわれました。「もの」とは武器を意味します。「兵(つわもの)」「弓矢取る者」とも呼ばれました。弓矢や刀など武器を扱う軍事の専門家が、武士でした。「侍(さむらい)」という名も、主君のそばで警護に当たる「さぶらふ」という言葉から来ています。戦闘者としての自覚は、長く平和の続いた江戸時代においても、武士の精神から失われることがありませんでした。 第三の特徴は、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。 これら三つの特徴ーー皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。 こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。これが、今日いうところの武士道です。 わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされました。江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。 冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花・向上しました。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。 明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。近代国家の建設の中で、身分としての武士は消滅しました。しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。大東亜戦争の敗戦後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続けているのです。 (ページの頭へ) |
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■『国家の品格』と武士道精神〜藤原正彦
2006.6.5 藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は、平成17年11月から、半年ほどで200万部を超えた。これは新書で最も速い記録である。続いて出た『この国のけじめ』(文芸春秋)もよく読まれている。 国際的数学者として知られる藤原氏は、これらの本で、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いている。藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神についてまとめてみたい。 ◆日本は「国家の品格」を失っている
藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。 武士道精神の復活を唱える藤原正彦氏は、武士道の歴史と変遷をどのようにとらえているのだろうか。もとより氏は、歴史家や思想家ではないのだが、そのとらえ方には傾聴すべきものがある。 ◆武士道精神喪失の根本理由 藤原正彦氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」という。アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」(『けじめ』) ◆日本及び世界のために武士道精神を 藤原正彦氏は、「私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う」(『けじめ』)という。それゆえ、武士道精神の復活は、日本のためだけではなく、世界のために必要だというのである。 ◆日本精神の復興こそが急務 藤原正彦氏は、「日本人一人一人が美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務」だと言い、「この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいない」(『品格』)と言う。 |
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■武士による日本初の固有法・貞永式目
2005.9.14 承久の乱の後、三代執権・北条泰時は、実直な姿勢で仁政に努め、厳正な裁判を行いました。朝廷を軽んずることもありませんでした。それにより、世の中は平和を保つことができました。北畠親房は、『神皇正統記』に次のように書いています。「凡(およ)そ保元平治より以来の乱(みだ)りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふものもなからましかば、日本国の人民いかがなりなまし」と。彼の後、北条氏が長く政権を維持できたのも、泰時の余徳によるところ大といわれます。 泰時の最も重大な功績は、武士が守るべきことを文書化し、武士に規範を与えたことです。その文書とは、関東御成敗式目(貞永式目)です。幕府には当初、成文法がなく、頼朝以来の先例と武士社会の道理に基づいて裁判を行っていました。しかし、承久の乱の後、御家人と荘園領主・農民との紛争が絶えず、裁判の公正のために法典をつくる必要性が高まりました。そこで、制定されたのが貞永式目なのです。 貞永式目は貞永元年(1232)に制定されました。式目の式は法式、目は条目を意味します。全文は51箇条。聖徳太子の十七条憲法の3倍で51箇条にしたといわれます。内容は、武士の日常を規制する道徳、御家人の所領に関すること、守護・地頭の権利と義務、裁判、家族制度などを定めています。 意外なことに式目は、宗教に関することで始まります。第1条は、神社を崇敬することです。「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。然れば則ち、恒例の祭祀陵夷(りょうい)を致さず、如在の礼奠怠慢せしむることなかれ……」。第2条は、仏寺を興隆することです。「寺社異なりと雖(いえど)も、崇敬は之れ同じ。……」。即ち、式目は、武士に信仰の大切さを示すことから始まっています。武士は戦士であり、戦いの場にあることが主であって、日常は従であるというような生活をしていました。こうした武士にとって、宗教は心のより所だったのです。 以下の条項には、法律と道徳が一体になっているような規定が多くみられます。たとえば、式目は悪口を禁じています。重大な問題をふくむ悪口は流罪。軽い者でも牢に入れるというのですから、相当に厳格な規則でした。また、人をなぐることも禁じています。なぐった場合は、侍は所領の没収、財産を持たない者は流罪でした。また讒訴(ざんそ)をすること、つまり嘘をついて人を陥れるような訴えをすることについても、所領のある者は没収、所領のない者は流罪、官途に関する者ならば永久に召し使うな、と規定しています。こうした規定は、当時武士の間に、私闘が多く、つまらない意地の張り合いで殺し合いになったり、武士間の団結にひびが入ることがあったためです。 泰時は、式目が定める究極のところは、「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫に従」うことにより、人の心の曲がったところを捨て、真っ直ぐな心を賞して、人民が安らかな生活をできるようにすることだ、と言います。忠・孝・和が強調されているところに、武士道の道徳がよく表われています。 貞永式目は、武士を対象とする、武士のための法律でした。しかし天皇を中心とした法制度を変えるものではありませんでした。その制度の下に、武士社会にのみ当てはまることを補足したものでした。泰時は式目について朝廷の理解を得られるように書いた手紙に、次のように記しています。「この式目は仮名しか知らない者が世間に多いので、広く人々に納得させやすいように、武家の人たちへの配慮のために作ったのです。これによって京都の朝廷での取り決めや律令の規定が変わることは少しもありません」と。 貞永式目は、武士が納得できるものでしたから全国に徹底しました。そこが形の上では立派でも、ほとんど浸透しない律令とは違っていました。また、律令が外国(シナ)から継受した法にすぎなかったのに対し、式目はわが国独自のものでした。武士という戦士の階級が政権を担った歴史は、シナや朝鮮には見られない日本独自のものです。その武士が初めて日本の固有法をつくったのです。 貞永式目は、鎌倉幕府だけでなく室町幕府にも基本法典として用いられ、戦国大名の分国法にも影響を与えました。庶民には、読み書きの手本として、数世紀にわたって活用されました。それにより、日本人全体に親しまれたのです。こうして貞永式目の普及は、武士道が国民道徳となる基盤の一つを成したといえます。 武士道とは江戸時代にはじめて作られた武士の道徳であって、それ以前には存在しなかったという見方が通説になっています。私は、「平家物語」や源頼朝の治世、北条泰時と明恵上人、貞永式目等を自分で読み、検討を行った結果通説は安易であり、もののふの道、さむらひの心を深く解しないものと考えています。 (ページの頭へ) |
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■元寇から日本を守った北条時宗
武士道とは本来、武士の間に形成された道徳です。武士とは、なにより専門の戦闘者です。その直接的な役割は軍事にあります。 こうした武士の歴史を振り返るとき、彼らの役割が最も大きく発揮されたのが、元寇の時でした。この時、彼らは強大な異民族の侵略から国土と国民を守ろうとして、懸命の努力をしたのでした。 東北では近年まで、「モッコが来るぞ」という言葉が使われていたそうです。「モッコが来る」と聞くと、泣く子も黙る。それほど恐ろしい「モッコ」とは、蒙古のことでした。13世紀の日本を襲った元寇は、七百年もたった現代まで、恐怖の記憶として伝えられていたのです。 当時の元は、空前の大帝国でした。世界の3分の2を征服した蒙古は、朝鮮半島を手に治め、次は日本を狙っていました。そして文永5年(1268)、時の鎌倉幕府に使者をよこしてきました。 幕府は、老齢の北条政村が身を引いて、若い北条時宗が8代目の執権の座についたところでした。この時、時宗は、わずか18歳。日本の運命は、一青年の双肩にかかっていました。 文永11年(1274)、遂に蒙古軍がやってきました。モンゴルとコリア(高麗)の侵略軍は、対馬・壱岐を攻略し、博多湾から九州に上陸しました。 彼らは集団戦法のうえに、石火矢や毒矢を使います。日本防衛軍は、源平風の一騎打ちしか知らなかったため苦戦し、多数の犠牲者が出ました。しかし、鎌倉武士は士気を取り戻し、果敢に防戦しました。日本刀による斬り込みを受けた蒙古軍は、夜襲を怖れてか上陸した軍勢をすべて船にもどらせました。 この夜、不気味な緊張の中で、にわかに暴風雨が起こりました。蒙古軍は多くの船が沈み、行方不明は約1万5千人にのぼりました。結局、コリアの合浦に帰れた船は、九百隻のうち十数隻にすぎなかったといいます。これが世にいう「神風(かみかぜ)」です。 この後、元のフビライから二度使者が来ましたが、執権時宗は、二度とも使者を斬首しました。このことは武士たちを奮い立たせました。 若きリーダー・時宗は、超大国・蒙古になんらひるむことなく、毅然としています。 鎌倉にいる時宗の、国の一大事にも微動だにしない豪胆さが、全国の武士の士気を高めたのです。 蒙古は再びやって来ました。弘安4年(1281)、大軍が日本侵攻に向かって来ました。モンゴルとコリアの軍は、約4万。朝鮮から対馬・壱岐を経て、またも博多湾に上陸します。迎え討つ日本防衛軍は、戦意高く、奮闘を続けました。元軍は半月ほどの後には、博多湾から撤退せざるを得なかったほどです。 しかし、戦況を変える事態が起こりました。シナから海路で直接日本に向かった約10万の大軍が到着したのです。元軍は、相呼応して博多付近に攻め入り、一気に勝敗をつけようとしました。 が、作戦開始のまさにその時です。再び台風が起こったのです。その日は、閏(うるう)7月1日、すなわち、太陽暦8月23日のことでした。元軍の艦隊は、鷹島(伊万里湾口にある島)において、台風によって、壊滅的な打撃を受けたのです。「元史」には「十万ノ衆、還リ得タル者ハ三人ノミ」と記されています。二度目の「神風」でした。 こうして、日本は、外敵から守られました。 二度とも台風が吹いて、元の侵略から日本が守られたことは、偶然とは言い切れません。このことから、わが国は「神国」であり、国の危機には神風が吹いて国が守られるという観念が、国中に広まりました。しかし、見逃してならないことは、日本防衛軍が元軍の侵攻を防ぎ、2ヶ月近くも上陸を許さなかったということです。時宗以下、日本武士の必死の防衛努力があったからこそ、台風の季節が到来し、絶妙な天の助けを得られたのです。 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、人間が最善の努力をしてこそ、天に通じ、「神風」も吹くのです。 逆に、道から外れ、正しい努力を怠ったならば、天佑神助を得られるとは限りません。大東亜戦争は、それでありました。(1) 国難が去ったとたん、時宗は、34歳の若い生涯を閉じてしまいます。まるで蒙古の略奪・支配から、この国を守るためだけに、この世に生まれてきたような時宗でした。 また、時宗の指揮の下で、日本の武士たちは、武人としての役割を最大限に発揮したのです。 私たちの国・日本は、多くの先人たちによって守られてきたことに感謝しましょう。そして、武士道に学び、自ら国を守るという精神を取り戻しましょう。(ページの頭へ) 註 (1)拙稿「大東亜戦争は戦う必要がなかった」をご参照下さい。 参考資料 ・オンラインブック版ポケット絵本『北条時宗』 http://www.izumishobo.co.jp/iode22-3a.htm お子様をお持ちの方や、青少年の方にご紹介します。 |
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■天皇と武士の確執〜建武の中興
2005.10.1 源頼朝の幕府開設以後、約7百年に及ぶ武家政治の時代に、日本古来の天皇親政が試みられた時代がありました。それが建武の中興です。 ◆天皇親政の志 承久の乱において、北条泰時は天皇に譲位をさせ、後嵯峨天皇を立てました。その後、後嵯峨天皇が私情によって皇位継承の仕方を乱すという出来事が起こりました。ここで時の執権・時宗が口を出したことをきっかけに、幕府が皇位継承に関与するようになります。そして、後嵯峨天皇の子孫は大覚寺統と持明院統とに分かれ、交互に天皇を出すという申し合わせができました。 そんな中、文保2年(1318)、大覚寺統から後醍醐天皇が即位しました。天皇は時に、30歳。即位したとはいえ、政治の実権は幕府が握り、皇統は二系統に分かれ、父親の御宇多法皇が院政を布いているという変則的な状態でした。シナから入ってきた朱子学の大義名分論を学んでいた天皇は、この現状はおかしいと思いました。 この時代には、元寇で神風が吹き蒙古の侵攻から日本が守られたことにより、我が国は神国なりという信念が高まっていました。神国思想により、皇室中心の国柄への自覚も深まりました。天皇親政は、わが国の古い伝統です。当時は平安期の醍醐天皇・村上天皇による延暦・天暦の治が理想と信じられていました。 後醍醐天皇は、変則的な現状を正し、直接政治を行いたいと考えました。理想の実現のためには、皇統を一統に戻し、院政を廃止し、幕府を倒さなければなりません。後醍醐天皇は、まず朝廷内での天皇親政を確立し、政治の革新に努め、武芸や学問の振興を図りました。 当時は、元寇を乗り切ったものの戦後、幕府の財政は極度に悪化していました。また恩賞を与えられない武士たちは、不満を募らせていました。幕府の支配体制にゆるみが出てきたのです。天皇は、この機を見て、倒幕のための計画を立てました。しかし、これは事前に露見します。元亨4年(1324)9月、日野資朝・俊基が逮捕され、土岐頼兼らが討ち取られます。天皇は自分は知らないと、しらを切り通し、責任追及を逃れました。「正中の変」です。 天皇はこれに屈せず、翌年赦免された日野俊基を中心に、再度倒幕の計画を進めますが、元徳3年(1331)5月、密告によって幕府は俊基らを逮捕します。今度は追及を逃れきれないと考えた天皇は、8月24日突然、皇位の象徴である「三種の神器」を携帯して脱出し、27日に笠置山に入ります。9月14日、楠木正成が河内の赤坂城にてこれに呼応して挙兵しました。 しかし、頼みの延暦寺が幕府側に付いてしまい、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良(だいとうのみや・もりなが)親王らは比叡山を脱出する羽目に、楠木の赤坂城も幕府軍の攻勢の前に落城し、笠置の帝も捕らえられてしまいます。これを「元弘の変」と呼びます。
これに対して、持明院統の後伏見上皇は、皇太子の量仁(かずひと)親王に皇位継承を指示し、親王は9月20日践祚(せんそ)して光厳(こうごん)天皇となります。しかし、「三種の神器」を持たないため、正式な天皇とは認められませんでした。後醍醐天皇は結局、笠置山を持ちこたえることができず、やむなく「三種の神器」を光厳天皇に差し出し、捕らわれの身となりました。 幕府は、承久の乱の例にならって、翌年3月後醍醐天皇を隠岐へ配流しました。天皇はこの時44歳でした。忠臣の日野資朝・俊基らは処刑されました。光厳天皇は3月正式に即位、4月には改元が行われ正慶元年となります。 承久の乱の際は、隠岐に流された後鳥羽上皇は、その地で最期を迎えました。後醍醐天皇の命も、もはや風前の灯火かと思われました。しかし、天皇は、これで引き下がりはしませんでした。不屈の闘志をもって再起を図ったのです。 ◆不徳と失政による蹉跌 後醍醐天皇の隠岐配流という状況において、幕府に屈せずに大活躍をしたのが、大塔宮護良(もりなが)親王と楠木正成です。 後醍醐天皇の皇子のうち最年長だったのが、大塔宮です。大塔宮は、天皇が隠岐にいる間、全国に号令を下し続けました。その令旨(りょうじ)なくしては、各地の官軍は動かなかったことでしょう。元弘3年(1333)の春、幕府は大軍で吉野山の大塔宮を攻略したものの、ついに拘束することはできませんでした。 ここで人々を奮起させたのは、楠木正成の活躍でした。大塔宮を逃した幕府軍は、全力を上げて千早城の楠木正成を攻めました。しかし、千早城の天険と正成の知謀とに阻まれて、身動きができません。正成は小勢でありながら、幕府軍をここに釘付けにすることができました。当時80万といわれた大軍が何ヶ月もの間、小城一つ落とせないでいるのを見て、各地の反幕府勢力が奮起しました。楠木正成は「菊水の紋」で知られますが、「菊水」こそ敬神尊皇の旗印となったものです。 正成が奮戦している間に、正慶2年(1333)閏2月、後醍醐天皇が隠岐から脱出しました。陸地にたどりついた天皇は、この地の豪族・名和長年に決起を要請します。しかし長年は幕府の家臣でした。天皇を助けることは、恩義のある幕府に背くことになります。大いに悩んだ長年でしたが、「屍(しかばね)を戦場にさらすとも、名を後世に残すことこそ名誉」と挙兵を決意。天皇を奉じて、船上山(せんじょうざん)に立て籠もります。隠岐の判官たちは大軍を率いて取り囲みますが、長年は見事にこれを撃破。さらに幕府軍と戦って周辺一帯を平定し、天皇を守りました。 後醍醐天皇側の動きに対し、幕府は足利尊氏を討伐に向かわせました。しかし、鎌倉幕府の命数は尽きていると見ていた尊氏は、後醍醐天皇側に寝返り、北条氏の立てた光厳天皇を京都から追い出してしまいます。形勢逆転です。この時、新田義貞も呼応して関東で挙兵しました。義貞は鎌倉に攻め入り、激しい戦闘を繰り広げます。戦況不利と見た北条氏は、執権高時以下、多数が自害し、5月22日ついに鎌倉幕府は滅亡しました。高時は元寇の際の英雄・時宗の孫に当たります。 6月4日後醍醐天皇は京都に戻り、元号を建武とし、新しい政治を目指しました。これが「建武の中興」です。天皇は、幕府も院政も摂政・関白も否定して、天皇親政を実現しようとしました。新政府は、中央に最高機関としての記録所や幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所などを設置し、諸国に守護と地頭を併置するなど、天皇中心の政治機構を整えようとしました。 しかし、建武の中興は失敗に終わりました。その大きな原因は、後醍醐天皇の不徳・失政にあります。天皇は高い理想を掲げた反面で、贅沢な宮廷生活を復興しようとしました。また阿野廉子(かどこ)を寵愛しすぎたため、廉子が政治に口を出しました。そのため、賞罰が乱れて、武士たちに不満を抱かせることになりました。所領が命である武士たちは、論功行賞への不満が募り、王政をやめて幕府に戻すべしという主張に変わります。 さらにまずいことに、廉子は自分の子供を皇太子にするために、最年長の皇子である大塔宮を除こうとしました。宮は武勇に優れ、武将たちの間で人気がありました。足利尊氏が、最も煙たがっていた皇子です。廉子は尊氏の言うことを聞いて、大塔宮が天皇を倒そうと謀(はかりごと)をしていると讒言しました。これを真に受けた天皇は、大塔宮を拘禁し、宮は弁明も許されず、鎌倉に流され、最期は暗殺されてしまいます。このことは、朝廷の武の要が取り除かれたようなものでした。武士たちの心は、後醍醐天皇から離れていきました。 後醍醐天皇は、重ねて失策をしました。足利尊氏が裏切って兵を挙げた時、天皇は楠木正成の軍略を受け入れようとしなかったのです。そのため、正成は不利を承知で湊川(みなとがわ)に向かい、そこで玉砕する結果となりました。知将正成を失った後醍醐天皇は、ますます敗色を濃くし、ついに吉野に逃れざるを得なくなったのです。 かくして、天皇親政を目指す後醍醐天皇によって起こされた建武の中興は、天皇自身の不徳・失政によって費(つい)えたのでした。 (ページの頭へ) |
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■忠義と融和〜足利尊氏と南北朝時代
2005.11.1 後醍醐天皇による建武の中興は、多くの武士に不満を抱かせるものでした。そうした不満を背景に、反乱が起こります。中心となったのは、足利尊氏です。 尊氏は鎌倉幕府を裏切って天皇側に付いたのですが、天皇の不徳と失政を見て、今度は天皇の政府を見切って反旗をひるがえしたのです。一度は京都に攻め入りますが、新田義貞の反攻を受けて、九州に敗走します。そこで尊氏は敗因を振り返り、「我が国では、天皇を担いでいない者は敗れる」ということを悟りました。 尊氏は、皇室の権威を利用しようと、後伏見上皇に院宣を願い出て、これを受けました。「錦の御旗」を立てて尊氏が九州から西上すると、諸国の武士は次々と尊氏軍に付きました。朝廷の権威は両軍にあるとなれば、あとは実利の問題です。勢い武士たちは、利を期待できる尊氏の側に集まったわけです。この時、京都を目指す尊氏を湊川で迎え撃ったのが、楠木正成です。しかし、多勢に無勢、さしもの英雄・正成も自害して果てました。 京都を制圧した尊氏は、光厳天皇の弟である豊仁(とよひと)親王を天皇に擁立し、光明天皇としました。即位は延元2年(1337)12月28日。後醍醐天皇という正統の天皇がいるのに、別の天皇を立ててしまうのです。ただし、後醍醐天皇が大覚寺統で皇位を独占しようとしたのに対し、時明院統の天皇を擁立したわけですから、その点では、後嵯峨天皇以後の複雑な両統の関係が表われているともいえるのです。 尊氏の攻勢に押された後醍醐天皇は、京都を離れ、吉野山に逃れました。こうして建武の新政はわずか3年で崩壊しました。しかし、後醍醐天皇は、あくまで皇位の正統が自分にあることを主張したので、ここに吉野の南朝と京都の北朝が並立する状態となりました。それぞれに天皇がいて、異なった年号を用いているという異常な事態です。 擁立した天皇から征夷大将軍の任命を受けた足利尊氏は、京都の室町に幕府を開きました。尊氏は、後醍醐天皇に、「三種の神器」を譲渡するよう申し出ますが、後醍醐天皇としては神器を渡し幕府を承認することは、武力に屈して反逆を認めることになります。それは、道義を否定することになります。それゆえ、後醍醐天皇は、どんなに苦しくても幕府を承認しませんでした。そして、わびしい山中の生活の中で帰京を夢みつつ、延元4年(1339)に没しました。 さて、ここで尊氏の行動には、不思議な点があります。尊氏は軍事的には優勢であるにもかかわらず、後醍醐天皇を討つことまではしないのです。後醍醐天皇の死後も、尊氏は、南朝の天皇を滅ぼそうとはしません。しかもややこしいことに、足利方では、尊氏と弟の直義との対立や家臣間の抗争があり、この内部問題の有利を図って、直義が南朝に講和を申し入れてみたり、なんと尊氏自身も南朝に和睦を申し出たりします。南朝側はこれを断りましたが、再び尊氏が天皇親政を提案したり、一時は南朝が完全に勝利したと見えるところまで行って、また元に戻ったりと複雑な展開が続きます。 そもそも北朝の方は、本来の都にあり、公家のほとんどはそこにおり、幕府もあるのですから、総体的には優勢です。時がたつにつれ、吉野山中の南朝は、しだいに追い詰められていきました。そしてついに、元中9年(1392)、後亀山天皇が後小松天皇に「三種の神器」を譲るというかたちで、南北両朝は統一されます。並立してから57年後のことでした。南朝は、ぎりぎりのところで正統性を認めさせましたが、実を取ったのは北朝側でした。統一後は、北朝系が南朝系に皇位を渡さなかったので、以後の天皇はずっと北朝系で今日に及んでいます。 徳川光圀が編纂させた『大日本史』は南朝を正統とし、幕末の勤王思想に多大の影響を与えました。光圀は楠正成を顕彰し、正成は忠義の美徳の象徴のようになりました。そのため、南北朝時代は大変複雑な性格を持っていますが、このような困難な時代があったにもかかわらず、皇統はとぎれることなく継続しました。またこの時代は、後世の武士にとって、武士のあり方を問い直す時代となったのでした。 南北朝時代を語らずして、武士道を語ることはできません。(ページの頭へ) |

■利を捨てて、忠義に生きた楠木正成
2001.7.4 明治維新の直後である明治3年、アメリカ人グリフィスは、日本に視察に来ました。彼は「日本史の上で誰を最も尊敬するか」とたずねて歩きました。すると、誰もが楠木正成の名を挙げました。学制頒布(明治6年)による国民教育が行なわれる前のことです。どうして楠木正成は、それほど多くの日本人から尊敬を受けていたのでしょうか。 中世の武士・楠木正成は、江戸時代に発見されました。発見したのは、日本人ではありません。シナから亡命していた朱舜水でした。明の遺臣・朱舜水は、外国人(満州人)が支配する清王朝を認めませんでした。そして朱子学に基づいて正統性を論じる朱舜水は、日本史に忠義の模範を見出しました。それが、楠木正成でした。朱舜水は、正成をシナの文祥天にあたると激賞しました。朱を師と仰ぐ水戸光圀(いわゆる黄門様)は、『大日本史』の中で正成を大忠臣として絶賛し、神戸の湊川に「嗚呼(ああ)忠臣楠子之墓」と刻んだ楠木正成の墓碑を建てて、その精神を称えました。 徳川幕藩体制の武士にとって、なぜ武家が政権を執ることになったかは、歴史上の大問題でした。古代、政権を執っていたのは、朝廷です。しかし、朝廷は失政や不徳によって自ら権力を失い、その結果、武家政権が誕生したのでした。これに対抗して、後醍醐天皇が建武の中興を起こしますが、これまた失敗します。特に所領が命である武士たちは、論功行賞への不満が募り、王政をやめて幕府に戻すべしという主張に変わります。このとき、朝廷にそむく中心となったのが、足利尊氏です。 尊氏は一度挙兵したものの、新田義貞らの官軍に敗れ、九州に負走します。そこで尊氏は敗因を反省し、「我が国では、天皇を担いでいない者は敗れる」ということを悟りました。そこで、皇室の権威を利用しようと、後伏見上皇に院宣を願い出て、これを受けました。ここに北朝が始まります。 尊氏が「錦の御旗」を立てて攻め上がると、諸国の武士は次々と尊氏軍に付きました。朝廷の権威は両軍にあるということになると、あとは実利の問題です。勢い武士たちは、利を期待できる尊氏の側に集まったわけです。 このときに、ただ一人、所領よりも大義を重んじて立ったのが、楠木正成です。正成は勇猛にして智謀にたけた戦の天才であり、千早城・赤坂城などで見事な戦いをして、幕府軍を苦しめます。しかし、正成の度重なる進言は聞き入れられず、情勢は不利となります。遂に正成は、尊氏の大軍を正面から迎え討たなければならなくなってしまいます。 正成は、出陣の時に「今はこれまでなり」と述べました。どこまでも天皇への忠誠を尽くす正成は、自分の意見が通らなくとも潔くあきらめて、湊川の合戦に赴きます。巨万の大軍に対し、わずか700人あまりという圧倒的大差です。善戦およばず正成は敗れ、自害を決意します。このとき、正成は、弟の正季に「何か言い残すことはないか」と尋ねました。正季は、「七たび生まれて、朝敵を討ち滅ぼしたい」と答えました。正成は「自分も同じだ」と言い、兄弟刺し違えて死にました。これが後世に大きな影響を与えた「七生報国」の思想です。 こうした楠木正成の生き方は、水戸光圀の『大日本史』を通じて、ほめ称えられていきます。そして、幕府や主君よりも、天皇に忠義を尽くすのが、真の武士の大義であるという考えが、日本中に広まっていきます。幕末の吉田松陰らにとって、大楠公は武士の鑑(かがみ)、日本人の模範、倒幕の先達だったのです。正成の「七生報国」の思いは、尊皇の志士たちの決起となって、実現したのです。 もし我が国に楠木正成という人物が出現していなかったら、どうなっていたでしょうか。すべての武士は自利に走り、大義は捨て去られたに違いありません。その結果、皇室を守る者はなくなり、皇統は絶えていたかもしれません。そして、皇室という中心を失った日本民族は、幕末の危機の中で、異民族支配を受けてしまったでしょう。幸いにも我が国に国民統合の象徴・皇室が存在していたからこそ、日本人が団結して危機を乗り越え、明治維新を成し遂げることができたのです。 楠木正成が日本の国柄を守った英雄として、大きな尊敬を受けてきたゆえんです。(ページの頭へ) |

■父・義満の過ちを正した足利義持
2005.11.16 南北朝が合併したからといって、朝廷に権力が復活したのではありません。威信は三代将軍の足利義満にありました。 この義満は、自分の子を天皇とし、自分は太上天皇(だいじょうてんのう=上皇)になろうという望みを抱いていました。これは臣下の身でありながら、不遜の極みです。一体、その顛末(てんまつ)はどういうものだったでしょうか。 わが国では、皇位を狙ったり、極度の不敬を行った者の末路は、よくありません。蘇我入鹿は大化の改新で討たれ、道鏡は野望を見抜かれて左遷されました。その点、藤原氏は、権勢の絶頂にあった道長も、自分や自分の息子を皇位に即(つ)けようとはしませんでした。自分の娘を天皇の后妃にして、その孫を即位させること、つまり、自分は天皇の外祖父になることを上限とし、それ以上は望みませんでした。そこには、わが国で守るべき人倫が自覚されていました。ところが、義満は、越えてはならない一線を越えてしまいました。節度がなくなったのです。 義満は、自分の妻を天皇の母としました。どういうことかというと、後小松天皇の生母が命の危ない状態になったとき、自分の妻・日野康子を「准母(じゅんぼ)」といって、天皇の母「国母」の代わりにしたのです。これによって、義満は、天皇の母の夫、つまり天皇の父ということになりました。これは、太上天皇と同等の立場になります。 そういう立場になったというだけではありません。義満自身、自分を天皇と同等の立場にあると、考えていたのです。たとえば、金閣寺のある北山の別荘に、本来、皇居にしかない紫宸殿(ししんでん)という名前の建物を作っています。また、服装にも、天皇だけに使用が限られている紋をつけています。太上天皇になったも同然の振る舞いです。 さらに一歩進んで、義満は、自分の息子を、天皇にしようとしたのです。義満は、息子の義嗣を天皇の養子にしました。天皇の養子であれば、後小松天皇の後に皇位に就いてもおかしくないわけです。もしそうなったら、わが国の国柄を揺るがす事態となります。 ところが、ここに不思議なことが起こりました。応永15年(1408)4月25日、義嗣は、天皇の実子である親王と同じ儀式によって、元服しました。すると、その翌々日、義満は急に咳が出て発病し、10日もたたずに、5月6日には亡くなりました。自分の息子が天皇の養子となり、天皇となるかもしれないという、栄華の極点に近づいたところで、義満は急病にかかり、あっけなく死亡したのです。わが国で守るべき節度を超えたがための最後と言えましょう。 さて、足利将軍家は、義満が不遜・不敬を行ったにもかかわらず、その後もなお12代続きました。それは、義満の死後、4代将軍となった義持が、賢明だったからです。義持にとっては、天皇の養子となった義嗣は弟です。この弟が自分に謀反を起こしたのです。怒った義持は、義嗣を攻め、立てこもった建物もろとも焼き殺してしまいます。義満が、我が子を天皇にという野望は、これによって潰(つい)えました。 義持は父・義満の皇室接近を嫌っていました。義満は、太上天皇の尊号をもらいたがっていました。義満の死後、宮廷からその宣下(せんげ)の勅使が来ると、義持は「そんな破格な尊号を頂いた臣下はいません」と言って返上しました。また、天皇の母となった義満夫人・日野康子が亡くなった時も、葬式は簡素なものとしました。義満が造った北山の別荘も、金閣寺等を残して取り払い、庭石も崩しています。こうして、義持は、日本人としてわきまえるべき節度を示し、武家のあるべき姿に立ち返りました。 義持は、もう一つ義満の過ちを正しました。義満は明と国交を開きましたが、それは屈辱的な外交でした。義満は、明の皇帝から「日本国王」という称号を受けたのです。「王」は皇帝の下になるため、わが国はシナの册封(さくほう)体制に従属することになったのです。 かつて、聖徳太子は隋の煬帝に対して対等の外交をし、自主独立の路線を取りました。それ以来守られてきたわが国の誇りを、義満は個人的な名誉と貿易の実利と引き換えに、地に落としたのです。しかし、息子の義持は、義満の外交を誤りと考えました。そして、義満の死後、今度は義持を「日本国王」とするという文書が明から届いた時、義持は、これを無視しました。それによって、わが国の国威は回復されたのです。(1) こうした義持の功績によって、義満の過失は正され、足利将軍家はともかく15代まで続くことができました。 しかし、皇室の権威は、足利尊氏が北朝を立てたことで相対化され、義満が太上天皇同然の振る舞いをしたことで大きく損なわれました。権威の低下は、下剋上の世を招きました。再び皇室が権威を回復するには、織田信長と豊臣秀吉という新しい英雄の出現を待たねばならなかったのです。 (ページの頭へ) 註 (1)聖徳太子の外交については、以下の拙稿をご参照下さい。 参考資料 ・渡部昇一著『日本史から見た日本人・鎌倉篇』(祥伝社) |

■応仁の乱と下克上でも崩れなかった国柄
2006.2.15 足利時代は、一言で言えば下剋上の時代です。下剋上とは「下(しも)上(かみ)に剋(か)つ」という言葉です。 足利尊氏は、建武の新政を行っている後醍醐天皇に反乱を起こし、別の天皇を立てました。これにより皇位が相対化されました。さらに足利義満は、自ら太上天皇になろうとしたため、天皇の権威を引き下げました。その結果、実力さえあれば下位の者が上位の者に剋ってよいという考えが、広がっていきます。 足利幕府では、政治力のない将軍が続いたため、8代将軍義政の時代には、幕府の運営は何人かの実力派大名の手に移りつつありました。その実力者の中で、紀州の畠山家と越前の斯波家に、相続争いが起きました。双方が大大名の細川と山名に支持を求めたため、対立がより根深くなりました。さらにここで、本来彼らの調整役に回るべきであった、足利将軍家に後継者問題が起きます。善政の弟・義視と、日野富子の子・義尚のどちらが将軍に就くかという争いです。こうして、足利家自体が分裂状態に陥ります。 こうして守護大名では細川勝元と山名宗全が、畠山家では畠山政長と畠山義就(よしなり)が、斯波家では斯波義敏と斯波義廉(よしかど)が、将軍家では足利義視と義尚が、東軍・西軍に分かれ、大戦争を引き起こすことになります。 これが、応仁の乱です。応仁元年(1467)5月26日、戦いの火ぶたが切られると、敵味方が入り乱れ、京都中が戦火に巻き込まれました。大乱は以後、11年もの間続き、日本全国が動乱の淵に投げ込まれました。その結果、わが国には歴史の大断層が生じました。この大乱をきっかけにして、皇室や一部の公家などを除けば、古代からの多数の家が没落し、新たな家系が多く勃興したのです。 応仁の乱を機会に、下剋上の勢いが強まります。将軍義政は戦乱が起きても反省することなく、風流に遊び、銀閣を建立し、現実逃避をしているような状態でした。しかも、シナ(明)に対して窮乏を訴え、寄贈を依頼するなどの恥ずべき態度を取りました。将軍がこんな風ですから、権力はその下に移るのが当然です。応仁の乱の後、細川勝元の子・政元の時から、細川家は管領の地位を独占し、将軍は自分が選び出し、並ぶものなき権勢を得ました。しかし、政元の後継者争いから内紛を生じます。実権は執事の三好家に移る羽目になり、さらに権力がその家臣の松永久秀らに移りました。そして、松永久秀は将軍義輝を殺害してしまいます。 下剋上とは、見方を変えると、天皇から将軍へ、将軍から管領・家老・家老の家来と、実権がどんどん下降していくこととも言えます。こうした過程は、すべて相続争いと同族争いによって起こりました。 さらに新たな傾向が現れました。応仁の乱の時、西軍に属していた朝倉孝景の戦績には、実に目覚しいものがありました。朝倉氏は斯波氏に仕えていましたが、東軍の総帥細川勝元は斯波氏との戦いを有利に進めるため、越前一国の守護を条件に、孝景東軍への寝返りを勧めてきました。孝景は、忽ちこれに飛びつき、主家の斯波氏から守護職を奪い取りました。これが下克上の始まりとも言われます。その後、各地に新たな実力者が登場し、群雄割拠の戦国時代が始まります。 わが国では、国の中心が揺らぐとき、国が分裂・混迷に陥ります。12世紀の保元・平治の乱以後、戦国時代へと至る歴史を見ると、天皇が君徳を失い、皇統が乱れ、人臣が忠義を失ったとき、力と力、欲と欲がぶつかり合う乱世となりました。そして、一旦、皇室の権威が雲に覆われると、実権は下方へ、下方へと下がっていき、とめどない分裂・対立の状態となっていきます。 将軍家はあるものの、権威と実力を失った戦国時代。混迷の続く日本を再統一するには、新たな英雄の登場を待たねばなりません。その英雄こそ織田信長です。 織田信長は、天下統一の要として、天皇を中心に立てることに思い至るのです。 (ページの頭へ) |

■領民を思い、仁政を行う〜北条早雲(1)
2006.3.1 足利時代の後期、京都が戦乱の巷(ちまた)と化した応仁の乱(1467-1478)を境に、古代からの名家の多くが没落し、新たな実力者が台頭しました。足利将軍家の腐敗堕落により、家臣が主君を襲い、子が親を殺すというような、人倫にもとる下克上の風潮が広がります。そして、地方に群雄が割拠し、覇を争う戦国時代となります。そこに登場した最初の戦国大名が、北条早雲です。 早雲は諸国を流浪する一介の浪人でした。そこから身を立て、歴史の表舞台に現れるのは、彼が40歳を過ぎてからのことです。文明8年(1476)、今川義忠が戦死すると、今川家に内紛が発生しました。この時、早雲は内紛を調停した功績により、興国寺城(現・沼津市)という小さな城の主となりました。 次に早雲は、関東に目を向けました。延徳3年(1491)将軍代理の堀越公方・足利政知(まさとも)が死去すると、混乱に乗じて伊豆に攻め入り、一夜にして伊豆一国を奪い取りました。これこそ、戦国時代の始まりとされる事件です。時に早雲は、60歳を超えていました。 このように書くと、早雲は、老獪(ろうかい)な大悪人という感じがするでしょう。ところが早雲は常に領民のことを思う為政者でした。興国城主となった早雲は、まず民の困苦の状態を調べました。そして、農民の税を軽くし、困っている者には金銭を貸し与え、旱魃(かんばつ)の時には施しまでしました。伊豆を奪った時は、自ら村落を巡視し、家ごとに病人がいることを知りました。疫病のため10人のうち7、8人が死亡し、伝染を恐れた者は山奥に退避していたのです。そこで、早雲は、村民に薬を与え、500人の兵を看病に当たらせました。助けられた者たちは非常に喜び、山に逃れた親族を呼び寄せ、ともに感謝したといいます。 伊豆を平定した時、早雲は国中の主だった者を集めて、こう語ったと伝えられます。 「国主にとっては民はわが子であり、民から見れば国主は親である。これが昔からの定めである。世が末世になるに従って、武士は欲が深くなり、農民に重い税を課している。国主どもは贅沢(ぜいたく)な暮らしをしているのに、民は暮らしに困っている。自分はこのような民のありさまをはなはだ哀れに思う。しかし、わしがこの国の主となったのも深い縁があっての事だろう。自分はお前たちが豊かにくらせる事を願っている」 実際、早雲は年貢を五公五民から四公六民へと軽滅したので、農民たちは大いに喜びました。また、政治を家臣任せにせずに、自ら進んで巡回し、裁きを求める時は直々に自分まで訴え出ることを推奨しました。自らは粗食に麻の衣で質素な生活をし、家臣領民にも贅沢を抑え、土地を耕し、川を整備し、開墾をするよう奨励しました。こうして、早雲は民生の向上に努めたのです。そのため、家臣も領民も一同心から、早雲に信服しました。 その後、早雲は、明応4年(1495)、相模の小田原城を攻め、大森藤頼を追ってこれを奪い、関東進出の第一歩を印しました。この時にも領民に対しては寛大な処置をして、戦いを急ぐことなく、領国経営に力を注いでいます。 やがて相模の豪族はみな早雲のもとに下るようになりましたが、三浦義同(みうらよしあつ)・義意(よしおき)らだけは、早雲に従いませんでした。毎年、攻め込んできて、容易に雌雄は決しませんでした。しかし、永正9年(1512)、早雲は新井城に籠もる三浦氏に対して攻撃を開始しました。そして、永正13年11月、これを滅ぼしました。こうして、相模一帯を治めるようになりました。早雲は、この時、85歳を迎えていました。 早雲は着実に版図を広げては、城下の整備や検地の実施と新基準の貫高の採用など、領国経営に手腕を振るい、統治体制の礎を固めました。永正15年(1518)早雲は家督を嫡子の氏綱に譲って隠居しました。翌永正16年8月15日、伊豆韮山城で、88年にわたる生涯を閉じました。 その後、北条氏は五代百年にわたって関東を支配しました。戦国の世にこれほど長く繁栄を続けたのは、珍しいことです。それは、創業者の早雲が、力づくで国を奪うだけでなく、徳を養い、仁政を行って民を豊かにした、優れた為政者だったからなのです。 武士道には、「尊皇」つまり天皇を尊ぶこと、「尚武」つまり武を重んじること、「仁政」つまり民を思う政治を行うことという三つの要素が見られます。下克上と戦国の世にあっても、単に武力だけでなく、民を思う政治を行った者が長く隆盛を得たのです。そして、その仁政の源に皇室の存在があったところに、わが国の一大特徴があるのです。(註) (ページの頭へ) 註 ・武士道の尊皇・尚武・仁政については、以下の拙稿をご参照下さい。 「武士とは、武士道とは」 |

■二十一箇条が家訓の原型に〜北条早雲(2)
2006.3.16 徳川家康は、北条氏が滅亡した後、次のように語ったと伝えられます。 「武田信玄は近代の良将であったが、自分の父信虎を追い出した報いが、子に表れた。勝頼は猛将であったが運が傾いて、譜代の恩顧ある者まで離れていき、はかなくも滅びてしまった。これは、天道が、武田氏は親に対して当然持たねばならぬ恩義に欠ける点を、憎まれたためである。 これに対して小田原の北条氏は、百日ほどの長い包囲戦の際に、松田尾張のほかは、反逆した者は一人もいない。またその時、一命を助けられた氏直が高野山に行った時も、命を捨ててお伴をしようと願い出た者が多かった。これは早雲以来、代々受け継がれてきた方針が正しく、諸士もみな節義を守ったためである」と。 北条早雲は教訓を残し、北条家は代々それを守りました。そこに五代百年の繁栄の秘訣がありました。この『早雲寺殿廿一箇条』は、戦国時代・江戸時代につくられた武家の家訓の原型ともいえます。そこには、当時の武士の生き方や価値観、つまり武士道が表現されています。 早雲の二十一箇条は、「なによりも神仏を信じること」で始まります。この点は、やはり「神仏を大切にすべき」ということから始まる貞永式目に通じています。 続いて、第2条は“早起きをせよ”、第3条は“夜更かしをせず、朝は身支度を整え、定時前に出仕せよ”、第4条は“朝は手洗いの前に見回りをし、家人に掃除させよ”等々、武士が日常生活で実行すべきことを、事細かく説いています。 また、第5条は“信仰は正直に勤めよ”、第6条は“見栄を張るな”、第11条は“まず、他人を立てよ”、第17条は“良き友を求めよ”などと、心の在り方についても具体的な教訓が並んでいます。 次に武士の心得として、特に興味深いものを挙げてみましょう。 第14条(嘘をつくな) 上下万人に対し、一言半句にても虚言を申べからず。かりそめにも有のままたるべし。そらごと言つくれば、くせになりてせらるる也。人に頓てみかぎらるべし。人に糺され申ては一期の恥心得べきなり。 (大意:身分の上下にかかわらず、万人に対して、一言半句もうそをついてはならない。わずかなことも、ありのままに言うべきである。うそを言っていると、それが癖になってしまう。そしていつしか人から見放されることになる。自分のうそを人から追求されることがあれば、一生の恥と思うべきである) ※古代から、嘘をつかず正直であることは、日本人が大切にしてきた徳ですが、武士の間においても重んじられたことがわかります。 第15条(歌道を学べ) 歌道なき人は無手に賤しき事也。学ぶべし。常の出言に慎み有るべし。一言にて人の胸中しらるる者也。 (大意:和歌のたしなみのない者は、ひどくいやしい感じがする。是非学ぶようにせよ。それによって普段の発言も慎み深くなるだろう。たった一言の言葉によって、人の心の中がわかってしまうものである) ※武士にとって和歌を詠むことは、大切な教養でした。古くは源平の武将、八幡太郎源義家、平忠度(ただのり)、鎌倉三代将軍源実朝らも、名歌を残しています。皇室から分かれた貴族出身だった武士は、和歌を通じて、朝廷のみやびの文化とつながっていたのです。 第21条(文武は平常の心がけ) 文武弓馬の道は常なり。記すにおよばず、文を左にして武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず。 (大意:文武・弓馬は当然のことであるから、特に記す必要はない。文と武をともに身に付けることは古くからの掟である。日ごろから心がけておかねば、できないことである) ※文武両道ということも、古くから言われていたことがわかります。 以上のように、北条早雲は、武士のなすべきことを、具体的また詳細に説いて、教訓としています。北条家では、創業者の精神を受け継いで、これらの教訓を守り、実践しました。徳川家康も謙虚に先人・早雲に学んだことが、徳川十五代の繁栄をもたらしたといえましょう。 (ページの頭へ) 参考資料 ・岡谷繁実著『名将言行録』(ニュートンプレス) |

■徳川家康が恐れ、学んだ武田信玄
2006.3.31 戦国時代の武将は、戦いに強くなければ、生き続けることができませんでした。それとともに、政治の力量を求められました。人心をつかみ、経済政策を実施し、領国経営に成功しないと、乱世に勝ち残ることができなかったからです。 この軍事と政治という両面において、最も優れた一人が、武田信玄でした。信玄は単に勇壮な武将であっただけでなく、学問を愛し、その教養を実際に生かすことに長けていました。彼が『孫子』などシナの古典を愛読し、その真髄を軍事や政治に活用したことはよく知られています。 軍事面では、信玄は、完璧なまでの組織力・統率力を持っていました。信玄の指揮下、武田の騎馬軍団は勇猛・果敢を誇り、戦国最強とうたわれました。なびく軍旗は、「風林火山」。「疾(はや)きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」。『孫子』の一節です。『孫子』は、必勝の条件はなかなか作り出せないが、不敗の態勢を築くことは可能だと説いています。また、百回戦ってことごとく勝つよりも、戦わずして勝つことこそ最善としています。信玄は「孫子」に従い、不敗の態勢を構築し、最小限の犠牲で勝利を得る方法で、領国を拡大していきました。 政治面でも、信玄は優れた手腕を発揮しています。何より信玄は人材登用の名手でした。人の技量をよく見極め、能力に合った仕事を与え、その技能を余すことなく活用しました。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」という名句は、信玄の人材に対する考え方をよく表しています。信玄に発掘され、登用されたさまざまな人材が知恵を出し合い、信玄の政治を支えたのです。 その政策で特筆されるのは、釜無川に「信玄堤」を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。貨幣制度は信玄の甲州金が始まりといわれ、江戸時代の貨幣制度の母胎となっています。そのほか、信玄は、甲州法度という法律の制定、金山の開発、軍用道路・棒道の普請、狼煙による情報伝達方式の構築等を推進し、優れた領国経営を行いました。このことが、信玄の軍事力の裏づけとなっているのです。 さて、この信玄を模範と仰いだ武将に、徳川家康がいます。家康は、若い頃から武田信玄を研究し、甲州金や甲州法度、思想・戦術から民政まで、多くのことを学び取りました。それは信玄の凄さを誰よりもよく知っていたからです。 家康は一度、信玄と戦いを交えたことがあります。元亀3年(1572)12月22日、三方ヶ原でのことでした。家康は、京をめざす信玄と激突。戦いは武田軍の勝利に終わりました。家康も必死の奮戦を見せましたが、老獪(ろうかい)な信玄の采配の前に、若い家康は為すすべもありませんでした。負けを悟った家康は自刃しようとしますが、夏目次郎左右衛門が止め、家康を無理矢理、馬に乗せて、その馬の尻を槍でつついて逃したといわれています。 ところが、信玄は、折角勝利したにもかかわらず、病に倒れてしまいます。信州の駒場城まで引き返し、療養に努めますが、病状思わしくなく、とうとう4月12日、息を引き取りました。天下統一という一代の夢は、あえなく費えたのです。 一方、家康は、軽卒と慢心を反省し、惨敗した自分の姿を絵師に書かせて、己への教訓としました。その後、家康は生涯、信玄を模範とし、徹底的に研究しました。そして、信玄の政治、軍事、経済等、各方面における業績を、大いに摂取しました。家康が、信玄の旧臣・大久保長安を登用して、各地の鉱山開発に当たらせたり、甲州流築堤法によって全国の水防工事を進めたりしたことなどが、よく知られています。それゆえ、徳川260年の礎は、武田信玄にありと言っても過言ではないのです。 (ページの頭へ) 参考資料 ・笹本正治著『武田信玄』(中央公論新社) ・百瀬明治著『信玄と信長 天下への戦略』(PHP文庫) |

■武田流軍学の書、『甲陽軍鑑』
2006.4.16 武士道の本には、新渡戸稲造の『武士道』を元にするもの、『葉隠』を中心とするもの、武士個人を列記するものが多いようです。私は、どうもそういうとらえ方では、見方が狭くなると思っています。
早雲・信玄・信長・秀吉・家康らは、戦国武将として描かれることが多いのですが、彼らを武士道の体現者・実践者として見ることによって、武士道のもつ深さ、豊かさを知ることが出来ます。
武士には一兵卒・一剣士としての侍もいれば、指導者・為政者としての大将や将軍もいました。「もののふの道」とは、武士の倫理学でもあれば、軍事学でも政治経済学でもありました。その辺もよく掘り起こしたうえで、今日に生かすべき武士道を考えたい、というのが私の観点です。 さて、徳川家康は、信玄を恐れ、また信玄に学びました。幕府は信玄の軍学を取り入れたので、武田流軍学は江戸時代の武士道の一要素となりました。 武田流軍学を集大成した書が、『甲陽軍鑑』です。著者は信玄の家臣・高坂昌信と伝えられますが、実際の編著者は小幡景憲(1573-1663)と見られます。景憲は武田家滅亡の後、軍学を修め、徳川幕府に仕えて、軍学を講じました。幕府は景憲が完成した武田流軍学を、官許の学として公認しました。そして、『甲陽軍鑑』は「本邦第一の兵書」といわれ、武士の素養となっていたのです。本書を中心に武田流軍学の主な特質を挙げてみます。 1.人材を尊重し活用せよ 武田流軍学は何より、人材を大切にしました。大将には、三つの中心任務があるとし、その第一番に「人の目利(めきき)」をあげています。人材を尊重し、人それぞれの個性を生かして使うことが、一番重要だというのです。信玄は「渋柿も甘柿も、それぞれに役立たせるのが国持大名のつとめ」と言っています。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」という名文句は、武田流軍学の特質をよく表わすものです。 2.戦争の目的を忘れるな 武田流軍学には、「後途の勝を肝要とする」ということがあります。すなわち、個々の戦闘は、あくまで次の、より大きな目標に近づくための手段に過ぎない。目先の現象に目を奪われず、将来の利害、大局の得失にもとづいて判断を下し、行動せよということです。『孫子』の一節にも、「明君名将は、つねに戦争の根本の目的を見失うことがない。だからこそ、かれらは慎重なのだ。有利、確実、かつやむを得ざる場合にのみ兵を動かして戦闘を交える」とあります。 3.攻撃こそ最大の防御なり 『甲陽軍鑑』には、「わが国ばかりが長久と思い、他国に攻撃をかけないでいると、他国から逆に攻め込まれてしまう」とあります。自分の国さえ安穏ならばよいと考えて、おとなしくしていれば、必ず他国の攻撃を受けて滅ぼされてしまう。内に蓄えた力によって打って出て、他国の力を弱め、あるいはこちらの領国とする以外に、自らの安全を確保する道はないというのです。 4.組織を完全に統率せよ 「疾(はや)きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」――『孫子』軍争篇にあるこの言葉を、信玄は戦術の基本としました。そして、事前の精密な作戦計画、首脳部の意志の統一、指揮命令系統の整備、全軍に対する訓練等を徹底的に行いました。その結果、全軍が信玄の采配の下に一糸乱れずに行動できたのです。 5.内政を充実せよ もともと甲斐の国(現在の山梨県)は山岳部の僻地です。この甲州を基盤とした武田氏が勢力を振るったのは、信玄の精魂込めた富国強兵策によっているのです。 信玄は、領国内の統治体制を整備するという点でも、当時の諸大名の中では先頭を切っていました。治山治水、鉱山の開発、商工業の保護育成など多面的な政策を進め、領国の経済力を強めるとともに、領民の心を引き付けました。 「国の仕置が悪ければ、たとえ合戦に勝っても国を失う」というのが、信玄の警告でした。 以上、武田流軍学の特質を挙げてみました。そして、その軍学を集大成した『甲陽軍鑑』は、自国の領土を治め、他国を従えるために必要な、政治・軍事・外交等の心得に満ちています。 武田流軍学を集大成した小幡景憲の門弟に、『武教全書』等の著者・山鹿素行がいます。素行は赤穂浪士に武士の心得を説きました。素行の開いた山鹿流兵学の師範だったのが、吉田松陰でした。また、景憲・素行に師事した軍学者に、『武道初心集』の大道寺友山がいます。信玄の英知は、このように江戸時代の武士道に生かされていったのです。 『甲陽軍鑑』や『武教全書』『武道初心集』を語らず、『葉隠』や『五輪書』のみで武士道を語るのは、武士道の見方を狭くし、武士道のもつ深さ、豊かさを見失ってしまうと思います。(1)(2)(ページの頭へ) 註 (1)拙稿「大石・松陰・乃木の師・山鹿素行とは」 (2)拙稿「武士道の規範とされた『武道初心集』」 参考資料 ・吉田豊編訳『甲陽軍鑑』(徳間書店) |

■天皇の権威で天下の統一を〜織田信長
2006.6.14 応仁の乱より後、約百年の間、日本は戦国時代となり、国としての統一を失っていました。その分裂状態から、再び統一を取り戻すためには、抜群の力を持つ英雄の出現が必要でした。その英雄こそ、織田信長だったのです。 信長は、桶狭間の戦いで、自軍の数倍もの規模の今川義元軍に奇襲をかけ、見事、その首を挙げ、一躍戦国のニューリーダーとして名乗りを上げました。また、徳川家康でも歯の立たなかった武田信玄の甲州騎馬軍団を一挙に滅ぼしました。長篠の戦いでの鉄砲作戦が功を奏したのです。馬防柵を作って敵の突撃を防ぎ、柵の後ろに数千丁の鉄砲隊を三列に並べ、代わる代わる一斉射撃させたのです。こんな戦法は、それまで誰もが思いつかなかった戦法でした。類似の戦法がヨーロッパで行われたのは、信長より55年も後のことだったのですから、彼の軍事的天才がわかります。 しかし、信長は武力によってのみ、天下布武を推し進めたのではありません。信長は、統一には、統一の核となる中心が必要なことを知っていました。そして、その中心はもはや足利将軍ではない、天皇でなければならないと看破していました。ここに彼の政治的天才が見られます。 信長は最初、足利義昭を将軍に立てて京都に入り、室町幕府を再興しました。しかし、幕府の再興は天下統一のための方法にすぎませんでした。適当な時機がきたら、将軍をご用済みにするつもりでした。中世的秩序を否定した新体制を構想していたからです。そのために、彼が注目したのが、古代以来続く朝廷の権威だったのです。 長い戦乱のうちに当時、朝廷は衰え、その権威はかすんでいました。しかし、信長は、わが国特有の国家構造をはっきり見抜き、朝廷の権威の復興こそ、天下統一の道であると考えていました。出兵して上洛に成功すると、信長は皇居の警衛に当たり、費用を献じて皇居を修理するなど、積極的に朝廷との関係を結ぶことに努めたのです。朝廷も信長を抜擢して、天正2年には参議、3年には権大納言、4年には内大臣、5年に右大臣に任命するなどして官位を授けました。足利幕府に抑え込まれた天皇の権威と権限は、信長によって不死鳥のようによみがえってきたのです。 明治のジャーナリスト・徳富蘇峰は、名著『近世日本国民史』で、次のように評しています。「特筆すべきは、信長が、伝統的、因襲的ではなく、政治的に皇室の尊厳を認めたことである。皇室をもって、天下統一の中枢と為したことである。彼は天下を統一するには、力の大切な事を十二分に自覚した。しかも日本人の心は、いかなる力にても、力でさえあれば、帰服するものとは思わなかった。彼は皇室を中心とした力にあらざれば、日本を統一するあたわずと直覚した。この直覚的見識が、彼の政治的天才たる所以である」。 こうした信長でしたが、権力に近づくに従い、生来の尊大な性格が増長し、それが災いをもたらすことになります。信長に接したルイス・フロイスの『日本史』は、以下のように伝えています。「彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に」陥っていた、そして「自らが、単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望」し、「予自らが神体である」と公言したというのです。 晩年の信長は、こうした恐るべき思い上がりにとらわれていました。部下にとっては、彼の気紛れによって、いつ自分の身が危なくなるかわかりません。疑心暗鬼に陥り、信長の一挙手一投足に神経を尖らせる状態でした。そして、信長の不遜と専制は、痛烈な反撃を受けることになりました。明智光秀の謀反です。本能寺の変でした。 かくして、天皇を奉じて天下を統一しようとした信長は、志半ばで倒れ、天下統一という大事業は、家臣の秀吉に受け継がれることになりました。(ページの頭へ) 参考資料 ・徳富蘇峰著『近世日本国民史』(講談社学術文庫) ・百瀬明治著『信玄と信長 天下への戦略』(PHP文庫) |

■尊皇で統治し傲慢で滅亡〜豊臣秀吉
2006.7.1 織田信長が本能寺で明智光秀に暗殺されると、羽柴秀吉は合戦中の毛利に和睦を申し出て引き返し、明智光秀を討ちました。秀吉は百姓の子供でしたが、草履取りからスタートして出世街道を駆け上がり、信長家臣中で有数の実力者になっていました。信長の葬儀では自分が後継者であることを天下にアピールし、続いて最大のライバルである柴田勝家を賎ケ岳の戦いで破りました。その後、秀吉は、天下統一という信長の目標を受け継ぎ、それを目指して進んでいきます。 信長は、全国統一には武力だけでなく、統一の中心が必要であることを知っていました。その権威を足利将軍ではなく、天皇に見出したところに彼の政治的天才がありました。秀吉はこうした信長の意図を誰よりも良く理解していました。 全国統一には、武力の充実や農民支配の徹底もさることながら、なおその上に超越的な権威が必要であることを、秀吉は認識していました。また、低い身分からのし上がってきた秀吉には、譜代の家臣を持っていないという弱点がありました。そこで、自分の後ろ盾になる権威を、天皇から与えられる官位に求めたのです。早くからじりじり朝廷社寺に近づいていったのは、それを考えたからでしょう。そして、秀吉は、信長から一歩進んで、朝廷を徹底的に尊敬することを万人に示し、朝廷の権威の下で自分が出世することを目指したのです。 朝廷は秀吉に次々に官位を与えました。天正13年(1585)には正二位内大臣、次いで従一位関白に昇格、また新たに豊臣の姓を賜りました。そして天正14年12月、後陽成天皇が即位すると、秀吉は関白のまま太政大臣に任ぜられました。 関白太政大臣は、藤原氏全盛期の道長や頼道と並ぶ公家の最高位です。この地位に比べれば、源氏や足利氏が得ていた征夷大将軍など、地方派遣軍の司令官にすぎません。武家も朝廷の官位官職をもらうことにより、すべて秀吉より格下となることを意味します。主君の信長の子・信雄(のぶかつ)といえども同様です。秀吉は、天皇の権威を仰ぐことが天下統一の唯一無二の方策であることを見事に洞察していたのです。 翌15年、秀吉は京都・平安宮内裏の跡地に聚楽第を完成しました。この大邸宅が出来上がると、秀吉はここに天皇の行幸を仰ぎました。天正16年4月14日、後陽成天皇の出座の際、関白秀吉は自ら天皇のお供をしました。多数の公卿のほか諸大名も行列に加わり、それぞれ装束に意匠を凝らしたので、見物人は感嘆しました。 天皇の滞在は初め3日間の予定でしたが、至極満足した天皇は滞在を5日に延ばしました。秀吉はこれを深く喜び、宮中へ御料所を献上しました。また、徳川家康、宇喜田秀家、前田利家ら数十人の大名に命じて、皇恩を感謝して忘れないようにすること、皇室御料を永久に守るべきことを、堅く誓約させました。こうして秀吉によって、長く凋落していた朝廷の権威が復権されたのです。 秀吉は天正18年(1590)、念願の天下統一の大事業を成し遂げました。低い身分から天下人となった秀吉は、今日も庶民に親しまれ「太閤さん」と呼ばれます。太閤とは摂政または太政大臣の敬称ですが、秀吉は関白の位を甥の秀次に譲ったので、前の関白ということから太閤と呼ばれるようになったのです。 関白になる前後から、秀吉には奢りが目立つようになってきました。関白太政大臣であるのは自分の行いが「天道」にかなったからだ、と天皇より自分を押し出したり、自分は天皇の子であると落胤説(らくいんせつ)をほのめかし、朝鮮侵攻の頃には、自分は「日輪」(太陽神)が受胎して生まれた子だとまで言うようになりました。 増上慢になった秀吉は権力をほしいままにし、傍若無人の振る舞いが多くなりました。そんな秀吉を病が襲いました。実子の秀頼はまだ5歳。秀吉は豊臣家に権力が受け継がれることに執着しつつ、慶長3年(1598)8月18日に、生涯を閉じました。 謀反に倒れた信長の遺志を受け継ぎ、天皇を奉じて日本の再統一を完成した太閤秀吉でしたが、最後は誇大妄想に陥って道から外れてしまいました。その後、天下は徳川家康の掌中に帰することになるのです。(ページの頭へ) 参考資料 ・山路愛山著『豊臣秀吉』(岩波文庫) ・鈴木良一著『豊臣秀吉』(岩波新書) |
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