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わが国は、皇統の危機に直面している。皇太子殿下の次の世代には女性の皇族しかおられない。皇室典範は、男系男子が皇位を継承するとしており、このままでは皇統が途絶えるのではないかという、深刻な憂慮がある。
国民の間には女性天皇容認論が広がっている。しかし、わが国は男系継承で一貫してきた伝統があり、女性天皇の擁立は女系への移行という、かつてない事態を招きかねない。わが国の歴史や皇位継承の慣習をよく確認したうえで、具体的な方策を講じていかなければ、残されている時間は多くない。 |
第2章 シナとは違うわが国の皇位継承
人類学者ジョー・フレイザーが伝えているように、いわゆる「未開人」の社会には、王の生命力と自然界の現象との間に因果関係があるという考えが広く見られた。特に古代シナでは、この観念が発達して、天人(てんにん)相関思想が生まれた。天と人との間には因果関係があり、君主の政治の善悪が自然界の吉祥や災異を招くという思想である。
シナ人は、君主は単なる生命力ではなく、徳を備えた人でなければならないと考えた。君主が徳を持ち、徳のある行いをしていれば、天はこれに呼応して、世の中は平和で作物も豊作となる。しかし、君主に徳が欠けると、飢饉となり疾病が蔓延し、地震などが起こるというのである。こうした思想を政治哲学として洗練させ、完成させたものが儒教である。
孔子の説いた儒教では、天は人間界を統治するために、多数の民衆の中から傑出した人物を選び出す。そして、その人物に「人民を治めよ」という命令、すなわち「天命」を与える。天命を受けた人物は「天の子」とされ、「天子」と呼ばれる。ここで天が傑出した人を選ぶ条件が、「徳」であった。
儒教は、君主が徳を失うならば、別の有徳者がその君主に取って代わることを認めている。権力の正統性の根拠を「天命」に置く。天命が革(あらた)まることを「革命」という。天命を受けた有徳者が暴君に代わって天子となることを意味する。
この王朝交替は、天がそれまで人民を治めていた天子の一族の姓を易(か)えたことになる。例えば「李」から「朱」のように。これを「易姓革命」という。
特に孟子は「禅譲」と「放伐」による王朝交替をはっきりと是認した。「禅譲」は王がその位を世襲ではなく、有徳者に譲ることであり、「放伐」は徳を失った王を討伐し、放逐することを意味する。
シナにはこうした政治哲学が発達したが、実際の歴史は理想と異なっている。現実と理想がかけ離れているからこそ、孔子やその弟子は、あるべき姿を説いたのである。実際には、徳ではなく、力による征服や支配が横行してきた。そのうえ、そもそもシナでは、古代において漢民族の王朝が途絶え、北方遊牧民族による征服・支配が繰り返された。例えば、北魏はトルコ系の鮮卑族、金はツングース系の女真族、元は蒙古族、清は満州族による王朝である。
これに比べ、わが国の国柄には、シナにない大きな特徴がある。それは、古代から今日まで、一つの家系によって、皇位が代々継承されてきたと信じられてきたことである。わが国では、天皇の権威は侵し難いものとして仰がれてきた。その神聖な権威は、初代からの血統に基づくとされる。シナと違って、徳の有無は必要条件ではない。シナでは、歴史の早々に王家の血統が消滅したので、徳しか基準がなくなったのだろう。より正確には、力をもって権力を勝ち取った覇者が、勝ったのは徳によるのだと後付けしたのだろう。
万世一系を歴史的な事実であることを証明することは困難だが、これを否定する証明も困難である。私は、なにより万世一系と信じてきた文化的な事実が重要だと考える。文化的事実とは、例えばイエス=キリストは、処女マリアから誕生したと信じられてきた。常識をもってすれば荒唐無稽な話だが、処女懐胎という信条がキリスト教文明を生み、今日世界をおおっている近代西洋文明もそこから発生した。こういう事柄を文化的事実という。歴史的事実か否かは別として、重要な意味を持つ事柄ということである。
万世一系という信条の端緒は、『古事記』『日本書紀』に表わされており、南北朝時代には北畠親房が『神皇正統記』に書き記し、後代に影響を与えた。さらに江戸時代には、日本とシナの国柄の違いが広く自覚されるようになった。徳川光圀による『大日本史』の編纂が、わが国の国柄の独自性を国民の常識にした。頼山陽の『日本外史』の伝播力・浸透力が常識形成に貢献した。
戦後、皇統の万世一系については、異論が出されている。神武天皇からの9代の天皇の実在を疑う歴史家がいる。その一方、考古学的な手法で、初期の天皇の実在を裏付ける研究が進んでいる。記紀は、天皇家による統治を正当化するために編纂されたという見方がある。その一方、記紀編纂によって各氏族の祖先神を皇室中心に関係づけたことが、社会に平和と安定をもたらしたという事実がある。
古代史の皇位継承が一系であったのかは、論議のあるところだが、私は次のように考える。もし皇位を継いだ者が、それ以前の代々の天皇と別の家系の者であったとすれば、皇室の祖先神である天照大神を祀るのを止め、異なる祖先神を祀ったはずである。始祖が違うからである。まして、別の民族の者が皇位を奪取したとすれば、それまでの社は、異教の神殿として破壊されただろう。わが国の歴史には、こういうことが見られない。傍系・遠縁による継承の例はあるが、天照大神を始祖とする系譜と、神武天皇以降の歴代天皇の霊が、一貫して祀られてきたらしき形跡がある。それは始祖を同じくする者の間での継承だからだと思う。シナにおけるような簒奪や征服・支配の条痕は、まったく見られない。
記紀の世紀以降、わが国は皇室を中心とし、皇統は万世一系の侵しがたいものだという信条が一層確固としたものとなった。その時代からであっても、皇室は約1300年続いている。これは世界に比類のない事実である。実際には、さらに数百年または千年以上続いてきた可能性がある。
この間の125代にわたる万世一系という信条の実践が、男系継承の維持なのである。男系継承は、皇位が一つの家系に継承されてきたことを尊重し、これを維持する行いである。この伝統を保守するところに、今日の皇位継承問題においても、進むべき本筋があると私は考える。これは、日本が日本であり、シナでも他の国でもない、日本としての比類ない特徴を保守しようという意思なのである。 |
第3章 女系継承では社会が不安定に
わが国では、古代より、天皇は現御神(あきつみかみ)または現人神(あらひとがみ)とされ、その権威は侵し難いものとして仰がれてきた。その神聖な権威は、初代からの血統に基づき、男系継承によって維持されてきたものである。そのことが、わが国の社会に調和と安定をもたらしてきた。今日、しばしば肯定的に論じられる女系継承は、こうした伝統を崩し、社会構造を不安定なものにすると思う。
まず述べておきたいこととして、私は、皇位の世襲による血統の維持とは、単に生物学的または遺伝学的なものではなく、祖霊の系統つまり霊統の維持でもあったと考えている。
天皇の即位にあたっては、「三種の神器」すなわち鏡・剣・勾玉が皇位の象徴として承継されてきた。それとともに、即位には、重要な儀式を伴う。それが、大嘗祭(だいじょうさい)である。この儀式にはさまざまな説があるが、漏れ伝えられるところによると、胎内への退行と象徴的な再生、太陽の光と米穀の結実、新米の摂取による生命力の蘇りなど、死と再生のシンボリズム、自然と人間の生命の循環のシンボリズム等がうかがわれる。
信じられてきたところによると、大嘗祭によって、はじめて天皇は天皇にふさわしい霊威を得る。大嘗祭を行っていない天皇は、完全な天皇と見なされなかった。そこで私は、儀式の中核は、祖先神とされる天照大神の霊力が新たな天皇に受け継がれることにあると理解している。血統の継承者が同時に霊統を受継ぐことによって、はじめて天皇としての権威を体得したと認められてきたのだろうと思う。
神器の承継と大嘗祭の執行は、女性天皇によっても行われてきた。しかし、古代に6人8代、江戸時代に2人2代見られる女帝の役割は、あくまで男系継承を補助することであった。女帝は、即位の時には、独身か寡婦であることが条件とされた。私は、天皇が女性の場合には、神に仕える巫女であることが、要求されたのではないかと思う。そこには深い宗教的な意味があるのだろうと想像している。
わが国では、シナと違って、皇位継承に、徳の有無は必要条件ではない。しかし、皇室には、国民を「おおみたから」と呼んで大切に思う伝統がある。それが、天皇と国民に親子の間のような情の結びつきを生み、信頼の絆を太いものにしてきた。いかに血統や神器を備えていても、あまりにも徳を欠くと、皇位の交代が行われた場合がある。この点も、女性天皇であっても、徳を備えておられれば、問題はない。
重要なのは、ここからである。皇位を男系で継承する伝統が、わが国に統治の安定と社会の調和をもたらしてきており、女系継承はこれを崩すものとなると私は憂えるのである。
古来、蘇我氏、藤原氏、平氏など、権勢を誇った氏族があった。皇位に近づき、または皇位を脅かした権力者もいた。しかし、彼らは自ら天皇の座を奪おうとはしなかった。また、自分の男子を直接天皇に即位させようともしなかった。自分の女子を天皇の皇后または側室とし、そこに生まれた子供つまり外孫を皇位に就かせたのが、最も接近した例である。これは男系継承であって、皇統が別の男系に移動するものではない。一系の皇統を維持する一つの方法であったともいえる。
南北朝時代の足利義満の場合は、息子の義嗣を天皇の養子にした。義嗣は天皇の実子である親王と同じ儀式で元服した。この地位にあれば、後小松天皇の後に皇位に就いてもおかしくないわけである。皇室では、即位していない親王でも、子が皇位についた場合には、「太上天皇」の尊号を贈られた。義満は臣下でありながら、上皇(太上天皇の略称)に匹敵する権威と権力をかね備えることを目指していたようである。ところが、義嗣の元服の翌々日、義満は急に咳が出て発病し、10日もたたずに死亡した。 義満を継いで4代将軍となった義持は、弟の義嗣を攻め、焼き殺した。義持は、義満に追贈の申し出のあった臣下破格の尊号を断った。その後も足利将軍家から義満のまねをする者は現れなかった。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らも、その跡を追わなかった。 歴史上、仮に自分または息子が皇位に就く者がいたならば、蘇我朝、藤原朝、平朝等が誕生し、王朝が交替した。また、皇位の継承で女系継承を容認していれば、現在も「姓」というものをもたない皇室に、「姓」の概念が入り込むことになっていた。そして、わが国はシナと同じ易姓革命の国となり、独自の特徴を失っただろう。
権勢を誇る有力者でも皇位を襲わなかった理由の一つは、皇位が男系継承だったことにある。皇位は男系継承でなければならないという慣習が、有力者による皇位奪取を抑止してきたと見られる。
逆に一系の男系継承によって保持されてきた権威が低下したならば、時の有力者が皇位を奪い、その一族が権力を占有し、利権の世襲が発生しただろう。同時に、その地位を奪おうとして、別の有力者が登場しただろう。その結果、シナや欧州におけるような権力争奪の歴史が、わが国に入り込むことになったと思う。
皇統の男系継承は、わが国に安定した社会構造をもたらしてきたのである。千数百年以上にわたって、皇位が男系に継承されてきたことは、世界史上、唯一の事例であって、他に比類がない。侵しがたい中心があることによって、社会に調和と安定がもたらされてきた。この伝統の重みを受け留めたうえで、皇位継承の問題を考えなければならないと思う。
今日、女性天皇を容認するだけでなく、女系継承をも容認する論を張っている有識者がいる。私には、どうもこうした人たちが、わが国の国柄の特徴を十分認識しているとは思われない。
女系継承の方向は、わが国の社会構造を不安定なものとする。皇位継承において、万世一系の男系継承の伝統を保守することが、わが国の調和と繁栄を保つ道だと私は考える。(ページの頭へ) |
第4章 男系継承に努力してきた歴史
現在の皇室制度は、歴史上かつて例を見ないほど、皇位継承資格に制約がかせられている。
明治22年につくられた皇室典範では、皇位継承者は皇族の男系男子とし、女性天皇は認めないことを明文化した。過去には女帝の例があったのに、万が一の場合の選択の幅を狭めてしまった。その後、皇室は養子を取ることもできなくなった。昭和戦後に制定された皇室典範では、さらに庶子による継承を認めなくなった。これに加えて、GHQの圧力により、11の宮家が廃絶され、51人の皇族が皇籍離脱し、皇族の数がひどく少なくなってしまった。
皇位継承者は現在、男系・男子・嫡系に限定されている。秋篠宮が誕生した昭和40年以後、皇室は男子に恵まれていない。女子の誕生が続いたため、皇太子の次の世代には女性皇族しかいない。このまま男子が誕生しないと、皇位を継ぐ男子がいなくなってしまう。
男系継承は皇室の一貫した伝統であり、直系かつ嫡系の男子の継承が理想である。しかし、過去には庶系・傍系による継承が少なくなかった。神武天皇以降、124回の継承がされてきたうち、直系かつ嫡系の継承は約3分の1、41回しか例がない。おおよそ半数の約60回は、庶子による継承だった。だから、庶系継承を否定したため、皇統の維持は極めて困難になった。また、過去には傍系の継承も出来るように、兄弟・近親の子を養子に取る猶子制度が活用されたり、世襲の宮家を創建するなどの工夫がされてきた。
ところが、戦後、多くの皇族が臣籍降下したことにより、傍系の男子がごく少なくなった。そのため、傍系による継承も困難になっている。現在、男子の皇位継承資格者は6人いるが、順位が皇太子・秋篠宮以下の方は、みな年長である。
現行制度では、皇室は養子を取ることもできない。子供のない宮家は、当代で消滅する。女性皇族は結婚すると、宮家を去ることになっているから、女子しかいない宮家も、やがて消滅する。このままでは、皇族が絶滅するという事態になりかねない。
ここで重要なことは、男系男子による継承を維持するための具体的な努力である。
まず庶子継承の否定とは側室を置かないことである。これは近代化・西洋化の進展によってキリスト教的な一夫一妻制の影響を受けた考え方である。文明の独自性を保つイスラムは一夫多妻である。しかし、わが国では一夫一妻制が広く定着しているので、庶子継承は、国民感情として受け入れがたいだろう。また、女性皇族にとっても、同様だろう。
これに比べ、旧宮家の皇籍復帰や養子制度の容認は、理解しやすく、実現可能だろう。私はまずこれらを実現すべきだと思う。
皇統断絶の危機の際、男系の傍系から皇位に就いた例が、3例あるとされる。そのうち、第26代の継体天皇は、先代の武烈天皇とは10親等の隔たりがあった。直系に男子がいないため、越前に住んでいたのを探し出され、即位を求められた。傍系ではあるが、応神天皇の5世の孫であるとともに、母方は垂仁天皇の子孫である。大連の大伴金村の願いをいれて、第24代仁賢天皇の娘で先帝の妹である手白香(てしらか)皇女を皇后とした。こうして傍系と直系との血を近づける工夫がされた。
また、第119代光格天皇は、先代の後桃園天皇と7親等の隔りがあった。先代の後桃園天皇の皇女を皇后にした。継体天皇の例にならったものだろう。光格天皇は今上天皇の直系の祖先に当たる。新井白石の進言によって創設された閑院宮家に、6男として生まれた。傍系であるがゆえに学問に励み、仁政を心がけ、立派な天皇であろうと努力した。徳川3代将軍家光以後、政治については朝廷が幕府に口出しが出来なかった先例を破って、天明の大飢饉の時には飢民の救済を幕府に要請し、朝廷の発言力を高めた。この天皇の下で、尊皇思想が育ち、やがて尊皇倒幕のうねりが起こっていく。
また、傍系ではないが遠縁から皇位を継承した例も2例あるとされる。第49代光仁天皇は、先代と8親等の隔たりがあった。南北朝合一の時に後亀山天皇から神器を受けた第100代後小松天皇は、先代と11親等の隔たりがあった。最も離れた遠縁の例だろう。
万世一系というが、皇統を男系で継承するためには、このように、過去さまざまな努力・工夫がされてきたのである。今日の皇位継承問題においては、こうした事例をよく学んだうえで、具体的な方策を講じるべきだろう。
女性天皇は、男系継承を確かにするために、上記の方法をさらに補助するものであった。これについては、次章に書くことにする。(ページの頭へ) |
第5章 女帝の役割は男系継承の補助
過去に8人10代の女帝がいた。古代の6世紀から8世紀にかけての6人8代、すなわち推古・皇極・斉明(皇極重祚)・持統・元明・元正・孝謙・称徳(孝謙重祚)、江戸時代の2代、すなわち明正・後桜町の各天皇である。 これらの女帝は125代の天皇のうちの8%と少数であり、またすべて男系の女子である。
明治維新後、女帝の即位の是非について熱い論争が繰り広げられた。井上毅が、過去の女帝は「摂位」(代理的な役割)であり、先例ではなく例外であると主張し、幼い天子が成長するまでの中継ぎ、「中天皇(なかつすめらみこと)」という見方が有力になった。その結果、明治20年に制定された皇室典範では、女帝が否認され、皇位継承者は男系男子に限定された。この規定は、昭和戦後に制定された皇室典範でも維持された。
今日、再び女性天皇の是非が論じられている。私の思うところでは、確かに次の皇位継承候補の男子が成長するまでの「中継ぎ」として、女帝が立てられたことがある。しかし、女帝のすべてが「中継ぎ」とはいえない。
最初の女帝・推古天皇からして、「中継ぎ」とはいえない。皇太子に聖徳太子という希代の俊英がいながら、あえて女帝を立てたのは、蘇我氏との関係を考慮した政治的な判断だろう。
皇極天皇の場合も、朝鮮情勢と関連した政治事情に対応したものと思われる。斉明天皇としての史上初の重祚の際も、中大兄皇子が皇太子の地位にあり、年齢・能力に遜色はなかった。
むしろ、これらの先例を応用して、「中継ぎ」の形も行われるようになったのだろう。続く持統・元正・元明の各天皇は、皇位継承を予定される皇子が成長するまでの「中継ぎ」である。その後の古代最後の女帝・考謙天皇の場合は、藤原氏の外戚政策の一環としての役割が主だろう。
称徳天皇として重祚した際には、道鏡を寵用し「法王」の位まで授けた。しかし、和気清麻呂が、「わが国家、開闢より以来、君臣(の分)定まれり。臣をもって君となすこと、未だあらざるなり。天つ日嗣(天皇)は必ず皇儲(皇嗣)を立てよ」との宇佐大神の託宣によって、道鏡の野望を退けた。結果として、万世一系に連なる皇族の男系による継承という伝統が確認される形となった。
その約860年後、江戸時代に再び2代の女帝が現れる。明正天皇は、徳川幕府が皇室に入れた中宮和子の子であり、その即位は皇室への影響力を強めようとした幕府の思惑が濃い。次の東福門院猶子に譲位するまでの「中継ぎ」の要素もあった。最後の女帝・御桜町天皇は、最初から英仁親王が成長するまでと期限が決められていた。
このように見てくると、純粋に「中継ぎ」といいうるのは、持統・元正・元明・後桜町の各天皇だけである。むしろ政治的な情勢判断で女帝を擁立した例が、推古・皇極・斉明・孝謙・称徳の各天皇である。また、「中継ぎ」的な要素はあるが、かなり政治的な色彩もある例が、明正天皇である。女帝10代のうち、「中継ぎ」は4例ないし5例つまり半数以下である。
それゆえ、私は皇位継承で男系を維持する努力は、いかにして時の有力者つまり皇族以外の別の家系に皇位が移らないようにするかという努力でもあったと思うのである。
女帝は在位中は独身であった。配偶者なしで生涯独身だったか、皇后もしくは皇后に準ずる地位だった女性が、夫が亡くなって寡婦の身で即位したかのいずれかである。即位後に天皇の立場にありながら結婚し、その間に生まれた子供が天皇になった例はない。即位前に男系の皇族と結婚して子供を産み、夫が死亡した後に即位し、自分が譲位した後に、子供を即位させた元明天皇のような例はある。この場合は、男系の継承である。
女性天皇がその地位にありながら産んだ子供が皇位につけば、皇統が女系に移る可能性がでてくる。女系継承に移行すれば、万世一系という伝統は失われる。過去には、125代にわたり必ず男系継承が維持されてきており、これまで女性天皇があるが、女系の天皇は存在しない。
以上を要するに、女性天皇の役割は、皇族による男系継承を補助することである。私は「中継ぎ」というよりも、このようにとらえた方が、明確になると思う。また、女帝の即位は常に、次に皇位につくにふさわしい男系の男子があることが前提だった。今日の皇位継承問題は、このことをよく確認したうえで検討すべきものと思う。安易に女性天皇を容認し、さらに女系でもよいというような意見には、異論を呈したい。(ページの頭へ) |
第7章 方策の第一としての皇籍復帰
男系継承を維持するための方策の第一として、旧皇族の皇籍復帰がある。
昭和22年10月に、11宮家、51人が皇籍を離脱した。これは敗戦による占領下という事態にあって、皇室財産の国庫編入、皇族への高額の財産税の課税、あるいは宮内省機構の大幅縮小という、GHQの政策に従わざるをえぬ異例の措置だった。GHQは皇室を経済的に締め上げて弱体化させ、ひいては日本国そのものを弱体化させようとした。戦勝国の日本弱体化政策の要こそ、天皇の権威の低下と皇室の衰退だったのである。(註2) 皇籍離脱した旧宮家に関し、当時で550年ほども前に分かれた伏見宮家一統だから、他の宮家と違って臣籍降下が決められのだとして、皇籍復帰に否定的な意見がある。しかし、これらの宮家は遠縁ではあるが、かつては世襲親王家として存続していた。また、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の4宮家は、明治天皇の4人の内親王が嫁いでいる。つまり、明治天皇の血筋を引いているわけである。旧宮家は現在もさまざまな名誉職を担っており、皇室とは「菊栄親睦会」を通じて交流もあるという。復帰をまったく否定してしまうのは、どうかと思う。
旧宮家のうち現在7家が存続し、5家には次世代の男系男子がいる。このことを、月刊「文藝春秋」平成17年3月号が伝えた。これらの男系男子が皇籍に戻り、宮家の復活を行うことが、男系継承に有効な方策として考えられる。
臣籍からの復帰を認めると、皇族と一般国民の区別がなくなってしまうという反対論がある。しかし、過去に、臣籍におりた者が皇族に戻ったケースは、数多くある。宮内庁編『皇室制度史料 皇族 三』(吉川弘文館)によると、以下のようであるという。
(1)天皇に即位された例
@第59代宇多天皇
A第60代醍醐天皇
(2)皇子女・皇兄弟が復帰した例は多数
(3)皇孫が復帰した例
@惟康親王(第88代後嵯峨天皇皇孫)
A久良親王(第89代後深草天皇皇孫)
(4)皇孫以下が復帰した例
@和気王(第40代天武天皇曾孫) A忠房親王(第84代順徳天皇曾孫)
(5)親王から臣籍降下した後、皇籍復帰し、再び臣籍降下した例
(澁谷家教=伏見宮邦家親王の子。明治20年皇籍復帰)
中でも現下で注目すべきは、(4)の忠房親王である。父も臣籍であり、「臣下の子」として皇籍に復帰し、後宇多天皇の猶子に入り親王となった。今日、旧皇族の復帰を検討するにおいて、先例となるだろう。
戦後、皇籍離脱した宮家のうち、閑院宮・東伏見宮・山階宮は既に断絶している。伏見宮・賀陽宮・梨本宮・北白川宮は、現当主に男系男子がいない。現当主に男系男子があるのは、久邇宮・東久邇宮・朝香宮・竹田宮の四家と伝えられる。うち久邇宮家は香淳皇太后の実家である。 男性の内訳は、久邇宮(兄弟2・男子2)、東久邇宮(兄弟4(含・養子へ1)・男子1)、朝香宮(男子1)、竹田宮(兄弟2・男子1)である。次世代の男系男子が、四家に5人いるのである。しかも、これらの旧宮家の中には、皇籍復帰に肯定的な方々がいると伝えられる。
皇籍復帰、宮家の復活または皇室への養子の実現のためには、皇室典範を改正する必要がある。また、宮家を維持するための経済的な基盤も必要となる。これらを整えたうえで、皇族に復帰した男系男子の中に、適当な方があれば、男系男子が皇位継承をする道が開かれる。この場合、傍系の男子なので、過去の例にならって、直系の女子と結婚されると望ましい。愛子様・眞子様・佳子様が皇后となられれば、男系継承の伝統を守るよい方法となるだろう。
こうした方策に関しては、すべて皇族及び旧皇族方の意思が尊重されねばならない。もちろん今後、皇太子または秋篠宮に男子が誕生すれば、それが最善・理想だが、国民としては、長期的な観点に立った具体的な方策の実行を願わすにはいられない。(ページの頭へ) |
第8章 第二は養子、第三は女性宮家
男系継承の方策の第二として、皇族の養子制度の許可がある。養子の対象範囲は、旧宮家の男系男子とする。皇室典範第9条の改正で可能となる。
皇族の養子には、過去さまざまな例がある。養子が廃絶する宮家を継いだり、旧宮家を復活させることができる。養子入りした後、結婚して男子が生まれれば、その子が皇位継承候補者になり得る。また、女性皇族に婿養子の形で入って、そこで男子が生まれれば、これも男系に属する。 養子制度の実現は、現在の宮家の存続のためにも必要である。戦後存続した秩父宮・高松宮・三笠宮とその後、創設された常陸宮・秋篠宮・桂宮・高円宮は、どこも男子がいないか子供がない。このままではすべての宮家が断絶する。宮家は傍系から皇位継承を支える存在である。宮家の消滅は、皇統維持の危機となる。それを防止するには、現有の宮家の存続を早急に進めねばならない。そのためには、方策の第一つまり旧皇族の皇籍復帰と方策の第二つまり皇族の養子制度を組み合わせて行うしかないのである。
方策の第三としては、過去に前例はないが、女性宮家を立てることが考えられる。ただし、女系容認のためではない。内親王・女王が旧宮家の男系男子と婚姻された場合に限定する。ただでさえ少ない皇族の数が、次世代は少子化でさらに減少することが確実である。そこで、内親王・女王が旧宮家の男系男子と結婚して新宮家を立て、皇族身分にとどまることができるようにする。その子供は皇族となるし、また男子のない宮家へ養子に入れるようにもすれば、絶家を免れるのみならず、そこに生まれる子も皇族となる。このようにして、皇族の数が増えるならば、皇統の維持が補強される。この方策は典範第15条の改正で可能となる。
さて、現在の皇室典範の規定では、仮に皇太子が次の天皇に即位された場合、男のお子様がおられないと、秋篠宮が新たな皇太子となる。とはいえ年の差は5歳しかない。即位の時点で秋篠宮に男のお子様がおられれば、その子が次世代の皇位継承順位の第1位となる。もし親王がおられず、旧宮家の男子が皇籍復帰していた場合には、この傍系の男子が次世代の皇位継承順位の上位となる。
しかし、現皇太子にも秋篠宮にも男子が遂に生まれず、旧宮家男子の復帰もされていなければ、秋篠宮の次は、眞子様が女性天皇に就かれる以外に、皇統を維持する道はなくなる。この場合は、歴史上かつてなかった事態となる。
女性天皇に関しても事情は複雑である。眞子様が独身の場合、女性天皇の地位にありながら結婚を認めるとすれば、史上前例のないこととなる。この場合、ご結婚は旧皇族の男系男子とが望ましく、方策の第一と第二により、その男子が皇籍復帰し婿養子の形でご結婚されるのがよいと思われる。
眞子様が既婚の場合、現在の典範の規定のままだと、結婚によって皇籍を離れていることになる。寡婦の即位は前例があるが、配偶者のあるままで女性が天皇になった例はない。配偶者が健在でありながら即位するのであれば、特例となる。配偶者の法的地位や呼称なども検討されねばならない。
眞子様が方策の第三により、皇籍復帰した男系男子とご結婚され、女性宮家を立てていれば、その配偶者が皇位に就く規定は可能である。また、既婚で既に男子のある場合、女子のある場合、男女とも子供のない場合が想定されるが、配偶者が一般人であれば、いずれにせよその子供が皇位に就くと女系継承となる。仮にこの皇位継承の時点で、傍系に適当な男子がいれば、一般人を配偶者とする女帝を、特殊な「中継ぎ」に留めることができる。しかし、そうした傍系男子がいなければ、最後の方法として女系継承に移る。この女系継承は、社会に不安定をもたらす危険な道だと私は考えている。
今すぐ女性天皇を容認するよう皇室典範を改正した場合には、愛子様が秋篠宮より皇位継承順位で上になる規定も可能である。ただし、その後、もし愛子様の下に男子が生まれた場合、男子優先か長子優先かの問題が生じる。また愛子様が女帝になるにしても、まだ幼少だったらどうするか。成人になった時点などと年齢に関する規定や、それに応じた継承順位を設けるのか。また秋篠宮の方に男子が生まれた場合、傍系でも男子優先か、男女に関係なく直系優先かなどの問題も考えられる。いずれにせよ、事情は複雑である。
将来の困難を見越すならば、いま男系継承を維持するために、最大限に努力することが不可欠であることがわかるだろう。すなわち、方策の第一として旧宮家の皇籍復帰、第二として皇室の養子制度の許可、第三として制限つきの女性宮家の創設を、早期に実行することが望まれるのである。(ページの頭へ) |