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■「日本弱体化政策」の検証〜日本の再生をめざして

1996.12.15初版/2001.2.19一部改訂

 

<目次>

第1章 アメリカによる「日本弱体化政策」

第2章 「日本弱体化」と文明の大転換

第3章 「日本弱体化」の秘密計画

第4章 「自由」という名のキツーイ弾圧

第5章 反日日本人が誕生・増大した

第6章 「日本弱体化」のための東京裁判

第7章 日本国憲法は「弱体化」の総仕上げ

結 び 日本の再生をめざして

 

 

第1章 アメリカによる「日本弱体化政策」

 

  私は、今日の日本人は、心の危機にあると思います。その危機の背景には、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があると思います。いわば、戦後の米ソの冷戦構造が、日本人の心の深層に構造化されたまま、心理空間をワープしているといえましょう。危機の背景の一つ、「日本弱体化政策」について、検証します。

 

1.日本占領の期間

 

  大東亜戦争=太平洋戦争の期間は3年8ヶ月でしたが、連合国軍による日本の占領はその約1.8倍の6年8ヶ月の長期に及びました。戦争が終わったのちこれほどの長期間、占領軍が駐留して占領政策が行われたという国は、他にありません。

  実は、戦争は8月15日に終結したのではありません。国際法上は、戦争状態の終結は、講和条約の発効する時点においてです。それまではれっきとした戦争状態です。それゆえ、連合国軍は「戦闘段階終了後の占領段階において、連合国の利益にかなった日本社会の改造政策を戦争行為(軍事行動)として推進した」(佐藤和男博士)のです。それは、武器による物理的な戦争の段階に続く、政治と宣伝と教育による戦争の継続でした。物理的破壊ではなく、心理的・制度的破壊が徹底的に行われ、日本人の精神的改造が行われたのです。この遂行のために「日本は無条件降伏した」という虚偽の下に、他に比類なく長い日本占領が行われたのです。(註1)

 

2.占領政策の目的

 

  アメリカの占領政策の目的は、明確でした。「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月22日)には「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」と明記されています。アメリカは、日本が決してアメリカに報復戦争をすることのないように、日本人に戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪いとろうとしました。そして日本人を精神的に去勢し、日本の国家と社会をアメリカの意のままになる従属的な体制に変え、宗主国に対する従属国、保護国に対する非保護国的な存在にしようとしたのです。すなわち、占領政策とは、日本弱体化を目的とする政策だったのです。

  大東亜戦争=太平洋戦争において日本は無謀な戦争に突入して、敗れるべくして敗れました。しかし、国民は精神的には敗れていませんでした。終戦直後の日本人は深い悲しみの中にありながらも、誇りと勇気を持っていました。

  それゆえ、日本占領を開始したアメリカ人にとって、敗れてもなお静かに整然と行動している日本国民の姿は、不気味なものと映ったのでしょう。激戦直後の彼らにとって、日本人は「邪悪な悪魔」であり、いつかは自分たちに報復してくるのではないか、という脅威を感じていました。そこで、二度と歯向かってこないように、日本人の精神を打ちのめし、徹底的に精神改造をしようと企てました。

  江藤淳氏の言葉を借りると「日本軍の『物的武装解除』をもたらした直接の引き金が、原子爆弾の投下であったとするなら、『精神的武装解除』(=バーンズ国務長官)のためにも無差別的な原子爆弾が投下されなければならなかった。そのことによって日本人の誇りを打ち砕き、日本人のセルフ・イメージを根底から塗り替えなければならなかった」というわけです。

  精神改造の始めは「日本は無条件降伏した」と思わせ、連合国軍の政策への抵抗の意志を奪うことでした。さらに強引な言論統制と巧妙な検閲によって、批判を封じたうえで、日本人に戦争に対する罪悪感を植え付ける計画を実行しました。民族の固有の伝統と歴史を否定して愛国心を根こそぎに抜き去ること、国の指導者に対する国民の不信感をかき立てること、共産主義者に活動をさせて国論を分裂させることなどして、日本人の精神的団結を破壊しようとしました。これらの政策は、すべて一つの目的のために遂行されましたーー日本を弱体化することです。

  その効果は、決定的でした。原爆に匹敵するほどの破壊力を示し、今日もなおその放射能は日本人の精神を汚染し、日本人の背骨を虫食み、自滅へ導いています。

 マッカーサーが米国への帰国後、日本人は占領が終わって独立国になっても、なお占領時代の自分のダマシに気がつかないから、「日本人の精神年齢は12歳だ」と嘲笑したことは有名です。

 「君の精神年齢は12歳だな。日本人はみんなそうだ」といわれて、あなたはどう感じますか? 「別に」「関係ないよ」などと思う人もいるかもしれませんね。今も日本には、マッカーサー好みのよい子が多いのです。不正に対しても怒れない、戦えない、卑屈で、依存的で、自尊心も自衛本能も失った日本人こそ、彼の目標でしたから。

 

3.占領政策の内容

 

  占領政策とは、日本弱体化政策であり、それは同時に、連合国軍側の戦争行為の正当化、戦争犯罪の免罪でした。私は、占領政策のポイントを主に5つに分けて考えています。

 

(1)言論統制と検閲の実施

  特に連合国軍総司令部の占領政策への一切の批判の封じ込め

(2)民族の伝統・歴史の否定

  特に修身、国史の授業停止による、伝統的な倫理道徳と歴史観の根絶

(3)戦争犯罪宣伝計画の徹底

  特に『太平洋戦争史』による「勝者の歴史」=「真相」という洗脳、罪悪感の移植

(4)東京裁判の開催

  国際法に根拠を持たぬ勝者による復讐劇。 日本=極悪犯罪国家という一方的断罪

(5)GHQ製憲法の押し付け

  占領政策の総仕上げ。法制化による継続化。主権の制限による属国化・被保護国化。

 

 以上の五つです。以下の章で、これらについて具体的に記述したいと思います。

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(1)日本は無条件降伏していないことについては、以下の拙稿をご参照下さい。

 「日本は無条件降伏などしていない

 

第2章 「日本弱体化」と文明の大転換

 

  今日の日本人の心の危機は、背景に、戦後の「日本弱体化政策」と「反日共産思想」があると書きました。私は、これらは異文化間のダイナミックスの産物であり、文明の歴史的転換に伴った抵抗力・反動力の作用だと考えます。

 

1.異文化の破壊と同化

 

  大東亜戦争=太平洋戦争は「異文化間戦争」でした。そして、アジア・太平洋の全域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマでした。それは、白人種西洋文明と有色人種東洋文明という異質なものの激突でした。ここで、西洋欧米の側には、白人の有色人種に対する人種差別、キリスト教徒の異教徒(東洋宗教)への優越意識、西洋的価値観=普遍的真理、という心理的要因が強烈なファクターとして働いたと思います。

  西洋キリスト教文明の白人にとって、東洋・日本の文明は全く理解できないものだったでしょう。風貌は黄色いサル。何をしでかすかわからない。バンザイ突撃、特攻隊等はクレージ。死にもの狂いで攻撃してくる姿は、東洋鬼。日本の固有の宗教である神道は恐ろしい異教であり、土人の悪魔教のように映ったのではないでしょうか。彼らには、日本は邪悪な国というイメージが強烈に焼き付いていたのです。

  トルーマン大統領やバーンズ国務長官をはじめとする当時のアメリカの指導者たちは、日本という異文化を自らの文化と同化させ、自分たちと異なる哲学を破壊して、同一の価値観を強制しない限り、日本による報復の危険は去らないと考えました。それゆえ、日本弱体化政策とは、異文化を破壊する政策であったともいえると思います。

  英国のサー・ジョージ・サンソムは、名著『西欧世界と日本』のなかで、「このように強力な政治的圧迫と高度に組織化された宣伝とによって、一つの文化が意図的に他の異文化に影響力を強制しようとしたのは、史上ほとんどその前例を見ることができない」と指摘しています。

  こうした「異文化の破壊と同化」のための政策は、日本人の精神の徹底的改造を進めるものであり、日本人の心の深層領域までワープするものだったといえましょう。その最も強力な動力が、戦争犯罪に関する罪悪感の植え付けでした。この辺、なんとも、キリスト教の原罪観念的であり、また狩猟民族=ゲルマン=アングロ・サクソン的な発想だなあという気がします。

 

2.文明の歴史的転換の中で

 

  以上のことをさらに大きい枠で、捕らえたいと思いますーーー20世紀から21世紀へと入り、世界は大転換を続けています。図式的に言えば、西洋から東洋へ、物質科学から精神科学へ、人間中心から宇宙との調和へ、という転換です。そういう転換の「時」がきているのです。この転換期において、日本は東洋と西洋の融合点に位置し、文明の総合と進化のために重要な役目を担う運命にあります。

  しかし、戦前の日本の指導層は、この「時」を計ることができませんでした。日本とアジア発展の時を見誤って、戦う必要の無い無謀な戦争に突入し、自滅してしまいました。東条英機らが描いた「大東亜共栄圏」構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって散らせてしまったものです。それは、独伊ファシズムの覇道をまねて、力づくで無理矢理に進めたから、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったわけです。しかし、木にしても、早咲きの花が散って終わりではなく、季節がくれば自ずと満開になっていきます。そのように、日本は時の勢いを受けて、戦後、奇蹟的に復興し、旭日が昇るように今日の繁栄へと至り、また隷属から立ち上がったアジアは太陽の光を受けるように成長発展の道を歩むことができているわけです。

  そして、この21世紀には、一層この勢いが強まっていくでしょう。それを村山節氏や浅井隆氏のように「東洋ルネッサンス」と、また、ラビ・バトラ氏のように「黄金時代」ということもできましょう。

  さて、私は、アメリカの戦前の極東政策と戦後の日本弱体化政策は、こうした文明の歴史的転換に対する西洋物質文明からの頑固な抵抗・反動だった、と見ることができるだろうと思います。また、同様な抵抗・反動の別の形態が、反日共産思想だと考えます。マルクス=エンゲルスに始まり、ロシアで定式化された唯物論的共産主義は、西洋近代の物質主義の極限形態であり、日本・アジアの共産化と、それに伴う東洋精神文明への圧迫は、文明の歴史的転換への抵抗・反動の別の形態である、と考えています。

  その抵抗・反動が、日本において、最も激しく「自国民による反日」という形で現れるのは、日本が東洋と西洋の融合点に位置し、文明の総合と進化において、中心的かつ先端的な役目を担う運命にあるからこそでしょう。

  しかし「時」の勢いというものは、人為によって押し止めることはできません。いやがおうでも、転換は進んでいきます。その過程で、人類の精神的な進化が進んでいくのだろうと思います。言い換えれば、人類の中の宇宙的な心が目覚めるとでもいいましょうか。きっかけは、まず日本人が目覚めなければならない、日本人が目覚めるとき人類が目覚めるーーーその役割を果たしうるかどうかは、日本人本来の精神を取り戻せるかどうかにかかっている、と私は考えます。

  日本人が宇宙的な心に目覚め、人類の精神的進化に貢献するには、まず二つの心理的障害を取り除くことが必要です。それが、マッカーサーとスターリンという二人の亡霊によるマインドコントロールです。

  このマインドコントロールからの解放という課題は、日本人であれば、どなたでも、主義・主張や、思想・信条、宗教・宗派などを超えて、考えてみるべき問題だと思います。

 

  以上のような構図と展望の下に、「日本弱体化政策」について、次に具体的について書きます。ページの頭へ

 

第3章 「日本弱体化」の秘密計画

 

  戦後、日本を弱体化しようとした占領軍の政策には、ある秘密計画がありました。

 

1.秘密計画があった

 

アメリカの日本占領政策は、日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、日本が決してアメリカに報復することのないようにすることを目的としていました。

  日本占領の最高司令官マッカーサーがワシントン政府から受けた第1号命令は、日本を再び米国及び連合国の脅威にならないよう、徹底的に無力化、弱体化することでした。すなわち「降伏後における米国の初期対日方針」(昭和20年9月6日受け、26日公表)に「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とその目的は明記されています。そして、この目的の下に行われた占領政策は、日本人を精神的に去勢し、当時の日本人が持っていた愛国心を抹殺し、アメリカの属国的・被保護国な存在へと貶めようとするものでした。すなわち日本弱体化政策です。

  この政策を実行するにあたっては、秘密計画が存在したのです。

 

2.ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

 

  その名は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」でした。以下ここでは「戦争犯罪周知宣伝計画」と呼ぶことにします。

  日本弱体化政策には、周到な計画が存在しました。それは、日米戦争中から立案され、占領後は、その方針にそって、日本人から、力と弾圧によって、民族の歴史、道徳、団結心等を奪っていったのです。「戦争犯罪周知宣伝計画」の実行は、連合国軍総司令部の民間情報教育局(CI&E)が強力に展開しました。これは民間検閲支隊(CCD)による検閲と相乗効果をなして、日本弱体化を進めるものでした。

  CI&E発行の文書に、表題もズバリ「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」というものがあります。これは、計画実施の中間報告とでもいうべきもので、日付は昭和23年2月6日です。

  その文書の冒頭には「民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼしてきた民間情報活動の概要を提出するものである」と書かれています。「日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植え付ける」ことが目的です。

  またこの文書は「戦争犯罪周知宣伝計画を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものまでに拡大するにあたって、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている」と記しています。原爆投下への批判や日本側の言い分を圧殺しようとしています。

  そして、その計画は3段階に分けて行われました。

 

3.『太平洋戦争史』(第1段階のa)

 

  戦争犯罪周知宣伝計画の第1段階は、実質的には占領直後に開始され、CI&Eの文書によると昭和21年6月までに行われたものです。

  連合国軍は占領後まもなく、昭和20年9月から通信社・新聞社等への言論統制、検閲を始めました。この言論統制と検閲の下で、計画実施の第1段階が行われました。ここで重要かつ決定的な役目を果たしたのが、『太平洋戦争史』です。

 「太平洋戦争史」は、昭和20年12月8日から、日本のほとんどあらゆる日刊紙に一斉に連載されました。マッカーサー司令部は、日本の真珠湾攻撃の日を選んで、スタートしたのです。これは、日本全国民に対する戦争犯罪周知宣伝計画の開始でした。

  『太平洋戦争史』は、CI&Eが準備し、GHQ参謀第3部の戦史官の校閲を経てつくられたものです。国務省(=外務省にあたる)が作成した資料を下にしており、勝者の立場で、米国中心に書いた歴史書です。

  この文書は、まず「太平洋戦争」という呼称を日本の社会に導入したという意味で歴史的な役割を果たしました。連載開始1週間後の12月15日には、「大東亜戦争」という呼称は禁止されました(「神道指令」による命令です)。それとともに、日本の立場からの戦争の見方は抹殺されました。今日「太平洋戦争」という呼び名を安易に使っている人は、自分がアメリカ人の立場で戦争を見ていることに気づいていないのです。

 『太平洋戦争史』は、「戦争を始めた罪と、これまで日本人に知らされていなかった歴史の真実を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している」ものです。それによって、日本人のセルフ・イメージを破壊し、日本の過去は悪の歴史であるというイメージを刷り込み、戦争の罪悪感を植え付けるものでした。それは、続いて、昭和21年6月から行われる東京裁判への準備でもありました。

『太平洋戦争史』はNHKのラジオでドラマ化され、ラジオ番組「真相はこうだ」として放送されました。昭和20年12月9日より翌年の2月10日まで、週1回10週間にわたっての放送でした。

  なかでも東京裁判を通じて、日本人に初めて伝えられた「南京大虐殺」の放送は、国民に深刻な心理的打撃を与えました。これは日本人の罪悪感の形成に決定的な影響を与えました。虐殺行為を針小棒大に強調し、誇大な数字を捏造したキャンペーンでした。このキャンペーンの延長線上に、朝日新聞の本多勝一氏がいます。(1)

  新聞連載終了の後、『太平洋戦争史』は、本として10万部印刷され、昭和21年3月より完売されました。それだけ売れたのは、学校の教材として使用されたからです。すでにマッカーサー司令部の命令により、昭和20年12月31日に、修身、国史、地理の授業が即時停止されていました。その中で、21年4月、文部省は全国の小中学校に、これらの授業停止中の教材として『太平洋戦争史』を使用するよう通達しました。そして、『太平洋戦争史』は学校で、子供たちの頭に教え込まれました。それは、とりもなおさず、戦争犯罪周知宣伝計画の浸透でした。

  一方、マッカーサー司令部は、文部省に対して、この勝者の歴史観に沿って教科書を書き改めさせました。ここで協力した学者が、教科書裁判で有名な家永三郎氏らでした。改ざん後、子供たちの教科書は『太平洋戦争史』に基づく歴史観で書かれ、基本的にはほとんど改正されずに現在に至っています。

『太平洋戦争史』が宣伝された5ヶ月後、昭和21年5月3日に、東京裁判が開廷されました。6月24日に市ヶ谷法廷において行われたキーナン首席検事による劈頭陳述は、『太平洋戦争史』に呼応し、それと同質の歴史観に基づくものでした。まさに『太平洋戦争史』こそ、いわゆる「東京裁判史観」の原点です。

『太平洋戦争史』とは、どんな内容でしょうか?  端的にいうと、米国の国益のために書かれた宣伝文書です。戦争の原因を国際関係を動かすさまざまな動因から総合的に把握しようとするのではなく、歴史的事象の一部を断片的に切り取って並べ、日本にのみ戦争責任があるように、描いています。一方、米国にとって都合の悪いことは一切触れていません。その典型として、排日移民法は一切ふれられていません。この法律は、日本を一方的に敵対視して、日本人のみを特定して排除した人種差別的な法律です。その結果、日本の平和主義者を潰し、軍国主義者を台頭させて、日米戦争を招いた誘因となったものです。また、米国が大不況への対策として自国の経済を守るためにブロック化し、これに対抗したイギリスもブロック経済化したことが、世界経済に重大な影響を与え、市場から締め出された日本は自存自衛のために大陸へ活路を求めていかざるをえなかったという事情も、描かれていません。このように一面的な記述であるため、この文書は歴史書というより、政治的な宣伝文書と呼ぶべきものです。

  江藤淳氏によれば、「『太平洋戦争史』なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんど民間検閲支局(CCD)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である」「教育と言論を的確に掌握しておけば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことをCCDの検閲とCI&Eによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、表裏一体となって例証している」。

  そして、戦後日本の歴史記述の大部分は、言論弾圧と検閲の下に、日本人の脳髄に刷り込まれた「太平洋戦争史」に基づいたものです。昭和57年の第1次教科書問題も、中国・韓国等に対する謝罪外交も、来年使用予定の中学歴史の「危ない教科書」も、基をたどれば、この宣伝文書に発するものといえましょう。

 

(1)南京事件については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「南京での『大虐殺』はあり得ない

 


4.記憶と歴史の剥奪(第一段階のb)

 

 「ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶を消すことだ」という箴言があります。アメリカは、この古来の鉄則に忠実に、日本の弱体化政策を実行しました。つまり、日本民族の固有の記憶と歴史を剥奪し、代わりに勝者の歴史を吹き込んだのです。

  与えられた勝者の歴史とは、戦争犯罪周知宣伝計画の第1段階において決定的な役割を果たした『太平洋戦争史』でした。そして、民族の固有の記憶=歴史の剥奪には、『太平洋戦争史』が出された1週間後の昭和20年12月15日に発せられた「神道指令」が重大な効果をもたらしました。

 「神道指令」は、日本固有の民族的信仰の神道と国家との結びつきを禁止するものでした。今日では、神道は、宇宙生命との融合、自然環境との共生を重んじた宗教であり、原始文化と現代文化を調和させたユニークな日本文明の根本にあるものとして、世界的に高く評価されています。また、多くの識者から、21世紀に人類文明が新生するために、神道の持つ平和的でエコロジカルな性格が期待されています。しかし、戦後間もない頃には、神道は、日本の「侵略戦争」の思想的根源のように見られていました。

  占領軍によるいわゆる「国家神道」の解体を、政教分離、信教の自由の実現として評価する人も多いことでしょう。しかし、一つ忘れてはならない問題があります。それは、ポツダム宣言及び降伏文書に違反するものだったことです。ポツダム宣言は第10項で「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していたからです。

  戦争の勝利者が、敗者の宗教に手をつけるということは、異例なことでした。文字どおり無条件降伏したドイツにおいてさえ、行われていません。日本における「神道指令」は、有色人種への人種差別と、ユダヤ=キリスト教による異教への弾圧という意志があったと、私は推察しています。

 「神道指令」は、例えば、ホメイニのイランや、フセインのイラクをアメリカが破って占領したとした場合、「イスラム教指令」を出して、国家と宗教の結合を断ち切ろうとするようなものです。西洋では17世紀のドイツ30年戦争前に行ったことです。

  マッカーサー司令部は、「神道指令」と同時に、神武天皇による日本建国の理想とされた「八絋一宇」という言葉の使用を始め、日本民族の理想やロマンを伝える伝承や神話の抹殺を命じました。古事記・日本書紀はもちろん、古くからのおとぎ話までが消されました。これは、欧米でいうならば、聖書・ギリシャ=ローマ神話からイソップ物語までを否定することにあたりましょうか。

  同時に、楠木正成、東郷平八郎などの国民的英雄の名が削られ、反対に足利尊氏、幸徳秋水ら反逆者や不忠者を讃えられました。また、西郷隆盛、吉田松陰らに関する本の発行も禁止されました。彼ら明治維新の英傑たちは、西洋の植民地化に対抗して、日本の独立を守り、アジアの興隆を目指した指導者でしたから、近代日本の背後にある危険思想と見なされたのでありましょう。西郷さんなどは、内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』の人物像の一人であり、まさに「代表的日本人」こそが、アメリカにとっては、危険人物だったともいえましょう。

 

5.東京裁判の準備(第2段階)

 

  秘密計画を報告した連合国軍総司令部民間情報教育局(CI&E)の文書によると、戦争犯罪周知宣伝計画の第2段階は、昭和21年年頭から開始された、となっています。CI&Eの文書には、この段階では「民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰り返し一貫して戦争の原因、戦争を起こした日本人の罪、および戦争犯罪への言及が行われた」と記されています。そして、新聞、ラジオ、映画等のメディアが徹底的に利用され、特に新聞へは、記者会見、報道提供、新聞社幹部と記者への教化等によって「毎日占領政策の達成を周知徹底」した、と記述されています。

  特に重点が置かれたのは、東京裁判という歴史的な一大イベントの予告と、報道です。昭和21年6月に極東国際軍事裁判所が開廷されるにあたっては、国際法廷の解説や戦犯裁判の資料を提供して、東京裁判の違法性を隠蔽しました。裁判中は、「とりわけ検察側の論点と検察側証人の証人については、細大漏らさず伝えられるよう努力している」と文書は報告しています。日本の弁護側と弁護側証人については、わずかしか伝えないという情報操作が行われたのは、言うまでもありません。

 

6.原爆批判と日本の言い分の封殺(第3段階)

 

  この文書がだされた昭和23年2月6日現在では、第3段階は進行中です。第3段階は、東京裁判の最終論告と最終弁論を目前にして、緊迫した情勢を反映したものでした。文書には、原爆投下への批判と敗戦国の言い分を圧殺し、連合国を全面的に正当化しなければならないという連合国側の危機感が漂っています。

  文書の述べているところを要約するとーーー合衆国の一部の科学者、聖職者、ジャーナリスト等の発言に示唆されて、日本人の一部が、原爆投下を「残虐行為」の烙印を押してはじめている。さらに、これらのアメリカ人のあいだに、一部の日本の国民感情を反映して、広島での教育的人道主義的運動は、「贖罪」の精神で行われるべきだという感情が高まりつつある。これとともに、東京裁判で東条英機が「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない」云々。

  こうした原爆問題と東條証言による連合国・米政府への批判の高揚に対抗して、戦争犯罪周知宣伝計画の第3段階が展開されたのです。

  その内容は、それまでの段階以上に、繰り返して日本人に「日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍が行った残虐行為について自覚」させようとし、特に「広島と長崎に対する原爆投下の非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーン」を行おうとしたものです。日本の「侵略」や「残虐行為」は、原爆投下の免罪のために強調されたのです。そして、日本は犯罪国家だから原爆を投下したのは当然だ、悪いのは日本の軍部指導者である、という意識が徹底的に植え付けられました。特に、東條証言で陳述された日本側の言い分を一切認めず、「悪者はコイツだ、うらむならコイツだ、俺たちはワルクナイヨー、なんの罪もナインダヨー」と、日本国民が連合国批判に向かわないように、宣伝しました。

  実は、東京裁判はそれ自体が、最も大規模なウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムであったといえます。それとともに江藤淳氏の言葉を借りれば、「日本人から自己の歴史と歴史への信頼を、将来ともに根こそぎ『奪い』去ろうとする組織的かつ執拗な意図を潜ませていた」ものでもありました。

  連合国側は、日本の戦争は「共同謀議による侵略戦争」と決め付け、日本の指導者を「平和と人道に対する罪を犯した戦争犯罪人」として処刑する意志でした。これに対し、東條英機は、総理大臣としての責任を認めつつも、大東亜戦争は自存自衛の戦争だった、と日本が戦争に至った世界史の展開と、日本の立場を陳述しました。それはCI&Eの文書が、東條は「自分の立場を堂々と説得力を以て陳述した」と書き止めたほど「説得力」のあるものだっただけでなく、東京裁判では連合国側の戦争責任が一切問われていない、という矛盾を鋭く指摘するものでもありました。

  判決は下り、東條は、連合国に操作された日本人同胞の憎悪を浴びながら、絞首刑にされました。マッカーサーは、そのわずか2年半後の昭和26年5月3日に、米国上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で驚くべき発言をしました。「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」ーーーつまり、太平洋戦争は、日本にとっては自衛戦争だった、とほとんど認める発言を行ったのです。そこには、朝鮮戦争で、ソ連・中国・北朝鮮の共産軍と戦い、共産主義の脅威を身を以って知ったマッカーサーの姿がありました。彼は、東アジアにおいて共産主義化を防ぐということが、戦前の日本にとって、いかに重大な死活問題だったか、ということを理解したのです。実は、マッカーサーは、その前年の10月15日、ウェーキ島でトルーマン大統領に対して、「東京裁判は誤りだった」と告白した、と世界中に伝えられています。

  しかし、東京裁判を行っていた時点でのマッカーサーは、国際法を超える最高決定権者として、「力と正義」の絶頂にありました。ジェネル・トージョーの言い分を、後に自分が認めるようになることなど、思い付くわけもありません。そして、戦争犯罪周知宣伝計画を遂行していきました。

 

7.プログラムは作動中

 

  占領時代は終わりました。東京裁判は、マッカーサー自身によって否定されました。しかし、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、多数の日本人の脳にセットされたままです。このプログラムは今、現在も作動しています。あなたの脳の中でも、おそらくーーーそして、日本という国が滅ぶ時まで、作動し続けるでしょう。

  但し、このプログラムをデリートすることは、簡単です。それが、謀略だということを知れば、それでいいのです。

 

参考資料

・江藤淳著『閉ざされた言語空間』(文春文庫)

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第4章 「自由」という名のキツーイ弾圧

 

  「日本弱体化政策」の一つは、言論弾圧と検閲でした。自由を愛する方、マスコミ人、マスコミ志望の方で、占領時代の秘話を御存じない方には、特に考えていただきたい内容です。

 

1.アメリカは言論統制と検閲をした

 

  戦後、アメリカは日本を「解放」し、「自由」を与えた、と思われていますが、さにあらず。占領下には、真の「言論の自由」はありませんでした。現実には、厳しい言論統制と検閲が行われました。それは、日本のマスコミや文化人の精神を捻じ曲げてしまうほど強烈な弾圧でした。その効果は、今日にいたるまで、続いています。

  連合国軍が、ポツダム宣言の諸条件を無視し、占領政策を銃剣の行使と命令の通達とによって強行する過程では、何よりもまず日本の新聞とラジオが、次いで日本の学校が徹底的に利用されました。つまり、マスコミと教育です。

  この過程で、アメリカは、日本の戦時中にも優る言論統制を行い、新聞、ラジオの検閲を始め、手紙等の郵便物の検閲までをあえて行いました。そして、アメリカの司令部へのへの一切の批判を封じたうえで、徹底的な反日宣伝を行い、日本弱体化政策を推し進めたのです。

 

2.戦前以上の言論統制

 

  ポツダム宣言にはどのように書かれていたのでしょうか? 宣言第10項には、「われらは日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有する者に非ざるも、われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」。

  また、第12項には、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし」という文言があります。

  第12項の「日本国国民の自由に表明せる意思」は、第10項の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」に照応するものと解釈するのが順当でしょう。しかるに占領軍当局は、実際には、「あれはああしろ、これはこうしろと指図」するかたちで一方的に改革を強制し、言論・思想等の自由に苛烈に統制を加えた上、「基本的人権」の無視さえも憚ろうとしませんでした。

  このように、ポツダム宣言と現実に実施された占領政策との間には、明らかに矛盾撞着が認められます。占領政策はしばしばポツダム宣言に背き、なかでも言論・思想等の自由は、占領下の日本には存在しませんでした。

  第10項によれば、「民主主義的傾向の復活強化」を実現すべき主体は日本政府以外のなにものでもありません。それは、戦前の日本に民主主義的傾向があったことを認め、その復活と強化をうたっています。軍部が台頭し、政治の実権を握る前の日本は、立憲君主制による議会政治を行っており、日本的な民主主義=民本主義が存在していました。ですから、ポツダム宣言によれば、日本政府は日本の自主性をもって「民主主義的傾向の復活強化」を行うことのできる権利を留保していました。とこらが、米国は、日本の政治社会システムのあらゆる形態を、米国式に変えることをのみ、民主主義化として、米国型の民主主義を、占領政策として押し付けました。それは、米国に将来決して脅威とならない属国化・被保護国化です。

  そのために、言論統制と検閲を必要としたのです。江藤淳氏いわく「これこそ勝者が敗者を一方的に支配するという『無条件降伏』の『思想』の、露骨な実践にほかならない」。

 

3.周到な事前準備

 

  言論統制と検閲は、マッカーサー司令部が勝手にやったことではありません。あらかじめ「統合参謀本部の許可無しには、これを終了させることはできない」と定められおり、合衆国最高司令官たる米大統領・ルーズべルトの命令によって、実施されたものです。

  しかも、それには、周到な事前準備がされていました。占領軍が日本で実施した報道管理体制の原型は、実は日米開戦直後に(!!)ワシントンで概略完成していました。その後、アメリカは日本占領のときのために、巧妙緻密な検閲計画を練り上げていたのです。これこそ、戦略的思考というべきものでしょう。

  米国は、民主主義国であり、言論の自由を謳歌している国です。それゆえ、国家による検閲を嫌悪しているアメリカ人が、戦争という国策上検閲を実施せざるを得ないような危機的状況に直面した際、政府は検閲の存在という事実を隠蔽しようとします。民主主義による言論の自由の下で、表面には見えないように、国民に気付かれない仕方で、検閲を行わなければなりませんから、米国では検閲の方法が非常に高度に発達しました。

  日本占領後に民間検閲を実施する組織を計画し、実際の検閲業務に熟達した人物が、民間検閲将校(Civil Censorship Officer)として選ばれました。アメリカのマスコミ界、出版界のプロが、国策のために検閲を引き受けました。また、多数の日本人を雇用し、検閲に協力させることも、決定していました。こうして長期的に準備が行われていました。

 

4.新聞ラジオへの言論統制の開始

 

  昭和20年9月2日、ミズーリ艦上の降伏文書調印によって、国際法上の戦闘行為は停止されました。この条件付終戦によって「目にみえる戦争」は終わりましたが、それに替わって「目にみえない戦争」、つまり「思想と文化の殲滅(せんめつ)戦」(江藤淳氏)が、開始されたのです。それは、国際法を無視して強行された隠れた戦争でした。日本における民間検閲は、この戦争で、ほとんど原子爆弾に匹敵する猛威を振いました。

  日本は敗戦・占領と同時に「言論の自由」を与えられたことになっています。ポツダム宣言第10項が「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障していました。しかし、実際には、降伏文書調印から2週間も経たぬうちに、昭和20年9月14日、同盟通信社が24時間の業務停止を命じられました。同社は、当時事実上の国営通信社というべき存在でした。業務再開を許されたときは、「同社の通信は日本のみに限られ、同盟通信社内に駐在する米陸軍代表者によって百パーセントの検閲を受け、(略)また海外にある同盟支局からのニュースはこの禁止が緩和されるまでは使用してはならない」ことになりました。つまり、連合国司令部を通じるルート以外には、日本の立場からのニュースが海外諸国に流れないよう、また海外からのニュースが日本に入らないように、報道をシャットアウトしたわけです。続いて行われた言論弾圧は、日本のマスコミの姿勢や精神を根本的に捻じ曲げるほどに強烈なものでした。

 

5.フーヴァー大佐の声明

 

  9月15日に、民間検閲支隊(CCD)の支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社、日本放送協会等の日本報道関係代表者を集めて、通告を行いました。

 

  「マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等とみなしていないことを明瞭に理解するよう欲している」

  「諸君が国民に対して提供してきた着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉しているような印象を与えている。交渉というものは存在しない。(略)最高司令官は日本政府に対して命令する。しかし交渉するのではない。交渉は対等の者の間に行われるのである」

  「今後、日本国民に対して配布される総てのものは、一掃厳重な検閲を受けるようになる。新聞とラジオは引き続き100パーセント検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破壊的批判も然りである」

 

  江藤氏曰く「この声明はポツダム宣言の規定する双務的、相互拘束的な日本と連合国との関係を、真っ向から否定していた。即ち合意による敗北の全称否定であり、征服による敗北の一方的な宣言である」。

  フーヴァー大佐は、9月6日付のトルーマンのマッカーサーへの指令に立脚して声明していました。

  この指令の第1項は「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」と規定し、第3項はさらに重ねて「われわれがポツダム宣言を尊重し、実行しようとするのは、日本との契約関係に拘束されていると考える」のではなく、同宣言が「日本に関して、また極東における平和および安全に関して誠意を以って示されているわれわれの政策の一部をなすもの」だからである、と述べています。

  かくして、江藤氏曰く、日本の報道関係者たちは「これからは日本人のための記事を書いてはならない、占領軍のための記事だけを書かなければならない、と言い渡されたに等しい」。

 

6.1週間のうちの劇変

 

  昭和20年9月14日に同盟通信社が24時間の業務停止を命じられました。そして、次々に弾圧の手が差し伸べられていきました。朝日新聞が18日から48時間、英字新聞『ニッポン・タイムズ』が19日から24時間の発行停止処分を受けました。また、『東洋経済新報』は9月29日号の回収と断裁処分を受けました。

  『東洋経済新報』の場合は、次のような内容が弾圧の原因となったものですーーー「米国はかつて無謀な移民法の制定により、日本の平和主義者を打倒し、軍国主義者の台頭を促した。今次の極東戦争はここにその遠因の一つが存する。これは米人自身の認める見解だ」

  (ははあー、人種差別的で反日的であった「排日移民法」への批判は一切許さないというわけですな。ちなみに「排日移民法」は『太平洋戦争史』でも一切触れられていません。「自由と正義の解放軍」には、恥部はあってはならないのですね)

  9月14日から21日の1週間のうちに、占領下の日本の新聞、雑誌等の論調には、一大転換が起こりました。特に、朝日新聞が21日に発行停止を解除されたときには、論調が劇的に変化していました。敗戦直後の朝日は、占領下の日本国民の心情を切々と書いていましたが、それがコロッと変わり、反政府的反国民的な論調へと転換しました。あきれるほど見事な「転向」です。

  かくして、日本の新聞とラジオは、連合国軍司令部に対する一切の批判と抵抗の自由を封殺されていました。銃剣の下に、測り知れぬほどの圧力が、日本の言論精神に加えられたといえましょう。

 

7.占領軍の宣伝機関に

 

  9月21日には、日本新聞遵則(プレス・コード)、日本放送遵則(ラジオ・コード)が、出版・報道関係者に公表されました。

  その内容は、プレス・コードの次のような条項をみれば、明らかです。

 「第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず」

 「第3条 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず」

 「第4条 連合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず」

 「第5条 連合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず」

  これらの遵則は、以後6年半にわたって日本のマスコミを拘束しました。

  こうして「言論の自由」が完全に圧殺されていたので、9月26日に、トルーマン大統領のマッカーサーに対する指令(JCS1380/6)が新聞紙面に掲載されたとき、それをポツダム宣言・降伏文書違反として批判できる新聞は、どこにもありませんでした。

  トルーマンの指令には、公然と国際法を無視した次のような内容が示されていました。

 「一、天皇および日本国政府の権限はマッカーサー元帥の支配下におかれる。連合国と日本との関係は契約的基礎の上にあるのではなく日本は連合国に対して無条件降伏を行ったのである。マッカーサー元帥の権威は日本に対して至上のものであるからマッカーサー元帥の権威の範囲に対する日本人の質問を許してはならない。

  二、日本の管理はマッカーサー元帥が速やかにその意図を実行し必要とあらが武力を行使する権利を傷つけずに良好なる結果を生ずる場合にのみ日本政府によって行われれるであろう。

  三、対日戦後処理問題に関するポツダム宣言は契約上の要求にもとづいてなされたものではなく、日本および極東の平和ならびに安全に対して誠意ある政策を実施せんとする意図の下に発せられたものである」

  マッカーサーは、この指令を、占領間もない9月6日に受け取っていました。しかし、26日までの20日間公表せずにいました。この間に、マッカーサーは、日本の新聞、ラジオ等を徹底的に弾圧し、連合国司令部に対し、一切批判・抵抗できないようにしたうえで、公表したのです。この20日の間に、日本のマスコミは、有無を言わさず、占領軍の宣伝機関に変じられました。マッカーサーは、こうしてマスコミを自分のマスコミとすることで、日本国民の批判・抵抗を抑えこむことができたのです。

 

8.イヌの「自由」

 

  続いて、9月29日には、「新聞と言論の自由に関する新措置」指令が出されました。この指令によって、日本の新聞は、「いかなる政策ないし意見を表明しようとも」「決して日本政府から処罰されることがない」という特権的地位を与えられました。国家の機密情報を暴露することも可能です。利敵行為、通敵行為も罰せられません。国家に対する忠誠義務から完全に解放されたのですから、これこそマスコミとして、究極の言論の自由を与えられたと喜ぶべきでしょうか?

  いいえ。日本の国家権力から解き放たれた代わりに、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれたのです。そして、連合国・米国政府の政策ないし、マッカーサーの意見の代弁者に変質させられたのです。つまり、日本のための言論機関から、連合国のための言論機関へと転向させられたのです。

  日本の新聞は、これに逆らったなら、商売として存続することは、できませんでした。生き残るためには、進んで連合国の対日占領政策遂行の道具となり、連合国の政策ないし意見を、鼓吹する以外に、道がなかったのです。これこそ、勝者から与えられた「言論の自由」の実態でした。イヌになれ、ということでしょう。

  出版関係者は「報道の自由」も「言論の自由」も存在しないことをよく知っていました。しかし、そのことを指摘したり活字にしたりすることは厳禁されていました。これが外国権力に対する完全服従を強制されたジャーナリズムの実状でした。

  かくして、9月29日をもって、日本の言論機関、なかでも新聞は、自国の国益を無視した、国籍不明のメディアに変質させられました。

  続いて、10月8日には、事前検閲が同盟通信社から、朝日、毎日、読売報知、日本産業経済、および東京新聞の東京5紙に対して、拡張実施されました。 読売報知は、今の読売、日本産業経済はサンケイです。

  こうした弾圧は非常に強烈でしたので、日本のマスコミの多くはマスコミとしての精神を捩じ曲げられ、今日にいたるまで卑屈な自主規制と自己欺瞞に陥っているほどです。

 

9.検閲の指針

 

  戦後日本を弱体化させ、マスコミの言論精神を偏向させたものに、マッカーサーによる徹底的な言論統制と検閲がありました。そこには、30項目に及ぶ検閲指針が存在しました。マスコミは、このことをほとんどとりあげていませんから、一般には知られていません。

  検閲指針は、昭和21年11月末には、まとめられていました。「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として、30項目が示されています。その内容とは、