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  経済・社会

 

題 目

目 次

01 日本的な「保守」に日本精神という背骨を(長文)

02 「第二の敗戦」からの復興

03 国家破産の危機と日本再生の道

04 ODAは徹底的に見直すべき

05 郵政民営化より財政の根本的立て直しを

06 国家と国益を考える

07 だれのための司法改革かーー裁判員制度の問題点

 

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「第二の敗戦」からの復興

2001.1.24

 

 平成10年ごろ、「第二の敗戦」という言葉が頻繁に使われた。日本はアメリカとの「日米経済戦争」に負けた。これは、大東亜戦争の敗戦に続く第二の敗戦だという意味である。

 

◆「第二の敗戦」とは

 

 平成5年(1993)、大統領に就任したクリントンは、日本を「敵国」と名指しで表現した。以来、クリントン政権は、米国資本の意志を受けて、我が国への激しい経済的・外交的攻撃をかけてきました。そして、グローバル・スタンダードという名の下に、アメリカ主軸の世界を築くための戦略をもって、「経済戦争」を展開してきた。

その約5年後、平成10年(1998)、日本はもろくも、この戦いに敗れた。当時のわが国の状態を「経済敗戦の焼け跡に再び呆然(ぼうぜん)と立ちつくすしかないかのようです」と中西輝政京大教授は述べた(『諸君!』平成10年9月号)。そこへ、欧米の金融機関が押し寄せてきた。廃業した山一証券をほぼそっくり買い取ったのは、米国の大手証券会社メリルリンチだった。このほかシティ・トラベラーズ、J・P・モルガン、GEキャピタル等といった世界指折りの実力金融会社が続々と日本上陸を果たし、日本の銀行、証券会社などを掌中に収めつつある。

 この状態は、半世紀前、大東亜戦争に敗れ、焦土と化した日本に、占領軍が進駐して各所を接収した時の再現のようである。米国資本は、経済的に「焼け跡」と化した日本に乗り込み、日本人が戦後営々と築き上げてきた資産を、奪い取ってきたのである。

 しかも、これはただ奪うだけではない。米国は、日本の富を吸い上げ続ける構造をつくりあげたからである。この構造を、石原慎太郎氏は「米国は日本を金融奴隷として使役しようとしている」と述べている。(『宣戦布告 NOと言える日本経済』光文社)。

 かつて世界最大の債権国だったわが国は、いまや700兆円以上の負債を抱えている。この負債は、国家予算の10倍近い額である。それほどの事態となっていながら、日本人は働けば働くほど、上がりを吸い上げられる、アメリカの「金融奴隷」となっているのである。

 

◆プラザ合意と超低金利政策

 

 一体、こうなった原因は何か? 

 冷戦下の1980年代、ソ連の増大する軍事力が西側諸国に大きな脅威となっていた。これに対抗するため、アメリカのレーガン大統領は、強力な軍事力をつくりあげる政策を打ち立て、その経済的分担を、日本に要求した。

 そして、アメリカの軍事力と日本の経済力が合体することにより、ソ連の経済を行き詰まらせ、遂に共産主義体制の崩壊を引き起こすことに成功した。共産主義の克服と世界平和の実現に向けて、日米はこうした役割を果たしたのである。

 しかし、この過程は、日本にとって、日本経済が、アメリカ経済に構造的に組み込まれる過程だった。その組み込みをもたらしたものが、昭和60年(1985)9月のプラザ合意である。これによって、日本はアメリカの財政赤字を支え、アメリカは日本に支えさせることによって、繁栄し続けるという構造ができていたのである。

プラザ合意とは、日米独の協調介入で、1ドル240円台から140円台に下降させたものだった。その後、日本の公定歩合が常にアメリカより3%低い所に設定されてきた。

国際経済研究家の吉川元忠氏は、次のように述べている。

 「この金利差によって、日本の生命保険会社などの機関投資家がアメリカの国債を買い、アメリカの貿易赤字と財政赤字が埋められ、ドルも買い支えられる、という構図である。この構図にしたがって、87年10月から、89年5月まで、2年3ヶ月にわたって、日本は2.5%という超低金利政策をとった。当時、GDP成長率は5%に達していた。国内経済を考えれば、金利を上げて、景気の過熱を防ぐべき所だ。しかし超低金利は放置され、過剰な資金が株や土地に向かって、空前のバブルを引き起こしたのである」(『マネー敗戦』文春新書)

 

◆内需拡大と市場開放

 

 経済学者の飯田経夫氏は、次のように分析している。

 「レーガノミックス以降のアメリカは、『供給力』を上回る国内需要を放置し、そのギャップを貿易赤字で埋めるという、まったく『規律』もしくは『節度』を欠くマクロ経済運営に終始していた。そしてアメリカは、みずからの経済運営を反省する代わりに、不当にも(ほんとうに、心からそう思う!)、批判の矛先を日本へ向けた。そのひとつが、日本への『内需拡大』要求であり、もうひとつが『市場開放』(のちに『規制緩和』)要求にほかならない」(『日本の反省』PHP新書)

 こうしたアメリカの要求に応じて、内需拡大・市場開放の大合唱が国内に沸き上がった。その中で昭和61年(1986)4月に「前川レポート」が出された。対米貿易黒字を反省し、内需拡大・市場開放に努力して、黒字減らしを行おうという趣旨である。

 日本の経済力を脅威と感じていたアメリカは、日本の経済力を利用して、自国の国益を実現する仕組みを考えた。それが生み出したものが、仕掛けられたバブル経済だった。そして、バブルとその崩壊こそは、戦後日本の最大のつまづきとなった。

 吉川元忠氏は次のように述べている。

  「あるシンク・タンクの推定によれば、89年から92年にかけて、株式の時価総額420兆円、土地等の評価額380兆円が減少したという。この金融資産のロス、計800兆円は、国富の11.3%に相当し、第二次大戦での物的被害の対国富率、約14%にせまる数字である」(「マネー敗戦」文春新書)

 「第二の敗戦」とは、単なるたとえではないのである。国富の損失と言う面をみれば、まさに敗戦に匹敵する出来事なのである。

 

◆仕掛けられた経済戦争

 

 平成元年(1989)11月、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が取り払われ、続いて平成3年(1991)までに、ソ連・東欧で共産主義政権が軒並み崩壊した。これにより、ソ連の脅威はなくなった。その後、アメリカにとって、最大の脅威となったのは、日本の経済力だった。日本の高い技術力と、強い輸出力が、アメリカ経済を圧迫していたからである。

 ここに、日米の経済摩擦は、あらたな段階に入った。「日米経済戦争」が仕掛けられたのである。しかし、それは既に、昭和60年(1985)のプラザ合意の時に始まっていた。

 そして、アメリカの主張する「内需拡大のよる貿易黒字削減」に従い、国内経済の安定よりも、アメリカの貿易赤字と財政赤字を埋め、ドルを支える事を優先した結果がバブルなのである。

 バブルの崩壊は、日本経済に甚大な影響をもたらした。その後、日本は「平成大不況」あるいは「平成恐慌」といわれる経済危機に陥っている。そして、そこから容易に抜け出せないでいる。

 「第二の敗戦」は、アメリカの戦略に乗せられ、敗れるべくして敗れた、第二の大東亜戦争だったのである。

 

◆追い討ち

 

 バブルの崩壊後、容赦なく追い討ちをかけたのは、米国のヘッジファンド等の計略だった。彼等によって、韓国やASEAN諸国は、壊滅的な打撃を受けた。深刻な政情不安に陥った国もあります。これは、アジアに膨大な資本輸出をしてきた日本にとっても大打撃となった。

 1990年代から急速に進展してきた情報技術革命のなかで、日本から吸い上げる冨によって、財政を支えるアメリカは、大規模な予算を投じて、IT革命を推進している。一方、日本は欧米に大きく遅れをとっている。アメリカに対し、日本は10〜20年の遅れがあるとも言われる。

 かつて、日本の経済力に反発して、アメリカでは Japan bashing が行われた。しかし、今では、Japan nothing といわれる。つまり、日本はもはや競争相手として、眼中にないような存在に成り下がっているのである。

  このまま、なすすべなく過ごせば、わが国は、一層、国際社会での地位を失っていくだろう。大東亜戦争の敗北によって、日本は、軍事・食糧・エネルギーにおいて、アメリカへの従属構造に置かれた。さらに今日においては、経済・金融においても、対米従属構造に、ほぼ完全に組み込まれつつある。

 

◆日本精神の復興を

 

 この「歴史的敗北」から日本を立て直し、巻き返すためには、どうすべきか。

 抜本的な改革が必要であることは、明らかである。行政改革、財政改革など、なすべき課題は、とうに出ている。しかし、そうした改革計画は、骨抜きにされ、容易に進まない。

 求められるのは、改革を強力に推し進める指導力、リーダーシップである。そして、日本を復興しようという国民の意志である。指導者と国民が、一致団結しなければ、復興は実現できないだろう。

 アメリカ人で日本で事業を行っているビル・トッテン氏は、次のように述べている。

 「究極の疑問は、日本経済が自国の企業や国民のためにあるのか、それとも外国の、特に米国の経営者や政府のためにあるのかということである。日本はこれまで自国の国粋主義の再燃を慎重に避けてきたが、現実は米国主導の国粋的な世界金融秩序の波に飲み込まれることになったのではないだろうか」

 国際社会において、自国の主張を述べ、自国の国益を追求できない、戦後日本人の意識のあり方が、日本の「第二の敗戦」をもたらしたのである。その背景には、戦後日本の制度・機構の問題がある。戦後体制を支える二つの柱は、日本国憲法と東京裁判史観である。つまり、大東亜戦争の敗戦によって、占領期にかせられた憲法と歴史観が、「第二の敗戦」をもたらしたのである。これら二つこそ、私たちが克服すべきターゲットである。そして、一個の独立国として、国家と国民の意識を回復することが必要である。それなくしては、アメリカをはじめ、他のまっとうな国々に伍していくことはできないのである。まして、かつては「後進国」と呼ばれていた国々が、急速な勢いで経済発展をしてきている。いまや世界は大競争時代といわれているのである。

 日本再生のためには、精神面からの改革が必要である。そのためには、戦後失われている日本精神を取り戻すことが必要である。国民が日本精神を取り戻すことなくして、制度・機構の改革は推進できないのである。

日本人が日本精神を取り戻すこと、それが最も必要だと思う。

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国家破産の危機と日本再生の道

2005.6.16

 

◆アメリカによる日本改造とは

 

大東亜戦争の時、わが国はミッドウェー海戦で惨敗して以降、戦局は悪化していく一方だった。ガダルカナル、マリアナ、レイテと負け続け、サイパン、硫黄島、沖縄までが落ちた。B29による本土空襲は、首都東京を始め60余りの都市に及んだ。それなのに、政府は虚偽の大本営発表を繰り返し、事実を国民に伝えなかった。国民は実態を知らないまま、かつてない敗戦を迎えた。

 現在、わが国は、日米経済戦争において「第二の敗戦」の最終局面に入りつつある。平成10年頃にいわれた「第二の敗戦」は、まだ負け始めの過程にすぎなかった。しかし、政府は、その事実や原因、経過を国民に知らせようとしていない。大東亜戦争中と違い、言論の自由が保障されており、メディアも発達しているのだが、マスコミも積極的に、国民に危機の実態を報道しようとしていない。マスコミに登場するほとんどの政治家やエコノミストは、表面的なことだけ言っている。日本全国に激震が走るかもしれない「2008年問題」は、国民的な論議になっていない。郵政改革も、それが国民生活に与える巨大な影響については、語られない。
 日本の財政危機は、日本の指導層が、アメリカの中長期的な日本乗っ取り戦略の前に、なすすべなく対米従属の外交を続け、さらに旧大蔵官僚による舵取りの誤り、すなわち赤字国債の発行、その60年償還化、借換債による返済の先送り、一般会計の数倍にもなる特別会計の非公開、財政投融資への郵便貯金・年金の流用等を続けてきた結果、もはや抜き差しならぬところに入っている。
 日本は、既に財政破綻をしつつあり、国家破産に立ち至るのは、時間の問題である。早ければ3年、遅くとも8年ほどのうちに破産することは、もはや回避しがたいと観測されている。国債の暴落や長期金利の上昇が始まる時、日本は破産することになるだろう。このままでは国家破産は必至と覚悟をした上で、破産の回避、破産処理の方法、最悪の場合のどん底からの日本再生の道を検討していかねばならない。日本は、そういう段階にある。昨年からこの問題は、ネット等で話題になってきた。しかし、政府・官僚は、今年になってもなお国民に実態を知らせようとしていない。
 大東亜戦争の時と同じことを、為政者は繰り返している。「失敗の本質」を把握せず、その教訓を学習せず、また同じ失敗を繰り返しつつある。このままでは国民は、大東亜戦争の敗戦時に通じる塗炭の苦しみを味わうことになるだろう。

 政府・官僚が国民に隠してきたものの一つに、アメリカ政府による「年次改革要望書」というものがある。この文書が日米経済関係における決定的文書であることを発見したのは、関岡英之氏である。
 関岡氏の名著『拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書)は、衝撃的な事実を明らかにした。ここ10年以上の間、日本で「改革」と称して実行されてきた政策は、ほとんどアメリカの国益のためのものであったというのである。関岡氏は、これを「アメリカによる日本改造」と呼んでいる。この改造の「指針書」となっているのが、「年次改革要望書」だという。クリントン政権の1994年以来、毎年10月アメリカは日本にこれを提出してくる。これを読めば、日本の構造改革は米国政府の指示によるものであり、「米国政府の、米国政府による、米国政府のための大改造」であることが理解できる。
 例えば、半世紀ぶりの商法の大改正は、アメリカ企業が乗っ取りをしやすいものとなっている。会計基準は、アングロ・サクソン諸国のルールを国際統一基準にする動きが進んでいる。時価主義会計の導入は、多くの日本の企業を破綻に追い込む。株価が安く、不良債権をかかえているからである。公正取引委員会の規制強化のため、アメリカは委員の人数まで要望し、郵政民営化に先だって所轄庁を総務省から内閣府に移させまでした。司法制度の改革も、アメリカ企業が日本の政府や企業を相手に訴訟しやすくするためのものとなっている。他にも、枚挙に暇がない。
 私には、近年はアメリカは日本の国家破産の時を見越して、日本を完全に管理下に置くために、着々と布石を打ってきていると思える。「アッシャー・レポート」や「ネバダ・レポート」を突きつけてきたアメリカだからである。

 関岡英之氏は本書の「あとがき」でこう書いている。「いまの日本はどこかが異常である。自分たちの国をどうするか、自分の頭で自律的に考えようとする意欲を衰えさせる病がどこかで深く潜行している。私が偶然、アメリカ政府の日本政府に対する『年次改革要望書』なるものの存在を知ったとき、それが病巣のひとつだということはすぐにはわからなかった。
 だがこの病は、定例的な外交交渉や、日常的なビジネス折衝という一見正常な容態をとりながら、わたしたちの祖国を徐々に衰退に向かって蝕んでいるということに、私はほどなくして気づかされた。まるで癌細胞があちこちに転移しながら、自覚症状の無いまま秘かに進行していくように、私たちの病はすでに膏肓に入りつつある」と。
 関岡氏が明らかにした日米関係の構造を知らずして、日本は語れない。できるだけ多くの方に関岡氏の著書を読み、日本の実態を知っていただきたい。そして、国家破産を避ける最善の努力をし、万やむを得ない時は、国家破産を耐え忍び、日本を再生させるための取り組みを始めよう。

 

日本の国家破産の危機

 

日本は世界最大の債権国である。アメリカ国債を約1兆ドル(1ドル=100円として約100兆円)保有している。民間も含めると2〜3兆ドルになっているとも見られる。総額430兆円になるという推算もある。もっともこれは実際には、売ることのできないものである。売却すれば莫大な為替差損を計上しなければならない。またドルを売ることゆえ、円高を促進してしまう。それゆえ米国債は、事実上、売ることのできない永久債である。回収不能の不良債権と同じである。米国債を買わされてきたことは、わが国の財政を圧迫する一要因である。現在も、政府・民間を合わせて年間20兆円ほどが、米国債の購入に当てられているという見方もある。
 しかし、わが国が抱える借金は、これとは別の話であり、金額がけた違いである。財務省が発表している国の貸借対照表は、連結ベースで、253兆円(2003年3月末)ある。これ以外に年金債務が、財務省試算で843兆円ある。合計で、1096兆円の債務超過である。これは、本年度の国家予算が82兆円であるから、国家予算の13年分以上になる。予算といっても、税収は44兆円しかない。残りは新たな借金や、借金の借り直し(借換債)で組んでいる。債務は、すべて税金で返すしかない。このままでは3年から8年ほどのうちに、破局にいたる可能性が高いと観測されている。

 負債のうちの相当部分は、国債である。本年2005年3月末で、これが682兆円ある。名目GDPの511兆円を超えるほどの額である。日銀は資産劣化により、32年ぶりに赤字に転落した。これ以上、国債を買う余力はほとんどない。日本は米国債を買ったり、中国等にODAをばら撒いていられる状態ではない。
 まず問題になっているのが、「2008年問題」である。この年、かつてないほど多量の10年もの国債が満期となるので、その債務処理が重大な課題となっている。国債が暴落し、長期金利が上昇すれば、日本の財政が破綻する可能性がある。仮にそれをなんとか乗り越えたとしても、2013年には、借金の利子の支払い額が、税収を上回る状態に至る。そこまでいくと、国家予算が立てられなくなるおそれがある。2015年には、借金の金額が個人資産の1400兆円を超える1500兆円に達すると試算されている。このままでは、日本は国家破産に至るといわざるを得ない。

 世界最大の債権国である日本が、同時に世界一の借金大国であり、人類史上例のない赤字国家でもあるわけである。歴代の政権は、こうした財政危機を生み出し、解決しようとはしてこなかった。昭和40年(1965)に国債発行を決めて以来、借金の上に借金を重ねて、赤字国債の返済を先送りにしてきた。構造改革を掲げている小泉首相も同じである。新たな国債の発行を、年間30兆円以下に抑えると公約していたが、これを破った。「たいしたことじゃない」と言い放った。

 日本の歴代の指導者は、何を熱心にやってきたのか。アメリカへの従属外交である。昭和60年(1985)9月、プラザ合意が結ばれた。プラザ合意とは、軍拡競争でソ連を破ろうというアメリカの世界戦略に、日本が経済面で協力する約束である。この年、旧大蔵省は国債の60年償還を決めた。通常、翌年には返済しなければならない借金を、60年かけて返すという破天荒なルールである。この時点で、将来の財政破綻がはらまれていたのかも知れない。日本は経常収支の黒字是正を目的とした内需拡大策により、積極的な金融緩和措置を取った。余剰資金が土地、株式等へと向かった。
 バブル経済の膨脹過程の平成元年(1989)7月、日米構造協議が始まった。アメリカのイニシアティブ(主導権)による日本の構造改造の開始である。どういうわけか、その直後の12月に、バブルがはじけた。アメリカにとっては、二大ライバルであるソ連と日本を一挙に叩き潰すチャンスを得たわけだ。平成3年(1991)12月、ソ連は崩壊した。日本は、バブル後の不良債権処理、長期不況、失業率の上昇に苦しんだ。
 そうしたなか、アメリカは、平成5年(1993)の宮沢―クリントン会談を経て、いよいよ平成6年(1994)から毎年10月に「年次改革要望書」を提出してきている。関岡英之氏は、これが日米外交の決定的な文書であり、日本改造の「指針書」であることを発見した。この要望書を通じて、アメリカによる「制度化された内政干渉」が行われている。

 小泉―竹中政権は、アメリカの日本改造計画に従って、構造改革を進めていると見られる。立法・行政・司法のあらゆる分野で、アメリカに都合のよいように改革が進められている。国家破産の時を見越して、IMF=アメリカによる日本再占領の段取りをしていると言っても過言ではないだろう。来年(2006)には、株式交換によるM&A(三角合併)が解禁となる。日本の企業は超優良企業であっても株価は低い。アメリカ企業は自社株を使って、易々と買収できる。中国や韓国の企業も買いあさりに来るだろう。
 この売国的な政策の最大のポイントこそ、郵政改革である。郵政民営化は、アメリカの保険業界が要望しているものでもある。「年次改革要望書」がそれを示している。郵貯・簡保をあわせると、345兆円もある。民営化の仕方によっては、郵貯・簡保に蓄えられてきた国民の個人資産が、アメリカに獲物として差し出されるようなことになる。

 小泉首相が靖国神社に参拝することは、結構なことである。靖国神社には、この国を守り、家族の安全を願い、子孫の繁栄を祈って、尊い命を捧げた英霊が祀られている。日常、日本の身売りの支度でもしているのかと疑いたくなる小泉首相は、どういう心で英霊に手を合わせているのだろうか。
 日本の指導層に、もし真に国を愛し、国民を思う人物があるならば、日本経済の実態と近未来予測を国民に示し、積年の罪業を謝するとともに、苦難への心の準備を促し、再生への協力を呼びかけるべきだろう。
 昭和20年(1945)8月の敗戦以来の危機は、避けがたいところに迫っている。この国難を乗り超えるには、指導層も国民も、自己本来の日本精神を取り戻し、ともに団結することが必要なのである。

◆国家破産は、滅亡ではない

 

経済評論家の森木亮氏は、「国家破産は、そのまま日本の破滅 ruin ではない」と述べている。国家経済が破産しても、日本民族が滅亡するわけではない。国家破産は、旧ソ連、アルゼンチン・韓国などにも前例がある。これらの国は、それぞれの仕方で経済の復興を行ってきた。日本の場合も、やむを得ず国家破産となってしまった場合は、3流国に転落するだろうが、そこからやり直すことになるだろう。
 国際政治学者の藤井厳喜氏は、『国家破産以後の世界』(光文社)に次のように書いている。
 「国家破産という大変動で、最後にあなたを救うのはいったいなにか、ということになる。財産を守りたい。少しでもお金があれば助かる。あなたがそう考えるなら、筆者はなにも言うことはないが、はたして、それであなたは本当に幸せであろうか?
  国家破産ではほとんどの国民が大損害を被る。おそらく、いまから確実に計算し、資産を守り抜いた資産家だけがその被害を免れる。また、戦後の復興期の日本でもそうであったように、抜け目なく稼いで財をなす人間も出現する。旧日本軍の資産を横流ししたり、進駐軍の物資を横領して儲けたり、あるいは闇取引で儲けたりというようなことと同じことが起こるだろう。
 しかし、それでうまくいったとして、あなたは、多くの国民が苦しんでいるのを見て幸せだろうか? 自分だけは助かったと、笑っていられるだろうか?(中略)
  前出のロシアのことを思い出してほしい。ロシア人たちは、どうしてあの厳しい冬の寒さを乗り越え、餓死することなく生きてきたのか? それは、国家官僚を信じず、家族や親戚、友人同士で助け合ったからである。子供は親の面倒をみて、家族同士は助け合って働いた。ルーブルは紙くずになったが、彼らは物々交換で日常生活の物資を融通しあった。
 つまり、いくらお金や資産を持っていようと、あなたを支えてくれる周囲の人間がいなければ、あなたは助からないのだ。もちろん、お金や資産があれば助かるが、それだけであなたは幸せにはなれない。筆者はこれまで『国家破産本』を批判してきたが、それはこうした考えに基づいている。
 最後にあなたを救うのは、守り抜いた財産や資産ではけっしてないのだ。あなたを救うのは「誠」の精神であり、あなたの信用である。それによって築かれた人と人の絆であり、もっと言えば「愛国心」であろう」
 大変参考になる言葉だと私は思う。藤井氏のいう「誠の精神」「人と人の絆」「愛国心」を一語に要約すると、日本精神ということになる。

日本精神の一端として、わが国には「百姓」と書いて「おおみたから(大御宝)」と読み、人民を大切にして仁政に努める伝統がある。いま最も学ぶべきものは、こうした伝統に基づき、為政者として「修身斉家治国平天下」を実践することだと思う。まさにそれを実践したのが、上杉鷹山だった。彼を模範とするような真の改革者が現れ、国民が痛みを分かち合い、私利を捨てて助け合えば、日本の再生は可能だと思う。

日本の破産は、世界の経済に悪影響を与え、諸国の人々の生活にも迷惑を及ぼすものとなることも考えなければならない。破産後、もし混迷が続けば、それが長引くことになるだろう。日本人が自国をしっかり建て直し、国際社会における役割を果たすことは、世界人類への貢献にもなる。このことは、各自が個人レベルで仕事やボランティア活動で行うこととは別に、日本人が国民の一員として考えるべき課題なのである。

 

日本経済を再建するには

 

日本は、このままでは国家破産となることが避けがたい。では、具体的にどうすればよいのか。
 日本の指導層は、財政危機の実態を明らかにしようとせず、取り組みの処方箋を示されても、先送りにしてきた。しかし、経済評論家の森木亮氏は、20年前から財政破綻を警告してきたという。氏は、具体的な方策を提案している。その主なものを挙げてみよう。

 第一に、緊縮財政の実行である。収入の範囲内で支出を行うという財政の基本に返ることである。昭和40年以来、続けている赤字国債の発行は、財政法の精神に反する。昭和60年に旧大蔵官僚が決めた赤字国債の60年償還ルールは、公務員職権乱用罪(刑法193条)に当たる。

第二に、「国債削減法」の導入である。@長期政府債務残高の対GDP比を、現在の151.2%から60%以下に抑える、A財政赤字の対GDP比を、現在の6.1%から3%以下とする、B赤字国債は60年償還をやめ、最長3年で償還する、C建設国債は最長30年で償還するという方法である。
 第三に、複式簿記の導入である。日本の公会計は江戸時代の大福帳のような単式簿記のままである。そのため、日本全体でいくらの資産と負債があるか全く分からない。複式簿記に変更することによって、ストックとフローの増減を連動させ、一般会計と特別会計・特殊法人会計・認可法人会計を連結させる。
 第四に、憲法の改正である。現行憲法には、財政均衡のための歯止め規定がない。第7章の財政条項を強化するため、第86条に「内閣は毎会計年度の予算作成に際し、前年度決算を前提にその審議を経なければならない」と定め、第90条に「公会計を複式簿記にすること」「一般会計と特別会計を連結とすること」と明記する。

財政法と憲法に関して補足すると、財政法の第4条1項には、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と定められている。
 公共事業費であっても、回収性と収益性のない場合は、赤字国債といわざるを得ないし、赤字国債を際限なく発行しつづけるのは、異常である。国会が特例法を設けて赤字国債・借換債を発行し、毎年度予算・決算を決議しているので、形式的には合法的に行われている。しかし、財政法の本来の精神からいえば、違法という見方をすべきである。仮に違法とはいえないという司法判断がされるとすれば、森木氏のいうように、現行憲法の財政規定に、財政均衡に対する歯止めがないということが根本的な欠陥だと思う。

 

上記の四つの方策以外にも、いろいろな方策が考えられるだろう。どんな方策も、問題は実行するかどうかである。もし日本人が従来のように、自主的に改革を行わないまま、推移した場合はどうなるか。早晩、日本は国家破産に立ち至るだろう。その時には、世界の金融を管理しているIMFが乗り込んでくる可能性が高い。IMFによる管理は、日本の再占領である。かつてのGHQがIMFに代わったようなものだ。日本全体をアメリカ型社会に改造する改革が、現在行われているより、もっと徹底的に断行される。日本の伝統や文化を考慮せず、アメリカ的な自由主義・個人主義の原理を押し付け、自由競争・市場万能・訴訟本位の社会に変えようとするに違いない。

 アメリカは、数年前から日本に財政改革を迫り、既に何度も処方箋を出している。「ハーバード・レポート」(1998年)、「アッシャー・レポート」(1999年)、「アーミテージ・レポート」(2000年)等である。中でも平成14年(2002)2月、衆議院予算委員会で取り上げられた「ネバダ・レポート」は、事実上の日本破産処理案といえる。もしIMF=アメリカが日本を再占領したら、どういう政策が行われるか、明確に示されている。要点は、次の8つである。

 @ 公務員の総数の30%カット及び給料の30%カット。ボーナスは全てカット。
 A 公務員の退職金は100%全てカット。
 B 年金は一律30%カット。
 C 国債の利払いは5〜10年間停止。
 D 消費税を15%引き上げて20%へ。
 E 課税最低限を年収100万円まで引き下げ。
 F 資産税を導入し、不動産は公示価格の5%を課税。債券・社債は5〜15%を課税。株式は取得金額の1%を課税。
 G 預金は一律、ペイオフを実施。第2段階では、預金額を30〜40%カット。

 国家破産後、以上のことが実行されるとすれば、いかに厳しいか理解できるだろう。藤井厳喜氏は、次のように述べている。「すべての項目はまだ実行されているわけではない。なぜなら、まだ日本が破産していないからである。しかし、事実上破産しているのだから、日本政府は、とくに@Aから始めていなければおかしいのである。それが構造改革というものだろう。そうしてはじめて国民への負担増も訴えられる」と。

 日本の改革は本来、日本人自身が、自主的に行わなければならないものである。幕末の日本も危機だった。幕府も全国の多くの藩も、財政危機にあえいでいた。しかし、日本人は、黒船の来航で発奮し、主体的に維新を成し遂げた。そのことを思い起こそう。
 自らに潜在する自律能力を発揮するならば、日本人は、自国の伝統・文化を保守しながら、相互扶助の精神をもって、改革を進めることが可能だろう。それには、公務員たる政治家・官僚が、まず国民に範を示さねばならない。それができるかどうかに、日本の将来はかかっている。
 その為政者を動かすものは誰か。国民以外にない。国民一人一人が、国の運命と自分の運命は不離一体であることに目覚める時、新しい維新が始まると思う。

 

ここで少し補足すると、私は、経済の問題を含めて、現在の日本のもろもろの危機は、すべて精神の問題に帰着すると考えており、制度的には憲法と教育基本法の改正を最優先課題と考えている。憲法と教育基本法に、日本の国柄や伝統に関することを盛り込み、国民の愛国心・公徳心の回復を進めることが、極めて重要だと思う。
 そういう精神的な基盤を強化しないと、財政破綻・国家破産に対しても大規模な対応はできないし、やむなく破産に至った場合は、下手すると国民が精神的にバラバラになりかねないと思うからである。

 

◆財政の「破局」を避けるために

 

産経新聞は、平成17年6月7日朝刊の一面と社説(「主張」)に、財政問題について掲載した。特に「主張」の「財政再建 自立なければ破局が待つ」という題名は、国民に財政危機の深刻さと取り組みの急務を訴えるものである。
 財務相の諮問機関である財政制度等審議会が、来年度予算編成の基本的考え方を示す建議(意見書)を谷垣禎一財務相に提出したという。審議会の会長は、財政学の権威である貝塚啓明・東京大学名誉教授である。

 家庭でも会社でも、支出は収入に見合ったものにしなければならない。家計が厳しくなれば、まず出るものを抑え、無駄を省き、贅沢をしないようにする。それでも厳しければ、パートなどして少しでも収入を増やす。やむを得ず借金をする場合は、計画的に返済する。これが基本だろう。身のたけに合わないことをすると、最後には自己破産するしかなくなる。会社であれば、黒字を出すために最大の努力をする。経営が厳しくなれば、経費を削減したり、収益の出ない事業を見なしたりする。会社は3年連続赤字を出せば、倒産する。国の場合も、根本的には同じだ。紙幣を増刷できるところは違うが、赤字国債を乱発し続けたなら、いつかは国家破産となる。
 共同通信が伝える要旨によると、今回の財政審の建議は、「家計部門の貯蓄率低下と世界に類を見ない巨額の債務残高が金利上昇を招き、財政赤字をさらに拡大する負のスパイラルに陥りかねない。財政赤字が、少子高齢化の進む日本の最大のリスクだ」と指摘している。そして、「聖域なき歳出削減を推進。同時に歳入面での改革に取り組む」ことを建言している。出るものを全般的に切り詰め、入るものを増やすしかないということである。増税が不可避であることも明記している。
 歳出全体の4分の1、歳出拡大の大部分を占めるのは、社会保障給付費である。建議は、この伸びを「経済成長に見合う程度に抑制していくべきだ」と強調している。急激に進む高齢化社会では社会保障給付費を成長率並みに抑制するのでも容易ではない。給付費の増加の主因は医療費であり、その抑制を提案している。国民は、自分の健康を自分で管理し、安易に医療にかからないように努力すべきである。

 ただし、建議は、社会保障費を抑制しても相当な税負担が必要になるとの長期試算を示している。歳出が現行のまま増加した場合、収支均衡を消費税だけに頼ると、税率は19%になるという。IMFの破産処理案では、消費税20%という数字が示されているのだから、もはや驚くべき数字ではない。
 増税の必要性はわかるが、国民にその理由とこうなった経緯を十分、説明してもらいたい。特別会計をふくむ財政の全体像を、国民に開示することが先だろう。また、国民に負担を求める前に、国家公務員・地方公務員は、人員と給与の削減を自ら実行すべきだろう。この点、建議も、「政府が策定中の国家公務員の削減計画に純減目標を設定」し、「地域の民間給与水準を上回っている地方公務員給与は速やかに適正」すべしとしている。この給与の削減を「地方交付税の削減につなげる」ともしている。地方交付税は、歳出の2割を占めており、地方の歳出と歳入の差額を補てんしている。その過大となった分が、地方公務員の高すぎる給与に回っているという異常な構造を改めよということだろう。

 産経の「主張」は、「日本経済・社会の最大の足かせとなる財政悪化は、もはや生半可な対応では止められない段階まできたといえる」と明確に書いている。「建議は少子高齢化に伴う貯蓄率の低下が経常赤字をも生み、双子の赤字による『破局のスパイラル』に陥る危険性まで指摘している。これを回避するには、いかに困難でも財政構造改革の徹底以外に選択肢はない」とも書いている。そして、「国家公務員を含めて自ら(註 地方公務員)が身を削らなければ、増税も歳出削減も国民の理解など到底得られない。国民もまた、『受益』に『負担』が見合っているか、冷静に自問自答する必要がある。自立こそ『破局のスパイラル』回避のカギなのである」と結んでいる。
 昨年(平成16年)来、国家破産もありうる財政危機について、わずかながら全国紙・テレビが報道している。表現は控えめであり、取り上げる回数も少ない。こうした中では、本日の産経新聞の記事は、最も踏み込んだ表現だと思う。しかし、実際は、もっと厳しいものである。
 今回の財政審の建議と、産経新聞の「主張」は、日本人にとって、本当に重要なことを訴えている。誰よりも政治家はこれを真摯に受け止め、公務員は国民に範を示してほしいと思う。

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参考資料

    関岡英之著『拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書、平成16年4月刊)

・藤井厳喜著『国家破産以後の世界』(光文社、平成16年12月刊)
・森木亮著『2008年 IMF占領』(光文社、平成17年2月刊)

 

 

ODAは徹底的に見直すべき

2005.6.16

 

ODA(政府開発援助)とは、政府や関係機関が発展途上国の経済発展や福祉向上などを目的に提供する資金や技術援助のことである。不況と財政危機のなかで、近年ODAの見直しがされてきている。
 わが国は、昭和29年(1954)にコロンボ計画に加盟してODAを開始して以来、50年間で185の国と地域に、総額およそ2,210億ドルにのぼる金を供与してきた。この総額は単純に1ドル=100円と計算しても、22兆円となる。1990年代に世界一の供与国だったわが国は、現在は米国についで第2位。不況と財政悪化に伴って年々数パーセントづつ予算を削減しているものの、本年度(平成17年度)のODA予算は7,862億円(対前年比3.8%減)となっている。
 わが国は、1,000兆円以上の財政赤字を抱える世界最大の赤字国家である。その現実を、政治家・官僚も、国民もまた直視すべきである。国家破産の切迫が言われるほどの経済危機のなかで、外交戦略もなく、財政再建の方策もなく、他国への大盤振る舞いを続けていてよいのだろうか。

 外務省は、日本のODAは世界に貢献しており、発展途上国の経済・社会インフラ整備、人づくり等への支援を通じて、開発や福祉の向上に大きく貢献してきたとし、日本のODAは被援助国から高く評価されており、被援助国との友好関係の強化、ひいては日本の安全と繁栄の確保に資しているという。また、東アジアでは、インフラ整備により投資環境を改善させ、教育・保健・衛生分野への支援等ともあいまって、海外直接投資の流入、輸出産業の振興につながり、これら諸国の経済発展に貢献しているという。
 そのとおりであれば、まことに結構なことだが、日本のODAには一貫した理念や政策がなく、実施を規定する基本法もない。ただ金を出すだけで それが実際にどう使われているのか、追跡調査も行っていない。被援助国における公金横領疑惑が、いくつも上がっている。環境分野にも多額の金を供与しているが、プロジェクトが現地の実状に合わず、住民や環境にプラスに働かない事例も多いという。

 とりわけ大きな問題は、中国である。ようやくわが国は、中国へのODAの減額を決め、平成16年度には最盛期の半額近くに減らし、平成19年度には供与を停止することになった。

中国へのODAは、円借款だけで累計約3兆円。第三機関を通した援助も加えると、軽く6兆円を突破し、10兆円ほどになるとも見られる。確かに外務省のいうように、「経済発展に貢献」してはいる。中国は世界一の年間成長率での高度成長を続け、「世界の工場」といわれるほどになった。
 しかし、肝心の「友好関係の強化、ひいては日本の安全と繁栄の確保」についてはどうか。日本が3兆円もの政府開発援助をしてきたことを、中国指導部は国民に知らせていない。中国の青少年は、徹底的な反日教育を叩き込まれる一方、戦後日本の中国への多大な貢献は、一切教えられていない。このことが、大衆の反日行動の要因となっており、「友好関係」や日本の「安全」を危うくしている。
 そのうえ、もっと重大なことは、被援助国である中国が、核兵器を開発し、大陸間弾道弾・潜水艦を多数保有し、軍事費の増大をし続けてきたことである。アジアの軍事大国に成長した中国が、日本や周辺諸国、さらにはアメリカにとってさえ、重大な脅威となっている。
 中国へのODAは当初、石油を獲得するための資源戦略だったらしい。その戦略を手がけたのは田中角栄だが、彼をルーツに持つ政治家グループは、中国との関係を深めていった。近年のODAの見直しにも抵抗しているのが、その政治家たちである。そこには、癒着と腐敗のにおいが漂っている。石油の獲得はどこかへいってしまった。得るどころか、わが国の排他的経済水域に存在する海底油田を奪い取られかねない事態を招いている。

 中国に対してだけではない。ODAを供与する場合は、基準を明確にし、ちゃんと生かされているかどうか、追跡調査すべきである。また、危機的な財政事情を直視し、いまなお年間8千億円近く支出しているODAの予算そのものを、より厳しく検討すべきである。
 また、ODA基本法を制定し、かつわが国の外交戦略を練り直す必要がある。そして、昭和40年代にまでさかのぼって、わが国のずさんな金満外交、実は借金増やしのばら撒き外交の誤りを、検証すべきだと思う。

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郵政民営化より財政の根本的立て直しを

2005.6.15

 

◆郵政民営化の強行は危険である

 

小泉純一郎氏が首相になる前年、平成12年に、あるシンポジウムで郵政民営化論について氏の持論を聴いた。それによると、論拠は3点である。@全国に宅急便が行き渡っているから、郵便は民間に任せても大丈夫、A郵便貯金が民間の金融機関を圧迫している、B郵貯の巨額の金が財政投融資に回って問題を起こしている。この3つである。問題解決には財投のあり方を抜本的に見直す必要があり、それには郵政を民営化しなければならないというのが、小泉氏の主張であった。
 大変明快で、当時、サッチャーやレーガンの改革の成果に関心を持っていた私は、郵政民営化論に注目した。ところが、首相になった小泉氏が郵政改革を実行に移す段階になると、矛盾が目立ってきた。いま小泉―竹中政権は、問題点の説明もせずに、郵政民営化を強行しようとしている。これは尋常ではない。この動きの背後には何があるのか。関岡英之氏が明らかにしたように、郵政民営化とは、アメリカが平成7年(1995)から「年次改革要望書」によって、日本に要望し続けていることなのである。ちなみに小泉氏が『郵政省解体論』を公刊したのは、アメリカが郵政民営化を要望項目に挙げる前の年だった。ほぼ同じ時期である。

 郵政民営化には、推進論も反対論もさまざまあり、極めて分かりにくい状況になっている。問題を初めて整理してくれたのは、東谷暁(さとし)氏の『民営化という虚妄』(祥伝社、平成17年3月刊)という本である。
 小泉氏は平成6年(1994)に『郵政省解体論』を公刊した。氏の民営化論は「郵貯=財政投融資=特殊法人の赤字」という図式を前提にしていた。郵貯と簡保の資金は大蔵省(当時)の資金運用部に預託され、預託金は採算の取れない特殊法人の赤字補填に使われるという図式である。ところが、東谷氏は、その当時、郵貯と簡保は合わせても、財投の資金の6割程度に過ぎず、また財投の資金のうち特殊法人に回っているのはその半分以下だったと指摘する。「郵貯=財政投融資=特殊法人の赤字」は、ひどく誇張された図式だったのである。

 実は、郵貯で集めた金を大蔵省資金運用部に預けるさいの「預託金利」は、昭和62年(1987)に国債の市場に連動化されている。平成5年には郵貯の金利も市場金利に連動し、民間の銀行に比べて有利ではない水準に定められた。郵貯が民間銀行を圧迫しているとは単純に言えなくなった。平成13年(2001)には、公社化を待たずに、郵政が郵貯や簡保で得た資金を全額自主運営することが決まった。郵貯・簡保の資金が直接財務省に預託される構造は改められた。財務省は財投債を発行し、郵政は市場においてこれを購入するという形に変わった。つまり、郵貯・簡保の資金は、この時点ですでに財投から切り離されたのである。また、これまで預託されていた残高は平成19年度(2007)までに全額返されることになっており、着々と返済されている。
 こういう改革が行われてきたうえに、平成15年(2003)4月1日に、郵政公社が発足した。このように、かつての小泉氏の「郵貯=財政投融資=特殊法人の赤字」という図式は、まったく成り立たなくなっていることが、東谷氏によって明らかにされている。

 もちろん郵政公社になって問題がすべて解決したわけではない。郵便事業の債務超過解消の目処は、立っていない。郵貯と簡保の収益は、政府保証と国債での運用という「官業」に支えられている。しかし、小泉氏が当初掲げていた論拠のうち、A郵便貯金が民間の金融機関を圧迫している、B郵貯の巨額の金が財政投融資に回って問題を起こしているという点は、既に改善が進んでいる。
 本当にいまでも民営化が必要なのか。民営化が最善の方法なのか。民営化による弊害・問題点をどう解決するのか。「民営化ありき」ではなく、こういう議論をしなければならないのである。この点については後ほど書くが、結論を先に述べておくと、私は現在の郵政民営化論には反対である。現在の法案は、時間をかけて再検討すべきだと思う。
 小泉―竹中政権の郵政民営化案には、とにかく郵政公社を株式会社にする、郵貯・簡保345兆円を市場に出すという姿勢が露骨になってきている。このままアメリカの要望にそう形で、民営化が強行されれば、国民の貴重な資産はアメリカに奪われる。特に簡保はアメリカの保険業界の餌食となる。再検討しなければ、日本が危ない。この検討は、国家破産の危機にある財政を再建するというもっと重大な課題の中で行うべきだというのが、私の意見である。

 

◆米国は郵便を民営化してない

 

郵政民営化論は、民間で出来ることは民間へ任せる、官業が民業を圧迫してはならない、だから郵政公社を株式会社にすべしという思想に基づく。これは、市場万能・自由競争至上主義の考え方である。わが国は、いよいよこのアメリカ流の考えの構造改革を本格的に進めようとしている。その一大焦点となっているのが、郵政改革である。
 冒頭に書いたが、小泉首相の当初の郵政民営化論では、@全国に宅急便が行き渡っているから郵便は民間に任せても大丈夫、ということが、論拠の一つだった。しかし、郵政公社は、全国一律のユニバーサル・サービスを行っているが、民間企業となれば当然、公益性より収益性を追求する。手間や経費がかかる山間離村へのサービスは、切り捨てられる可能性が高い。郵便局も収益の上がらない局は、どんどん廃止されるだろう。
 ドイツでは、民営化によって、郵便局の数が半数近くに激減した。基本法(憲法)でユニバーサル・サービスを義務づけたにもかかわらず、なお局数が減り続けた。当然、サービスの質の低下は避けられず、国民の不満は高まっているという。

 実は、世界はもう単純な民営化の時代ではなくなっている。単純に民営化するだけではうまくいかない問題がいろいろ出ているからだ。
 郵便事業に関して言うと、全面的に民営化している国もあることはある。先ほどのドイツはその一例である。ドイツでは、郵便・郵貯・電気通信の3事業に分割して民営化した。しかし、郵便事業を担うドイツ・ポストは、民営化後も独占状態を維持している。独占で得た利益で、物流会社のDHLを買収し、国際市場に参入して、利益をあげている。株式の多くは政府や公的機関が保有しており、一種の国策会社となっているのだ。もっとも郵貯会社を切り離したのは、間もなく失敗だったことが明らかになった。郵便の業務には、直属の金融機関がないと資金調達等に不便なことがわかったのである。結局ドイツ・ポストは、ポスト・バンクを子会社化している。
 イギリスでは、かつてサッチャーが労働党政権で国営化された企業の民営化を進め、イギリス病を克服した。その功績は偉大である。しかし、郵政では、民営化は失敗だった。伝統あるロイヤル・メールの名称を捨ててコンシグニアと改め、株式会社として出発したのだが、わずか1年7ヶ月で看板を下ろした。業績不振やスト頻発のためである。結局、名称をもとに戻して、やり直しをすることになった。
 民営化していない国もある。フランスの郵便事業は国営であり、カナダでは公社である。欧米諸国がすべて完全民営化しているわけではないのである。

 小泉―竹中政権は、郵政民営化の一環として、郵政公社を窓口会社、郵便会社、郵貯会社、簡保会社の4つの株式会社に分割しようとしている。しかし、郵便事業のあり方についても、上記のようにいろいろなやり方があるわけである。わが国においては、本当にどういうやり方がいいのか、民利国益を根本において、主体的に検討することが必要なのである。

 郵便・郵貯・簡保等の分割民営化は、相当手を講じても、郵便のサービスの低下を招く。郵便局の数の激減、郵便と金融の分離による決済のしにくさなど、国民に不便をもたらす可能性が高い。それに十分注意すべきは、現代世界では、郵便と物流ビジネスの境目がなくなってきていることである。郵便を単純に民営化すれば、郵便会社のライバルは、クロネコ・ヤマトや佐川急便等の国内の宅配業者だけではなくなる。DHLやFedExなど、外資の物流会社も本格的な競争相手になる。その時に勝ち残れるだけの企業経営を確立しておかないと、新会社は途端に外資の食い物にされるおそれがある。

 大体、日本に郵政民営化を迫っているアメリカでは、どうか。郵便は株式会社になどしていないのである。USPS(ユナイテッド・ステーツ・ポスタル・サービス)は国営の独立行政機関であり、職員は公務員である。この公社は、信書・書状・広告郵便物・定期刊行物などを独占している。自由主義経済の権化のようなアメリカ自身は、郵便事業を官業でやっているのである。
 アメリカに言われるから、なにがなんでも民営化ということであれば、それは国民を欺くものとなろう。

◆郵便貯金が狙われている

 

郵政改革で最大の問題は、金融部門である。郵便貯金は、全国各地にある郵便局の窓口で預けられる。少額でできる簡易で安全な貯蓄手段となっている。元利払いを国が保証していたから、金が集まった。簡易保険も同様の理由で人気があり、簡保に預けられている保険金は、国内の保険会社の合計額にほぼ匹敵する。かくして、日本の国民の個人金融資産1400兆円のうち、約4分の1が、郵貯と簡保に預けられている。郵貯が228兆円、簡保が117兆円、合計で345兆円である。
 この大切なお金が、アメリカに狙われている。安易な民営化は、国民の資産に外資が食いつけるよう、市場に引き出すものとなる。

 郵政公社はいまでも、世界最大の金融機関である。郵貯の預金高は、日本国内の銀行の総預金高にほぼ匹敵する。郵便・保険・窓口とともに分割して株式会社にすると、世界最大のメガバンクの誕生となる。その規模たるや、シティ・グループの4倍である。
 竹中郵政民営化担当大臣は、郵貯・簡保の資金を市場に開放することが、日本経済の活性化になるという。しかし、新銀行の誕生には、さまざまな懸念が出されている。これに対し、竹中氏はまっとうな説明をしていない。郵政民営化への反対論が高まるのは当然である。

 郵貯銀行は、それ自体が、外資のM&Aの格好の対象となるだろう。韓国では、IMFの管理下に入ってから、激しい吸収・合併によって主要銀行は3行のみとなった。そのうち2行は株の7割を外資が保有する。残り1行も6割近くが外資の保有となっている。日本も、来年、三角合併が解禁となると、東京三菱・三井住友・みずほですら、買収されないとは限らない。そして、外資にとって、最大の獲物となるのが、新しい郵貯銀行ということになるだろう。

 別の懸念としては、郵貯銀行の資金運用を完全に自由化した場合、大量の金が市場に流れるということがある。あり余った金は、投資先として株式や土地に向かい、新たなバブル現象を引き起こすかもしれない。また、郵貯銀行が無制約の運用を行うと、財投で購入しつづけて保有している膨大な国債を売却するかも知れない。これは、国債の暴落を招き、国家財政に重大な危機を生じるだろう。
 これまで、郵貯の資金が財政を支えてきたといういびつな構造が続いた。かつては資金が直接、財政投融資に回っていた。その約4割程度とはいえ、巨額であることは間違いない。現在も財務省が発行する財投債を購入する形で、郵貯が財政の相当部分を支えている。
 郵貯228兆円、簡保117兆円は、国営であるから、実態は国債と同じことで、国の債務なのである。この郵貯・簡保の資産が、財政投融資によって、かなりの部分が特殊法人の赤字補填にまわされてきた。その結果、郵貯・簡保に蓄えられた国民の個人資金は、75%が不良債権と化していると見られる。新しい郵貯銀行が外資と戦うために、これ以上、新たな債券を買わないことにしたらどうなるか。郵貯銀行の資金が国債・公債の購入に回らなくなると、日本の財政は途端に逼迫するのである。

 実際にどういう展開になるかは、わからない。専門家でも諸説分かれている。ただ、私のような素人でもはっきり言えることは、財政赤字の削減を徹底的に行う計画と取り組みのないままに、郵政民営化を進めると、日本経済は自滅を早めるということである。
 そして、日本経済が弱体化し、企業や銀行の株価が下がりきったところを、アメリカの投資家が、次々に掌中に収めていく。濡れ手に粟とはこのことだろう。その時、狙われている最大のごちそうが、民営化された郵貯銀行株式会社ということになる。
 小泉―竹中政権は、日本国民の大切な郵便貯金を外資に差し出す愚行を進めているとしか、私には思えない。簡保については、もっとそうである。この点は、次章に書くこととする。

 

民営化に米国保険業界の要望あり

 

簡保に預けられている保険金は、国内の保険会社の合計額にほぼ匹敵する。この大切な財産に、アメリカが目をつけている。
 小泉―竹中政権は、郵政民営化を強行しようとしている。その背後には、アメリカ保険業界の要求がある。日本生命、住友生命、明治安田生命など、わが国の保険会社は、不良債権と低金利の影響で経営が厳しくなっている。そこへ、アフラック、アメリカンホーム・ダイレクトなど、アメリカの保険会社がすごい勢いで進出してきた。毎日何回となく、テレビ・コマーシャルが流れ、日本の保険と比べていかに有利かが視聴者の脳裏に刷り込まれる。自動車保険や医療保険など、どんどん顧客は外資に流れている。そういう中で、日本の保険業界にとどめをさすことになるのが、郵政民営化なのである。

 アメリカ政府は、平成7年(1995)に、「年次改革要望書」において、早くも郵政民営化に言及した。その後、何度も日本に郵政民営化を要望しつづけている。米国側から見れば、郵政民営化とは、イコール日米保険摩擦なのである。郵便事業の方は、ほとんど関心がない。アメリカの保険業界は、日本の郵貯・簡保に対して敵意を剥き出しにし、官業としての優遇措置を廃止せよと圧力をかけてきた。とりわけ簡保を解体して、日本の保険市場を垂直統合しようと図っている。
 米国は、郵便事業と簡保を切り離して完全民営化し、全株式を市場で売却しろと要求している。竹中大臣は、米国政府及び米国保険業界を代弁しているに過ぎない。規模の大きすぎる簡保は独占禁止法違反だとして、分割・解体することまで、米国は要求している。わが国の政治家は、こういうことを内政干渉だと言えないから、中韓の内政干渉(靖国・教科書等)にも、はっきり反論できないのだろう。
 米国は監督官庁を移せとも要求している。郵政3事業は総務省管轄だが、民営化すれば簡保は純粋な保険会社になる。だから、金融庁の管轄下に移管せよというのである。公正取引委員会を内閣府に移させたのも、米国資本の進出の際に、政府機関を使って揺さぶりをかけるための布石だった。平成12年(2000)の要望書で、所管庁を総務省から内閣府に移すよう要求した。総務省は郵政事業を管轄しているため、同じ傘下にある公正取引委員会が郵政民営化において中立に動くか疑わしい、というのが理由だ。要望の出た3年後に、公取委の所官庁が変わった。
 米国の日本に対する要望は、米国の公式文書に明快に示され、ホームページ上で堂々と公開されている。

 国民がこういう事態を知らせないまま、小泉―竹中政権は、日本の将来を左右するような郵政民営化を強引に決定しようとしている。反対派の方も、綿貫民輔氏を中心とする郵政事業懇話会など、郵政族の行動は、既得利権や票田を守るためでしかないように見える。マスコミも表面的な報道が多く、最も核心となるところを国民に明らかにしていない。
 郵政事業が分割民営化されれば、切り離された新簡保会社は、一番先に外資の餌食になるだろう。アメリカの保険会社は、新簡保会社をM&Aによって傘下におさめることができる。不良債権で含み損の多い日本の保険会社は株価が安い。株式交換による三角合併なら、手に入れるのは、苦もないことだろう。

◆安易な郵政民営化はやめ、財政再建を

 

小泉―竹中政権になって以来、アメリカの要望が、ほとんどそのまま日本政府によって実行されるようになっている。日本政府は米国政府の出先機関かと見まがうばかりである。国の指導者が進んで、アメリカに日本を身売りするかのような、おかしな政策を行っている。
 一方、小泉改革への「抵抗勢力」には、既得権益に固執し、国の資産にたかっている守旧派が多い。大衆は小泉氏の表面的なパフォーマンスのみ見てこれを支持し、マスコミは「抵抗勢力」イコール守旧派というような単純な報道を繰り返してきた。
 しかし、明らかにしなければならないのは、郵政民営化はアメリカの要望でもあるということである。そして、米国の圧力や「年次改革要望書」「対日投資会議」などすべての背景が、国民に知らされねばならない。

 郵政改革の議論は、単に郵政改革をどう行うというかという範囲で論じられているのでは、意味がない。郵政改革を通じて、特別会計を国民監視に置くことが目ざさなければならない。言い換えると、国家財政の透明化である。
 本来の財政は一般会計と呼ばれ、国会で予算・決算が審議・議決される。これ以外に、31の特別会計がある。特別会計とは、財政法によって、国が特定財源を使って特定の事業をする場合や、特定の資金を保有し運用する場合などに限って、設置を認められているものである。しかし、いまや特別会計は一般会計の数倍に膨れ上がっている。
 一般会計は約82兆円。その中には、特別会計への繰入額47兆円が含まれる。これを差し引くと、一般会計の歳出は35兆円。これに比べて特別会計は、232兆円もある。6.6倍である。その途方もない金額を、国会の承認を必要とせずに、官僚が勝手に使っている。これは財政法の精神を踏みにじるものである。

 特別会計は、一般会計で認められなかったような事業を、官僚・族議員・業界の三者が組んで行う仕組みになってしまっている。ここに、各省の既得権の温床がある。各省各部局は、独立した帝国のように振る舞っている。首相でさえ、財政の全体を掌握・統括できない。そして、それぞれの族議員は、特別会計に隠された利権から利得を吸い上げている。この異常な構造の中で、巨額の財政赤字が積み重なってきたのである。この構造の全体像を明らかにし、抜本的な改革を行わなければならない。
 財政赤字を解決しないまま、郵政の民営化をしても改革にならない。株式会社化は、アメリカの企業に買収・合併される道となる。また仮に郵貯・簡保がアメリカの手に渡っても、財政の構造が変わらない限り、財務省は財投の資金調達のためなお債券を発行し続けるだろう。

 国家破産の危機が迫っている現在、財政再建の第一歩として、特別会計の透明化、合理化は急務である。郵政改革は、こういう大きな課題の一部として進められなければならないものである。それと同時に、財政再建の具体的な方策を検討すべきである。
 その方策において、議員の定数と給与の削減、公務員の人員と給与の削減は、一番先に為されるべきことであり、そうであってこそ、国民への負担、具体的には消費税等による税負担も、国民共通の痛みとして考えられる。そして、抜本的な方策としては、例えば森木亮氏が上げているように、第一に緊縮財政の実行、第二に国債削減法の導入、第三に公会計への複式簿記の導入、第四に憲法を改正して財政均衡のための歯止め規定を設けること等が考えられる。

 改めて言うと、私は現在の郵政民営化論に反対する。慎重に時間をかけて再検討すべきである。小泉―竹中政権の郵政民営化案は、郵政公社を株式会社にし、郵貯・簡保345兆円を市場に出すことに絞られて来た。これが強行されれば、国民の貴重な資産はアメリカに奪われる。再検討しなければ、日本が危ない。この検討は、財政を根本的に再建するというもっと大きな課題の一環として行うべきだと思う。
 こうした取り組みが遅れれば遅れるほど、日本は国家破産を避け難くなる。そして、国家破産に立ち入ったならば、IMF=アメリカによる再占領が行われる可能性が高い。その時、国民はこれまで積み上げた資産を失って、塗炭の苦しみを味わうことになると思う。

 

今こそ日本人は日本精神を取り戻し、日本再生に立ち上がらねばならない。
現在の郵政民営化案は、「アメリカによる日本改造」に手を貸すものでしかない。政治家も国民も目を覚まさなければならない。特に国民の代表である国会議員の役割が問われている。党利省益や私利私欲ではなく、日本の運命、日本の将来という観点から、判断を誤らないようにしてほしい。
 

参考資料
・東谷暁著『民営化という虚妄』(祥伝社)
・同上『郵政民営化に「日本」の刻印は押されているか』(月刊『正論』平成17年7月号)

・関岡英之著『国民が知らない米公式文書「年次改革要望書」「外国貿易障壁報告書」の驚くべき内容』(月刊『正論』平成16年10月号)
・同上「郵政民営化は『米国による日本改造』プログラムの一環だ」(月刊「日本」平成17年6月号)

・森木亮著『2008年 IMF占領』(光文社)

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国家と国益を考える

2005.9.14

 

国益を考えない国家・国民は、衰退する。戦後日本人は、戦後の日本弱体化政策の結果、国家観念を喪失し、国益を考えない人が増えている。このままでは、日本は沈没する。日本の再生のために、国益について考えてみたい。

 

◆国家・国益とは何か


 国益とは何か。「国家の利益」であり、「国民の利益」である。ここにおける国家及び国民とはいかなるものか。
 「国家」には、政治的・文化的・歴史的な共同体という意味と、その共同体が持つ統治機構つまり政府という意味との二つの意味がある。英語では前者を Nation 、後者を State という。
 共同体としての国家に所属する者を、「国民」という。国民とは、現在のわれわれだけでない。祖先や子孫を含む。それゆえ、国家は、過去・現在・未来の世代を含む歴史的な総国民によって構成される共同体である。
 「国民」は、共同体としての国家に所属する資格として、国籍を持つ。国籍は、国際社会において、ある個人がどの国家の国民であるかを示すものであり、どの国家に所属しているかを表わす資格をいう。ある国家に所属し、その国家の一員を構成するとは、祖先から受け継いだ歴史や伝統を担い、それを将来の国民即ち子孫に受け渡していく責務を負うことを意味する。それゆえ、国籍とは、国家の意思を国民として決定し、国家と運命をともにするという意思の表示である。このことを理解し、国益に尽くそうとしない者には、国籍を与えるべきではない。

 国家と国民について以上のように考えるとき、「国益」とは、共同体としての国家の利益であり、そこに所属する国民の利益であることが明らかになる。国民が国益を考えない国家は衰退する。

 国家は、一つの共同体として意思決定をしなければならない。そのために必要なのが政府である。政府は、この共同体が占有する領土や、帰属する国民を統治するための機構である。それが、政府としての国家である。

政府は指導者と、その指導者を支え、意思決定したこと(政策)を実行する組織によって構成される。国民には多数の構成員が存在する。理想的には、その構成員の意思が一致していることが望ましいが、現実には、さまざまな意見や利害の相違がある。それゆえ、指導者は、国民の多数にとって利益にかなうように、意思を決定また実行しなければならない。指導者は、国家と国民の利益を常に考えて、政治を行わねばならない。(註1)

 それでは、国益にいう利益とはなにか。国民の幸福を実現し、また増大するものである。国民の幸福はいかにして実現されるか。基本的な欲求が満たされること。最低限の欲求は、生存と安全である。これは幸福の実現の最低条件となる。そのうえで、生命的な繁栄また経済的な発展が次の目標となる。そのためには、家族の生活が保障され、財産を維持・増加できること。この点で、政府の役割は、国民の生命と財産を守ることだと、しばしばいわれるわけである。前者は他国の侵略に対する国防、後者は暴力革命に対する治安にあたる。
 そのうえで、精神的な欲求が満たされることが次の目標となる。そのためには、国家に所属することによる安心や誇り、個人の自由や名誉等が得られること。固有の伝統・文化・価値を保ち、子孫に教え、受け継ぐことができること。
 さらに、個人が自己実現のできる環境にあることが必要となる。各個人がアイデンティティ(自己同一性=自分は○○であるという意識)を保持するために、国民としてのアイデンティティを持つことは、重要な要素である。これは、個人の自己実現の基礎ともなる。国民的なアイデンティティの混乱や喪失は、個人に深刻な危機をもたらす。アイデンティティという用語を精神医学・心理学にもたらしたのは、エリック・エリクソンだが、彼自身、自己の民族的な出自に悩んだことがアイデンティティ論のはじまりだった。

 

ところで、ここにいう国益とは、現在の世代だけではなく、先祖や子孫の世代をも含めた国民の利益である。私は、国益というものを、こうした歴史的な総国民の幸福ということから考えている。上記の生命的・経済的・精神的価値は、祖先が願ったことであり、我々が自らのため、また子孫のために努力しているところ、子孫もまた求め続けることであとう。特に精神的な価値を補足すると、日本国民に生まれたことへの誇り、先祖への感謝、子孫への希望を持てること、それらも私は国民の幸福追求に欠かせないものであり、国益の要素だと思う。その点から、日本人が、歴史を独自に解釈し教育する権利、英霊の名誉を顕彰し自らの伝統に従って慰霊する権利なども、国益の一部だと私は考える。国益とは、単に領土の保全・拡張や、経済的権益の維持・拡大等といったものだけではないと思うわけである。

 さて、歴史的総国民の意味での国民の利益のために、生命的価値、経済的価値、精神的価値を実現するためには、国家は自ら意思決定をすることができなくてはならない。他に依存せずに、自己の自由意思によって、自分の態度や運命を選択できるということである。これは他国に対しては主権を維持し、行使することとなる。それなくしては、国際社会において、国民の権利を守り、追及することができない。国益の実現のためには、主権が保持されねばならない。また、その行使として、国防・経済・外交・教育等が重要となる。(註1)

 ただし、国際社会においては、自国の利益だけを一方的に追求することは、他国の利益を害し、対立・抗争を引き起こす。互いの利益の折り合うところ、共存共栄を追及することが必要になる。場合によっては、国際社会全体または人類全体の利益を追求する中で、自国の利益を追求する必要が出てくる。その場合も、まず自国が存立することが先決である。そのうえでの国際協調となる。この価値基準が逆になった国家は、衰退する。
 個人と同じく、利己主義はいけないが、利他主義もいけない。利己と利他の中間に、国家が取るべき正しい道がある。自主自立のうえでの共存共栄の道である。それが、わが国日本の進むべき道であると思う。

 

(1)主権について補足する。

国家の持つ権利は、主権と呼ばれる。主権には、三つの意味がある。(1)国家固有の統治権、(2)国権の最高性、(3)国権の最高機関である。

主権という概念は「最高の力」という概念を核としている。自己の意思を自由意志に基づいて決定し、その意思を心理的・物理的に強制することのできる、国内的・対外的に最高の「力」(実力 powerにして能力 ability)である。それゆえ、このような「力」の裏づけのないものを、主権というのは、概念の自己矛盾になる。

 また、力の担保なしには、国内的にも対外的にも、国益は追及できない。法という言葉による取り決めは、力の裏づけを要し、外交という言葉のやり取りも、力の裏づけを要する。いざというときには、力で意思を強制できるという担保を持ちつつ、いかに対話によって、相互の意思の合成を行うかが、政治であり外交である。また、その「力」の担い手は、ほかの誰でもなく、国民自身であって、それが近代国民国家の基本原理である。この原理を実現していない国は、主権を持たないか制限されている国家であり、事実上の属国である。

 わが国は、憲法に国防の義務、国家忠誠の義務を定めていないことにより、近代国民国家に不可欠の「力」の裏づけに欠陥を持ち、その結果、対外的な国益(領土・歴史・慰霊等)を守ることができないままでいる。

 そこで、国益ということを、国家・国民とは何か、国民は国益のため、国民みなの幸福のために、何をなすべきかという観点から考えてみたいと思うわけである。 

 

◆国民意識を高めよう

 

国家は、政治的・文化的・歴史的な共同体である。わが国に比べ、世界には多言語、多人種、多文化、多宗教等の国が多く、国家の構成は一様ではない。そうした多様な要素を持つ国民を、一つの国民へと形成するのは、国民の意識である。
 その共同体に所属する人々が、「われわれは○○人である、○○国民である」という意識を持つことによって、国家は形成・存続される。国民意識があって、国家という共同体は成り立つ。国民的なアイデンティティが、国家を成り立たせているのである。

 国民意識を生み出す源泉は、一つの集団に帰属し、歴史と運命を共有しているという意識である。その意識の中核は、歴史の共有である。同じ歴史を生きてきたという記憶と自覚が、国民意識の中核である。すなわち、国の起源、苦難と栄光の歩み、喜びと悲しみの感情。これらをともにしているという意識である。
 そして、歴史に基づく国民意識を喚起するものとして、神話または建国の物語、英雄、理想、象徴が必要になる。こういうものをしっかり創造し、国民に共有している国家は強い。それのできていない国家、それを失った国家は弱い。また、新たに国民になった者(青少年と移民)に対して、国民的アイデンティティの教育を徹底している国は強く、それの出来ていない国は弱い。

 戦後日本人は、GHQの日本弱体化政策により、国民意識を破壊された。固有の歴史を否定された。神話(建国の神話)・英雄(神武天皇)・理想(八紘一宇)・象徴(天皇・日の丸)を奪われ、またはおとしめられ、教育からも抜き去さられた。その代わりに、アメリカ製の歴史観(太平洋戦争史観)が与えられ、アメリカ人の理想(自由・民主・人権)が植え付けられた。その結果、日本人の国民意識は低下させられた。
 国民に国民としての意識が低くなると、国益を考える力が低くなる。戦後世代が成長するにしたがって、また特にその世代が組織の意思決定をするようになるに従って、ますます国益を考える力が低下している。経済のボーダレス化とアメリカ主導のグローバル化がそれを助長している。アメリカとの関係は、次章に書くことにする。

 ここで触れておきたいのは、日本人に国益を考える力が低下した要因には、共産主義の影響も大きいことである。マルクス=レーニン主義は、国家(政府)は、階級支配のための暴力装置だとする。近代国家では、政府が国内の武力を独占し、階級支配を行うと考える。
 しかし、文明論的には階級間より民族間の支配のほうが顕著である。征服した民族が支配集団となり、それが支配階級となる事例は、世界の文明史をおおっている。共産主義は、生産力の向上と私有財産制の発達による階級分化という経済的内発的な要因を重視するが、文明論は侵略・政府による軍事的外発的な要因を指摘する。前者を否定するのではない。単純すぎると批判するのである。

 階級支配論に立つマルクス=エンゲルスは、イギリスをモデルに市民社会と近代国家の発生を理論化した。しかし、イギリスの歴史を見ても、ケルト人の国へ、ディーン人、アングロ=サクソン人、ノルマン人が次々に侵略・流入を繰り返した。征服した民族が支配集団となり、また次に征服した民族がそれを襲った結果、社会が他民族的に階層化し、地域的にも構造化している。
 経済的内発的なモデルが最もよく当てはまるのは、イギリス資本主義の発達過程なのだが、この場合ですらノルマン・コンクエストによるノルマン系の貴族に対して、アングロ=サクソン系の多いジェントリー・ヨーマンリーの台頭といった民族間の要素がある。貴族はフランス語を、庶民はドイツ系の古英語を話していた。

 民族間の侵略や征服の繰り返しに注目すると、共同体としての国家が持つ統治機構つまり政府とは、対外的な自衛のために不可欠の機構であることがわかる。対内的には統治のために必要な治安維持装置が、対外的には外敵の侵攻を防ぐための自衛装置でもある。統治機構を失い、無政府状態になった集団は、外敵に容易に征服される。そして、侵攻を受けた集団は、そっくり侵攻者に支配される集団となる。それは、同一集団内における支配より、はるかに苛烈なものとなる。結果は殺戮、暴行、略奪、奴隷化である。また別の結果としては、ユダヤ人のように居住する土地を失い、諸国に離散・流浪することになる。

 さて、近代的な議会制デモクラシーが発達し、選挙権の所持者が増え、財産・税金の多寡にかかわらず選挙権が与えられる普通選挙が行われるようになると、国家を支配という側面だけで見るのは、一面的となる。普通選挙によれば、理論的には、一定の主義や思想を持つ団体(政党)が選挙によって選ばれ、政府を構成するようになる。そこに階級間・民族間の支配の歴史が保持されていても、それが決定的とはいえなくなる。
 実際、現代の国家は、過去の階級的・民族的な対立・融合の歴史を基層としつつも、特定の集団による支配ではなく、国民の多数意思をもって統治する機構に変化している。そして、国家(政府)が追求する利益は、特定の集団の利益というより、国民多数の利益となっている。その主導権は、選挙で選ばれる団体(政党)に与えられる。それにもかかわらず階級支配を強調するのは、別の目的があると見たほうがよい。(註2)

 旧ソ連では革命後、権力を掌中にした共産党が特権をほしいままにし、「新しい貴族階級」となった。また、階級論をもって東欧に勢力を広げ、大国が小国を支配する覇権体制を築いた。ソ連・東欧圏の共産党支配体制の崩壊後も、階級論を強調し続けている団体は、共産主義による支配をねらっているのである。階級支配の強調は、国民を思想的に分裂させ、共産主義者が権力を奪取するための手段となっている。国民が思想的に分裂すれば、国民意識は低下する。当然、国益を考える力も低下する。日本国民がそのような状態にあることは、中国や韓国・北朝鮮にとっては有利となる。

 戦後のわが国は、アメリカ・ソ連そして今では中国・朝鮮との間で、国益を危うくされてきた。今日わが国の国益を考えるには、文明論的な視点に立って、国民の意識を高めることが必要であると思う。

 

(2)デモクラシーについて補足する。

 デモクラシーとは、「民衆が政治権力に参加する制度」である。民衆が一応国政に参加できる仕組み、議会なり選挙なりの形式さえあれば、どういう政体でもデモクラシーといえる。君主制のイギリスも、共和政のアメリカも、民主集中制実は共産党官僚独裁の旧ソ連も、かの北朝鮮でさえ、みなデモクラシーを自称できる。また、経済的には、資本主義であれ社会主義であれ、自由経済でも統制経済でも計画経済でも、デモクラシーを自称できる。それゆえ、デモクラシーというだけでは大して価値はない。デモクラシーを真に価値あるものにするには、国民の努力が必要である。

 

◆個人と企業と国家と

 

国益を考えるために、個人の利益を「個益」、企業の利益を「社益」と呼ぶことにする。聴きなれない言葉だが、便宜のために使わせていただく。
 個人は個人の欲求、自由意思に従って行動する。企業は資本の論理、経済の合理性で活動する。国家は組織の論理、主権の力学で運営される。それゆえ、「個益」「社益」「国益」には、一致・不一致がありうる。

 第2次世界大戦後、アメリカの世界戦略のもと、ブロック経済から世界市場経済への転換が行われた。人、もの、金、情報が、国境を越えて縦横に移動する世界において、国家(政府)の役割は徐々に縮小しつつある。しかし、依然として国家がこの世界で圧倒的に大きな役割をしていることに変わりはない。グルーバル化、地球市民などといって、ものの見方の比率を誤ると、国家と国益の重要性を見失う。
 いまや個人は、自由意思によって、自国の企業に勤めることも、外国の企業に勤めることもできる。また勤務場所も、国内でも海外でも選択できる。誰もが個益つまり自分の収入と能力発揮を考えて、より有利な条件のところを求めるだろう。しかし、個人は企業に属するとともに、国家にも属している。企業の背後には国家があり、社員や顧客の背後には国民がいる。自国の企業の社益に貢献することは、自国の国益に貢献することであり、他国の企業の社益に貢献することは、その国の国益に貢献することになる。このことを、知っておくべきである。

 企業は、自由意思による契約によって個人が集合・離散する団体である。これに対し、国家は生まれながらに個人がこれに所属し、法によって権利と義務を与えられるという特殊な団体である。国家は、企業をモデルにして把握し尽くすことのできない独自性を持つ。
 ある国の国籍を持つ個人、その国に法人登録されている企業は、その国の法に従って活動する。「個益」「社益」は私益であるから、国家・国民全体の公益にかかわる場合は、「国益」が優先される。国法の体系は、政治が経済より優位にある。
 とりわけ、対外的に生存と安全が脅かされる場合は、国内に利害の相違・対立があっても、外敵への対応が優先される。国益の決定的な損失は、個人の利益、企業の利益にとっても決定的な損失となる。だから、究極的には、個益・社益を守るためには、国益を守らねばならない。
 憲法に国防の義務、国家忠誠の義務の定めがなく、刑法の敵国通牒罪や国家機密漏洩罪(第85〜86条)が削除されたままになっているわが国では、このようなことすら認識していない人が少なくない。

 そこで、次に個益ということを頭に置きつつ、企業との関係で、国益について考えてみよう。企業は、おのおのの社益を追及する。そのためには、外国の企業と提携して、国内の競争相手と争うこともある。しかし、そうした中にあっても、G8のような先進国の国際会議で、各国首脳が国家の成長目標、改革課題等を調整・決定している。
 もし経済のボーダーレス化によって、国家の役割がなくなる方向に進んでいるなら、こうした国際経済会議の必要性はなくなっていく。ところが、実際はそうではない。経済は資本の論理で動いているだけでなく、国家の力学が絡み合っているのだ。そこに、それぞれの国における国益と社益の調整や融合という課題が出てくる。それがしっかり出来ている国及びその企業は強く、反対の国及びその企業は弱い。

 わが国の企業は、個々の社益の追及だけでなく、経済団体を組織して、日本の企業の全体としての利益を追求している。日本経団連や経済同友会等がこれである。
 いかに巨大な企業グループであっても、企業には出来ないことがある。国内的には、経済活動の条件となる国防、外交、エネルギー、運輸、通貨、学術、教育、医療等を整備すること。また、対外的には、外国の政府または企業に対する方策を講じること。これらは私企業ではできない。だから、社益と国益は無関係でなく、優れた指導力を持つ企業経営者は、国益を追求しつつ社益を追及し、社益を追及しつつ国益を追求する。

 企業は一つの私企業として利益を追求するわけであるが、それは資本家または経営者の利益を追求するだけの活動ではない。企業は労働者に雇用を作り出す。企業活動の停滞は、失業を生み、労働者の生活を脅かす。それが国家規模に広がれば、国民生活全体が低下する。それは国民の利益としての国益の損失となる。また、現在の企業はそのほとんどが株式会社となっており、国民は自己の資産を投資して株主となり、その配当を受けることができる。日本企業の生産する富は、その企業の利益であるとともに、国民全体の富でもある。だから、企業活動が順調・活発であることは、国民全体の利益となる。
 しかし、全般にわが国では国益・公益が軽視され、社益・私益の追及が優先される傾向がある。それは、国民に、国家・国益の意識が弱いからである。
 

◆国益を考えてこそ国民

 

わが国に比べて、アメリカではどうか。
 アメリカは自由主義の国であり、政府は企業の自由な経済活動を保障し、市場に任せ、経済活動に介入しない傾向が強い。であれば、わが国よりもっと社益・私益が優先され、国家の役割はその調整程度になるはずだろう。
 ところがである。アメリカの政府は、わが国の大臣にあたる地位に、巨大財団の代表や国際的大企業の経営者等が居並んでいる。それでわかるように、アメリカ政府は、アメリカ企業のための政府であり、アメリカ財界の政治部としての役割をしているのである。そして、外国に対して、様々な要望を出す。社益の追及と国益の追求が一体化しているところに最強の強さがある。
 外国企業と提携している場合でも、アメリカ企業がイニシアティブ(主導権)を取り、社益・国益の追求をしている。とりわけ重要なのが、石油の確保と通貨(ドル)の安定である。これは、個々の企業にはできない。政府がアメリカ企業連合の政治部として、軍事や外交や通貨政策を行う。

 アメリカの財界は、対外的には、アメリカの企業と国民の全体としての利益を追及する。わが国に対しても、アメリカの財界が日本に対して、自国に有利な条件を要求する。繊維、オレンジ、牛肉、自動車等、日米経済摩擦は、個々の分野における私企業の利益のぶつかり合いだが、総体的には、国家と国家の利益のぶつかり合いとなる。円=ドルの通過も同様である。
 また、税金は政府が国民から徴収するものだが、外国企業に対し、関税を課すのも政府である。相手国には関税の引き下げ、自国には引き上げを求めて、私企業や財界が政府に働きかける。輸入量・輸出量の制限を決定するのも、政府である。資本の論理だけであれば、関税や輸出入量の規制は、その機構の中からは出てこない。しかし、国家の論理では、自国の企業を守るため、国民の生活を守るために、こうした政策を実施する。ここに、国家間つまり政府間の国益をかけたやり取りがある。

 現代世界の唯一の超大国・アメリカでは、このように国益の追求が重視され、国益と社益が一体のものとして追求されている。グローバリゼイション(全球化)とは、アメリカの国益・社益の世界規模での追求であり、アメリカを中心とした米英圏の基準を、日本・欧州・アジア等に押し付けるものである。具体的には、ビジネス英語、会計基準、司法制度、建築基準等である。アメリカ企業が活動しやすいように、世界を変えようとする改革を進めている。

 その最も露骨な例が、わが国に対する「年次改革要望書」(註1)である。これはアメリカ政府が日本政府に毎年突きつけてくるものだが、その中にアメリカ企業の社益が集約されている。
 現在、選挙の焦点となっている郵政民営化も、アメリカの政府・財界が強く要望し続けているものである。郵便貯金と簡易保険の総計345兆円の資産を市場に引き出させ、これを獲得することを、アメリカの銀行・保険会社は狙っていると観測されている。
 郵貯も簡保も国民個人の資産だが、総体的には国民全体の資産でもある。個人としては、シティ・グループでもアフラックスでも有利な方が良い。しかし、国民の資産が外国企業に大量に移ることは、国民全体としては損失となる。外国の金融機関は、集めた資金を日本の中小企業を育てるために融資したり、日本の社会資本の充実のために運用するとは限らない。儲からないことはしないだろう。金利の安い日本の国債を売って、金利の高いアメリカの国債を買う可能性が高まり、日本の国債の金利が大幅に上昇し、日本経済が大混乱に陥ることになるかも知れない。
 郵便サービスだけなら工夫の仕方で地方・離村・離島にも便宜を保てるかも知れないが、国際金融市場にさらされる金融部門はそうはいかない。ここに郵政民営化の是非を考えるときの最大のポイントがあると思う。
 ちなみに日本に郵政民営化を求めているアメリカは、郵便事業を民営化していない。公営なのである。(註2)

 国益を考えずに各個バラバラに社益、個益を追及している国民は、国益を考えながら社益・個益を追及している国民に敗れる。国家レベルで敗れた国の企業は、国家をバックにした他国の企業に打ち勝つことが出来ない。わが国の国民、個人及び企業は、もっと国益ということを考えねばならない。
 国家と国民は一体であり、国家と企業も一体であることを思うべきである。

 最後に、本稿のはじめに書いたことを確認して結びたい。
 国益とは「国家の利益」であり、「国民の利益」であると書いた。国家とは、政治的・文化的・歴史的な共同体である。国民とは、現在のわれわれだけでなく、過去・現在・未来の世代を含む歴史的な総国民である。
 そして、国益にいう利益とは、こうした意味での国民の幸福を実現し、また増大するものである。最低限、生存と安全が保障され、生命的な繁栄また経済的な発展が得られ、さらに国家に所属することによる安心や誇り、個人の自由や名誉、固有の伝統・文化・価値の保守と継承、さらに個人が自己実現のできる環境にあること等が、その利益の内容であり、目標ともなる。
 こうした生命的価値、経済的価値、精神的価値を実現することが、それが国益の追求であると私は考える。そこに、国防、外交、財政、教育等の目標がある。

 国益の追求のためには、国家は自ら意思決定をすることができなくてはならない。そして、国家が確かな意思決定をするためには、国民一人一人が国益を考え、国民全体の幸福を考えて行動しなければならないと思うのである。
 日本人がそうなれるかどうかに、この国の興亡がかかっている。
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(1)日本を愛するすべての人に、アメリカの「年次改革要望書」を知っていただきたい。関岡英之著『拒否できない日本』(文春新書)は必読に値する。

 (2)郵政民営化については、以下の拙論をご参照下さい。

郵政民営化より財政の根本的立て直しを

 

 

■だれのための司法改革かーー裁判員制度の問題点

2005.6.15

 

◆司法制度改革も米国の要望

 

アメリカは、徹底的に日本のことを調べている。日本の政治・経済・社会・文化を研究し尽くしたうえで、日本の改造を要求してきている。司法制度の改革もまた、アメリカの要望にそって進められているものだ。以下は、関岡英之氏は名著「拒否できない日本」(文春新書)に負うところが大きい。

 現在行われている司法制度改革には、三つの柱がある。第一は、裁判期間を短縮し裁判を迅速化し、国民が気軽に裁判を起こせるようにすること。第二は、裁判迅速化のために、裁判官や弁護士の人数を大幅に増やすこと。第三は、アメリカの陪審員制度にあたる裁判員制度を導入して、国民が裁判に接する機会をつくり、司法を国民に身近なものにすることである。
 一体、こうした改革は、国民生活の向上につながるものなのだろうか。裁判期間が短くなることは、よいことだろう。今の裁判は、あまりにも時間がかかりすぎる。裁判を迅速化するために、法曹人口を増やすということも理解できる。日本の制度や慣習に変えるべきことがあることは私も理解している。
 しかし、重要なことは、裁判の迅速化と法曹人口の増加は、もともとアメリカが日本に要求してきたことだという事実である。なぜアメリカ人が日本政府にそんなことを要望するのか。彼らの要求は、日本人の幸福のためではない。米国の企業が日本で活動しやすくすること、アメリカ人が日本の政府や企業を訴えやすくすること、米国人弁護士が日本で仕事を獲得しやすくすることにあるのだ。日本の国民に裁判に参加してもらおうという裁判員制度のことは、アメリカはひとことも要求していない。直接利益にならないからだが、ちょっと問題が複雑なので、また改めて書くことにする。

 人口比での弁護士の数は、日本を1とするとドイツは8倍、アメリカは実に26倍である。それだけ訴訟が多いのだろうが、弁護士が多ければ、弁護士間での仕事の取り合いや競争が激しくなる。アメリカでは、熱いコーヒーがこぼれて火傷をしたと、マクドナルドを訴えた人がいた。裁判で、64万ドル(約7,000万円)を勝ち取った。それを真似て、些細な理由で訴訟を起こす人が跡を絶たないという。アメリカ社会は、古きよきアメリカの伝統道徳が崩壊し、多民族化するとともに国民に共通する規範が失なわれ、なんでも裁判に訴えて法廷で決着をつけようという、対立・抗争の社会となっている。「汝の隣人を愛せよ」ではない。「汝の隣人を訴えよ」だ。
 日本がこのままアメリカの求めるままに、司法制度を変えていったなら、アメリカのような訴訟大国にならないとは限らない。訴訟多発の社会では、お金があって優秀な弁護士を雇える人はいいが、弁護士を立てられない人や、裁判を起こす経済的な余裕のない人は、一層、弱者・敗者となっていくことだろう。二極分化が激しく進み、殺伐とした社会となると思う。

 実は、アメリカによる日本の司法制度改革の要求には、もっと大きな目的があると思われる。司法制度を変えることによって、日本の社会そのものを変えることである。日本の社会は、政・官・業が一体となっている。弊害もあるが、日本の強さのもとにもなってきた。アメリカの企業には、こういう仕組みだと自由な活動がしにくい。彼らには、文化の違いというより、「アンフェアー(不正)」なやり方だと映る。だから、日本の社会構造そのものを、アメリカ人から見て、「フェアー(公正)」な状態に変えようとしているのだ。アメリカにとって、都合の良いように変えるということにすぎないのだが。
 関岡氏は、アメリカによる司法改革を、「事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換」であり、「行政優位型の社会から、司法優位型への社会変革」であると表現している。つまり、アメリカ人には理解しがたく、邪魔になる日本社会の文化や慣習を取り除く。そして、政府による規制や調整を取り払って、自由競争・市場万能の原理を徹底し、問題が起こった時には裁判で決着をつけるアメリカ型の社会に変えようとしているのである。

 アメリカは日本の国家破産を見越して、さまざまな要望を突きつけてきていると私には思える。もし国家破産に立ち至れば、日本はIMFの管理下に置かれる可能性が高い。これは、アメリカによる事実上の日本再占領となる。経済面の管理だけならば、政治的な独立や社会・文化の独自性は保ち得るだろう。しかし、アメリカは単に経済的な支配だけでは満足せず、日本をアメリカの属国または一州のような存在に変えてしまおうと狙っているのではないか。その改造の中枢的な部分が司法制度の改革であり、司法を変えることで日本の政治・社会・文化を改造することだと思う。
 このままアメリカによる日本改造に、ただただ無抵抗に従っていたら、日本が日本でなくなるおそれがある。日本人は自己本来の精神を取り戻し、国民の良識をもって、この流れを変えなければならない。

 

◆裁判員制度が始まる

 

近年わが国では、アメリカによる日本改造の一環として、司法制度改革が進められている。平成13年から弁護士法が改正されて、法律事務所の法人化、弁護士業務の自由化が行われている。また、平成15年に裁判迅速化法が成立、16年には法科大学院が開校し、裁判員法が成立した。私は法律の専門家ではなく、ただの素人である。しかし、国民生活や国の運命に関わることには、黙していられない。

 司法制度改革には、三つの柱がある。第一は裁判の迅速化、第二は法曹人口の増加、第三が裁判員制度の導入である。裁判の迅速化と法曹人口の増大は、アメリカが要求してきたものである。これに対し、裁判員制度の導入に関しては、アメリカは日本に対してひとことも要求していない。アメリカの司法制度改革の要望に便乗して、日本人が改革の柱として盛り込んだものである。どういう日本人によるかは、別の日に書く。まずは制度そのものについて思うことを記すところから始めたい。

 裁判員制度の導入は、私たち国民の生活に重大な影響をもたらすことになる。平成21年5月までの間にこの制度がスタートすることになっている。この制度は、国民から選ばれた裁判員が、専門の裁判官と一緒に裁判をするという制度である。担当の範囲は、刑事裁判だけで、殺人・傷害致死などの重大事件に限定されている。国民が裁判に参加することによって、一般人の感覚が裁判の内容に反映され、また国民の司法に対する理解と信頼が深まるということが、導入の理由らしい。
 裁判員の選考は、有権者の中から候補者をくじで選び、 裁判所ごとに候補者名簿を作る。事件ごとにその名簿の中から、さらにくじで候補者を選び、選ばれた人には裁判所に出廷するよう呼び出しが来る。呼び出しを受けたにも関わらず、正当な理由なく出頭しないと、罰金(過料)が科せられる場合もあるという。単に仕事の都合とか家庭の事情という理由では、辞退することができない。免除が認められるのは、70歳以上、学生または生徒等のほか、「やむを得ない」事由がある場合のみとされる。それは、重い病気があるとか、介護を要する親族がいるとか、事業に著しい損害が生じるおそれがある等の事由に限られている。

 仮に、平成15年の犯罪数・犯罪種別の統計に基づいて、対象事件を試算すると、年間3,089件になるという。一つの事件について裁判員候補者として50人〜100人が呼ばれるとすれば、1年間で約330人〜660人に1人が裁判員候補者として呼び出しを受けることになる。また国民が一生のうち、裁判員に選ばれる確率は67人に1人になるという。
 実際のところ、ある日突然、自分が裁判員に選ばれて呼び出し状が来たら、ほとんどの人は困惑するのではないか。仕事をもっている人について、その人が裁判員として裁判所に通うことによって、事業に著しい損害が生じるおそれがあるかどうかなど、誰が客観的に判断できるのか。家庭の事情にも、いろいろある。たちいった説明をしなければならないことは、プライバシーの侵害になりはしないか。
 それに、裁判に参加することによって得た「評議の秘密」は、これを漏らしてはならないと定められている。これに違反すると、秘密漏示罪が適用される。懲役刑・罰金刑が科せられる場合もある。殺人や傷害致死など、重大な事件について、自分の知りえたことを、家族にも友人にも言わずに胸にとどめるなどということは、誰にでも出来ることではあるまい。職業として自覚を持つプロの法律家とは違うのだ。どこからが秘密で、どこまでなら言っていいのかも、初めて裁判に関わった人間にわかるものではない。
 裁判員の選考、裁判の過程、その後の保秘義務など考察すると、裁判員制度は、憲法に保証された国民の権利を侵害するところが、いろいろあると思う。例えば、第18条「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」(奴隷的拘束及び苦役からの自由)、第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(思想及び良心の自由)、第22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」(職業選択の自由)等である。

 次に裁判官の側について考えると、司法試験に合格し専門家としての訓練を受けた裁判官と、法律や裁判というものになじみのない素人の裁判員とが、同じ一票の資格で、有罪・無罪や量刑まで多数決で決める。裁判官はこの表決に拘束される。有罪だと決まれば、自分は無罪だと信じていても、量刑を決めなければならない。これは、憲法第76条3項の「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という規定と矛盾するという意見がある。第82条2項には「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる」となっているが、このままでは裁判員制度と矛盾するのではないか。

 要するに、私は、裁判員に選ばれる国民の側に関しても、裁判官の側に関しても、裁判員制度は違憲の疑いがあると思う。また、国民生活に大きな影響をもたらす。これほど重要な制度を決めるなら、まず憲法を改正すべきだろう。憲法にこの制度の骨子を規定し、憲法の他の条項の定めとの関係を明確にし、そのうえで具体的な内容を法律で決めるべきではないかと思うのである。もちろん私は、このような制度を許すための憲法改正であれば、国民投票で否認するつもりだが。

 

◆だれが裁判員制度を推進したか

 

現在進められている司法制度改革には、裁判の迅速化、法曹人口の増加、裁判員制度の導入という三つの柱がある。裁判の迅速化と法曹人口の増大は、アメリカの要望に応じたものだ。司法制度改革は、アメリカによる日本改造の一環なのである。しかし、裁判員制度の導入については、アメリカは一言も要望していない。アメリカの圧力に便乗して裁判員制度の実現を推進したのは、日本の左翼や人権派だと思われる。

 わが国で近年、制定された法律や、次々に上程される法案には、一部の学者や特定の団体の意思が強く反映したものがある。男女共同参画社会基本法や夫婦別姓法案、外国人参政権付与法案、人権擁護法案などである。ジェンダー・フリーだの人権委員会だのと、全く驚くようなものが、次々に出てきている。決まる前に国民の知るところになったものは、反対論・慎重論も出せる。しかし、裁判員制度は、ほとんどの人にとって、知らないうちに決まっていたのではないか。
 裁判員に選定された人は、大きな負担を負うことになる。担当する裁判は、どれくらいの期間を要し、何日くらいの日数を要するのか。当局の説明によると、重要な裁判だから毎日開廷して数日で終えるという。私には理解しがたい。刑事訴訟の重大事件を、そんな短期間で判決できるはずがない。今まで何年もかかっていたものに、3日や5日で判決を出すなどありえないではないか。

 刑事訴訟とは、そもそも国家の刑罰権実現のための制度・手続である。犯罪の嫌疑者に対して検察官が有罪の判決を裁判所に求め、裁判所が検察官と被告人を当事者として審理・裁判を行うものである。素人にとっては、訴訟資料を読んで法律的な文章特有の表現を理解するだけでも大変である。口頭弁論を聴いて被告人が真実を語っているかどうかを見抜き、証拠として提出された物証の適否を判断すること等、困難なことだらけだと思う。お試し体験コースとは違うのである。人の命や人生がかかっている。安直なスピード判決は、誤審や冤罪を招く。被害者にとっても加害者にとっても、国民としての権利を著しく軽く扱うことになると思う。

 陪審制はイギリスで発達した。わが国では、戦前、昭和3年から17年にかけて、刑事の審理陪審制が採用された。評決は多数決だった。
陪審員は事実の認定のみを行い、裁判長の説示に対しては異議を申立てることはできなかった。しかし、戦時体制下でこの制度は停止され、戦後はまったく行われてこなかった。最近まで最高裁判所は、陪審制は事実認定についても裁判官の独立が損なわれるので、違憲の疑いがあるとの見解を示していた。このたびの裁判員制度は、参審制であり、量刑まで決めるという、戦前の陪審制よりずっと重い責任をものである。

 

本年(平成17年)4月16日に内閣府が発表した世論調査の結果によると、裁判員制度について7割が「参加したくない」と回答した。これを「7割ショック」という。法務省だけでなく、最高裁や日弁連でも、これほど消極的な回答が多いことに、ショックを受けているらしい。
 参加したくない理由は、複数回答式で、46.5%が「有罪・無罪の判断が難しそう」。46.4%が「人を裁きたくない」、23.9%が「制度の仕組みをよく知らない」、23.7%が「裁判や事件にかかわりたくない」、23.6%が「逆恨みが心配」だと伝えられる。
 裁判員制度は、司法改革の柱の一つである。それが国民からそっぽを向かれたのでは、制度そのものが成り立たないばかりか、司法改革が根幹から揺らぐことになりかねない。

裁判とは「人が人を裁く」ものである。日本人の多くは、他人を裁いたり、重い刑は科したりしたくないだろう。「罪を憎んで、人を憎まず」の国民性である。素人の判断では、有罪であるべきものが無罪になったり、または量刑を軽くして甘くしまうということが起こりうる。裁判員が担当するのは重大犯罪だけというが、殺人の容疑者には政治犯や思想犯もいるわけで、過激派やテロリストの活動を助長するおそれもあると思う。

 一体、だれが裁判員制度を決めたのか。国会議員である。所轄官庁は法務省であり、法務官僚が法案を作成した。アメリカによる日本改造の要望に従うという態度と、外国人に参政権を与えようという態度には、共通点がある。それは、日本の国益や国民の利益よりも、他国への配慮や外国人の便宜を優先して考える態度である。
 政治の基本は、民利国益を根本において政治を行うことである。政治家・官僚の相当の部分の人たちが、こういう基本の基本が、わからなくなっているのだと思う。その原因は、私利や党利・省利の追求に明け暮れているうちに、欲ボケしてきていることにあるのではないか。欲にとらわれていると、人は判断を誤る。それとともに、今の日本には、本当に責任をもって公務を行うという人が少ない。極端にいうと、だれも責任をとらない。それで通ってしまう世の中だと、肝心なところで、踏ん張りが利かない。相手の言いなりになってしまう。
 こうして日本人がスキだらけになっているところに、外国及び外国人の意思がどんどん侵入している気がする。日本人が自分の魂を取り戻し、いま正気に返らねば危ういと、私は思う。

 

裁判員制度の実現においては、さらに大きな問題は、実質的に実現を推進したのは誰か、その目的は何かということにある。
 推進団体の一つに、日本弁護士連合会がある。日弁連は、「市民による市民のための司法改革を」というスローガンのもと、市民団体と連携して司法制度改革論議を推進した。なかでも裁判員制度の創設を運動の目玉としていた。「市民による」というところの「市民」という言葉が曲者である。左翼の常用語だからである。「市民」という概念には、国家権力から「市民」の権利を闘い取ろうという階級闘争的な思想が含まれている。日本国憲法には、「市民」という言葉は存在しない。規定されているのは、「国民」である。都民・道民・県民や市民・町民・村民のすべてを含んだ概念が「国民」である。日弁連は、「市民による市民のための司法改革」を掲げて裁判員制度創設を推進したわけだが、弁護士の中には、左翼的な傾向の強い青年法律家協会の出身者や、社会民主主義や新左翼の思想に同調する人が少なくない。
 弁護士会と連携した「市民団体」の中には、左翼団体や人権団体がある。かつてGHQが占領下で日本改造を強行したとき時、左翼的な学者がこれに便乗した。それと同様に、今回はアメリカによる司法制度改革への圧力に、左翼や人権派が便乗したものと見られる。彼らの活動は、司法における国家権力を弱め、「市民」の名の下で政治闘争・権力闘争を進めるものではないかと私には思われる。
 国民の多くは、裁判員になることを、出来れば避けたいだろう。回避できる事例が増えると、裁判員を進んで担う人は、左翼系の団体や特殊な思想の市民団体をバックに持つ人などに偏ることになるのではないかと、私は予想している。
 評決は多数決である。定員の過半数を占めるまでもなく、一人二人、声の大きい人を送り込めれば、他の裁判員の意見に影響を与えられる。これまでは検察と闘うのは弁護側だけでしたが、今度は裁判所の中に、同じ考えの人間を送り込めるのである。こういう目的を持っている人にとっては、この制度は無謀どころか、活動の拡大を国家が保障するものとなるわけである。

しかし、アメリカの方はもっとしたたかである。自らの要望を実現するためには、日本の左翼・人権派の意思を容認したのだろう。裁判員が刑事事件の一部を扱うだけなら、アメリカにはマイナスはない。もし裁判員が日米の企業間・国家間の利害を争う裁判まで担当するのなら、外資には不利になる。外資に反発する国民感情が判断に入ってくるだろうからである。

裁判員制度を推進した左翼や人権派は、自分たちの背後から、アメリカがそっくり日本を管理しようとしていることには、気づいていないのだろう。もし気づいたなら、日本人として国家について、また国益について、真剣に考えざるを得なくなるだろう。

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