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  日本精神

                  

題  目

目  次

01 基調(真の日本精神とは)

02 「日本の心」を表す言葉

03 「三種の神器」と知仁勇

04 許して活かす〜明治維新に見る日本精神

05 人権と日本精神

06 台湾に生きる「日本精神(リップンチェンシン)」

07 マンガ『台湾論と日本精神

08 李登輝は「日本精神」の復興を訴えている(長文)

09 「日本精神」こそ世界の指針〜李登輝

10 世界を救う日本精神〜藤原正彦

11 日本精神の宗教的表現としての神道

12 日本における道と徳〜日本人の美徳を取り戻すために(長文)

13 世界に誇れる日本の国柄とその心

 

※別掲の「人物」にも関連掲示があります。

 ■新語「日本精神」を活用〜芳賀矢一

 ■日本精神は偏狭にあらず〜安岡正篤

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「日本の心」を表す言葉

2000.10.31

 

日本で心や霊魂を表す最も古い言葉は、「タマ」「チ」「ヒ」などです。それぞれ「コトダマ」「イノチ」「ムスビ」などと使われました。「ココロ」はもともと心臓の意味であったが、後にいわゆる心の意味に転じたものです。

 わが国は、古代から大陸のシナ文明の強い影響を受けました。しかし、7〜8世紀に中華思想による華夷秩序から離れ、独立を維持し、日本独自の文化を生み出していきました。そして、シナとの対比において、日本的な精神が自覚されるようになりました。

 日本人は「和」の精神を重んじ、国の名称にも「大和(やまと)」という文字をあてました。そうした日本的な精神を表す言葉が、「やまとだましひ」です。「やまとだましひ」という言葉は、『源氏物語』が初出です。用例は、「才 (漢才 (からざえ)、漢学の素養)」と反対の概念をなしています。「大和魂」の属性は、「世に用ひらるゝ方」とされ、世才、良識、先天的にそなわった気ばたらき、融通のきく常識的政治判断、世渡りの才能、交際上手、如才なさ、実人生に対する理解力などと解釈されてきました。漢文的教養に対する、実生活上の知恵・才能といえましょう。

その後、「やまとだましひ」の語は『大鏡』『今昔物語』『愚管抄』などに用例が見られます。注目すべきは、「やまとだましひ」は、「漢才 (からざえ)」という、外来のシナ文化の教養と対比されたことです。ほぼ同じ意味の言葉に「やまとごころ」があり、この言葉は「漢心」(からごころ)に対比されました。初出は『大鏡』です。「やまとだましひ」と「やまとごころ」に共通するのは、「日本(やまと)」と「シナ(から)」の精神の対比です。しかし、中世末から近世初頭にかけて、「やまとだましひ」について特に考察されることはありませんでした。

江戸中期になって、賀茂真淵および本居宣長らが、「やまとだましひ」「やまとごころ」を初めて主題的に論じました。彼らは、『万葉集』や『古事記』『源氏物語』等の研究に基づき、シナ的な精神に対比して、日本的な精神を理解しました。幕藩体制の統治に儒教を採用した江戸時代は、シナ崇拝が高まった時代でした。これに対し、宣長は、徹底的に「からごころ」を排除し、日本古来の「やまとごころ」を明らかにしようとしました。それは、自然の心情のままに、素直で優しく、柔和でもある心といえましょう。宣長の「敷島の大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」の歌は、そうした純真で素直な民族の心を詠んだものです。

日本人は、古代から近世にかけて、しばしばシナ文明に対抗して、自己を認識し、また文明を形成しましたが、そうした自覚が、「大和魂」や「大和心」という言葉に込められているのです。

幕末になると、黒船が来航し、西洋文明が東アジアに押し寄せてきました。わが国は、欧米の物質文明の圧倒的な威力によって、存亡の危機に直面したのです。その過程で、わが国の独自の国柄・伝統が強く自覚されました。また、尊王攘夷論が勢力を得ていきました。ここで、「大和魂」「大和心」に、文学的・思想的に再発見された「文」の側面だけでなく、外敵から国家・民族・文明を守ろうとする「武」の側面が加えられました。「大和魂」は潔く勇猛果敢な響きをもつようになり、吉田松陰は、辞世の句に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置まし 大和魂」と詠んでいます。明治維新は、この文武あいまった「大和魂」「大和心」の発動なくして、不可能だったでしょう。

明治以後、シナ文明の位置に替わったのが、西洋近代文明です。わが国は文明開化・富国強兵を国是とし、積極的に欧米文化を採り入れました。そして、自己本来の精神性を保持しつつ、外来文明を摂取するという姿勢が、「和魂漢才」という言葉で表わされました。『源氏物語』の用例とは意味に異なる点があるが、異文化と固有文化を対比し、その精神性の違いを表わすという点では、見事な用い方です。「和魂洋才」ともいわれます。

 近代国家の建設が進むにつれ、国際社会におけるな国民という意識が形成され、「国民精神」という言葉が使われるようになりました。諸国民の精神と対比して、日本の「国民精神」が論じられました。新渡戸稲造の名著『武士道(明治32年、1899)では、「大和魂」とともに「国民精神」が使われています。(註 1)

その後、20世紀になって、新しい言葉として登場したのが、「日本精神」です。登場は、明治の末期です。大正6年(1917)、芳賀矢一がロンドンで「日本精神」という講演を行いました。大正10年代(1920s)には、「日本精神」を冠する本が多く表れました。(註 2) また、モラエスやラフカディオ・ハーンの本の書名も『日本精神』と訳されています。

 昭和に入ると、広く「日本精神」が使われるようになりました。特に満州国を巡る昭和8年の国際連盟脱退の後、「日本精神論」のブームが起こりました。以後、「日本精神」という言葉が国家国民的な規模で使われました。しかし、その中身は排外的・独善的な傾向を強め、本来のおおらかな「和」の精神とは違っていきました。それは、軍部を中心とする時の為政者が日本固有の精神を見失い、独伊のファシズムの影響を受けたためです。当時、心ある人士は、日本の伝統に基づいて、こうした風潮を厳しく批判しました。(註 3)

戦後の社会では「日本精神」という言葉を避け、「日本の心」という言葉がよく使われます。これも柔らかくてよい言葉ですが、単独では神髄までを表わし得ない点があります。かえって台湾に「日本精神(リップンチェンシン)」が残っており、日本では「日本精神」が失われつつあります。いや心・精神そのものが失われているというべきでしょう。今や台湾の人たちから「日本人は日本精神を取り戻しなさい」と言われているほどです。(註 4)

 今日、こうして失っているものを取り戻すために、「日本精神」という言葉には、生きた力があると思います。日本古来の「大和魂」「大和心」をよみがえらせる力が、この語にはあると思います。

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(1)拙稿「武士道の復活を願う〜新渡戸稲造」をご参照下さい。

(2)拙稿「新語『日本精神』を活用〜芳賀矢一」をご参照下さい。

(3)拙稿「日本精神は偏狭にあらず〜安岡正篤」をご参照下さい。

(4)台湾の「日本精神」については、本項05からの拙稿をご参照下さい。

参考資料

    日本精神復興運動本部のホームページ

 「真の日本精神は、世界を変える

 

 

「三種の神器」と知仁勇

2000.12.29

 

「三種の神器」とは、古代から天皇の位を象徴するものとして、歴代天皇に継承されてきたものです。

 

◆「三種の神器」の由来

 

 記紀によると、皇室の祖先神とされる天照大神は、天孫ニニギノミコトを、葦原中国(あしはらのなかつくに)すなわちこの日本国に遣わす際、「三種の神器」を授けたとされます。つまり八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種です。

天照大神は、天孫降臨に当たってニニギノミコトに対し、八咫鏡について神勅を下されました。『古事記』には「此れの鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉れ」とまた『日本書紀には「吾が児(みこ)、此の宝鏡を視(み)まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし」と記されています。

三種の神器のうち、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、それぞれ祀られています。八坂瓊曲玉だけは神璽(しんじ)として宮中に安置されてきました。

また、分霊された鏡が宮中の天照大神を祀る賢所(かしこどころ)に奉安されています。剣の分身と曲玉は、天皇のお側近くに常に安置されていると伝えられます。

これら三種の神器は、代々の天皇により皇位の証として継承され、天皇が一日以上の行事に出かけられる時は、剣璽御同座(けんじごどうざ)といって剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)されるのです。

 

◆「知仁勇」の象徴

 

 我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきました。その過程で「三種の神器」を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れました。これを天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)でした。

 杉浦は、「真の人格者」と尊敬された偉大な教育者でした。杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、天皇の倫理を説く重任にあたりました。その際、ご講義のために書いたのが、『倫理御進講草案(三樹書房)です。(大正3年、1914)

 杉浦は『草案の序文において、御進講の基本方針を掲げます。

 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。

一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」

 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べます。

 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。

 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」

 ここには「神器」を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられています。

 

◆将来の天皇へのご講義

 

昭和天皇が受けた最初の講義は、「三種の神器」についてでした。

 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まります。

 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。

 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。

 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。

 「鏡・玉・剣」はそれぞれ、「知・仁・勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられています。もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまります。私は、「三種の神器」に込められた神意を体現するための道具として、儒教の概念が借用されたに過ぎないと考えます。

 

◆東西に共通する根本道徳

 

 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼります。

 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」

 

 杉浦は、「知仁勇」は四書の一つ『中庸から来ていることを述べ、「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとします。そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明しています。いわば、認識、体得、実行です。

 シナに続いて、杉浦は西洋について述べます。杉浦は、西洋における「知情意」は、シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示します。そして、「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義しています。

 このように杉浦は、「三種の神器」は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いています。説くところが世界大であるところに、浩然の気が感じられましょう。

 

◆「実践躬行」

 

 『草案の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記しています。

 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…

 凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。

 

 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。

 

 杉浦は、「帝王学とは」と聞かれ、「至誠の学問じゃ」と答えたと伝えられます。「至誠」については、『草案では吉田松陰の一節に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という孟子の言葉が掲げられています。「至誠」とは、ただ「実践躬行」によってのみ、体得・感化できるものと申せましょう。杉浦が、「至誠」の人、吉田松陰を深く尊敬していたことは、言うまでもありません。

 

◆忘れられた理想の想起

 

 倫理御進講とは、将来の天皇への御教育でした。天皇が自ら学び、実践すべき君主の倫理を明らかにしようとしたものでした。一方、国民には、明治天皇による「教育勅語」が、国民の倫理を示していました。(1)

 この「勅語」は、天皇が国民に道徳的実践を命じたものではなく、天皇自らが実践するから、共に実践しようと、国民に親しく呼びかけるものでした。「教育勅語」の末尾の部分には、次のようにあります。

 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶(こ)い幾(ねが)う」(私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを常に胸に抱いて、その徳を一つにすることを、心から念願します)と。

 

 天皇は、神意を体するために、神器が象徴すると解される「知仁勇」を「実践躬行」する。その天皇の呼びかけに応えて、国民は徳を養おうと努める。こうして君民が徳を一つにする道義国家を目指すところに、明治日本の理想があったと言えましょう。

 その忘れられた理想を想起すること。それによってわが国は、活力を取り戻し、より豊かな精神文化を生み出してゆくことができるだろうと、私は思うのです。

 

 以上、「三種の神器」について伝統的な解釈を紹介しましたが、「三種の神器」には、「知仁勇」というような道徳的な観念では、到底とらえられない、もっと深遠なものが象徴されています。時が来れば、その深遠な意味が一般の多くの人に知られるようになることでしょう。

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(1)教育勅語については、以下の拙稿をご参照下さい。

教育勅語を復権しよう

 

 

許して活かす〜明治維新に見る日本精神

2000.12.6

 

 激動の時代における変革には、殺戮・謀略などは避けられません。なまの人間がすることだからです。しかし、明治維新の犠牲者は、わずか2〜3万人程度と言われます。これに対し、フランス革命は、犠牲者200万人といわれます。ロシア革命に至っては、さらにこれに数倍すると見られています。中国の人民民主主義革命においては、日中戦争における死者よりも、内戦による死者の方が遥かに多く、その数は1千万人を超えると見られています。

 この違いは何処から来るのでしょうか。

 

 明治維新は白人列強がアジアを植民地にしてきたなかで、日本の独立を死守するための変革でした。日本人同士が分裂して争いを続ければ、必ず白人の介入・支配を受け、インドやシナ(清国)と同じ運命をたどるという危機意識があったと思います。それが、できるだけ流血を少なくして、非西洋世界で初めての大変革を成功させた原因にあると思います。

 

 徳川最後の将軍・慶喜は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇に返す道を選びました。世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、その後21人の子供をつくり、長寿をエンジョイしました。これは、フランス革命において、ルイ16世がギロチンで殺されたことと、対照的です。

 徳川家の宗主・家康を祀る日光東照宮も破壊されることなく、今日も多くの参詣者を集めています。

 

 慶喜の家臣・勝海舟も、維新後の時代を生き延びた一人です。海舟は、日本国のために、幕府に自ら幕を引かせました。とりわけ、列強につけいれられずに、日本の独立を死守するため、西郷隆盛と話し合い、江戸無血開城を実現したことは、世界史にまれな偉業です。江戸百万の市民が、それによって戦火から守られたのです。

 しかし、海舟は主君・慶喜に対しては、非常に申し訳なく思っていました。そして、徳川家の名誉を回復できるよう、尽力し続けました。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、明治天皇の拝謁を許され、温かいもてなしを受けました。慶喜は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。

 このことも、王族・貴族は子供まで惨殺されたフランス革命とは、大きな違いです。

 

海舟は西郷と話し合って江戸無血開城を実現したのですが、その際、重要な役割を果たした者に、山岡鉄舟がいます。鉄舟は、海舟の命を受けて単身、陣中の西郷に談判に行き、西郷に海舟の意思を伝えました。そして、西郷と勝海舟の交渉を実現し、江戸無血開城を成功に導いたのです。

鉄舟は、維新後、西郷・岩倉・勝らの切なる推挙により、明治天皇の侍従となり、教育・補佐にあたりました。鉄舟は賊軍の幕臣出身でありながら、天皇の養育を任じられたのです。

 

 幕臣の中には海舟らと意見を異にし、徹底抗戦の道を選んだ者もありました。彼らも侍だったからです。その一人榎本武揚は、最後の最後まで抵抗する道を選びました。本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし結局、敗れ、榎本は降伏しました。フランス革命であれば、当然、一族一味虐殺です。

 ところが、榎本と戦った官軍参謀・黒田清隆は、「日本の将来に欠くべからざる人物」だと惜しみ、榎本の助命に奔走しました。それが実って釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍しました。

 

 榎本の助命の影には、西郷隆盛がいました。西郷にとって、海舟のような猛虎を赦免しているのだから、ネコ程度の榎本の命をとるまでもないと、度量を示したのです。

 西郷は一時、新政府の中心、首相格の筆頭参議となり、善政を行いました。そのとき、西郷は薩長藩閥の枠をこえ、すぐれた人材は、旧幕府や敗北した藩からも登用しました。ジャコバンの指導者ロベスピエールが、反動派や意見の異なるものを次々に処刑し、恐怖政治を行ったのとは大違いです。

 

 西郷は薩摩勤王軍の先鋒として、荘内征討の軍を率いた人でした。荘内藩(現在の山形県)は徹頭徹尾佐幕に始終して、ある時には江戸の薩摩屋敷に焼打をかけ、遂には最後まで踏留れる佐幕派として、薩軍をその領地の入口にむかえてこれと戦ったのです。しかし、西郷は激戦ののち、敗者の立場を思いやり、極めて寛大な処置をしました。

 その武士の情けは、荘内藩士を感激させ、彼らは西郷に深い敬愛を抱くようになりました。『西郷南洲翁遺訓(岩波文庫等)は、西郷に接した荘内藩士によって伝えられたものです。荘内藩の子弟はこの遺訓によって訓練陶冶せられ、今日でも西郷は当地の人々の尊敬を集めています。

 

 西郷は、明治維新の最大の難事、廃藩置県を成功させた中心人物でもあります。西欧で廃藩置県のような「革命」をすれば、犠牲者数百万、争乱数年を避けられまいといわれます。それを「無血革命」で成し遂げたのが、明治維新です。そのとき旧階級である大名は、みな華族として身分・収入を保証され、旧家臣たちも、忠義が果たされ、安堵を得たのです。

 

 しかし、西郷はいわゆる「征韓論」で敗れ、政府官僚の腐敗を憤って、郷里の鹿児島に帰り、西南戦争が起こりました。それは明治政府最大の危機となりました。敗れた西郷は、「明治の逆賊」と言われました。

 しかし西郷は死後、明治天皇の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられました。東京上野には銅像が建てられ、今も「西郷どん」として国民に慕われています。(1)

 

 これらの事例は、フランス革命には、決して見られないことばかりです。ロシア革命と比較しても同様です。中国の人民民主主義革命と対比しても、そうです。明治政府は、旧敵に対して復讐せず、かつての反逆者・朝敵の粛清や訴追をしませんでした。その淵源は、国民を「大御宝(おおみたら)」と呼んで大切にしてきた神武天皇以来の皇室の伝統に求められます。ここには、おのずと、日本人固有の精神、「日本精神」が表れていると思います。(2)

 明治以降の日本は、維新において戦った同士が遺恨怨念を超えて、ともに近代国家の建設に努力してきました。明治維新後、最大の危機であった日露戦争では、国民は一つになって、この国難を乗り越えました。私達の父祖達は、そのように日本人として大同団結し、同じ国民として一つに結び、近代という困難な時代を生き抜いてきてくれました。そのおかげで、今日の日本が、私たちがあることを、感謝したいと思います。そして、わが国に伝わる共存調和の精神の素晴らしさを理解・継承していきたいと思うのです。ページの頭へ

 

(1)勝海舟・西郷隆盛については、以下の拙稿をご参照下さい。

江戸の町を救った武士道の精神

(2)天皇が国民を「大御宝(おおみたら)」としてきた伝統については、以下の拙稿をご参照下さい。

日本には、国の理想があるのだろうか?

なぜ日本の皇室は続いているのだろう

 

 

人権と日本精神

2000.10.25

 

 学校教育では、戦前の日本では、ひどく人権が軽視されていたというイメージが植え付けられます。戦前は人権という考え方が、今より遅れていたのは確かです。しかし人権という言葉は知らなくとも、昔の日本人は義理・人情をもって、助け合う生き方をしていました。ただ戦前の日本は今に比べると非常に貧しかったので、貧困に伴う悲しい話はたくさんあったのです。「日本精神」だから人権が軽視されたという事とは違うと思います。それに、戦前は世界全体が遅れていました。先進国のアメリカでさえ黒人が人種差別を受け、イギリスはインド人を奴隷同然に扱っていたのですから。

 

 人権に関して、20世紀最大の出来事はなんでしょうか。私は、白人による植民地支配がなくなったことだと思います。それで初めて、有色人種も、基本的人権を保護されるようになったのです。

 この過程で日本は、大きな役割を果たしているのです。日露戦争で日本がロシアに勝ったことが、白人の植民地支配を突き崩しました。このことが有色人種に解放への希望をもたらしたのです。また、第1次大戦後のパリ講和会議で、日本代表団は、史上初めて人種平等案を提案しました。票決は賛成多数でしたが、議長のウィルソン米大統領が全会一致でなければ無効としました。アメリカの黒人たちの期待は、大統領によって裏

切られたのでした。黒人たちが公民権を得たのは、はるか後の1960年代のことでした。

 

 大正時代の日本では「大正デモクラシー」というように、立憲議会主義が定着しつつありました。大正2年には、尾崎行雄代議士が弾劾演説によって、桂内閣を倒したほどで、日本は英国流の議会政治に近づきつつあったのです。普通選挙の実現も、日本は世界で指折りに早かったのです。収入に関係なく成人男子に選挙権を与えるという、当時の世界では最も進んだものでした。人権についての意識も段々発達しつつあったので

す。

 ところが、国際情勢が厳しくなると、昭和5年頃から軍部が台頭し、段々、統制が強くなっていったのです。特に12年のシナ事変以降、独伊のファシズムを模倣した政策が推進されました。大東亜戦争では、「日本精神」という言葉が、軍部によって盛んに利用されました。内容は戦意発揚・国策遂行的なものでした。そのため戦後、「日本精神」と聞くと、軍国主義を連想する人が多くなってしまったのです。しかし、それは本

来の「日本精神」とは違うのです。

 

 本来の「日本精神」は、誠実・勤勉・正直、礼儀正しく、親切な心なのです。和を大切にし、相手を思いやる精神なのです。明治生まれや大正生まれの人には、そういう「日本精神」を持っている人がたくさんいます。

 それが証拠に、台湾の開発に尽くした先人・先輩たちは、台湾で「日本精神」を伝え、それで今なお感謝されているわけでしょう。ブラジルの日系人も、昔ながらの「日本精神」を持ちつづけています。私たちが取り戻すべきは、そういう日本人の心だと思います。ページの頭へ

 

参考資料

・ビデオ『新台湾と日本(明成社)

・ビデオ『天皇陛下とブラジル(明成社)

 

 

台湾に生きる「日本精神(リップンチェンシン

2000.7.14

 

 台湾は、戦前50年間にわたり、日本の領土でした。当時、台湾で日本人から教育を受けた人に、蔡焜燦(さいこんさん)氏がいます。蔡氏は現在、ハイテク企業等、数社を経営する台湾財界の著名人です。氏は、次のように語っています。

 

 「私の経営理念の根底には、日本統治時代の教育精神がありました。日本人の教師たちは、われわれ台湾人に『愛』をもって接し、『公』という観念を教えてくれました。

 私は、会社経営にあたっては、常にこの『日本精神』で臨み、『大和魂』で艱難辛苦を乗り越えてきました。それは、きっとこれからの台湾の国づくりにも不可欠の精神だと思います。

 日本の台湾への最大の贈り物は、この精神を残してくれたことです。公の意識とそれに殉ずる精神、武士道の心です。今、私たちはこのサムライ精神で大陸と対峙し、台湾人のための台湾づくりに向っているのです。

 『日本精神』は台湾語で『リップンチェンシン』と発音し、これはすべて良いものという意味の普通名詞となっています」 (『日本の息吹平成12年6月号)

 

蔡氏と同じく台湾人の金美齢氏は、「日本精神」とは、次のようなものだと言います。

 

 「台湾における『日本精神』は、勤勉、向学心、滅私奉公、真面目、約束事を守る、時間を守るといった諸々の価値を包括している。それはたとえば『この人は日本精神″で店を経営している』と言われる商店主は、大いに信用できるということなのである」(月刊『日本 平成10年5月号)

 

蔡焜燦氏には『台湾人と日本精神〜日本人よ胸を張りなさい(小学館)という著書があります。この本は、戦前の台湾で、日本人がいかに立派なことを行ったかを、台湾人の立場で記しています。そして、台湾の人々が、日本統治時代に日本人から教育された「日本精神」を、今日も大切に持ち続けていることを伝えています。

 

蔡氏は本書で、次のように書いています。

「かつての祖国・日本の若者たちよ、あなた方の先人たちは実に立派であり、いまも台湾の地で『日本精神』が崇敬されている事実の語るところを君たちの後世に伝えられよ。そして、自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りを持って堂々と胸を張って未来に雄雄しく羽ばたいてほしい。『日本人よ、目覚めよ、そして自分の国を愛しなさい!』 これは"元日本人"からあなた方に送る激励のメッセージである」

 

 日本精神で経営を行ってきたという元日本人・蔡焜燦氏が、日本精神を説く言葉には、確かな重みがあります。近年、破綻に陥った雪印やそごう等の企業の経営者に欠けていたもの、そして混迷する日本の社会を変えるために必要なもの、それは、私たちの先祖・先輩が持っていた「日本精神」なのではないでしょうか。ページの頭へ

 

参考資料

    日本精神復興運動本部のホームページ

 「真の日本精神は、世界を変える

 

 

マンガ『台湾論と日本精神

2000.10.21

 

 台湾では、「日本精神」とは、誠実・勤勉・礼儀・約束を守る・公共心などを意味する最高に良い言葉だそうです。それは、戦後の私たちが失った心なのです。

 

◆小林よしのり氏の『台湾論

 

 平成12年、人気漫画家・小林よしのり氏は、単行本『台湾論(小学館)を出しました。

 小林氏は、台湾へ行き、前総統・李登輝氏、現総統・陳水扁氏と対談しました。その模様が本書に描かれています。また、蔡焜燦氏をはじめ日本を愛する台湾のリーダーたちが、多数登場します。

 

 そこに出てくるキーワードが、「日本精神」です。数えてみたところ、21回、「日本精神」という言葉が出てきます。主な個所を挙げてみます。

 

 「日本の歴史はここ台湾の地で凍結して、そのまま残っている。かつて日本の植民地時代に青春を送り、『日本精神』を宿した者たちが、世界から正式な国として認知されず、日本から見離され、どうせ中国に吸収されるだろうと高を括られながらここまで戦ってきたのだ」

 「李登輝氏はこう言った。『あまりにも横暴で汚職ばかりがまかり通る統治に台湾の本省人たちはじっと耐えた。我慢した。それは日本の教育を受けていたからだったんですね』 やがて人々は誰言うとなく『日本精神』(リップンチェンシン)と囁くようになり昔を懐かしむようになった」

 

◆台湾のリーダーと日本の政治家・マスコミ

 

 「神は台湾を見捨てなかった。『日本精神』を体現した男が、すでに帰台して頭角を現すのを待っていたのだ」

 

 それが李登輝氏であると、本書は書いています。

 「李登輝氏のリーダーとしての資質の原点に、農業を学問として究めたスペシャリストとしての一面と、日本精神の継承者という一面がある」

 

 李登輝氏は、戦前、京都帝国大学に学び、陸軍少尉として日本軍に入隊しました。新渡戸稲造の『武士道を愛読し、「公」の精神を持って、台湾の発展に尽くしてきた人物です。そこに、日本で学んだ日本精神が、生かされているというわけです。

 

 これに比べて小林氏は次のように述べています。

 「今の日本人に特に政治家とマスコミに『日本精神』のカケラもないことは、明白だ。森総理が『日本は天皇を中心とする神の国』とサービストークしただけで、やつらは『戦前に戻す気か』と大騒ぎしている。…やつらは日本の神の概念と西洋のGOD=一神教の概念の違いすら全くわかっていないのだ」

 

◆台湾に生きる日本精神

 

 さて、小林氏は、台湾の庶民について、次のように書いています。

 「日本に来た外国人の日本人に対する印象の第1位は『親切』である。それは日本人の美徳であって誇っていい。台湾の庶民にもやっぱり『日本精神』は受け継がれているとしか思えない。台湾で店に入ると『根が善良な人たち』が一生懸命、サービスしようとする。商売根性だけの人がうわべだけでサービスしている感じが全くない」

 

 李登輝氏の側近・膨栄次氏は言います。「台湾語に『あさり』という言葉がある。日本語でいさぎよいこと…つまり『あっさり』が台湾語として残ったものが『あさり』だ! 

『あさり』という言葉は、そのまま台湾語でホメ言葉になっている! 『あさり』は日本が台湾に残した日本精神(リップンチェンシン)なのだ!」

 

 これを受けて、小林氏は「あとがき」に次のように書いています。

 「『あさり』という言葉を今も誉め言葉として残すという台湾の『日本精神』に、日本の若者も触れるチャンスが訪れることを祈る」

 

 小林よしのり氏の『台湾論、また蔡焜燦氏の『台湾人と日本精神は、私たちに、日本人とは何か、日本人はどう生きるべきかを考えさせてくれる本だと思います。 ページの頭へ

 

参考資料

    拙稿李登輝は『日本精神』の復興を訴えている

参考資料

    日本精神復興運動本部のホームページ

 「真の日本精神は、世界を変える

 

 

 「日本精神」こそ世界の指針〜李登輝

2006.6.5

 

「『日本精神』こそ世界の指針」と題した前台湾総統・李登輝氏の寄稿が、月刊誌「VOICE」平成18年5月号(PHP研究所)に載った。
 その導入部で、李氏は「武士道とは人類最高の指導理念」と書いている。この導入部は、平成14年11月、日本政府が許可しなかったため実現しなかった慶応大学での講演のために書かれた原稿とほとんど同じ内容である。
 その原稿については、別稿「李登輝は『日本精神』の復興を訴えている」で紹介した。
 
 李氏の言わんとすることを要約で示すと、「日本および日本人特有の精神」とは「大和魂あるいは武士道」である、「グローバライゼイションの時代」に「武士道という最高の道徳規範」を持っている日本人は、ゆるぎない経済活動を行なえる、この道徳規範は「日本人だけでなく、世界にとってもきわめて貴重な財産」である、現在世界には「各地において危険な動きが増大」しており、「世界同時不況の予兆」も高まっている、このような危機的状況を乗り切っていく「精神的指針」として武士道を挙げたい、武士道とは「人類最高の指導理念」である、しかし「世界がいま最も頼りとするべき日本では、武士道も大和魂も1945年の終戦以降は、ほとんど見向きもされず、足蹴にされてきた」、今日の日本の諸問題は「戦後の自虐的価値観と決して無関係ではない」、武士道の否定は「日本人にとっては大きな打撃だった」し、同時に「世界の人々にとっても大きな損失であった」、と李氏は書いている。

 今回の寄稿記事は、こうした前置きに続いて、新たな内容を書いている。それを次に、見てみたい。
 「武士道とは日本人の精神であり、道徳規範である」と述べる李登輝氏は、「それはたんに精神、生き方であるだけでなく、日本人の心情、気質、美意識であるといってよいと思います。さらにいえば、勇気や決断力の源泉になるものであり、そして生と死を見つめる美学、哲学であるともいえます」という。
 李氏は戦前、日本統治下の台湾で教育を受けた。「当時の日本の教育システムはじつに素晴らしいもので、古今東西の先哲の書物や言葉に接する機会を、私たちにふんだんに与えてくれるものでした」といい、「『人間はどのように生きるべきか』という哲学的命題から『公』と『私』の関係についての指針が明確に教えられていました」と書いている。
 こうした日本の教育は、教育勅語に盛られた理念・道徳に基づくものだった。教育勅語の内容を具体的に教えたのが、「修身」という科目であり、「修身」は、李氏の言う「『人間はどのように生きるべきか』という哲学的命題から『公』と『私』の関係についての指針」を「明確」に教えるものだった。李氏はこのことには、触れていない。

 李氏が述べるのは、このような教育を受ける中で出会ったという新渡戸稲造の著書『武士道』である。そして、李氏は、本書を通じて日本精神を理解している。李氏のとらえる日本精神は、そのかなりの部分を、本書によっている。そこに特徴と傾向が出ている。
 さて、李氏は、「世界に誇る日本精神の結晶というべき『武士道』」について、新渡戸の論を次のように理解している。武士道の形成は、「日本で営々と積み上げられてきた歴史、伝統、風俗、習慣があったからこそ」であり、儒教の影響も挙げられるが、「中国文化の影響を受ける以前からの、大和民族固有のもの」である、と。
 そして、李氏は、「彼(新渡戸)によって再発見された『武士道』は、日本人の“不言実行あるのみ”の美徳であり、『公』と『私』を明確に分離した『公に奉じる精神』といってもよいでしょう。もちろんそれは中国文化とはまったく異質なものです」と述べる。

 台湾において、日本人の統治とシナ人の統治、日本の文化とシナの文化、日本の精神とシナの精神の違いを、身をもって理解してきた李氏ならでは、視点だと思う。日本人の多くは、書物を通じてシナの思想を日本的に翻訳して理解している。だから、日本人が理解しているシナの思想は、日本人流の理解であり、日本の文化・精神とシナの文化・精神の違いは、強い対比になっていない。だから台湾人である李氏の比較文化的な発言は、貴重なのである。
 さて、李氏は、さきほどの引用に続けて、次のように書いている。「ここで注目すべきことは、この『武士道』には教義も成文法もないということです。あるものといえば、有名な武士や学者のわずかな格言などだけなのですが、これはいったい何を意味しているかといえば、それほどまでに『武士道』が、日本人の血となり肉となって定着していたということでしょう」と。
 この発言は、大意はよいが、「教義も成文法もない」「わずかな格言などだけ」という文言は、少し誤解を生むかもしれない。

 武士は、成文法として『御成敗式目』という日本独自の武家法をつくった。それが江戸時代まで教養の一つともされ、寺子屋などでも使われた。また武士道は宗教ではないので教義ではないが、例えば、江戸時代に広く学習された山鹿素行の『武教全書』など「わずかな格言だけ」どころか、体系的な理論かつ実践の書であり、簡単に読み通せないほどの量の文書である。
 それゆえ、李登輝氏が、武士道には「教義も成文法もない」「わずかな格言などだけ」と言うのは、誤解を生じやすい点ではある。それはともかく、武士道が単なる知識・教養ではなく、「日本人の血となり肉となって定着していた」という大意は、李氏のいうとおりである。
 そして、武士道は「日本人の血となり肉となって定着していた」ととらえる李氏は、次のように言う。「そうであるからこそ私は、終戦後における日本人の、価値観の百八十度の転換を非常に前年に思うのです。今日の日本人は一刻も早く戦後の自虐的価値観から解放されなければならないと思うのです。
 そのためには日本人はもっと自信をもつことです。かつて武士道という不文律を築き上げてきた民族の血を引いていることを誇るべきなのです。そうすることで初めて、日本は世界のリーダーとしての役割を担うことができるのです」と。

続いて、李登輝氏は、祖国台湾について、次のようにいう。台湾は「海洋国としての歴史コース」を歩んできた、先住民であれ漢人の移民であれ「海洋的色彩の強い文化をもっていた」ことが推測できる。そして「同じ海洋国家である日本の文化が台湾に入ってきたとき、台湾人は瞬く間にそれを吸収」した、「それに反して」大陸的な「中国文化が結局根付かなかったのもそのため」ではないか。その他の要素も作用して、台湾には日本の統治時代に「武士道としての日本精神」が根付いた。そして、それがあったからこそ、「台湾は戦後の中国の大陸文化に完全に飲み込まれることなく、抵抗できた」といえる、また「戦後の近代社会が確立された」ともいえる、と。

 しかし、戦後台湾は中国化政策のなかで、中国文化による悪弊を逃れることが出来なかった。「社会には公私混同や実利主義の横行、モラルの低下といった悪弊が蔓延し、大きな問題となって」いる。これは、「台湾のアイデンティティの喪失が大きく影響している」。「日本の終戦後の自己否定、つまり伝統文化の否定から来る価値観の混乱とまったく同じ状況」である、と李氏は言う。

 そこで李登輝氏は、「相当就任以来、積極的に『心霊改革』を提唱」してきたと言う。「心霊」というとわが国では、心霊現象などと使われるが、李氏のいう「心霊」とは「精神」のことだと言う。心霊改革とは、「心霊」つまり「精神」を「変革することによって社会を古い枠組みから脱出させ、そして新しい発想で新しい活力をどんどん生み出そうということ」だと李氏は言う。現代日本で使われる言葉で表せば、意識改革または「精神の改革」ということになろう。

 私は、「改革、改革」と言い続けている日本の政治家に対し、あらゆる改革は「精神の改革」なくして成功しないと考え、そう発言してきた。根本的な思想・態度・生き方が変わらなければ、行政や財政、教育、医療など個々の課題の改革に取り組んでも、中途半端なものに終わる。そして、根本的な思想・態度・生き方が変わらなければならないのは、改革を立案・指導する立場にある日本の指導層なのである。自らの「精神の改革」なくして、日本は変わらない。

 この点、台湾の生んだ李登輝という指導者は、「精神の改革」が最も必要であることを把握し、率先している人物と見える。
 李氏は、「知識人は『理性』ばっかりで『実践』が見られない、つまり理屈ばかりをこねて一向に行動を起こさない傾向が目立ちますが、この改革(=心霊改革、精神の改革)はまず実践あるのみなのです」と言う。そこで、と李氏が持ち出すのが、「新渡戸稲造先生の『武士道』」なのである。
 「私は『公』の精神を主軸に台湾人のアイデンティティを確立していくためには、この一書をテキストにするのがいちばん良いと考え、実際にこれを用いて台湾各界の人々に『公』と『私』の問題を語っているところです。そのようにすることによって、かつて日本の『武士道』に学び、現在も台湾人の心に潜在しているはずの台湾精神を呼び戻せるはずだと考えているのです」と李氏は述べる。
 そして、李氏は続ける。「同じように日本人に対しても、あらためて『武士道』を見直し、かつての民族的な自信、誇りある日本人のアイデンティティを取り戻してほしいと思います。私は余生を台湾に捧げることを決意しておりますが、それと同時に日本を励ますことも、自らの使命だと考えているのです」と。

 私は、李登輝氏は一国の最高指導者のあるべき姿を深く自覚している傑出した人物だと思う。李氏は、「日本精神こそ世界の指針」と言い、また武士道を「世界に誇る日本精神の結晶」と述べる。そして、武士道を自国及び世界を指導する者の実践における指針ととらえている。日本の政治家、経済人、学者は、李氏の志に学んで、切磋琢磨すべき点が大いにあると思う。
 ただし、私見を述べるならば、文中に書いたように、わが国の武士道の伝統には、李氏がとらえている以上の広がりや深さがある。また戦前、李登輝氏が受けた日本の教育は、教育勅語に基づくものであった。「修身」を通じて、日本人の精神が養われた。さらに日本の「公と私」の問題についても、台湾人・李氏が多くは語らないわが国の天皇を中心とした国柄を知らずして考えることはできない。 

 外国人が理解した限りでの「武士道」と、わが国に自生し、継承されてきた「武士道」の違い、外国人が感得した限りでの「公の精神」と、日本人が実践してきた「公の精神」の違いは、当然ある。私たちは、李氏という偉大な友人の呼びかけに応え、日本人自身として、日本精神について深く考えたいと思う。そして、わが国の精神的伝統の価値を再発見し、わが国の再建に、また世界の平和と発展に生かしていくべきと思う。

参考資料
・武士道については、以下の項目の拙稿をご参照ください。
 「武士道
・「公と私」の問題については、以下の拙稿をご参照ください。
 「日本の公と私

 

 

■世界を救う日本精神〜藤原正彦

2006.6.5

 

藤原正彦氏の著書『国家の品格』(新潮新書、平成17年11月刊)が売れ続けている。新書で200万部を超えたのは、過去最速だという。
 本書のいわんとするところは、書籍案内がよく表わしている。「日本は世界で唯一の『情緒と形の文明』である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき『国柄』を長らく忘れてきた。『論理』と『合理性』頼みの『改革』では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、『国家の品格』を取り戻すことだ。」と。

 こうした主張が本書では明快でわかりやすく説かれている。指摘が的確でしかも深い。随所に独創的な視点が見られ、ユーモアにも富んでいる。なかでも私は、武士道精神の復活を訴えていることに強い共感を覚える。その点に照準を合わせて内容を要約するならば、次のようなまとめができよう。
 西洋近代文明の特徴は、論理と合理である。しかし、それだけでは、物事はうまくいかない。数学は、不完全性定理によって、論理の限界を明らかにしている。実は論理の出発点は情緒や形なのである。情緒や形の核となる美意識や道徳観は、わが国では武士道に集約される。戦後、国家の品格を失ってきた日本が、国家の品格を取り戻すには、卑怯を憎む等を教える武士道精神を教育することが重要である。

 私は武士道を日本精神の精華だと考えているが、『国家の品格』は武士道と日本精神の関係について直接触れてはいなかった。藤原氏の近著『この国のけじめ』(文藝春秋)は、この点に言及している。「世界に誇りうる日本人の規範意識」と題した文章においてである。(産経新聞平成15年7月30日号に初出)

 それによると、藤原氏の父親は、幕末の下級武士の家に生まれた祖父から「泥棒の中でも火事場泥棒ほど恥ずかしいもものはない」と繰り返し教えられたそうである。火事場泥棒とは、火災の混乱に乗じ、困り果て途方に暮れている人間につけこみ、物品を奪うという行為である。日本人は、こういう行為を卑劣なものと考える。

 昭和20年8月9日、ソ連は、日本が対米戦争で気息奄々(えんえん)となった機をとらえ、満洲等に攻め入った。虐殺・略奪を重ねたうえ、2百万人ともいわれる日本人をシベリアに強制連行し、抑留酷使した。イラク戦争では、バグダットが陥落したころ、爆撃で壊された店舗や、もぬけのからになったビルから、人々がさして悪びれもせず物品を運び出す。そういう略奪をテレビで見せつけられた。
 これに比べ、わが国では、阪神大震災のとき、そのようなおぞましい行為が見られなかった。「火事場泥棒を、とりわけ卑劣なものと考える我が国の美風が、まだ残っているということである」と藤原氏は書く。そして、次のように続ける。

 「泥棒も火事場泥棒も法律的には等しく窃盗である。論理的には同等でも後者のほうが罪深いと日本人は考える。『他人を騙して金をとる』と同じ詐欺であっても、『年寄りや弱者を騙して金をとる』は格段に罪深い。卑劣とか卑怯がなぜいけないかは、論理的にはほとんど説明できないが、日本人はそう考える。
 このような日本人の規範感覚は、武士道精神に根差している。この精神は、鎌倉時代に『弓矢とる身の習い』、すなわち戦(いくさ)における掟として成立したが、平和の長く続いた江戸時代には精神にまで洗練され、小説、芝居、講談などを通して町人にまで広まったから、日本精神と呼んでよい。誠実、慈愛、惻隠、忍耐、名誉、孝行、公の精神などを重んじ、卑怯を憎む精神である」

 藤原氏は、このように武士道が精神にまで洗練され、国民全体に広まったものを、日本精神と呼ぶ。そして、次のように説く。

 「世界はいま、混迷の中にある。この世界を救う手立てとして、日本精神がきわめて有望と思う。人類を不幸にするに違いない、行き過ぎた市場経済に対しては、大きな者が小さな者をやっつけるのは卑怯、という感覚が歯止めとなる。社会を不安定にするリストラには慈愛や惻隠が役立つ。はびこる個人主義や利己主義には公の精神を、横行するいじめには卑怯を、子供の万引には『親を泣かせる』とか『お天道様が見ている』を、教えるのがよい。不正や不道徳な行為に対しては名誉や自制が抑止力となる。環境問題には自然への畏怖が役立とう。
 天正の遣欧少年使節も明治の留学生たちも、この日本精神ゆえの品格で世界の人々を印象づけた。日本精神を規範とした江戸の社会は当時、世界でもっとも優れていた、と最近になって英国の学者たちが注目している。現代日本人が、この精神をしっかり取り戻し立派な社会を作れば、いまなお論理合理を金科玉条としている世界の多くの人々も、必ずや覚醒するだろう」

 日本精神は「世界を救う手立て」として「きわめて有望」と言う藤原氏は、日本精神に内在する可能性を言い当てている。
 日本精神とは何か。さらにその神髄に触れたいと思うならば、大塚寛一先生の著書が、最良の導きとなるだろう。本書『真の日本精神が世界を救う』(イースト・プレス)は、真の日本精神こそ、日本を再建し、世界を救う指導原理であることを、理論的かつ実証的に明らかにしている本だからである。
 詳しくは、以下をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/d/20060522

 

参考資料

・拙稿「『国家の品格』と武士道精神」

 

 

 

■日本精神の宗教的表現としての神道

2005.10.7

 

わが国は、四季の変化に富んだ豊かな自然のなかで、自然崇拝・祖先祭祀をともにする共同体が、天皇を中心として集合し、一大家族のような社会を構成してきた。

 この社会に自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる「日本精神」である。 また、その宗教的な表現が、神道である。

 

◆最高神としての天御中主命

 

 神道は一般に多神教といわれる。そう思っている人が多いだろう。学者・有識者の中にもそう言う人が多い。

 宗教学にいう有神論と無神論、一神教と多神教等の分類は、もともとキリスト教を基準としている。そこには、唯一的な超越神、男性的な人格神を、価値的に上のものとする価値判断が入っている。この分類によると、神道は多神教だとされる。

 

 わが国では古来、何かしら尊いもの、偉大なものに触れると、それを「カミ」と呼んで崇めたり、畏れたり、親しんだりしてきた。それが自然の事物や現象だったり、人間の霊魂だったり、生きている人間だったり、対象はさまざまである。何でも「カミ」になってしまう。まさに多神教である。

 確かに一面でそのとおりなのだが、多神の間の相互関係をどうとらえるかによっては、奥深い話になっていく。神道が、単なる多神教ではないことを示唆するものがある。天御中主命という観念である。

 

 天御中主命は、『古事記』の冒頭に現れる。「アメノミナカヌシ」。名前の通り、宇宙の中心に存在する神である。

 この神は、記紀が編纂された時代に、シナの道教の道・太極・陰陽の思想にあわせて、人工的に作られたものではないかといわれている。名称は、天の中心にあってすべての星々がその周りを回り、それ自体は不動である北極星を連想させる。シナの天上皇帝や北辰信仰に通じるものかもしれない。歴史的には鎌倉時代の度会家が創始した伊勢神道、江戸時代の平田篤胤による復古神道など、様々な神道思想の中で、天御中主命は宇宙の中心の神、最高神として崇拝されてきた。

 この神を根源的・原理的な神ととらえ、宇宙の根本理法であり、かつ万有権現の原動力を象徴したものととらえる見方が可能である。そして、皇祖神・天照大神を含む八百万の神々は、すべて天御中主命という本源の神の現れと位置づけることもできる。

 

◆一即多、多即一の論理

 

神道は、アニミズムだとも言われる。アニミズムは精霊信仰、霊魂信仰などと訳される。人類学者のタイラーは、アニミズムを「霊的存在に対する信仰」と定義し、宗教のもっとも単純で原始的形態とした。そして素朴なものから複雑なものまで宗教はすべて、なんらかの形でアニミズムを含んでいると主張した。

 彼は、原初形態としてのアニミズムから段階的に一神教に進化したのだと考えた。最初は「すべて(All)」だったのが、「たくさん(Many)」に減り、最後は「ひとつ(One)」になった。しかし、「ひとつ」だけはあったはずが、それもどこにいるのかわからなくなった。それが、西洋の近代人である。精霊も妖精も消えてしまい、祖霊のことも忘れ、Godのことも信じられなくなった。一神教は、かくして無神論にいたった。こうして近代人は精神を病んだり、悪夢にうなされたり、攻撃性を自他に向けたりしている。これでは「進化」ではなく、精神的には「退化」である。

これに対し、タイラーの考え方から「進化=進歩・向上」という価値判断を除いて価値相対化すると、宗教のさまざまな形態は、アニミズムの特殊化・多様化であると考えることもできる。 つまり、アニミズムの特殊な形態が多神教であり、さらに非常に特殊な形態が一神教だという見方である。一神教の文明やそれを否定した無神論の社会でも、アニミズム的な基層の文化は決してなくならない。ユングの研究はそのことを明かしている。このように考えると、失ったアニミズム的な感覚を取り戻すことが、より豊かな精神世界を現代人にもたらすだろう。ただし、近代化を経た後の人間は、原始未開の時代のアニミズムにそのまま戻ることはできない。

 

 そこで現代的な観点に立って、一神教か多神教ということに話を戻すことにしよう。多神教は広義では、アニミズムを含める場合があるので、ここではアニミズムも含めて、多神教と呼ぶことにする。先ほど「カミ」について書いたが、仮にそれを天御中主命という名前に置き換えれば、自然の事物や現象、人間の霊魂や生きている人間もみな「カミ」と呼ばれるものは、天御中主命という本源の神の現れだというとらえ方となる。すると、わが神道では、「多」であるところの神々は、「一」であるところの本源の神の現象または姿ともいえる。「多」の相を見れば多神教的だが、「一」の源を思えば一神教的でもある。

 こうした関係は、唯一男性神を基準におく「一」か「多」か、という単純な形式論理ではとらえられない。また、「有」である神の運動を根本においた、ヘーゲル的な「有」の弁証法でもとらえられない。

 そこで、しばしば哲学者や宗教学者によって、西田哲学の場所的論理が援用されるわけである。西田哲学とは、西田幾多郎の哲学のことであり、難解で有名である。西田の場所的論理とは、「一即多、多即一」「絶対の無即有」という論理である。そこに、一神教でもなく多神教でもなく、また一神教でもあり多神教でもあるようなものにアプローチする手立てがあると思う。

 

◆無にして有、ゼロにして無限大

 

 天御中主命は、ユダヤ=キリスト教的な「有」の神ではありえない。また、宇宙をその外から製造したり、人間の世界に介入する人格神でもない。

 「有」の世界にある私たちには、見ることのできない「無」の神である。しかし、存在しないのでない。相対の次元にある私たちには対象化できない、絶対の次元そのものを象徴するものと思われる。

 私は、有形的な「一」というより、無形的な「ゼロ(0))」にしてかつ「無限大(∞)」といった限界概念だと考えている。

 仏教にいう「空」にあたるだろう。言語や論理を超えている。しかし、まさにそれによって、自己があり、世界がある。

 点とは位置だけあって、面積のないものと定義される。「有」だが「無」でもあるわけである。小学校で使ったものさしがある。ものさしの長さは、30センチだが、その中には何個の点が入るか。無限大に入る。「有」でもあり「無」でもあるものが、有限の中に無限大にある。

 不思議な世界である。それが、私たちが生き、死にしている、この世界である。

 

 上記のように考えると、天御中主命を本源の神とする神々の体系についても、一神教か多神教かというような単純な論理ではとらえられない。むしろ大変高度な世界観を表現したものと思う。

 天御中主命を「カミ」に置き換え、『古事記』や神道の諸派から切り離して考えることも可能である。

 日本人が古来、「カミ」と呼んで崇め、畏れ、また親しんできたものは、一神教でも多神教でもとらえられない。一神教も多神教もみなそこから湧き出てくるところの本源、絶対の次元を象徴するものと考えられるわけである。

 

◆天照大神と本源の神

 

 一般に日本の神話では、天照大神が中心と考えられている。天照大神は太陽神であり、また皇室の祖先神とされる。高天原の主宰神と描かれている。それゆえ、神道の最高神とする考え方がある。

 ただし、記紀においては、天照大神はイザナギ・イザナミの男女二神から生まれたと記され、イザナギ・イザナミには、またその祖先となる神々があるとされている。

 『古事記』の場合は、天御中主命を筆頭とする天神七代の系譜に、イザナギ・イザナミが現れる。天照大神は父神イザナギから生まれた娘と位置づけられている。つまり、神々の系譜では、かなり後の代に現れた神なのである。そのため、天照大神を神道の神々の体系において、中心・最高の神とするには、無理がある。系譜上、そのまた元があるためである。

 記紀には天御中主命・タカミスビ・カミムスビで造化三神、またはタカミスビ・カミムスビでムスビニ神とする記述がある。その一相であるタカミムスビ(タカギノカミとも)が、天照大神に助力を授けている記述もある。この点からも、天照大神を始源神とはなしえないことは明らかである。

 

 天照大神は、日本民族の諸氏族の氏神の中の最高位ではある。その意味では最高神である。神道を民族宗教という範囲で考えるのであれば、それでよいだろう。しかし、神道を単なる民族宗教でなく、宇宙的・哲学的な本質をもつものととらえる場合は、天照大神は、中心・最高の神には不適格となる。宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力を象徴した神では、ありえない。

 タカミムズビ、カミムスビ、イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ・オオモノヌシ等も、同様に、本源の神とはできない。これらの神々もまた、なにものかの現れまたは作用であって、本体そのものを象徴してはいないからである。

 この点で、神道思想のうち、天御中主命に注目する見方は、神道を普遍性のある世界宗教のひとつとして発展させる可能性を開く。この場合、天照大神は、本源の神である天御中主命の現れであり、人格神として誕生し、ニニギノミコトをわが国に遣わし、皇室の祖先となり、民族の中心となったと位置づけることができる。ほかの神々、諸氏族の氏神等も、みな本源の神の現れであり、天照大神を中心とした一大親族のような関係となっている。

 

◆民族宗教から世界宗教への可能性

 

 原理的には、天御中主命と、ユダヤ=キリスト教のヤーウェ=エホヴァ、イスラムのアラー、ヒンズー教のブラフマン等とは、一体異名と考えられる。神を宇宙の根本理法にして万有顕現の原動力と考えれば、神はひとつだからである。このように考えると、一神教といわゆる多神教との戦いも、一神教どうしの戦いも、人間が勝手に神の名において争っているだけである。

そのうち、日本の神道のように、世界の神々が一大親族のように結び合って帰一していく時代がくるだろう。そのときの構造は、一神教でもなく多神教でもない、「一即多」「多即一」の神道的な構造になるだろうと思う。その前に、人類が自滅しなければの話であるが。

 

従来の神道は多神教的であり、アニミズム的である。神道の中にある一神教的な次元について考える人は、少ないだろう。全国にある神社は、8万社といわれる。そこにさまざまな神が祀られ、時々の祭りが行われている。こういうあるがままの現実が神道であり、また日本の文化である。

ただ神道が今のままで止まっていたら、単なる民族宗教で終わるだろう。その中にある価値は、日本文明以外の文明や、人類社会に生かされることなく、封じられたままとなるだろう。ユダヤ教は、イエスが出るまでは、まったくユダヤ民族の民族宗教でした。今もユダヤ教徒は、まったくユダヤ的である。しかし、その中には、キリスト教という世界宗教が生まれ出てくるような潜在力があったわけである。

 私は今日の世界において、神道の本質を掘り下げ、その中にある潜在力を発揮することが、もしできれば、地球環境の保全や国際社会の共存共栄に資するものとなれる、そういう可能性が神道には眠っているように思う。言い換えれば、日本の精神文化の中には、そういう可能性が潜在しているように思うのである。それを生かすことができれば、日本の再建もできるし、世界の平和・繁栄にも貢献できる。生かすどころか、見出すことさえも出来なければ、日本という国と文明は、段々沈み、溶け、消滅していく。どちらかであろう。

 今日、外国人の有識者で神道に注目する人々が、次々に現れている。日本人自身が、日本精神の宗教的表現である神道と、その中に潜む偉大な発展力に目を向けるべき時である。(註)

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・神道に注目する外国人については、以下の拙稿をご参照ください

 「20世紀の知の巨人達が神道に感動

 「明日への挑戦は神道への復帰〜トインビー

神道イストを自称したJ・メーソン

ジェルマントマは『日本を待望する』」

いにしえに帰るニュートレンド〜ピッケン

 

 

 

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