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■新憲法へ――改正の時は今 2005.11.1 <目次> |
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憲法改正の時が熟しつつある。すでに自民党、民主党、読売新聞社案、政治家個人の案等、さまざまな改正案が出されている。これから私なりに、これらの改正案を検討しつつ、新しい憲法のあるべき内容を探りたいと思う。 私は、まず具体的な憲法の条文を作成する前に、一般に自明の前提とされている人間と自然、個人と社会、権利と義務、国家と主権、国柄と憲法、天皇と国民など、基本的な概念の掘り下げが必要だと思う。それを行ったうえで、改正案を提示したい。 以下の考察に基づく憲法改正私案は、「日本再建のための新憲法〜ほそかわ私案」をお読み下さい。 |
第1章
近代憲法の再検討を
日本国憲法(以下、昭和憲法とも呼ぶ)は、近代西洋文明の思想を基本としている。近代西洋思想は、すでに19世紀から反省が続けられてきている。今日ではその偏向・欠陥は常識となっている。 近代西欧に生まれた憲法においても、人間社会におけるきまりを定めるだけで、人間と自然との関係が自覚されていない。人類の生存を脅かすにいたった地球環境問題は、近代化によって、人間が自然に対して誤った態度を取ってきたことに由来する。近代化とは、生活全般の合理化の進展である。 自然は、征服すべき対象ではない。人間と自然はそもそも一体である。自然のなかで、自然に支えられて生きる人間という世界観を再発見することなくして、環境問題は決して解決せず、人類文明の持続・繁栄も得られない。わが国の新しい憲法においては、この人間と自然との関係について盛り込む必要がある。 次に、日本国憲法の人間観・社会観・国家観もまた、近代西洋の政治社会思想によっている。今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考える。 実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方である。わずか400年程前、西欧に始まった考えである。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考える。 こうした個人主義的な人間観の元祖は、デカルトである。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達した。 その問いの立場は、現実の社会における人間関係から自己を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という立場である。家族・親族・地域等の具体的な人間関係から己れを切り放すことによって、自己を独立させた虚構の立場である。 このような認識方法が広まったため、近代西欧の思想では、生命的な存在としての具体的な人間の姿が失われ、抽象的な人間観に陥った。 デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えた。アトム的な個人が契約によって社会をつくったという社会契約論である。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論がそこから生まれてくる。 なかでも日本国憲法に強い影響を与えているのは、ロックの思想である。ロックは医者であり、近代科学思想に通じていた。その新知識に基づき、要素還元主義的な発想によって、個人を社会の原理とする個人主義的な社会契約論を打ち出した。 ロックは、イギリス17世紀の清教徒革命の悲惨を見ており、共和主義の危険性を知っていた。名誉革命の理論家といわれるように、彼は君主制の下での議会制デモクラシーを理論化した。また彼は労働による所有を意義づけて私有財産を肯定し、近代資本主義を正当化した。 この一方、ロックは、国王が人民の権利を守らない場合は、これに抵抗することを正当化した。この抵抗権を徹底すると、革命を追求する共和主義が出てくる。 ロックの思想は、フランスのルソーや啓蒙思想家によって革命思想として発展し、アメリカ独立宣言、アメリカ憲法、フランス人権宣言に定着した。この思想が、日本国憲法に継承されている。日本国憲法の起草と同時代に制定された世界人権宣言もまた同様である。 日本国憲法に盛り込まれた近代西欧の政治社会思想は、個人主義・社会契約論・自由主義・デモクラシー・資本主義・主権国家論等である。キーワードは、個人、自由、権利、義務、人権、主権等である。主にこれらの概念の組み合わせによって、日本国憲法は作成されている。 新しい憲法を立案するに当たっては、こうした過去約400年間、西欧をはじめ、世界の広範な地域に流布されて来た近代思想そのものを再検討する必要があると思う。近代思想は、さまざまな分野で批判され、これを乗り越える努力がされてきている。そうした取り組みの蓄積が、憲法の立案においても生かされるべきと思う。 まず17世紀以来、世界を覆っている近代西洋思想のひずみを正すこと。それをしなければ、日本の新しい憲法は、21世紀の世界でわが国が発展・貢献できるものとはならないだろう。 (ページの頭へ) 註 ・私の日本国憲法論は、以下をご参照のこと。 |
第2章
家族から国家へ
新しい日本の憲法を考えるにあたっては、基本的な人間観と、それに基づく社会観・国家観の堀り下げが必要だと思う。
人間は、一人ひとりが独立した個人ではある。しかし、それ以前に、集団で生活を営む社会的動物である。本来、人間は、決して単なる個人ではない。人は生まれたとき、すでに集団の中に生まれてくる。誰でも自分ひとりで生きているのではない。親や先祖があるから自分が生まれてきたのである。 人間は生命的な存在である。子供は男女の結合によってのみ誕生する。いかなる個人も、父なくして生まれず、また母から産み出されなった者はない。また、父母または大人がこれを養育しなければ、生き、成長することができない。生命ある存在としての人間は、必ず死ぬ。個体としては死ぬが、出産・養育による世代交代を行いながら、集団としては生存を続ける。
人は、親、夫や妻、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、その関係の中で自分が生きている。この至極当たり前のことを、近代西洋の思想は軽視している。そこから抽象的な個人をモデルにした個人主義的な考え方が出てくる。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な関係の中で生きている。これは古今東西変わらない事実である。
家族において、個人は決して単なる抽象的な個人ではない。具体的な人間関係の中にあり、立場と役割をもった個人である。こうした人間観に立って、社会観・国家観を築きなおし、そのうえで新しい憲法を考える必要があると思う。
「個人」とは、こうした「家族」の中にある人間である。その「家族」は、さらに「親族」というより大きな血縁をもとにした集団の一部をなす。親族は、複数の家族の集合であり、拡大された家族ともいえる。その中には、非血縁による関係が含まれる。血族と姻族がある。その点で、親族は社会一般と、家族との間にあり、どちらにも開かれている。
企業は家族・親族とは、集団構成の原理が異なる。後者が生命のつながりを基本とした集団であるのに対し、企業はものとお金のつながりを基本とした集団である。そこでは利潤と効率が追求される。企業の経済的合理性は、家族・親族の生命原理としばしば対立する。社会の基礎的単位は家族であるから、国家は家族を尊重し、これを保護する役割を持つ。
人は生まれたときから、国家に所属する。そして、国民としての権利と義務を与えられる。このような集団はほかにない。国家は運命共同体である。人は祖国の国籍を持つことによって、国家と運命をともにする。この国家の統治機構が、政府である。国民は、全体の意思を合成・決定する。その意思を実行するのが、政府である。
一般に国家の発生は、決して社会契約によるものではない。国家は結社とは違う。しかも、わが国は、家族・親族・民族という生命的な組織が発展して形成された国家である。また世界史に他に類例がないほど長い歴史を持っている。新しい憲法は、こうした事実に基づいて作成されなければならない。論理的にも歴史的にも、社会契約論が入る余地は微塵もない。
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第3章
人類社会の将来を展望する
「国家」とは別の意味で、高位の集団に「宗教」がある。宗教は信仰をもとにした精神的なつながりによる集団である。それは国家に包摂される場合が多いが、国境を越えた国際的な集団となることもある。 その宗教が宇宙的な原理・法則に則った教えを説く宗教である場合、宗教は国家の原理を超えた集団となる。また、そのことによって「宗教」は、次に述べる「文明」の形成の核となる。 「国家」と「宗教」の両方にかかわる高位かつ広域の集団が、「文明」である。文明とは、文化が発展して、ある程度の高度な内容を持ち、広範囲に制度化されたものをいう。一般に一つ以上の国家と、複数の人種・民族を含む大規模な社会で、他と異なる文化を持つものが、文明である。 今日、人類の世界には、約190の独立国家とこれに準ずる地域団体がある。この国家・団体の集合が、国際社会である。国際社会の主体は、国家である。ここにいう国家とは、近代西洋に発生した主権独立国家のことをいう。 しかし、歴史的に見ると、近代以前の世界では、「文明」というより大きく、より長期的に持続する社会がいくつか並存し、その中でさまざまな国家が盛衰興亡を繰り返してきた。現代の世界においても、多数の国家を「文明」によって分類し、「文明」を単位として見るとらえ方が有効である。 文明という社会には、政治的・経済的・社会的・文化的の4つの側面があるが、その本質は精神である。制度や技術や様式ではない。とりわけ宗教が、文明の中核になっている。たとえば、近代西洋文明は、そのうちに多数の国家・民族・文化を包含しているが、その全体の基底となっているのは、キリスト教である。 国際政治学者のハンチントンは、冷戦後の現代世界の主要文明を、7または8と数える。すなわち、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする「西洋文明(西欧・北米)」、ギリシャ正教を基礎とする「東方正教文明(ロシア・東欧)」、イスラム教を基礎とする「イスラム文明」、ヒンズー教を基礎とする「ヒンズー文明」、儒教を基礎とする「シナ文明」、「日本文明」、カトリックと土着文化を基礎とする「ラテン・アメリカ文明」。これに今後の可能性のあるものとして、「アフリカ文明(サハラ南部)」を加える。
日本文明の場合は、「一国=一文明」という世界に比類のない特徴を持っていることを、ハンチントンは指摘する。私見によれば、日本文明の本質は、日本精神であり、その宗教的中核は神道である。
現代の世界は、多数の諸国がこれらの主要文明に属し、異文明間の対立・衝突や相互浸透が繰り広げられている。
文明間の違いの標識は、ハンチントンの分類が典型的であるように、主に宗教を基礎とした世界観・価値観に求められる。それゆえ、国家の抗争、文明の衝突を超えて、世界の平和と共存を実現するには、宗教間の対話・相互理解が重要となる。 従来の宗教は、地域的な文明の範囲を完全には抜け出ていない。真の意味の世界宗教は、まだ出現していない。今後、宗教が総合されて、真に地球的・普遍的な宗教の出現が期待される。 一方、宗教への最大の対抗要素は、共産主義である。マルクス主義的共産主義は、唯物論である。宗教を否定し弾圧する。近代西洋の合理主義を極度に推し進めたものが、共産主義であり、近代文明の弊害を極大化したものでもある。かつては「東方正教文明」が共産圏の中心だったが、今日では「シナ文明」が、共産主義の根拠地となっている。中国と北朝鮮がそれである。「シナ文明」が脱共産化・自由化し、宗教的精神的価値を取り戻すことが、東アジア及び世界の平和にとって重要な鍵となる。 これまで見てきた「家族」に始まり「文明」にいたる諸集団を包含しているものが、「人類」である。人類は、地球に住むヒトという種の集団である。人類の歴史においては、諸部族・諸民族・諸国家が、対立・抗争を繰り返してきた。 近代に至って、西欧に始まった生産・交通・通信・情報等の発達により、人類は一つの国際社会を形成する方向に進んできた。その過程で、白人種による有色人種の奴隷化が行われた。20世紀前半には2度の世界大戦が勃発した。その後、有色人種の諸民族のほとんどが独立を勝ち取った。20世紀の中後半は、共産主義の伸張により、自由主義と共産主義に世界が二分された。しかし、1990年前後に「正教文明」の多くの国で共産党政権が崩壊した。だが現在も、東アジアには共産主義が残存している。 こうした世界において、諸国家は大きくは共存と協調の方向に向かいつつも、部分的には対立と闘争を繰り返している。また、文明の単位で見れば、複数の文明が並存しつつ、衝突と融合を起こしている。 その中で、「西洋文明」の下位文明であるアメリカ文明は、合衆国の圧等的な軍事力・技術力・経済力に基づいて、他の文明に強い伝播力を及ぼしている。そのことが、文明間・国家間の摩擦を引き起こしている。その副産物として、「宗教」に基礎を置いたイスラム・テロリストが、「国家」の枠を超えた戦いを挑むという新たな事態を生じている。 国際社会の諸国家のほとんどは、「国際連合=連合国」に所属している。国連の中枢は、核大国が占め、寡頭支配を行っている。しかし、核兵器は寡占状態から中小国や小規模団体へと拡散する傾向を見せている。万が一、大規模な核戦争となった場合、人類絶滅となる可能性が高い。 また、地球環境の汚染・破壊は、20世紀半ば以降、人類の生存にかかわる段階に入り、事態は深刻さを深めている。「持続可能な発展」を現実的なものとするには、国家や企業の利己主義を超えた一致協力が不可欠となっている。 危機に直面する人類社会が平和を得、調和のある繁栄を続けるには、どうしたらよいだろうか。長期的な方向性としては、「ひとつの地球共同体」をめざして、粘り強い努力を続けていく必要があるだろう。各国においては、それぞれの国家が独自の文化を育み、道義に基づいた国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できるだろう。 その過程で、従来の諸国家は「世界の廃藩置県」を断行する時期にいたるだろう。すなわち、近代国家が保有していた主権を一部制限し、より高次の共同体をつくる。国家が個別に戦力を持たず、その戦力を提供し合って、共有の戦力を持つ。いわば世界警察をつくって治安を維持する方式となるだろう。 しかし、その道のりは、相当長いものとなるだろう。国際社会は、中東や東アジア等で、逆に対立・緊張を強めているのが、現状である。 来るべき「世界の廃藩置県」においては、各国による主権の制限が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない。文化的には多様なものの共存調和を実現すべきである。 諸国家・諸文明は、各々の文化をそれぞれ独自の性格において発展させながら、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合う。各国民は互いに犯すべからざる尊厳と価値をもち、いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されないような地球社会をめざしたい。 わが国の新しい憲法は、人類の歴史を踏まえ、今日の人類の課題を認識し、人類の将来を展望し、その中で、今日のわが国と日本文明の役割を自覚して、内容に盛り込む必要があると思う。 具体的には、個別的集団的自衛権を確認して自衛軍を持つことを明記し、国際協調を図りつつ、恒久平和と地球環境保全のための国際貢献を行っていく姿勢を掲げることが必要だと思う。 (ページの頭へ) |
第4章
人間観の転換が必要
人類が将来、「ひとつの地球共同体」を創造するには、それにふさわしい人間観が必要となるだろう。私たちは、人間をどのようなものととらえるべきだろうか。 西欧から始まった近代は、個人の自由と権利が獲得・拡大されてきた時代であった。西欧文明を摂取した明治憲法は「臣民権利義務」を定め、また昭和憲法は「基本的な人権」を保障した。一体、なぜ憲法が自由と権利を国民に与え、また保障するのか。そこには、どのような人間観が想定されているのか。 近代的な自由は、西欧において宗教的信仰に関する自由の獲得に始まった。キリスト教の宗教改革が、この信教の自由を求める運動だった。諸国参戦の宗教戦争が起こったり、専制君主による宗派の規制・強制は市民革命を引き起こしたりした。その結果、内心の事柄に対しては国家(政府)は干渉しないという原理が定まった。 次に、政治的な自由が要求された。国王の権力に制約をかけるという段階から、民衆が政治権力に参加し、意思決定に関わるという段階へと展開した。自由主義からデモクラシーへの発展である。思想・信条の自由、言論・表現の自由、集会・結社の自由等が実現した。その後、社会的自由等へと種類・範囲が拡大されてきた。こうした自由の拡大は、国民の権利として正当化された。 政治権力への参加によって、国民は自国を自ら守るという国防の義務を担うことともなった。他の国民に征服・支配されれば、その国民は自由を奪われる。独立は最も重要な自由であり、「国家独立の自由」が確保されていてはじめて、個人的な自由と権利が保障される。それを国民みなで守るというのが、近代国民国家である。「国連=連合国」の「世界人権宣言」にしても、こうした事実に基づいて、権利面のみを謳っているものである。義務については、各国家において担うことが前提となっている。 さて、私見によれば、近代西欧における自由と権利の獲得・拡大は、人には幸福を追求する能力があることを前提にしている。幸福とは、よい状態、健康で快く楽しい状態という程度に考えておきたい。 幸福の追求は、生命が守られ財産があることを最低の必要条件とする。いつ自分が殺され、いつ大事なものが奪われるかわからないのでは、幸福の追求どころではない。それゆえ、近代国家は、国民の生命と財産を守ることを主要な役割とするようになった。 私見によれば、人が幸福を求めるのは、人間は単に生命的存在ではなく、人格的存在だからである。近代西欧において獲得・拡大されてきた自由と権利は、個人には「人格」があるという認識に基づいていることが読み取れる。 人格とは、人としての資格である。自律的な意志を持ち、自分の意思を自分で決定できる主体である。人格とは、人が誕生した後、身体とともに成長し、一個のものとして形成され、さらに発展を続け、完成へと向かっていくものである。人間は有限なものであり、死を迎えるが、人格とは、その死を終点としつつ成長するものである。言いかえるならば、人間としての精神である。 人格は、自己にだけでなく、他者にも存在する。他者にも人格があることを認め、互いにそれを尊重し合う。個人の人格の発展は、自己のためのみでなく、他者の自由と権利を尊重し、また社会の公益の実現にかなうものでなくてはならない。この点をわきまえている個人であって、はじめて責任をもって権利を行使し、義務を担うことができる。 そして個人の人格の成長のために必要な条件が、自由と権利である。自由と権利そのものが目的ではない。目指すのは、人格の成長であり、精神の向上である。今日、かしましく言われる「人権」もまた、本来、人には人格があり、その精神は自由と向上を求めることを前提とした概念である。人格・精神という核心を忘れたならば、自由は放縦となり、権利は利己的欲望の正当化になる。「人権」という言葉は、今日しばしばその隠れ蓑になっている。 20世紀の人間性心理学・トランスパーソナル学が明らかにしてきたように、人間には、食欲・性欲のような欲求や、身の安全を求める欲求のような動物的・本能的な欲求だけではなく、愛や名誉や誇りなどの精神的な充足を求める欲求がある。その欲求のさらに高次の段階には、自己実現の欲求がある。 自己実現とは、個人の才能、能力、潜在性などを充分に開発、利用したいという欲求であり、さらに人間がなれる可能性のある最高の存在になりたいという欲求である。これこそ、人格的な欲求であり、人は自己実現を目指して、自らの人格を成長・向上させようとする精神的な主体である。高次の欲求は、低次の欲求と同じく、人間の中に生まれつき備わっているものであり、潜在意識下の衝動の一部をなすと考えられる。 自己実現を成し遂げた人は、しばしば、さらに自己超越を求めるようになる。自己超越の欲求とは、自己を超え、自分自身を超えたものを求める欲求である。そして、他の多くの人々のために尽くしたり、より大きなものと一体になりたいと願う。 自己超越とは、自己が個人という枠を超えて、超個人的(トランスパーソナル)な存在に成長しようという欲求である。それは、悟り、宇宙との一体感、宇宙的な真理や永遠なるもの、社会の進化や人類の幸福などの、より高い目標である。古今東西の宗教や道徳でめざすべ精神の状態とされてきたものである。 人間には、こうした精神的な欲求が、生得的に内在している。現代人は、旧来の経済的・唯物的な人間観を、このような人格に基礎を置いた人間観に転換する必要があるだろう。 多くの宗教は、死後も人間が精神的な存在として存続することを説いている。新しい人間観は、こうした霊的な存続可能性をも含めた、精神的な人格を中心にすえたものとならねばならない。 国家(政府)は、国民個々の人格の成長・向上を支援する。また、国民の子弟の人格の形成を教育によって促進し、国を担い、受け継ぐ人材を育てる。このために、国民に自由と権利を保障する。自由民主主義の国家においては、その政府を支えているのは国民であり、政府は国民全体の利益、国益を追求するための共同の統治機関である。 わが国の新しい憲法においても、基本的な人間観を掘り下げ、人間とは人格を持ち、精神的に成長し、自己実現・自己超越の欲求を内在したものであるという認識に立つ表現を盛り込みたいと思う。 具体的には、自由と責任、権利と義務の規定において、人格について明記すること。また、人格権を新たに設けること。人格の養育・成長の場としての家族、人格形成の方法としての教育、これに関する国家(政府)の役割等を関連付けて規定するのが、よいと思う。 (ページの頭へ) |
第5章
道義国家への向上をめざす
人間を抽象的な個人としてとらえ、他から独立しそれ自体で存在する原子的な存在のように考える。これが西欧に発した近代的な人間観だが、これでは人格というものは把握できない。人格は、原子的な個人のもつ精神ではない。生命的なつながりによる人間関係の中で養育され、成長するものである。そのように個人をとらえてはじめて人格が把握できる。 人格の成長による自己実現は、基本的には個人個人がそれぞれ追い求めるものである。しかし、それだけにとどまらず、人々は互いに自己実現を促し合うものである。ここにおいて、重要な役割を持つものとして、家族が再発見されねばならないだろう。 人は、父母から誕生し、養育され、成長して、社会的な役割を果たし、また自分が子をつくり、育てる。そして、子が孫を育てるのを見ながら、死を迎える。人は、こうした人生において、親子・夫婦・兄弟・祖孫等の家族関係の中で、それぞれの立場と役割を変えながら、人格の成長を体験していく。 そして、家族とは、性別・年齢・役割の異なる個人が、ともに生きながら、互いの人格の成長を促し、助け、見守り合う集団である。すなわち、協同的相助的な自己実現の場である。人間は、家族の働きなくして、自己実現に向かうことは、きわめて難しい。本質的に人間は、家族的存在だからである。 かつては親族や地域もまた、師弟、友人、老幼などの関係にある者同士が、共に高め合い、互いに向上・成長していく場所となっていた。それが、近代以前に地球上に広く見られた人間社会の本来の姿だと言える。 しかし、共同体の解体によって発生した近代西欧の都市社会では、人間社会の本来の働きが低下している。市民社会とは、共同体から放り出され、孤立した個人が、集合・離散する社会である。そのため、物質的な欲望が解放されるにつれ、利己主義が横行する社会となっている。 ここで個人の私的利益を調整し、公共の利益を追求する役割を持ってきたのが、国家(政府)である。 近代国家は、国民に自由と権利を保障している。それは、その国の国籍を持つ者に保障する自由と権利である。自由には責任を伴い、権利は国民の義務と一体のものである。国家が国民に対して、自由と権利を保障するには、そこに人格に基づく人間観がなければならない。 国家には、国民の子弟に対して教育を行う義務がある。人間というものは、教育を受けなければ、動物とそう変わらない。人間としての資格、人格の形成は、教育によるのである。教育は家庭でも行われる。国家があえて公的に教育を行う目的は、国民の人格を形成し、将来、国を担う人材を育てるためである。また、国家は、社会道徳の奨励、文化の振興等を通じて、国民が互いの人格を高め合える社会を築く役目がある。 明治憲法においては、教育勅語が憲法に対し、国家のこうした役割を補完していた。そして、わが国の伝統に基づく天皇を中心とした人格的な共同体を作るという道義国家建設の目標が掲げられていた。 しかし、戦後のわが国では、明治憲法の廃止とともに、教育勅語が否定された。昭和憲法は、国民に「基本的な人権」を保障する一方、国民の義務が少なく、公共の利益より、私的利益を尊重する内容となっている。 資本主義は物質的欲求の充足を追及する経済優先、もの中心、お金中心の社会である。敗戦の痛手からの復興と高度経済成長において、本来、人格成長の条件であるところの物質的な豊さの追求が、それ自体目的と化してしまった。その結果、利己的個人主義が横行するようになった。 近代化・合理化の進展は、人間の人格面・精神面を損ねてきた。資本の論理と組織の機構は、人間を手段化し、矮小化してきた。しかし、人間の中には、自己実現・自己超越の欲求が潜在している。現代の国家は、新しい人間観に立って、国民の人格的成長を保障し、促進するものとならねばならないだろう。また、国民が道義的な共同体を形成し合えるような機能を高める必要があるだろう。かつての夜警国家、福祉国家から道義国家への向上である。単に個人の権利の拡大のために「人権」を保障するのでなく、国民相互の人格の成長のために、その条件を整備する国家への向上である。 また、国際社会においては、それぞれの国家が道義に基づいた国づくりをする。個々の国家が道義国家を形成することにより、その集合である国際社会は平和・繁栄に向かう。個々の国家がこのような国家へと向上してこそ、国際社会に同胞愛・人類愛に基づいた対話と協調が生まれるだろう。 わが国が新しい憲法をつくるにあたっては、人間観を転換し、新しい国家像を掲げ、また人類の将来目標を踏まえて進みたいと思う。 (ページの頭へ) |
第6章 主権の概念を見直す
新憲法の制定に際し、私は「主権」という概念は、見直しが必要だと考える。 主権とは、英語 sovereignty の訳語である。領土・人民を統治する権利であり、それを裏付ける力である。つまり統治権である。 人間の集団は、自己の意思を自ら決めることができる。その能力の行使が正当なものであると主張し、それが認められるとき、能力は権利となる。 ある地域に住む集団は、その場所で生活するために、自らの意思を決める能力と権利を持つ。国家の場合は統治権、地域の場合は自治権という。意思決定する主な内容としては、土地の領有・管理・利用、法規・罰則、権利・義務、組織運営の仕方、財産の取り扱い(課税・処分等)などがある。 近代西欧において、主権は「最高の力(puissance souveraine)」とされた。統治権を力の概念でとらえたのである。主権とは、国の内外に対する統治権の最高性を形容したものである。「主権」という訳語の含意は、「主」つまり「神」の権力ということであろう。 「最高の力」としての主権は、力の概念を核としている。自己の意思を自由意志に基づいて決定し、その意思を他者に心理的・物理的に強制することのできる、国内的・対外的に「最高の力」が、主権である。 ここで力とは実力 powerであり、実際には人間の精神的・身体的な能力 ability である。人の意思に基づいて行使される能力である。それは他者に強制的に働く時、実力と感じられる。能力を発揮するのは、意思による。意思の他者への作用の強度を、力の概念で表現していると考えられる。 近代西洋における「主権=最高の力」は、支配と収奪が前提とされている。発生的には、ユダヤ=キリスト教の唯一男性神つまり「主」が持つとされる、完全な自由と力を言う。聖書では、この神の性格として軍事と裁きが強調されている。 この神の力を地上において代行するものは「教会」であったが、中世ヨーロッパにおいて封建領主の第一人者である王が力を集め、カトリック教会に対して、宗教的・世俗的な権利を主張した。絶対王政を確立して強大な権力を振るい、王権を「最高の力=主権」と称した。 国王の専制に貴族や新興階級が抵抗し、権力の行使を制御する約束を取り付けた。イギリスの場合がこれである。 専制君主が要求に応じない場合は、闘争を起こし権力を奪取した例もある。アメリカは、イギリスの王政から独立したので、建国に当たって国民主権となった。フランスは、専制君主の絶対的な権力を人民が革命によって奪取し、国王主権から国民主権に転換した。その国民主権を徹底したものが、プロレタリアートの階級独裁である。そこに国民主権の本質がよく現れている。 主権の概念には、このように専制性と闘争性が含まれている。集団の内部に、対立と支配があることが前提となっている。異民族支配・階級支配が典型である。 しかし、ひとつの集団が意思決定するのは、一方が他方に意思を強制する場合だけではない。集団全体の合意によって、自発的に意思決定をし、その決定内容を共有する場合がある。その典型は共同体である。主権という概念は、前者の場合に偏っている。前者・後者ともにあてはまる、より広い概念を立てる必要がある。それは統治権である。 明治憲法は、主権という概念を使っていない。統治権を用いている。第1条に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第4条に「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」と定めた。 天皇は統治権の総覧者であり、立法権・行政権・司法権のすべてを掌握するとした。天皇の統治権を、統治大権と称した。政体としては、君主主権の立憲君主制による民主主義国家である。 明治憲法において、「統治」は、わが国の伝統に基づき、「知らす」の意味であるとされた。天皇がこの国を「知らす」ことを、「統治」という漢語に置き換えて表現した。わが国の「知らす」には、人民を私物化して支配するのでなく、天皇が人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、その安寧を願って「まつりごと(祭=政)」を行うという意味がある。力による支配ではなく、徳による仁政である。そこに、天皇と国民の間に、君臣の義、父子の情による君民一体の紐帯が存在していた。昭和・平成も含めて、125代にわたって皇位が続いているのは、こうした伝統による。 それゆえ、わが国の国柄にのっとるならば、近代西洋的な主権は不適当であり、統治権を用いるのがふさわしい。 ところが、昭和憲法では、GHQによって、主権概念が持ち込まれ、主権は国民に存するとした。アメリカ人によって、ユダヤ=キリスト教の文化と、近代西洋の革命思想が持ち込まれたのである。現行憲法における主権は、わが国の国柄・歴史とは異質なものである。このような概念を何の検討もせずに、使い続けることは、よくないと思う。 私は新しい憲法においては、統治権を主に用い、補助的に主権を用いるのが適当と思う。 昭和憲法において、主権は国民に存するとしていることは、国民が統治権を持つと言い換えることができる。日本国の統治権を日本国民が持つとは、他国に支配されることなく独立を堅持し、自律的に統治を行う権利を持つということである。対外的には、他の独立主権国家に対し、国家主権を回復・維持するという文脈等で、主権という用語を補助的に使用することが必要な場合がある。 統治には、法と力が必要である。法とは、言葉による取り決めである。外交は、言葉のやり取りである。ともに力の裏づけを要する。いざというときには、力で意思を強制できるという担保を持ちつつ、いかに対話によって、相互の意思の合成を行うかが、政治であり外交である。 その力の担い手は、ほかの誰でもなく、国民自身である。それが近代国民国家及び国際社会の基本原理である。この原理を再認識したうえで、新しい憲法をつくる必要がある。 具体的には、統治権の定義、その継承の歴史、天皇と国民の関係、日本国民の資格、統治権を共有する者としての国民の責任と義務等を明記したいと思う。 (ページの頭へ) |
第7章 日本の国柄と憲法
新しい憲法に、日本の統治権について規定するために、少しわが国の国柄や歴史を振り返ってみよう。そのうえで、わが国の統治権の根源を求め、それがどのように現在のいわゆる「国民主権」となってきたのか、数回に分けてたどってみたい。
家庭にあっては、親子一体・夫婦一体・家族一体の生き方を心がけ、祖先から子孫への生命のつながりを重んじてきた。こうした家庭をもとに、天皇を中心として一大家族のような社会を構成し、歩んできたところに日本国と日本文明の特徴がある。
7世紀初頭に聖徳太子が制定したという「十七条憲法」は、そうした古来の不文法を背景として書かれている。というのは、「十七条憲法」は、直接的には官僚の服務心得を連ねたものだが、そこには日本の国柄が前提とされている。そして、天皇を中心とする統治の原理を確認し、わが国古来の「和」の精神を表現している。
わが国の律令は、法制度としてはシナ文明の模倣だが、その内容は、日本の国柄・国情に合わせて、改変している。シナにはない神祇官を設けて、太政官と併置し、祭事が政治より上とした。
ここに、わが国独自の権威と権力の二重構造がすでに孕まれていた。また、わが国の体質・国柄のよく表れているところである。つまり、わが国の本質を表した広義の憲法を、この独自の構造に見ることができると思う。 (ページの頭へ) |
第8章
権威と権力の構造
わが国では、シナ文明から摂取した律令を独創的に改変した。神祇官を設けて、太政官と併置し、祭事は皇室が執り行い、政治はその時代、その時代の実力者に担当させるという統治が行われてきた。そこに天皇を中心とした宗教的権威と政治的権力の二重構造が現われている。
こうした権威と権力の二重構造が、わが国の国柄の顕著な特徴の一つとなっている。二重構造といっても、権威と権力はともに天皇に発し、権威が権力の上にあるという上下構造になっている。この日本独自の体制は、日本古来の伝統に基づき、シナ文明の法制度を摂取して表現された。それが、日本的な律令の体系である。
わが国には、藤原不比等・道長、平清盛、源頼朝、北条泰時、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、さまざま権力者が現れた。しかし、強大な権力を掌中にした者たちも、決して天皇の位を奪うことがなかった。
むしろ、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、武士は、天皇から官位を任命されていることを、自分の権力の根拠としてきた。頼朝は征夷大将軍の官職を受けた。その裏づけがなければ、果たして関東に源氏と北条の政権が成り立ったかどうか、というくらい、朝廷の権威は重要なものだった。
戦国の戦乱の世を制覇した織田信長・豊臣秀吉にしても、天皇の権威と律令の体系を必要とした。秀吉は、関白・太政大臣という、朝廷の官位を天皇から授けられることにより、全国統一の政権を確立できた。
新しい憲法をつくるにあたり、わが国は独自の伝統と歴史をもった国であることを自覚したいと思う。 (ページの頭へ) |