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  歴史再考

 

題 目

目 次

01「日本弱体化政策」の検証(長文)

02 日本は無条件降伏などしていない(長文)

■03 教科書を改善し、誇りある歴史を伝えよう(長文)

■04 満州国建国の真相――『紫禁城の黄昏』

■05 南京での「大虐殺」はあり得ない(長文)

06 「百人斬り」訴訟の争点と展望

■07 日本を操る赤い糸〜『田中上奏文』・ゾルゲ・ニューディーラー等(長文)

08 『日本解放綱領』の残影〜中国の対日政治工作(長文)

■09 映画『ムルデカ 17805』を推す

■10 日本は分割占領を避けられた

11 「昭和の日」に日本を思う

 

別項の「歴史」にも掲示があります。

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■満州国建国の真相――『紫禁城の黄昏』

2005.4.20

 

 『紫禁城の黄昏 完訳』が祥伝社から刊行された。岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、満州における日本の活動の正当性に触れた部分を中心に、大幅にカットして刊行されたために、悪名高く知られているが、今度のは完訳である。本書の重要性を世に知らしめてきた渡部昇一氏が監修している。

 

 『紫禁城の黄昏』は、映画「ラストエンペラー」の原作になった本である。本書は、満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・F・ジョンストンの回想録である。

 ジョンストンは、当代一流のシナ学者であり、帰国後はロンドン大学教授、同大学東方研究所所長となった権威ある学者である。

 

 清朝は、満州の女真族がシナを征服して立てた王朝である。溥儀にとって、満州は父祖の地である。辛亥革命(1911)によって清朝が倒され、紫禁城に閉じ込められた溥儀は、シナ人に愛想を尽かし、父祖の地に戻り、父祖の位につくことを熱望した。そのことを知ったジョンストンは、満州国の誕生を心から喜んだ。そして、満州国建国の2年後、昭和9年(1934)に『紫禁城の黄昏』を出版した。

 

 ジョンストンは、この回想録で、満州事変勃発以前に満州独立運動は存在しなかったとするリットン報告書に対し、それはリットン調査団が知らなかっただけだ、と反論している。また、溥儀は、蒋介石の国民党革命軍が母・西太后の遺骸を暴いた蛮行に対して激しく怒り狂い、これが復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)への決意につながったと述べている。

 満州事変・満州国の真相を知るために、実に貴重な本である。ところが、東京裁判においては、本書は証拠としての採用を却下された。そして、この裁判もどきの場において、溥儀の満州国皇帝への即位は日本の関東軍の脅迫によるものと決め付けられ、日本を一方的に断罪する歴史観が形成されていった。

 

 日本としては、満州事変(昭和6年)は、日本軍人が中央政府の指示なく、独断で起こした事件である。このことは弁解の余地がない。国際連盟において、国内の不一致を語る日本国代表の説明はしどろもどろだ。外国から「二重政府」と見られ、誤解されてもやむをえない。昭和8年、意気揚揚と国際連盟を脱退した外相・松岡洋佑は、続いて独伊との三国同盟を推進・締結した。私は、満州国問題でわが国が国際社会から孤立する道を選択したことが、独伊との三国同盟という最悪の選択につながっていったと思う。

 しかし、 国際連盟は、満洲事変・満洲国建国を、侵略行為とは認定せず、中国側の対日制裁発動要求を斥けている。それゆえ、わが国は国際連盟を自ら脱退する必要などなかったのである。

 

 東京裁判において検察側(連合国側)は、満州事変をきっかけとする満州国の建設は、日本の指導者たちの共同謀議による中華民国への侵略行為とし、その共同謀議の第一段階が柳條湖事件であると主張した。この筋書きづくりには、「田中上奏文」(註 1)が使われた可能性がある。この文書はまったくの偽書だが、今も中国では本物として日本断罪に利用している。

 東京裁判において、検察側は、溥儀を証人として呼んで証言させた。彼は、「満州国の建設は全く日本軍の脅しによるもの」であり、「自分はしぶしぶ従った」「私の行動はすべて日本の脅迫である」と証言した。ソ連に抑留され、身の危険を感じていた溥儀は、ただただ自己弁護に努め、偽証したのである。

 これに対し、弁護側(日本国)は、満州国独立とその手続きとしての清王朝復辟運動は、満州の住民の間に生じた自発的な運動であり、日本の謀略に発するものではないことを立証しようとした。辛亥革命後の中国は、無政府状態に近い混乱を呈し、軍閥相互の内戦が続き、住民は悪政に苦しんでいた。大正15年(1926)には既に清朝の「ラストエンペラー」であった宣統帝溥儀を擁立して、君主国を復活させようという動きが各地に生じていたのである。

 

 この事実が立証されると、検察側にとっては、満州国政府は関東軍によって作られた傀儡政権にすぎなかったという起訴状の筋書きが崩れてしまう。そこで、不利な証拠はすべて、証拠能力なし、重要性なしとして却下されたのである。その却下された最も重要な資料こそ、『紫禁城の黄昏』である。

 

 ジョンストンは、溥儀の身近で激動の歴史を見てきた目撃者である。また彼はイギリス人として中立的な立場で日中関係を見ていた。それゆえに、『紫禁城の黄昏』は、検察側には極めて不利となる内容を含んでいるので、不採用とされたのである。

 小堀桂一郎氏らが監修した『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会)から重要部分を抜粋にて掲載する。

 

<引用開始>

 

D177 却下

22.4.10(3)

 

1. 満州独立運動の立証

2. 溥儀帝の満州行は自由意志

 

1.満州独立運動の立証

 

 1934年(105〜106項)若し満人が満州に退き、且つ彼等の勢力が支那に於て決定的に完全に凋落して居たることが明かにされたならば、支那とは全然独立に17世紀前半に存在した様な満州朝廷の復興を吾吾が見ることも不可能のことではなかったであろう。

 幾多有能の漢人勤王家達はその様な朝廷に官を得、彼等の下に正しい新しい民国の情勢に不満の支那人たちはあらゆる階級を網羅して集ったであろう。若しその様な朝廷が成立したとしたならば、日ならずして熱河、内蒙古の残部(注)等を風靡したであろうことも想像出来ぬことではない。支那に於ける革命が漸く危険視されるに至った時、満州に退く事の可能性は決して満人朝廷によって看過されていたわけでは無かった。否それは真剣に論議され、支那及び満州に於ける王室中心主義者達はそれが現在採る可き最善の道であることを説いたのであった。しかし摂政及び王族の大半をして北京に留まることを最後的に決定さしたものは、袁世凱から与えられた恩恵条約の条項の素晴らしさに対する愚なとは謂へ正直な信頼であった。2人の王族がこの決定に且つ驚き且つ怒りこれを摂政及びその同胞の王族達の恥ずべき怯懦となしたのであった。これら2王族は己等が採決に敗れ、袁世凱の与えたる将来の予約や面を冠った威迫やらがあらゆる反対を押し潰し、摂政及び西太后等は己の意思よりも強い他の意思に屈服し、王家の存立が完全に失われたことを知ると、若し彼等が北京に還ることあらば、その時 は北京城頭に再び龍旗の翻る日か、或は彼等が棺のうちに眠る日であることを誓いながら北京を去って流寓の人となったのであった。これら2名の王族とは恭親王専偉と蕭親王善耆であった。

 恭親王は長い年月の間日本の租借地大連に住み唯唯その王朝の栄光の回復されるのを夢想しながら暮していた。蕭親王は1922年北京に還った。棺に納められて。

 

注:1911年支那が民国となると同時に蒙古は独立を宣言し、且満人皇帝の下に王国制度が支那に復活したならば、蒙古は何時でも自発的にその治下に還ると宣言した。

 

(257項)

 これら王政主義者たちは日本と支那との間、或は満州に於ける支那代表を装うものとの間に衝突が起れば彼等の欲する機会が得られるものと信じていた。そして若し彼等が外国の勢力と結ぶことに対して支那への反逆であると非難するものがあるならば彼等は支那が既に彼等を外国人(夷子)と呼び、その故に彼等を王権から追ったことをもって答えることが出来た。外国人、外国人の家族は支那と何等の連関なき故に。

 

(262項)

 かかる事情を知っていて見れば、リットン報告中の「1931年9月以前に於てはかつて満州独立運動等と云うことは満州に於て聞かれなかった」(リットン報告書97項)とある文は、旧王国の為にする運動の存在すると云う証拠が、全然リットン卿並びにその同僚の人々に提供されなかったと仮定するより説明の仕様がない。

 

(443項)

 王室の陵墓(北京東方の東陵)に対する暴行と蹂躪とが1928年7月の3日から11日の間に亘って行われた。

 

(443〜445項)

 如何なる行為−侮辱、嘲弄、死を以って脅かすこと、財産の没収、合意の破棄−と雖も忍ぶことは出来たであろう。だがこの野蛮と神聖への冒涜の恐るべき行為だけは許すことが出来なかった。この時以来皇帝の支那に対する或はその秕政に責任あるものに対する態度が全く変った。性格からいえば皇帝は寛容であってその最も暴慢な敵に対してすら怒った言葉を投げるのを聞いたことが無かった位であった。然しこの事だけは到底彼の黙過し得ぬ所であった。この時までは皇帝は満州に於ける独立運動が相当の勢を得て居るのを知りつつこれに加わる事をせず、祖先の地満州に招かれて還ると云うことも少しも真面目に考えていなかった。彼は常に支那が正気に戻り全てがよくなる望みを棄てなかった。しかしその望みが絶えた今、私が皇帝をその次に訪れた時彼の上に現れた変化は実に著しいものがあった。その変化は実に激しいものであったので私は皇帝が陵辱された祖先の霊と交霊しているのではないかと疑い、且その祖先の霊達が(そそのかして)己を汚し祖先を辱めた支那から面をそむけ、かつて3百年の昔王朝の強固な礎が築かれた国をしっかり凝視するように皇帝を促している様に思われた。

 

(448項)

 1930年10月11日英国政府を代表して私は威海衛の還付を取行なった。殆そ(ママ)20万の人口を有ち、ウァイト島(Isle of Wight)の約2倍の面積を有するこの領土は1898年以来植民相に直接責任を有する英委員によって治められて来た。今この土地は支那に還され領内の人民は全く初めて民国支那の管轄の下に入ることになった。と云うのはそれが英国に"租借"されたころは支那はまだ王国だったからである。

 威海衛還付の後30年以上の歳月を送った土地を後にして、たとへ返れるとしても何時の日又其処に返れるという当もなく私は英国に返ったのであったが、思いもかけず丁度1年後に私は舞ひ戻って来た。団匪事件に関連する賠償の事務やら、その年は支那で行われることになっていた隔年毎の太平洋会議に出席する英人団の一員としてやらであった。

 1931年9月18日の彼の有名な奉天事件は私の往路の旅の船で日本に着く2、3日前に起ったのだった。私は支那への旅を続け上海に着くや否や直ちに天津へ汽車で赴き10月7日に到着した。皇帝は私を待ち設けて居て駅で私は彼の随員の1人に会う様にされた。天津では彼がもう満州へ発ったと云う噂が専らであったが、私は勿論それが確かなものでないと謂うことを知っていた。次の2日を私は彼と共に過し将来起る可きこと予見するに足る情報を与えられたのであった。彼自身私に与えて呉れた情報は鄭考胥によって確認された。その夜私と彼は皇帝の正賓の客となった。他の客と云えば鄭垂、陳宝著、錫良等であった。予想された通りその夜の話の題目は唯一つであった。

 

2.溥儀帝の満州行は自由意志

 

(656項)

 11月13日に私が上海に帰ったとき、ある非公式の電報により帝は天津を去って満州に向われた事を知った。支那人は、日本人が帝の意思に逆らってその身を奪い誘拐し去ったものだという風に知らせんと努めた。この話は欧州人間に広く流布され、多くの人々はそれを信じた。しかしそれは全然でたらめであった。帝並に妃が南京の蒋介石と、北京の張学良にあてて、彼等の忠誠を求め、避難所を要求する電報を打ったという事を最近実際に発表した驚くべき話も、同様に偽である。帝は又満州の国主となる事を承諾されない内に自殺し様と、妃と誓を結ばれたとか言う事も勝手にいいたてられた。帝が避難所を求められたかも知れない世界中で最後の人物は、蒋介石や張学良ではない、という事をいう必要はあるまい。尚仮令、皇帝が満州へ奪衣誘拐される危険から逃れる事を欲して居られたなら、彼がなさねばならぬ全ての事は上海行きの英国船へ上船されて行かれる事であるのはいうまでもない。帝に忠実とその身をささげた鄭考胥の様な人が帝の獄卒であるという様な事は全く絶対に、あり得べからざる事である。帝が天津を去って満州へ行かれたのは御自身の自由意志である。帝の信頼のあつい同伴者は現在国務総理の鄭考胥とその息子であったのである

 

<引用終了>

 

 『紫禁城の黄昏』には、溥儀の親書が序文と写真版で掲載されている。この親書には、「宣統御筆」という皇帝の判子が押してある。玉璽(ぎょくじ)である。それゆえ、溥儀が本書の内容を認めていたことは明白である。しかし、ソ連に脅されていた溥儀は、東京裁判において、これは自筆ではなく、内容には関知しないと言った。東京裁判は、もとより真実を明らかにする場ではなく、裁判の名を借りた戦勝国による見せしめの儀式だった。溥儀の証言への追求は、適当に終了した。

 マッカーサーや蒋介石やスターリンらの思惑のもと、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』は証拠として生かされることなく、日本の戦時指導者たちは処刑された。それと同時に、日本という国そのものが一方的に断罪されたのである。

 

 日本と中国の歴史認識の違いには、上記のような問題がいくつも存在する。そのことの再検証なくして、歴史認識の見直しはありえない。中国側が一方的に日本に謝罪・反省を求めることは、フェアーではない。

 今回、本書の完訳版が発行されたことは、日中関係史の見直しや、東京裁判史観の打破のために、有意義なことだと思う。

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(1)田中上奏文については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本悪玉説のもと、『田中上奏文』

 

 

「百人斬り」訴訟の争点と展望

2005.9.9

 

 南京にある「南京大屠殺記念館」は、入り口に30万という数字を掲げている。そして、展示内容の中で特に日本軍の「残虐さ」を強調しているのが、「百人斬り」の話であるという。

 「百人斬り」とは、昭和12年12月の南京攻略戦で、旧日本軍の二将校、野田毅、向井敏明両少尉が、日本刀でシナ人の「百人斬り」を行ったという話である。当時、東京日日新聞(現・毎日新聞)は、野田・向井両少尉が前線で中国兵を斬り倒し、「百人斬り」の競争をしているという記事を、4回にわたって掲載した。戦後、この記事を唯一の根拠として、両少尉は捕虜・住民虐殺の罪で起訴され、昭和22年11月南京軍事裁判所で即日死刑を言い渡され、同年12月銃殺された。

 私は最初、朝日新聞の本多勝一記者の著書『中国への旅』で知った。昭和40年代の終わりごろ、20歳前後のことである。当時の私はそれを真に受け、憤りを感じた。その後、山本七平氏が、自分の陸軍体験に基づく知識と、南京戦の実態、日本刀の性能等から、「百人斬りは虚構」と論じているのを読んだ。鈴木明氏が、著書『「南京大虐殺」のまぼろし』で克明な検証を行い、冤罪と断じたものも読んだ。他にもいろいろな人たちが書いている。
 それらを読めば、「百人斬り」の記事は、戦意高揚のために書かれた虚偽・誇張の記事である可能性が非常に高いことが、誰にもわかる。しかし、事の真偽は確かめようもなく、年月が打ちすぎた。

 「百人斬り」事件をめぐる新たな動きが現れたのは、平成12年のはじめだった。月刊「正論」に、向井少尉の次女・田所千恵子さんが、両少尉を死刑に処した判決文等の資料を公開した。60年以上たって真相の一端が、ようやく公になったわけだ。資料は、南京軍事裁判の不公正さを明らかにしていた。
 また、翌年、同じ「正論」に、野田少尉の手記が掲載された。手記は少尉の遺品の中から発見されたもので、話は東京日日新聞の浅海記者に持ちかけられた創作であったことが記されていた。
 平成12年の後半だったと記憶するが、都内で行われたある講演会で、向井少尉の娘・田所千恵子さんの訴えを聴いた。千恵子さんは、中学時代に「戦犯の子」と呼ばれて苦んだ。父の話は、いつかは忘れ去られるだろうと思って耐えていた。しかし、昭和46年、本多氏が朝日新聞に書いたことで世に知られるようになり、「百人斬り」を事実とする本が出版され、遺族の生活はすっかり変わってしまったという。涙ながらの訴えは、満場の人々の心を打った。

 平成15年4月、千恵子さんは、父と野田少尉の無念を晴らすために、訴訟に踏み切った。裁判は、東京地裁で行われた。

原告は、向井少尉遺族(娘の田所千恵子さん、エミコ・クーパーさん)、野田少尉遺族(妹の野田マサさん)。被告は、本多勝一氏、朝日新聞社、毎日新聞社(元東京日日新聞社)、柏書房。訴因は、東京日日新聞の浅海記者による記事、朝日新聞の本多記者による記事、本多氏の著書「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」の中で、百人斬りに関する記述が、原告等遺族の名誉を毀損しているから、出版の差し止め、謝罪広告の掲載、損害賠償(計3600万円)を求めるという訴訟である。


 平成17年8月24日の報道によると、東京地裁は「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として、遺族側の請求を棄却した。
 土肥章大裁判長は、判決で、「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載され、報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」と指摘。その上で「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」とし、「百人斬り」の真偽については、「さまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」と判決理由を述べたという。
 遺族側は、判決を不服として、控訴する方針だという。是非、一審の結果に気を落とさずに、頑張っていただきたいと思う。

 裁判所は、この国際的にも重要な意味を持つ歴史的事件について、どこまで真剣に取り組んでいるのか。
 「百人斬り」の話が極めて疑わしいことは、多くの識者が指摘している。
 南京攻略戦は銃撃戦が主で、日本刀による殺人競争のできる状況ではない。野田毅少尉は大隊副官、向井敏明少尉は歩兵砲小隊長であり、日本刀による白兵戦に参加することはあり得ない。日本刀の性能から言って、連続して百人を斬ることは不可能である。記事を書いた記者自身が、「この記事は、自分が目撃したものではない」と明言している。目撃者・遺体などの証拠が全くない。
 それにもかかわらず、新聞記事を唯一の根拠として、両少尉は処刑された。
 このような新聞報道の過ちが訂正されず、死者に鞭打つような報道・出版がされ、遺族に多大な苦痛を与え続けている。

 

産経新聞は、判決に関する本多勝一氏の話として、「当然の結果。この歴史的事実がますます固められたというべきだ」というコメントを載せたが、氏のこの主張はおかしい。
 本件訴訟は民事裁判である。請求の適否を判断するために、「百人斬り」の記事が事実か虚偽かが審理されるわけだが、「百人斬り」の話が事実であるかどうか、どこまでが事実で、どの点が虚偽か等を、裁判所が決めるわけではない。裁判所が行うのは、あくまで原告の請求は、法に照らして理由があるかどうか、相当であるかどうかを判断することのみだと思う。
  朝日新聞の記事によると、裁判所は、表現行為が違法となるのは「一見して明白に虚偽」である場合」との基準を示し、問題の記事は「一見して明白に虚偽だとはいえない」と判断したにすぎない一見ではなく、しっかり読んでよく考えると、かなり誇張や創作が含まれているという解釈まで否定したわけではない。
 一審の裁判官は、何か先入観を持っていたか、事実と虚偽を見抜く見識や経験の不足があるのかも知れない。書いた記者やカメラマン、取材を受けた野田少尉が「創作」だと言っているのだから、すべて事実ではないと判断するのが常識だろう。別の裁判官が担当すれば、記事にはかなり誇張や創作が含まれているという理解を示す可能性が十分あると思う。
 

東京日日の記者は、両少尉を称賛しつつ戦意を発揚するという意図で記事を書いた。創作や誇張であっても、誹謗中傷の意図はない。しかし、その記事が原因となって、両少尉は敵国の軍事裁判で無罪を主張しながら処刑された。それによって、記事は英雄賛美から戦犯断罪へと効果を反転した。その反対効果を引き出したのは、南京軍事裁判所であって、東京日日ではない。死者の名誉は地に落ち、いまも貶められ続けている。また、遺族は戦犯の子として、多大な苦痛を受け、いまもなおこの記事に発する虚偽・誇張の報道・出版によって苦痛を受け続けている。
 こういうおそらく類例のない訴訟において、今後、控訴審で原告側がどのような主張をしていくか、注目したいと思う。

 

なお、東京地裁は、原告側の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張や「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張について、「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」などとして退けたとのことである。しかし、「百人斬り」の話は、全国紙が書き、単行本も出版して、国民の大多数の知るところとなり、学校で教えるところもあり、さらには南京の記念館に展示までされて、国際的に大々的に知らされているような重大な問題である。一時的に、ローカルな範囲で報道されたような記事とは違う。
 控訴審では、このあたり原告側の弁護団は、どのような論理構成で臨むのか、頑張ってほしいと思う。

 
 冒頭に、「南京大屠殺記念館」の展示のことを書いた。無罪を主張して銃殺された野田・向井両少尉の巨大な写真が飾られ、日本軍の「残虐さ」が強調されているという。「百人斬り」事件の裁判は、両少尉の名誉がかかっているだけではない。日本人全体の名誉がかかっている。また、「南京大虐殺」という虚偽・捏造を打ち崩す、重要な機会でもあるのだ。

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■映画『ムルデカ 17805』を推す

2001.6.2

 

 先の大戦には、戦わずして勝つ道がありました。戦う必要のない無謀な戦争を行ったために多くの犠牲と破壊を生み出してしまいました。しかし、そうした戦争においても、アジア解放の理想に燃え、大義に生きた人々がいました。そのことを忘れてはならないと思います。

 

 大東亜戦争の最中、そして戦後にわたり、多くの日本人が、インドネシアの独立に協力しました。そのことは、生き残った人々によって語り継がれ、書物にも著されてきました。日本に帰らず、インドネシア独立のために戦った日本人は、約2000人。その半分が、命をささげたと伝えられます。しかし、戦後生まれの多くにとっては、知らない話、いや知らされなった話でした。(1)

 このたび、その史実が初めて映画となりました。それが『ムルデカ 17805』です。

 

 印象的だったのは、主役の山田純大の気迫あふれる演技です。

 山田は杉良太郎の息子で、人気テレビ番組『水戸黄門』にレギュラー出演しています。

 

 山田は、映画初出演です。彼を起用した、東京映像の浅野社長は、彼の目に、一目ぼれしたといいます。

 確かに、山田の目には、力がある。目が生きている。しっかり前を見て、揺るぎのない目です。

 山田の演じる島崎中尉には、昔の日本人はこういう風だったのかと、思わせるものがありました。親切で、勇敢で、賢明です。それは、自分を越えて、公に尽くす人間の姿です。

 小堺一機が司会をしている『ごきげんよう』というテレビ番組があります。これに出演した山田は、次のように語っていました。

「オーデションの時、最初に、『この前の戦争に負けて悔しい』と、自分は言ったんですよ」。その一言が、藤由紀夫監督の心を捉えたらしい。「彼以外にない」と。確かに、島崎中尉の役は、心からその人になりきれる人でなくては、つくりものになってしまうでしょう。

 

 この映画には、多数のインドネシア人の俳優が登場します。特に、独立運動に参加する青年たちを演じる青年たちは、熱気にあふれた演技をしています。彼らの目も澄んでいる。彼らにとって、この映画は祖国の独立を描いた、父祖たちの歴史そのものだからでしょう。

 日本人の誇りをかけて演じる日本の役者たちと、栄光ある歴史を演じるインドネシア人たち。この連携が、この映画をさわやかなものにしています。

 

 戦争映画と見まがうほど、戦闘シーンに迫力があるのも、この映画の特徴です。インドネシア国軍の兵士たちが、毎日300人もボランティアで参加したのだといいます。現役の兵士たちだけに、ひとつひとつの動きに重みがあります。撮影では、大量の火薬を使ったが、一人もけが人が出なかったそうです。それも、鍛え抜かれた彼らゆえでしょう。

 

 この映画が描くのは、もちろん戦いだけではありません。さまざまな人間のドラマが描かれています。とりわけ私の心に響いたのは、島崎中尉の母子、宮田中尉の夫妻、島崎・宮田とその部下たちの姿です。そこには、心から互いを信じ合う親子や、夫婦や、友人の姿があります。今では見ることが少なくなった、人間らしい人間、そして日本人らしい日本人が描かれています。彼らの演技には、最近の邦画で目に付くような、浮ついたところがありません。

 

 題名の『ムルデカ』は、独立を意味するインドネシア語。副題の『17805』は、皇紀2605年8月17日を意味します。インドネシアの独立運動を指導したスカルノ、ハッタらにとって、欧米支配者の西暦ではなく、わが国の和暦こそ、歴史の基準とすべきものだったのです。インドネシアでは、今日も皇紀が併用されているといいます。

 

 この映画は、『プライド 運命の瞬間』に続く、プライド2とでもいうべき作品として製作されました。前作同様、加瀬英明氏を委員長とする製作者スタッフは、日本人としての誇りを取り戻そう、と訴えています。誇りある国民の歴史を描く映画が制作され、それが一般の劇場で公開されることは、それだけでも意義があります。レンタル・ビデオになっています。一見をお勧めします。

 

●あらすじ

※以下は、これから映画を見ようという人は、読まないほうがいいでしょう。映画を見た人の備忘のために、私なりにとらえたあらすじを、書きます。

 

昭和17年3月1日、日本陸軍第16軍は、オランダ領ジャワに上陸作戦を敢行した。

 

ある村に、主人公・島崎中尉(山田純大)が、進み入る。すると、一人の老婆が、歩み来る。そして、彼の足元にひざまづいて言う。「いつか東方からくる救世主が、白人の支配から、私たちを解放してくれると、私たちは信じてきた。それが、あなただ」と。

 

島崎は、上官(榎孝明)から密命を受ける。オランダ軍に乗り込んで、降伏を勧告せよと。島崎は、愛用の日本刀をもち、部下の通訳1名(六平直政)とともに、オランダ軍総司令部に潜入する。銃口に囲まれても、ひるまない。「大日本帝国陸軍、島崎武夫中尉。司令官に面接を求めてきた」。島崎は即時面談を要求し、降伏を勧告する。敵方は5万、当方は10万、攻撃までの猶予は24時間と迫り、相手を無条件降伏させる。

 

第16軍の司令官・今村均中将(津川雅彦)は、インドネシアの国情を踏まえた統治に努め、独立を推進する方針だ。彼は現地の子供たちに、コンペイトウを配るなど、優しい心をもっている。

 

島崎は、インドネシア青年を育てたいと、情熱を持っていた。彼は、軍上層部の許可を得て、インドネシア青年を独立の志士たるべく鍛えるために「青年道場」を創設する。陸軍中野学校で学んだすべてを、青年たちに伝え、インドネシア独立の原動力に育てていく。

 

島崎は、少年の日から、「アジアの解放」という理想を抱いていた。その理想に、彼の心は燃えていた。彼の盟友が、宮田中尉(保坂尚輝)だ。彼らが道場の青年たちに教えるのは、「サンパイ・マティ」、「死ぬまで戦え」という精神だ。

 

厳しい訓練の日々。一人の青年が道場を脱走する。名は、ヌルハディ(ムハマド・イクバル)。島崎は彼を追い、つかまえ、叱り、殴る。そして言う。「独立は日本軍から与えられるものではない。自分の力で勝ち取るものだ」。ヌルハディは、心打たれ、道場に戻る。

 

脱走者には、炎天下、日没まで立ち続けるという罰が課せられる。島崎は、自分には連帯責任があると、ヌルハディとともに、酷暑の中を立ち続ける。そのとき、二人に、熱い絆が結ばれた。

ところが、大本営は、インドネシア統治の方針を変更する。当初は独立を支援する方針であったのに、日本の都合で、独立への動きを抑圧しようとする。青年道場をも潰そうとする。島崎はこれに抵抗し、廃止は免れた。しかし、日の丸とともに掲げてきたインドネシアの旗は掲揚できなくなった。

 

戦局思わしくない日本は、とうとう昭和20年8月、敗戦に至る。日本軍は、インドネシアを撤退することになった。そのとき、島崎に対し、インドネシアの青年たちは、武器を渡してほしいと要求する。その先頭には、ヌルハディがいた。島崎に鍛えられた彼は、ペタの勇士となり、いまや独立運動のリーダーの一人となっていた。島崎は、日本軍人として軍の規律を守らねばならない。また、部下を祖国に連れて帰らねばならぬ責任がある。武器を渡すことはできない。しかし、渡さねば、自分が育ててきた青年たちを見殺しにすることになる。島崎は苦しむ。しかし、終に、自分の責任で、ヌルハディらに武器を渡す。

 

島崎はこの責任を問われ、蘭軍にとらえられる。インドネシアの青年たちは、敢然と彼を救出する。その戦いの中で、多数の犠牲者が出た。島崎は、これに応えて決意する。「インドネシアの土となって、独立を勝ち取ろう」と。

 

島崎の盟友・宮田中尉は、オランダ人から島崎を逃がしたと嫌疑をかけられ、凄絶な拷問を受ける。しかし、宮田は屈しない。彼は拷問者に問う。「日本軍人であることが罪であるとすれば、350年間、オランダがインドネシアでやってきたことは罪ではないのか」。宮田は銃殺となった。彼が入れられていた牢の壁には、血染めの文字で、「インドネシアの独立に幸いあれ」と書き残されていた。

 

島崎は、独立運動に加わった看護婦アリアティ(ローラ・アマリとともに、仏教の遺跡を訪う。島崎は、インドネシアの大地をながめながら、誓う。「宮田。見ていてくれ。俺は日本人の誇りをかけて、インドネシアの独立のために戦い、必ず勝ち取って見せる」

「一旦は御国の為に捧げた命。異国の土となるも、これ又、男子の本懐。我儘をお許しください」。島崎は、祖国の母(藤村志保)に手紙を書く。手紙を受け取った母は、取り乱すことなく、静かに息子の無事を祈る。

 

オランダ軍との独立戦争の中で、多くの血が流れた。多数の日本人勇士が、壮烈に死んでいく。「サンパイ・マティ」――死ぬまで、戦えの精神だ。

 

勝利を間近にした夜、島崎は、背後から銃で打たれて死ぬ。彼を掻き抱き、泣きくれるアリアティは言う。

「日本は戦争に負けたけれど、あなたは勝ったのよ」――その勝利とは、独立戦争の勝利か。それともアジア解放の勝利か。

島崎の遺体を囲み、ヌルハディら独立をめざす青年たちは歌う。インドネシア・ラヤの歌声が、星空に響き昇っていく。

 

祖国に居る島崎の母は、宮田家を弔問する。宮田の帰りを待っていたのは、若妻(藤谷美和)と幼い娘だった。しかし、もはや宮田は帰ってこない。

 

遂に悲願のインドネシア独立はなった。

日本に帰らず、インドネシア独立のために戦った日本人は、約2000人。その半分が、尊い命をささげたという。

 

月日は過ぎ、インドネシア独立50周年の祝賀は盛大に行われる。首都ジャカルタのカリバタ国立英雄墓地には、独立運動の中で斃れた者たちの墓が並ぶ。その一角に、島崎と宮田が、葬られている。二人の墓は隣り合わせだ。

 

その墓に花をたむける人がある。宮田の娘(松原智恵子)だ。宮田の娘に、「青年道場」出身の将校が、軍刀を示す。宮田からもらったものだ。「彼の魂は私とともにある」と将校は言う。宮田が牢の壁に記した、「インドネシア独立に幸いあれ」。その血書は、「インドネシアの独立を求める人々に、勇気を与えたのです」と。

 

将校の妻は言う。「独立のために死んだ人々は、空にあがって星になるのです」と。

「独立の星…」、と宮田の娘は、空を仰ぐ。今夜も、その空には満天の星が輝くことだろう。(ページの頭へ

 

(1)以下の拙稿をご参照下さい。

 「インドネシア独立に協力した日本人

 「日本人はインドネシア独立を支援した

 

 

日本は分割占領を避けられた

2000.9.22

 

 戦後の日本占領が、米国一国のみの占領となったことは、幸いでした。米国の自由民主主義は、ソ連の共産主義よりはマシですから。

 

 昭和20年(1945)4月12日に、ルーズベルトが急死したことが、日本に幸いしたのです。もし彼が戦争指導を続けていたら、日本はアメリカ軍とソ連軍の両方に占領され、ドイツや朝鮮と同じような分断国家になっていたはずです。それがルーズベルトの方針だったからです。ルーズベルトは、共産主義に奇妙なシンパシーを持っていて、スターリンに対しても警戒心が薄かったのです。

 

 ソ連が日本占領を狙っていたことについて、ジャーナリストの恵谷治(えや。おさむ)氏が、雑誌『サピオ』1996/8/24-9/4号(小学館)に、詳しく書いています。

 それによるとーー

「無条件降伏した日本におけるソ連全権代表であるジェレビャンコに対する1945年8月17日付のスターリン指令書(要旨)は次のようになっている。

 『クリル列島及び釧路と留萌を含む両市を結ぶ線の北半部の北海道を、ソ連軍占領地区とするよう米国政府に要求した。また、東京におけるソ連軍の駐留地域をソ連に提供する問題をマッカーサー将軍に提起すること』。

 また、ソ連極東軍総司令官のワシレフスキイ元帥の隷下部隊に対する8月21日付の命令書(要旨)には、次のように書かれている。

 『北海道とクリル南部における上陸作戦の開始は最高司令官(スターリン)から追って命令される。南サハリン占領後、第9航空軍と太平洋艦隊をサハリンに移動させ、23日以降は北海道北部の占領態勢に入る。太平洋艦隊は大陸の2個師団を北海道に輸送することも考慮せよ』」

 

 私は北海道の網走地方の出身です。もしスターリンの指令が実行されていれば、私の故郷はソ連領となっていました。さらに、スターリンは首都・東京の一部にも駐留しようと狙っていましたから、東京にベルリンの壁が築かれた可能性さえあったわけです。共産化された地域は、恐ろしいことになっていたでしょう。

 

ところで、日本全体の占領計画に関して、米国は当初、4カ国による分割占領を考えていました。しかし、ルーズベルトの後を継いだトルーマンによって、単独占領に切り替えられたのです。

 

 恵谷氏によるとーー

「米統合参謀本部の統合戦争計画委員会(JWPC)は、日本の降伏を前提に連合国による分割占領計画を作成していた。『日本及び日本領の最終的占領』と題された計画書によると、占領計画は次のような3段階となっていた。

 

●第1段階(最初の3ヶ月)=アメリカが単独で日本を占領し、朝鮮は米ソが暫定的に分割占領する

 

●第2段階(第1段階に続く9ヶ月)=日本と朝鮮を米英ソ中の4カ国で分割占領

 @日本=東京(4カ国の共同占領)

 A北海道と東北地方(ソ連=5個師団)

 B関東甲信越と近畿地方(アメリカ=7個師団)

 C中国地方と九州(イギリス=4個師団)

 D四国(中華民国=3個師団)

 E朝鮮=京城(ソウル/米ソ共同占領)、その他は4カ国の分割占領

 

●第3段階(占領から1年後)=大部分の占領軍は撤収し、朝鮮には4カ国共同管理委員会を設置し、信託統治を経て完全独立をさせる」

 

 しかし、最終段階で、トルーマン米大統領はアメリカによる単独占領を決意したのです。そして、スターリンの北海道と東京をソ連軍の占領地区としたいという要望を退けました。トルーマンには原爆の「成功」によって、ソ連への軍事的優位を確立したという自信があったのでしょう。

 

 この決断は、日本のためにと、そうしてくれたのではありません。アメリカの国益を追求した、冷徹な、リアリスティックな政治的判断です。それが結果として、わが国にとって幸いしたわけです。

ただし、この決断をしたトルーマンは、「悪魔の兵器」原爆を広島・長崎に落とした張本人であることを、忘れてはなりません。そして、トルーマンを始め、アメリカ大統領の誰一人、原爆投下について日本に謝罪した者がいないことも。

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