第1章 集団的自衛権の政府解釈はおかしい
●政府解釈と国際的理解の違い
わが国で集団的自衛権について知っている人の多くは、集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利」と理解しているだろう。この理解は、昭和56年の内閣法制局による答弁書における定義に基づく。政府の定義が集団的自衛権に関する国民の理解に方向付けをしているのである。
政府は、わが国は国際法上、集団的自衛権を保有しているが、憲法上これを行使することは許されないという立場を取っている。ところが、国際社会では、多くの国々が、集団的自衛権は当然行使できる権利だという認識をもって、安全保障政策を行っている。わが国のように、集団的自衛権を憲法上、行使できないという立場を取っている国は、稀である。
国際社会における集団的自衛権についての一般的な理解は、「ある国が第3国から武力攻撃を受けた場合、ある国の同盟国など密接な関係のある国が、自国に直接攻撃を受けていなくとも、その攻撃が自国に対する攻撃と認められるときは、第3国に反撃を行なうことができる権利」と要約できるだろう。
こうした国際的理解とわが国の政府解釈はどこが違うか。わが国の政府解釈では、「その攻撃が自国に対する攻撃と認められるときは」という部分が強調されていない。そのため、集団的自衛権は、第3国の攻撃がやがて自国に及んでくる可能性が高く、それゆえに自国に対する重大な脅威となる状況に関する権利である点が、見落とされやすい。しかも、政府解釈は、「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という表現を入れることによって、わが国が他国の戦争に巻き込まれ、他国の防衛に利用されることを強く意識した理解となっている。それと同時に、政府解釈は、集団的自衛権は、自国の安全保障に全く関係がない場合でも、武力行使のできる権利であるというイメージを国民に与える。自衛権のことでありながら、他国への侵略を意識させる表現となっているのである。
わが国の政府が集団的自衛権に関して、こういう特徴的な解釈をしているのは、日本国憲法や日米安保条約の規定に基づく。憲法第9条はいわゆる戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を定めている。その条文について、わが国の政府は、自衛のためにも戦力はもってはいけないという解釈を取っている。自衛隊は、戦力ではなく実力だからとよいとしている。この憲法とセットになっているのが、日米安保条約であり、わが国は現行憲法のもと、アメリカと本質的に片務的な軍事同盟を結び、アメリカに軍事的に従属的な関係にある。このことが政府解釈の背景にある。
●自衛権とは何か
現行憲法と日米安保条約を前提にしていると、集団的自衛権の検討は、限定的制約的な枠組みに合わせるための議論となる。それでは、集団的自衛権は、掘り下げて考えることができない。この検討は、そもそも国家にとって自衛とは何か、ということから始めなければならない。
そもそも自衛は、生物に授けられている基本的な機能である。動物はみな自ら守る機能を備えている。例えば、イカはスミ、蜂は剣、牛は角で防衛する。防衛する武器を持たない動物は保護色を持っている。
人間の場合も、この自然の理に基づき、個人でも他人から危害を加えられそうなとき、急迫、不正でほかに手段がない場合は、正当防衛権が認められている。国家についても、同じ行動を取ることが国際法上、認められている。自衛権は、国家における正当防衛権である。国家の自衛権は、国家の自衛権は、国民の自衛権である。個人における生存権と同じく、自然法上の基本権、不可譲権に由来する権利である。
世界の諸国は、この固有の権利に基づいて、国防を行っている。自分の国を一致協力して守るということは、その国民の義務であり、そのように憲法に規定している国が多い。しかし、日本国憲法は国防について制約が課せられており、国民の国防の義務は規定されていない。戦後の学校教育では、自衛力や自衛戦争までも「悪」であるというイメージが植え付けられ、国民の多くから自分の国を自ら守るという気概が失われている。
日本国憲法の原案を作成したのは、GHQである。もし、日本国憲法の規定が本当に良いと思うならば、まずアメリカ自身が自国の憲法に取り入れるべきだろう。しかし、アメリカはそうしていない。日本にだけ押し付けたままである。
誰でも風邪を引かないように、予防をする。うがいや手洗いをしたり、衣類を調節したり、部屋の温度や湿度に気をつけたりもする。国防も、これと同じことである。インフルエンザが流行っている時に、予防を怠っていると、ウィルスに入り込まれ、高い熱やせきに襲われる。ひどい時は数日も寝込んだり、悪くすると命に係ることさえある。実際、人体に生来備わっている免疫機能が充分働くときは、侵入したウィルスを押し込め、健康を回復できる。しかし、白血病やネフローゼの人など、免疫機能が極度に低下している人は、風邪一つでも命を落としかねない。ここで健康を平和に、免疫機能を国防力に置き換えてみてほしい。誰にも国防の大切さがわかるだろう。
病気に限らず、個人や家庭では、火事や事故など、いざという時のために備えをしておかねばならない。国家においても、非常時への備えを怠ると、将来にわたって取り返しのつかない大悲劇を招く。防災や国防は、まさかのために必要なのである。
軍備というものは、海岸でいえば津波や洪水を防ぐ防波堤、河川でいえば堤防のようなものである。非常事態に備えて、不断に整えておかなければならないのである。
例えば、大東亜戦争の末期、日本が戦闘能力をほとんど失ったとき、ソ連は、一方的に日ソ中立条約を破棄して、満州や樺太等を侵攻した。昭和20年8月9日のことである。その結果、多数の日本人が殺戮され、また暴行を受けた婦女が多くあった。さらに、スターリンは国際法を無視し、日本人を俘虜として抑留し、極寒のシベリア等の地で強制労働を課した。わが国の厚生省援護局(当時)の資料によると、抑留者は約57万5,000人、うち死亡者は、約5万5,000人とされている。日本の防衛がしっかりしていた時には、このような侵攻が防がれていたわけであり、軍備は海岸の防波堤、河川の堤防のような役割を果たしていたのである。
自衛権は、国民の生命と財産、国家の独立と主権を守るために、欠かすことのできない権利である。自衛権を他によって制約されたり、または自ら制約したりするならば、万が一、他国に侵攻された場合、自ら国家・国民を守ることができず、その国家は他国に支配されるか、下手をすると、国家として消滅してしまう。
人類は世界平和という理想をめざして、粘り強く努力を続けなければならない。しかし、現代の世界はまだまだ弱肉強食の傾向を示している。こうした中で、諸国民の公正と信義に信頼して日本は無防備でよいと、現実離れした理想を主張する憲法にとらわれていると、恐ろしいことになる。そのことをよく認識すべきである。
国連憲章第51条は、国家の「固有の権利」として、個別的自衛権及び集団的自衛権を保障している。すなわち、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定している。
個別的自衛権と並べて集団的自衛権をも国家の「固有の権利」として認めた点に、国連憲章の画期的な意義がある。自衛権は国家における正当防衛権である。個別的自衛権は、自国のためにする正当防衛権であり、集団的自衛権は、自国他国相互のためにする正当防衛の権利である。
国連加盟国が大半を占める今日の国際社会では、個別的と集団的を含む自衛権が、国家の固有の権利、自然権として認められているのである。
国連に加盟して個別的自衛権と集団的自衛権を行使する国は、190カ国以上にのぼっている。しかし、わが国の憲法にならって第9条を取り入れ、集団的自衛権を自ら封じる国はない。大多数の者が持つ認識を常識と呼ぶならば、わが国のあり方は、国際社会の非常識なのである。
●自衛権は、個人の人権につながっている
国家の自衛権は、個人の自己防衛権に当たると先に書いた。この点をさらに深く掘り下げてみよう。自己防衛権は、人権という観念の核心にある。そして、個人の人権と国家の自衛権には深い関係がある。
埼玉大学教授の長谷川三千子氏は、人権に関して次のような問いを発している。
「誰か或る人が、自分が生き延びるためには或る別の誰かを殺すことが必要だと判断し、それを実行したら、それは基本的人権の行使といふことになるのだらうか? そんなことを認めたら、いたるところで殺し合ひがおきて、生命尊重、幸福追求どころのさわぎではなくなつてしまふのではないか?」(産経新聞平成20年3月3日号「正論」)
この問いは、個人の人権と国家の自衛権の不可分の関係につながっていく。
現行憲法は基本的人権の尊重を謳っているが、そこにいう基本的人権の主要な内容は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(第13条)である。生命、自由、幸福追求と並んでいるが、自由も幸福も命あってのものだから、権利の基本は、生命を維持・発展する権利である。これを哲学や社会学では自己保存権といい、政治学では生存保存権という。本稿では簡単に生存権と呼ぶことにする。
人が自分の生存を守ろうとするとき、他の人も自分の生存を守ろうとしているわけだから、対立や摩擦が生じ、権利の侵犯が起こる。個人の権利を追及する争いは、激化すれば殺害にまでいたる。どちらかが生き残り、どちらかが死ぬまで、権利というものは、ぶつかり合う。<個人と個人の生存権のぶつかり合い>である。社会を維持するには、そのぶつかり合いを調整したり、融和させたりする必要がある。それに失敗すると、その社会は崩壊する。崩壊の結果は、個人が自分の権利を守ることのできないような無秩序な状態に至る。
では、<個人と個人の生存権のぶつかり合い>を、誰が調整したり、融和させたりするのか。兄弟げんかなら、親が怒れば、仲直りがされる。○○家と△△家のいざこざなら、土地の有力者が間に入れば、手打ちがされる。地域のボスと、隣接地域のボスとの争いなら、そのボスたち以上の実力者が仲裁すれば、妥協がされる。では、その実力者と互角の実力者の戦いなら? <個人と個人の生存権のぶつかり合い>は、こうして社会全体の大問題となる。そして、ここに政府というものの必要性が浮かび上がってくる。権利の拡大は、権利の制限を要求する。ここに人権というものの逆説がある。
先ほど引いた長谷川氏の問いは、人権に関する歴史的な出発点を表わす問いでもある。長谷川氏は書く。
「かうした厄介な<人権の逆説>にいち早く気付き、警鐘をならしたのが、17世紀英国のトマス・ホッブスである。実は、彼はまさにかうした『個人の権利』としての人権といふ考へを最初にうち出した張本人なのであるが、同時に彼は、そのことの危険を誰よりもよく見抜いてゐた。それまで有効にはたらいてゐた、英国の『古来の法』やキリスト教神学にもとづく『自然法』といつた共通の価値基盤が崩れてしまつたとき、もし<人間が人間であるかぎりにおいてもつ権利>を各個人にばらまいてしまつたら、いかに悲惨な無秩序状態が現出するか−彼の人権論はそれを見据ゑたところに始まつてゐるのである。」
ホッブスは、こうした自らの人権論を名著『リヴァイアサン』で展開した。彼の結論は、個人の権利と個人の権利がぶつかり合うのを、上から抑えたり、折り合いをつけさせるには、絶対的な権力が必要だ、それがないと、社会は万人の万人に対する闘争が繰り広げられる自然状態に戻ってしまうということだった。ホッブスの理論が先駆けとなって、社会契約論や抵抗権・革命権の理論が登場した。その延長上に人権の観念が成長し、国連憲章や日本国憲法の人権条項が存在している。今日では、様々な新しい権利が、人権という用語のもとに付け加えられているが、そうしたもろもろの権利の核心には、生存権があるのである。
●個人の人権と国家の自衛権は生存権で結びつく
人権の核心は生存権であり、個人の生存のためには正当防衛権が認められる。それを国家に適用したものが、自衛権である。
国家は国民の共同体だから、個人の生存権を集合したところに、国民の生存権が尊重されねばならない。国民個々の生存権を集団として行使する権利が、国家の自衛権である。
個人と個人が協力して互いの生存を維持しようとするときには、自他の正当防衛権を共同で行使することになる。正当防衛権は、自己だけでなく、他者のために行使することが認められている。国家と国家の場合も、国家と国家が協力して互いの国民の生存を維持しようとするときには、自他の正当防衛権を共同で行使することになる。それを集団的自衛権という。私はこのように考えるとよいと思う。
今日、人権の主張には、国家権力から個人の権利を守るという発想が多く見られる。しかし、国民の権利を守るためには、国家権力が必要である。警察や裁判所がわかりやすいだろうが、行政・立法・司法の国家機関の全体が、そのために機能する役割を持つ。国家あっての人権であり、人権は国家権力を必要とする。
また、人権を主張する者には、国際社会の単位としての国家を否定する考えの者が多い。しかし、国際社会において、国民が生存するためには、他国民から生存権を犯されないようにする必要がある。このとき、自国民の生存権を守るには、国家権力が必要である。軍隊はそのために存在する。わが国の場合は、そのために自衛隊が存在する。
社会の中の個人について、国家あっての人権であり、人権は国家権力を必要とする。同時に国際社会における国民についても、国家あっての人権であり、人権は国家権力を必要とするのである。
●権力は合成された意思である
権力というと、抑圧や暴力を思い浮かべ、反発・抵抗する人が多い。権力の本質を一面的にとらえているからだろう。権力は、勢力・影響力・説得力などと同様、社会的な力(power)の一種である。社会的な力としての権力は、集団の意思が合成された意思であり、また個々人に意思を強制する意思である。マックス・ウェーバーの定義によると、社会的な力(Macht)とは「ある社会関係の内部で、抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性」を言う。こうした社会的な力としての権力は、狭義においては制度化された強制力を意味し、特に国家のもつ強制力すなわち政治権力、国家権力と同義に用いられる。政治的・国家的な権力は、多くの場合、警察力・軍事力等の物理的な強制力を伴う。
この物理的な強制力が、もし何の基準もなく、恣意的に用いられたならば、国民の権利は不安定なものとなり、恐怖と不安に陥る。そこで、作られるのが、法である。法は、国民の集団的な意思を合成した意思である。法は、個々人にこの合成意思に従うよう強制する。これに反する者には、刑罰が与えられる。この際の強制力として、警察や司法機関が存在する。
なぜ合成意思に従うよう個々の国民に強制するかというと、それは国民全体または国民多数の権利を守るためである。これが法治国家の仕組みであり、この仕組みそのものを悪として、破壊したならば、無法状態に陥る。人権がひどく蹂躙されるのは、その状態においてである。
わが国の憲法では、国民全体または国民多数の権利を守るための理念が「公共の福祉」という概念で表わされている。個人の権利は公共の福祉に反しない限りにおいて尊重される。公共の福祉を実現するために、個人の権利は制限される場合がある。
権力は、国民の合成意思として、国の内部で、国民社会において働くだけではない。国の外部には、他の国家に対して、国民の合成意思としても働く。他国がもしその国民の合成意思を物理的な強制力をもって押し付けてきたならば、国家は国民の生存権を守るために、物理的な強制力をもって対抗しなければならない。その時に必要なのが、軍事力である。これは国際社会において法治国家が備えるべき機能であり、軍事力そのものを悪として、放棄したならば、他国の侵攻を招き、その国は、他国民の意思を強制され、その意思に支配されることになる。人権が最も蹂躙されるのは、他国民の物理的強制力によって支配された時である。生存権は徹底的に侵犯され、虐殺や強姦がほしいままに行なわれる。
再度言うが、社会の中の個人については、国家あっての人権であり、人権は国家権力を必要とする。国際社会における国民についても、国家あっての人権であり、人権は国家権力を必要とする。
個人の人権を守りたいと願う人は、国家の存在の大切さに気づき、また国家の自衛権の重要性を理解すべきなのである。
●権利は行使することを前提とする
個人の人権と国家の関係を述べた。ここで、改めて集団的自衛権について考えてみよう。
政府は、国際法上、集団的自衛権を有しているが、憲法上行使できないという解釈を取っている。持ってはいるが行使できないという権利を、権利と言えるだろうか。
そもそも法理上、権利を認めるということは、その主体がその権利を保有し、それを現実に行使する必要があることを前提とする。つまり、権利の是認はその行使の手段の保有と行使の是認を含んだ概念である。しかし、わが国の政府は、集団的自衛権は、持って入るが行使は出来ないという。
集団的自衛権の行使に関して、平成16年(2004)1月衆議院予算委員会で、安倍晋三氏(当時自民党幹事長)の質問に対し、秋山收内閣法制局長官は次のように答えた。
「国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合と異なり、国際法と国内法の間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんので、法律論としては特段問題があることではございません」と。
自らの意思で自制するというのは、一つの姿勢ではある。しかし、実質的に、行使が否定されているような権利は、名ばかりであって、権利とは言えない。あるいは権利そのものを事実上、禁止していることになる。自衛権とは、自己の生存を守るための正当防衛権であることを考えると、この姿勢の異常さがはっきりするだろう。個人について、あなたは正当防衛権は持ってはいるが、行使してはならないとすれば、その人は不当な攻撃を受けても、自分を守るために力を使ってはならないということになる。この制約は、犯罪の前科のある者への懲罰や制約のようなものである。
どうしてわが国には、こういう姿勢が生まれたのか。わが国は大東亜戦争に敗れ、主権を失っていた占領期に、GHQから憲法を押し付けられたことによる。日本人は、その憲法を一字一句変えることなく、60年以上放置している。しかも、政府はその憲法をさらに自制的に解釈してきた。
わが国は、現在も国際連合において、旧敵国という地位にある。この国連憲章における旧敵国条項と日本国憲法の前文及び第9条は、同じ性格を持っている。すなわち、第2次世界大戦における戦勝国が敗戦国に対して懲罰・制約を課したものという性格である。集団的自衛権は保有はするが行使できないというのは、戦勝国がわが国に対して、不利な条件を課したものなのである。
●政府の自衛権解釈は自制的かつ自滅的
国家の自衛権は、国民の人権、その核心である生存権を守るために、不可欠の権利である。同時に、国民の生命と財産、国家の独立と主権を守るために、欠かすことのできない権利である。ところが、わが国の政府は、自力で国家・国民を守るという根本的な姿勢を欠いている。政府は、自衛権につき、現状では、個別的自衛権に限定している。そして、自衛権の行使について、次ぎの三つを要件としている。
@わが国に対する急迫不正の侵害があること
Aこれを排除するために適当な手段がないこと
B必要最小限の実力行使にとどまるべきこと。
これら三つの要件は、個別的自衛権の行使に関するものである。政府は、これをもって自衛権一般の要件としている。そして、集団的自衛権はこれらの要件を満たしていないので、行使できないとする。集団的自衛権は、わが国の憲法が認める自衛権を超えているから、憲法上認められないというのである。
平成16年(2004)1月、衆議院予算委員会で、安倍晋三氏の質問に対し、秋山收内閣法制局長官は次のように答えている。
「(略)集団的自衛権と申しますのは、(略)我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、(略)自衛権行使の第1要件、すなわち我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第1要件を満たしていないという趣旨で申し上げているもの」だと。
答弁中に言う第1要件とは、先に引いた「わが国に対する急迫不正の侵害があること」を指す。「急迫」とは、事の差し迫ること、せっぱつまることをいう。事態が切迫するとは、まだ事態は起こっていないが、いままさに起こらんとするほどに差し迫っている状態である。時制で言えば、近い未来のことである。ところが、秋山長官は第1要件について、「武力攻撃が発生したこと」と言っている。これは、事態が既に起こったことをいう。時制で言えば、過去または現在完了である。
まだ起こってはいないがまさに起こらんとするほど急迫していることを、自衛権の要件とするのであれば、他国への攻撃が行なわれ、そのまま放って置けば自国も攻撃される事態が差し迫っている状態にも当てはまる。これは、集団的自衛権の行使の要件となるべきものではないか。これに対し、秋山長官が既に起こったわけではないから自衛権の行使の要件を満たしていないと言うのは、「急迫不正の侵害」という政府の要件を捻じ曲げるものである。時制で言えば、近い未来の出来事を、過去または過去完了の出来事にすりかえている。私はそのように理解する。
事務官僚のトップとも言われる内閣法制局長官がしている答弁は、いかにして国を守り、国民を守るかという根本的な問題意識を欠いている。一言で言えば、憲法を守って、国を守らず。国を守ることより、憲法を守ることに、意識が行っている。
●「必要最小限の実力行使」とは原状の保持・回復を目的とすべき
政府による自衛権の行使の三要件のうち、第3の要件は、「必要最小限の実力行使にとどまるべきこと」である。ここでも「必要最小限」という言葉が用いられている。自衛における必要最小限とは、何か。何をもって、必要最小限と言うのか。
わが国の政府は、「必要最小限」というときに、自衛のために保有できる防衛力・軍事力には質的量的な制限があり、行使手段や方法についても制約があることを前提としている。政府は、憲法第9条1項は侵攻戦争のみを放棄したもので、第2項は侵攻戦争のための戦力は保持しない、交戦権は否認したものとする。そのうえで、戦力とは、「自衛のための最小限度を超えるもの」と定義する。そして、戦力は保持できないが、自衛のための最小限度を超えない実力は保持できると解釈する。私は別の拙稿「憲法第9条は改正すべし」で、この解釈のおかしさを指摘している。第4章のはじめで詳しく触れるので、ここでは立ち入らないでおく。
「自衛のための最小限度」とは、何か。どの程度を最小限度というのか、その基準が明らかでない。政府は、その明らかでない限度を超えると戦力であり、限度内で持つ実力は保持できるとする。また、自衛隊は現行憲法に定める戦力ではなく、戦力にはならない範囲での実力だという。なぜなら、「自衛のための最小限度」の内だからだという。この論理に立つと、保有する実力が自衛のために最小限度以下であれば、自衛には不十分だということになる。つまり、いざとなったら国を守りきれない程度しか実力を持っていないことになる。では、ちょうど「自衛のために最小限度」で、それ以上でも以下でもないという実力を持つことは可能だろうか。誰が、その限度を測るのか。
そもそも政府の憲法解釈はこういう矛盾と非現実性がある。そのうえ、保有する実力の行使についても「必要最小限」の実力行使というのだから、私にはほとんど詭弁術の類と私には思える。
こうした憲法論議、自衛権論議には、重大な欠陥があると思う。実際にわが国が他国から侵攻を受けた時に、戦いの展開がどうなるかが念頭にないことである。自ら生命と財産、主権と独立をかけて国を守るという姿勢がない。事務官僚の机上の法理論でしかないのである。
多くの国際法学者は、自衛は原状の保持ないし回復に制限され、自衛権行使の際に採用される諸手段は、それによって自衛権が生じた侵犯に、必要にしてかつ比例したものでなければならないという解釈を取っている。目的についての比例性を考えるものである。私は、この説を支持する。
自衛を原状の保持ないし回復にとどめるのは自衛だから当然であるが、侵攻は他国が仕掛けるものであって、あらかじめ何月何日、これだけの攻撃をしますよと予告して行なうものではない。多くの戦争は、相手の油断や隙を突いた奇襲ではじまる。また、相手に勝つために、相手の裏をかき、相手の想定外の戦術で攻めるのが常道である。だから、当方が一方的に自衛の範囲や自衛の仕方を決め込んでいると、万が一の時には役に立たず、原状の保持ないし回復という目的を達成できないのである。
私は、自衛のために必要なのは「必要最小限」の実力とその行使ではなく、「必要十分」な実力と行使でなければならないと考える。「必要十分」な実力を持っていればこそ、相手国の攻撃を抑止できるのである。戦争を防ぐことが、国防の真の目的であり、最大の役割である。これを安全保障という。
国家の安全保障のための権利として、個別的自衛権とともに集団的自衛権がある。集団的自衛権は、「ある国が第3国から武力攻撃を受けた場合、ある国の同盟国など密接な関係のある国が、自国に直接攻撃を受けていなくとも、その攻撃が自国に対する攻撃と認められるときは、第3国に反撃を行なうことができる権利」と解すべきものである。自国に直接攻撃を受けていなくとも、その攻撃が自国に対する攻撃と認められるときに行使する権利である。現時点では、わが国が直接的な武力攻撃は受けていないが、やがてわが国への攻撃に拡大すると認識される事態を想定した権利である。そういう権利が、国家の正当防衛権として、国際社会で認められ、国連憲章に盛り込まれているのである。
ところが、わが国は、自衛権そのものをきわめて狭く規定し、極力、実力を行使しないように自己規制している。他国にすれば、こういう国は最も攻めやすい国である。国際情勢の現実を軽視して自制を第一とする政策は、周辺諸国との力の均衡を失い、他国の侵攻を誘発しやすい。1970年代からわが国が取ってきた専守防衛の戦略思想は、自衛権の行使をさらに守り一辺倒に限定したものとなっている。自衛とは自ら国を守ることだから、他国の侵攻を誘発するような政策は、自衛の目的に反している。それは、自衛ではなく、自滅の政策である。
●自衛権を考えるときは領土問題を忘れるな
自衛権に関する議論は、言葉いじりの憲法解釈と法理論的議論になりやすい。私は、自衛権を論じるときは、領土問題という歴史的な現実を念頭において考えるべきと思う。そうしないと、単なる理論的想定に陥る。
わが国は、敗戦後、ソ連に領土の一部を占領され続けている。わが国は、大東亜戦争末期、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連の侵攻を受けた。北方領土は、それ以来、不法占領され続けている。わが国は、自衛権の要件を理論として論じる以前に、すでに固有の領土に対する不正な侵害を受けているのである。北方領土問題は基本的に外交によって解決すべき問題であるが、侵犯されている領土を回復することは、国家にとって、自衛権の行使を含む課題である。北方領土問題は、自衛権の問題という点を考慮に入れて考えないといけない。
わが国は、北方領土を不法占領されたまま解決できないでいる。その間に、韓国によって竹島を実効支配されるにいたってしまった。政府の自衛権の三要件に照らすならば、竹島は既に不正な侵害を受けている。ところがわが国は、ここでも自衛権の発動を辞さずという姿勢を取ることなく、まともな外交交渉を行っていない。
私は、北方領土や竹島を実力を持って奪還すべしと唱えたいのではない。平和的な交渉で解決を目指すのが基本である。しかし、外交というものは、いざというときは、実力行使を行うという決意と、またその力の裏づけがあってこそ、効果的なものとなる。わが国の政府の姿勢は、最初からそういう基本原則に外れているのである。
集団的自衛権の行使を論じるには、自衛権そのものから考えなければならないと私が言うひとつの理由は、わが国はすでに領土を侵犯されているという現実があるからである。集団的自衛権を考える時には、領土問題を常に意識において検討すべきである。決して単なる理論的な論議に陥ってはならない。
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