第1章 シナにおける道と徳
(1)古代シナの天命思想
道と徳は、古代のわが国にシナから文化が流入してきた際に、漢字の文献とともに伝わった観念である。わが国における道と徳について考えるには、シナの思想を概観することからはじめるのがよいだろう。
儒教の五経の一つ『詩経』には、周の時代を中心とした詩歌が編纂されている。『詩経』には、わが国の神道に似た自然崇拝と祖先崇拝が歌われている。
自然崇拝とは、天神地祇への信仰である。天という宇宙的な人格神、また社稷(しゃしょく)つまり土地の神(社)、と五穀の神(稷)等を祀るものである。
祖先崇拝とは、鬼神を祀るものである。鬼といっても、「オニ」ではない。亡くなった祖先の霊のことである。祖霊は、近くに存在するものと考えられ、祖霊に供え物をして饗応すると、祖霊が子孫を守ってくれるという信仰が、古代シナでは行われていた。
こうした自然崇拝・祖先崇拝を基盤としてシナで発達したものが、天命思想である。天命思想は、天への信仰に基づいている。
天は最初、北方遊牧民族の天空神だったが、遊牧民族が農耕民族の文化に融合するに従い、万物を主宰する最高神になった。天空父神と大地母神を総合したような存在と言えよう。
『詩経』には、天命思想も歌われている。すなわち、徳のある者が天の命を受けて、天子となり、徳を持って国を治めるという思想である。天命思想は、神話・伝説と結びついている。シナには、伏羲・神農・黄帝・堯・舜・禹ら三皇五帝と呼ばれる伝説的な帝王の話がある。彼らは聖王とされ、その治世の時代が理想とされた。
人類学者のジェームズ・G・フレイザーによると、未開人は、王の生命力が旺盛な時には、この世はすべてうまくいくが、王の力が衰え、死に至ると、世界も同時に終わると考えた。王と自然界の現象との間に因果関係があるという考え方は、古代の世界では広く見られる。
特にシナでは、こうした観念が発達して、天人(てんにん)相関思想が生まれた。天と人との間、すなわち自然界と人間界との間には、因果関係があり、君主の政治の善悪が、自然界の吉祥や災異を招くという思想である。
古代シナ人は、君主とは、フレイザーのいうところの生命力よりも、徳を備えた人でなければならないと考えた。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天はこれに呼応して、世の中は平和で作物も豊作となる。しかし、君主に徳が欠けると、飢饉となり疾病が蔓延し、地震などが起こると考えた。こうした天命思想は、自然崇拝・祖先崇拝に基づくもののであり、シナ特有のものと言える。
こうした思想が、わが国の道と徳に、深く影響している。
(2)儒教における道と徳
儒教の根底には、古代シナの自然崇拝・祖先崇拝・天命思想がある。儒教の祖・孔子は、原初的な自然崇拝・祖先崇拝・天命思想を合理化し、政治倫理として発達させた。その言葉は『論語』に書きとどめられている。
孔子は、約二千五百年前、春秋時代の人だが、当時のシナは麻のごとく乱れた社会だった。その中で孔子が理想と抱いたのは、かつて西周時代に行なわれていた徳治の政治だった。孔子自身は、その時代を知らない。彼が心に描く理想は失われた過去のものであり、彼の教えは理想の回復をめざすものだった。孔子は諸国をまわり、仁と礼による政治を説くが受け入れられず、辛酸を嘗(な)めた。
五経のひとつ『書経』は、わが国ではあまり読まれないが、シナでは非常に重んじられてきた古典である。内容は、君主や重臣の訓告を主とする。孔子は『書経』を読んで、そこに盛られている古代の政治倫理の理想を受け継ぎ、これを思想として発展させた。
『書経』は神話を排除し、堯(ぎょう)から歴史を始め、舜・禹(う)に続いて、湯・文・武と聖王の系譜を書く。
堯は王位を息子ではなく、有徳者の舜に譲った。これを禅譲という。禹への譲位も同じである。一方、伝説的な王朝である夏(か)、それに続く殷(いん)、周への王朝の交替は、武力による政権の奪取だった。これを放伐という。夏の桀王(けつおう)は暴君だった。そのため、殷の湯王に滅ぼされた。殷の紂王(ちゅうおう)もまた暴君だった。そのため、周の武王に滅ぼされた。
注目すべきは、シナでは歴史のごく早い段階で、血統による王位継承が途切れたことである。また、武力による王朝の交替が繰り返されてきたことである。これは、わが国の歴史と著しい対照をなす。
『詩経』でも『書経』でも、周の開祖は文王。その偉業を継いで完成したのは、子の武王とする。『書経』は、聖王の系譜の最後に周公旦を置く。周公旦は武王の弟で、武王を助けて殷の紂王を討った。その後、天子ではないが、王を補佐して後代の理想となる政治を行ったとされる。
孔子は、周公旦を最も尊敬し、自分の政治倫理の理想は、すべて周公旦の遺訓を演述するものにほかならないと説いた。しかし、周は既に滅亡し、王統は断絶している。孔子は、滅亡した周王朝の政治倫理の理想を、当代に別の王朝で実現しようとしたわけである。この点は、古代より一系の皇室を仰いできたわが国の歴史とは、全く違う。
孔子の死後、弟子たちは師の遺志を継ぎ、儒教の普及に努めた。戦国時代には、孟子が出て新たな思想的展開を見せた。南宋の時代には、程明道・程猪川などが出て、朱熹が儒教を大成した。
この間、漢王朝は、儒教を国教とした。また隋王朝以後、清王朝まで、官僚を登用するために科挙の試験が行われ、儒教が官僚の基礎的教養とされた。シナの知識人が指導層に上がるには、儒教の経典に精通していなければならなかった。
儒教は、古代シナの天命思想を政治哲学として洗練させ、有徳者王の思想を築いた。儒教は、天の道とそれに基づく徳の体得・実践を説く。天は人間界を統治するために、多数の民衆の中から傑出した人物を選び出す。そして、その人物に「人民を治めよ」という命令、すなわち天命を与える。天命を受けた人物は、天の子とされ、天子と呼ばれる。ここで天が傑出した人を選ぶ条件が、徳である。
徳とは、天の道つまり天の意思であり天の法則であるところの道を踏み行うことによって、身に得たものである。
孔子及びその継承者は、こうした徳を完全に体得した理想的な人間は、聖人と呼ぶ。完全とまではいかないが、徳を身につけている為政者は、君子と呼ぶ。聖人君子は、道を行うことによって、徳を身につけた人間である。
天の道とは、現代的な概念で言えば、宇宙の理法・法則・摂理を含意するものだろう。儒教では、神話・伝説における理想的な帝王が行ったことが「先王の道」とされ、その復活が目標とされる。「先王の道」は、天命を受け、天の道に従った為政者のあり方である。
儒教における道は、天の道を根底にしつつ、人の道つまり人間が守り行うべき人間社会の倫理の原則、行動や実践の規範を、主に意味する。それゆえ、儒教の教えは、「修己治人の道」といわれる。己を修めて徳を身につけ、その徳をもって国を治めるのが、「修己治人の道」である。
この道を踏み行なって身につけるべき徳は、智・勇・仁の三徳、仁・義・礼・智・信の五常、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫等とされてきた。
わが国には、6〜7世紀にシナ文明の思想・宗教が伝播したが、儒教はその一要素として流入した。一部の知識人や僧侶が学ぶ時代が長く続いたが、画期をなすのは、徳川家康が朱子学を幕藩体制の正統性を裏づける教学として採用したことである。そのため、儒教の道と徳は、わが国の道と徳に強い影響を与えてきた。
(3)シナでは、徳は理想に終わった
シナでは、漢王朝以後、儒教が統治の教えとして採用され、為政者に道徳が説かれてきた。その後の歴史で、最も模範的な治世とされるのは、唐の第二代皇帝・太宗の時代である。その太宗と名臣の間の質疑をまとめた書に『貞観政要』がある。四書五経が政治倫理の理念を説くものであるのに対し、本書は、政治の具体的な実践を書き記したものである。本書はシナの諸王朝で帝王学の教科書とされた。わが国でも、平安時代から歴代天皇が本書を学び、北条政子や徳川家康らが座右の書とした。
書物に書かれている儒教の「修己治人の道」が、君主や官僚によって実践されていれば、シナ文明は世界に稀な道義の文明となっただろう。ところが、シナの現実社会は、虚言や詐術、賄賂、汚職が横行する、世界に稀なほど腐敗した社会となっている。孔孟の教えといい、『貞観政要』といい、儒教の理念や模範例は書物には書き記されていても、現実のシナの歴史においては、ほとんど理想の実現を見なかった。立派な思想が説かれれば説かれるほど、実際との開きが目立つ。
一体その理由は何か。素人ながら思うに、主に三つの理由が挙げられるだろう。
第一の理由は、儒教の政治倫理は、易姓革命を正当化したことである。易姓革命とは、王が天命にそむき、失政が続けば、天はその地位を奪い、他の姓を持つ有徳者を天子とするという思想である。シナでは、権力の簒奪による王朝の交替が幾度となく繰り返された。古代の殷、周への王朝の交替からそうだった。
徳のある者が天命を受けて王となるという有徳者王の思想は、権力者が自己を正当化するために利用された。王の座を得た者は徳があるから天の命を受けたのだ、と逆転が行われた。形式的には王位の継承はしばしば禅譲で行われた。しかし、力のある者が皇帝に譲位を迫り、皇帝が徳のある者に譲ったと表明し、後継者が新たな王朝を開くということが多い。禅譲という形式を取ってはいるが、力による簒奪である放伐に近い。
そのうえ、シナの歴史は、異民族の侵攻・支配が何度も繰り返えされた。北魏・金・元・清等は、異民族の王朝だった。隋・唐も、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑人と鮮卑人化した漢人の集団が支配層を占めていた。また、漢民族と北方遊牧民族の王朝が並存した時代も多く、特に華北は北方民族の支配が長い。異民族が漢民族を支配する体制は、力による統治である。徳による統治は、漢民族向けの粉飾となる。こうした歴史を持つシナでは、権謀術数の政治・外交が、高度に発達した。それが、シナ文明の特徴となっている。
第二の理由は、儒教の道徳は、基本的に家族や宗族の道徳であり、真の公共性を持たなかったことである。孝悌つまり父母に孝行を尽くし、よく兄に仕えて従順であることが、儒教の徳目の基本になっている。シナの社会は、家族や身内は非常に親しいが、家族や身内以外は敵という社会である。外の人間には、嘘を言い、人を欺き、盗み・殺しを平気で行う。仇敵となれば、墓まで暴いて、死肉を食らい、徹底的にさらしものにする。
シナの古代帝国は家産制国家だった。統治者が私的な価値観を国家経営に持ち込めば、国土・国民は皇帝の私物となる。家臣は皇帝に私的に仕える者となる。多くの民族が闘争・略奪を繰り返す場所では、生き残りのために私的な価値観が優先される。こういう社会では、公的な価値観が形成されない。そのため、シナでは、社会が広く共有する倫理が存在し得なかったのだろう。シナに生れた儒教は、発生の地では、家族や宗族の私的な道徳を越え切れなかったのだろう。
第三の理由は、儒教の道徳は、宗教心に裏付けられなかったことである。道徳の基礎には、宗教心がなくてはならない。言い換えれば、超越的な価値の裏づけがなければ、真の道徳は成り立たない。シナ人は、現世中心の価値観を持ち、関心は健康・長寿・名声・富裕などの実利に集中する。現世を否定し、輪廻からの解脱、浄土への往生を求める仏教は、一時隆盛したもののシナ人の民族性を変えることがなかった。むしろ、こうした民族性を儒教自体が助長した。
孔子は、天を敬い、天に従うが、そこでいう天は人格神というより、原理的で抽象的な存在となっている。孔子は「怪力乱神を語らず」「鬼神を敬してこれを遠ざく」と語り、その教えは、かなり合理的である。孔子後の儒教の道徳は、宗教心に裏付けられず、外から与えられた規範を守る行為として発達した。社会的に強制される規範は、内面的な良心の働きに裏付けられなければ、形式的なものとなる。それが、道徳の形骸化をもたらしたと思われる。
儒教の理想は、大陸ではなく、日本においてこそ花開いた。この点は、後述したい。
(4)老子における道と徳
孔子は実在の人物とされるが、老子は伝説的な存在である。孔子と同時代の年長者という見方もあれば、孔子より後の戦国時代の人という見方もある。
古代シナには、天を人格神として仰ぐ信仰があった。天の意志であり、法則である天の道は、儒教の根底にあるものの一つである。儒教では、天の道は、深く掘り下げられることがなかった。主題が政治であり、天の道に基づく人の道、「修己治人の道」に重点があったからである。これに対し、古代シナの天の道を哲学的・体験的に掘り下げたのが、老子である。
老子に帰せられる書は、『老子道徳経』と称される。本書は、一人の人物が書いたものではなく、数世紀の間に編纂されたもののようである。相当古い時代に書かれた部分や、孟子より後の時代に書かれたと見なされる部分などが混在している。
この『老子道徳経』こそ、道と徳を主題とした書である。わが国における道と徳について考えるには、『老子道徳経』を紐解かねばならない。
『老子道徳経』は、道について、詩的・象徴的・警諭的な表現を書き連ねている。大意を言えば、道とは万物を生み出す根源であり、天地の母でもある。形あるものの背後にあるものである。道の営みは、無為自然である。その営みの中に表われる自然の法則、宇宙の摂理が、道でもある。そして、『老子道徳経』は、道に従って、虚心に徹することが人のあるべき姿としている。
道と徳の関係はどうか。道と徳について、『老子道徳経』第51章には、次のようにある。
「道、之を生じ徳之を畜(やしな)う。物、之に形(あらわ)れ、勢、之に成る。是を以って万物は、道を尊びて徳を貴ばざるはなし。道の尊く、徳の貴き、夫れ之を命ずるなくして、常に自然なり」
すなわち、「道がそれを生みだし、道の偉大な徳がそれを養い、万象の形がそこにあらわれ、形あるものの位置づけがそこにできあがる。だから、万物はみな道を尊び、その偉大な徳を貴ぶのだ。道の尊さとその徳の貴さは、誰がそうさせるわけでもなく、いつもおのずからそうである」(福永光司著『老子』朝日新聞社、以下の引用も同じ)
ここにおける道と徳の関係は、現代的な概念では、宇宙大自然の法則と万有生成の力、本体と作用、真理と人徳に比せられるだろう。
こうした宇宙大自然の道に従って生きるなかで、人間社会の生活における徳が得られる。道を踏み行うことで得られる徳については、第54章に次のようにある。
「之を身に修むれば、其の徳乃(すなわ)ち真なり。之を家に修むれば、其の徳乃ち余り。之を郷に修むれば、其の徳乃ち長く、之を邦に修むれば、其の徳乃ち豊かに、之を天下に修むれば、其の徳すなわち普(あまね)し」
すなわち、「その道を我が身に修めれば、その徳はこの上なく純粋であり、その道を我が家に修めれば、その徳は用いてなお余りあり、その道を郷(むらざと)に修めれば、その徳は久しく、その道を国に修めれば、その徳は豊かに、その道を天下に修めれば、その徳はあまねくゆきわたる」
この章は、道に沿って生きるときに、その徳を受けて、自分に徳が身につく。またその徳をもって、家族・社会・国家に人格的な感化を及ぼすことができることを書いている。この考え方は儒教に通じる。『老子道徳経』のうち、儒教の影響を強く受けた部分と見られる。
(5)老子の道と儒教の道の異同
老子の道と儒教の道は、天の道に源を共有し、徳の感化を家族・社会・国家に及ぼす点でも、別々のものではなさそうである。
『論語』にも次のようにある。
「子曰く、政を為すに徳を以ってするは、譬えば北辰の其の所に居て、衆星の之に共するが如し」
「先生が言われた。徳をもって政治を行うのは、例えば、北極星が天の中心にあって自分は動かずに、多くの星がそれを中心に回っているようなものである」(ほそかわ訳)
これは、聖人の境地であろうが、徳のある君主は、その位に座しているだけで、あれこれしなくとも国内が秩序整然と調和した社会となるといった意味だろう。老子の言葉で言えば「無為」の統治である。この点からも、老子の道と、儒教の道は根底的には同じものと言えよう。
しかし、『老子道徳経』は、第18章で次のようにいう。
「大道廃れて、仁義有り。智恵出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り」
すなわち、「仁義の道徳が強調されるのは、大いなる道が失われたからで、人為の掟が盛んに作られるのは、さかしらの智恵が発達したからだ。親子の道徳が喧(やかま)しくいわれるのは、家のなかがもめるからで、忠臣の存在が騒ぎ立てられるのは、国の秩序が乱れたからだ」
『老子道徳経』のいうところの道が行なわれていた時代には、争い、盗み、欺きなどがなかった。国家が形成され、文明が進んでから、いわゆる道徳がつくられた。儒教の祖である孔子、その弟子の孟子は、こういう社会規範としての道徳を論じた。孔子は仁と礼を、孟子は仁義を強調した。老子を祖とする道家は、「無為自然の道」を理想とし、儒家の説く「修己治人の道」は、人為であるとして批判した。そのため、シナでは、老子の説く道と徳、孔孟の説く道と徳は異なるものであると考えられ、道家と儒家は対立しさえした。
これに対し、わが国では、老子の思想と孔孟の思想は、仏教とともに、初めから融合された状態で摂取されてきた。道教の教団や儒家の集団が存在した形跡もない。老子の道と孔孟の道は、相違・対立的なものではなく、相補的なものと受容されてきた。それが、わが国の精神文化を豊かに発展させることとなったと私は思う。
(ページの頭へ)
|