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希望の体験記 葛西臨海公園にて Woman's Interview (バスケットのインタビューより)
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希望の体験記

訓練の日々
小学校入学してから毎日楽しく学校行っていましたが時々千葉のリハビリセンターに母と行くようになって来て、たまに学校休んで行きました。リハでも宿題と言う課題が出されていました。それは体育館をハイハイで掃除をすると言う事です。もう私は嫌で嫌でたまりません。どうやって母から逃げだそうか常に考えている子でした・・・。
しかし体育館ではいはいして掃除する事によって「足の太ももを鍛える効果がある」とリハビリの先生から言われていました。これを1年ぐらいやっていました。小5ぐらいの頃1年間小学校で養護教員の先生とたまに放送室で足を動かす訓練して、私が訓練している時他の子は勉強していました。そんな時私も楽しい授業を受けたいと思って訓練していました。 少しぐらい足が良くなったと思うんだけどそれがあんまり変化無し(--;)。 簡単に障害は良くにはなりません。成長期で足が変化する小学5.6年の頃いつもと同じようにリハで診察うけていました。先生に「今足を切らないとこの先歩けなくなる」かもと言われ両親が悩んで私は切ると言われて怖くて泣くしもう大変…。切るとすればセンターの中にある養護学校に少し入学する事になるからと千葉リハビリセンターの入園している病室へ無理に連れていかれた事がありました。 ケイスワーカの人と母親が相談・・・。両親が出した結論は切らないと言うことです。そのかわり先生には「生涯ずっと重い装具をはいて行かないといけない」と言われその時は私も幼い心でいろいろシヨックでした。同じ頃てんかんの発作が脳波に少し出ている時期、横になって寝ている時私が口をガタガタして手と足が硬直し目は一杯開いているのを父が見て「希望、希望」と叫んであわてて抱き起こしました。そこを母が「動かしてはダメ」と言ってそばにあったものを口の中に入れて舌をかまないようにしたそうです。でも次の日から私の様子が少しおかしい言葉とか身体が動きにくくなっていましたさぁどうしよう?
パント・マイムとの出会い(^。^)
高校2年の頃はなんとなく毎日を送っていました。友人の紹介で十条の障害者スボーツセンターに”足を強くしたい”と言う目的でプールに通っていました。そこではいろんな障害を持った人がいてパラリンオリンピックを目指している人もたくさんいます。私は一人でブールで泳いでいました。日曜日にはボランティアの先生が来ます。一生懸命しても泳ぎはうまくなりません。 そんなある日母が1枚のポスターをセンター内で見つけました。武蔵野青年の家パント・マイム講座です。それが私の運命をかえるとはその頃は分かりませんでした。 母は「東京都に問い合わせしてあげるから一度行ってみない?」と私に言いました。 私は面白そうだなと思い、身体に障害がある私に出来るかなと思いましたが問い合わせたら「一度話をしましょう」と言う返事がありました。始めて障害者から問い合わせがきたのでみんな驚いていました。
私はパント・マイムが出来るように祈っていました。すると青年の家から電話が来て始めは母と二人で来るようにと言う約束で行けるようになりました。 歩けなかった私が夢のような希望が見えて来るとは思わなかった。母は私にはパント・マイムはぴったりだといいます。リハビリになるし希望は目だちがりやだからねそんな母の願いで知らない世界に第一歩…。

中学の時の学ぶ事はどうかな??
中2の頃からだんだんと学校の友達が勉強に忙しくなってきました。私なんか相手にしてる余裕がなくなって来て、先生にもなんとなく「特別クラスに入らないか」と何回も誘われて「希望は普通学級はもう無理だ」と言われて、後1年間私はやっぱり義務教育まではいたかった無理しても その頃母が学校から呼ばれて本気で先生とこれからの事話したそうです。そこに偶然公文の先生が来てくれて3人で話してた。公文の先生がどうかこのまま希望を普通学級にいられるように担任にお願いしてくれた事を母から聞かされました。 この時ばかりはいつも恐い先生ではなく生徒を思いやる先生の顔でした。その日私が学校の校庭でふらふらしていたら、母と先生と一緒に歩いてる所を見つけて3人で帰りました。この面談が無かったら普通学校にいなかった!確実に!先生この場を借りてありがとうございます。みんなが塾で勉強している時私もいよいよ勉強するようになっていました。 みんなに少しでも追いつけるように母が2年生から学校の勉強に着いていくために家庭教師を付けてくれました。私がもっとも嫌いなお勉強をするために!毎日偏差値少しでも上がるように!母親と先生に言われて…ひっしでした。 たくさん勉強していると、少し疲れると熱が出て医師からは「熱の原因はストレス」からと言われていました勉強は本当にするべきなのでしょうか?私にわ分かりません身体こわしたらもともこもないでしょう(笑) 少しづつクラスメイトもイライラしてきて私なんか相手にしてるゆとりがなくなっていました。 私もだんだんわがままになってきているし、ゆかりちゃんとえりちゃんは中学生になってから出来たお友達で私のために字を書く練習を二人は熱心に付き合ってくれたのを今でも思い出します。私は不随運動が出るため字も上手く書けません。けどこの二人に毎日字の指導してもらって2年間ぐらい交換日記をやってたおかげでほんの少し字が上手くなったかなと思います。
いじめる人は心が寂しい人かな?
生まれて初めて本格的にいじめられた事を意外な人に・・・。だれもがその子の事は良く言ってました。私でもあんなひとが…。クラスでめたない子がいて私もたまに暇あれば話していましたが他の子とも仲良くしていました。その中の一人が目立たない子でしたみんなとはほとんどしする事はありませんでした。 その子が私を呼び出しに来ました。一体何の用事かと思って彼女の机に行ったのです。するとなんとなく私にこう言って来ました。「早くあなたにあった養護学校に行きなさい」「学校にも来ないで」と他の人に聞こえないように言いましたもう私はどうしようかと思って少し考えていました他の子にわいい子で可愛いように見られたかった彼女の事裏表が激しかった。
武蔵野青年の家パント・マイム講座
高2の秋にパント・マイム講座に参加する事になって青年の家に行きました。始めて吉田明美先生が大きな笑顔で出向かえてくれました。それが私にとって運命的な出会いになりました。青年の家の職員さん方も出向かえてくださり「これからみんなと頑張りましょうね!」講座は健常者50人ぐらいでした。15歳から35歳ぐらいの人達でみんな都民です。私は県外でしたが特別に行けました。始めはみんなで簡単に身体動かしたりしたけど私は出来なかったので自分のペースで出来きるだけ動かしました。 一番始めにマイムを教えてもらったのは『カベ』です。立つ事も出来ない私には始めから出来ませんでした。吉田先生の案で横に椅子を置いてそれをつえにしてもらいながら転びながら『カベ』を出来るように何回も何回も練習しました。そしたら驚いた事に自然と少しずつ自分の足で3分ぐらい立てるようになっていました。 みんな驚いていました。 そして『綱箱人形』を簡単に教えてもらい、私は毎回ひっしにマイムの練習しました。最後の稽古は班に分かれて発表会する事になっていました。私の班は全員で7人ぐらいいたかな?班で一つのテーマを決めてパント・マイムで表現する事でした。 始めて逢う人達に自己紹介して「これからよろしくお願いします」と言いみんなの輪に入れるようになっていました。練習も食事する時もいつも一緒で…。みんなは泊まっていましたが私だけは通いでした。夜帰る時みんなとはなれるのが辛かったです。 逢うたびに仲間意識が育って来て班の中で福祉のケースワーカの人とも出会いその人は本当に差別とか絶対にしない人でしたそんな仲間に囲まれていよいよ作品作りに入って行きました。
マイムをやめてから1年経ってみて・・・
私はもう一度マイムをしたいと思うようになり、吉田明美先生の所に帰ろうと思いました。1年ぶりにスクールに行き、何一つ変わってないドアを開けたら先生がいました。「先生もう一度私にマイムを教えて下さい」と言いました…。 今度は先生と私で練習日々が始まりました。それから1年半がたち少しずつマイムが上手くなって来ました。「今度ソロ公演しましょう!」先生に言われ私は嬉しくなりました。ソロ公演の用意はすべて自分でするネタを考えたり音楽も自分で作ります。出来たら先生に見てもらい面白くなければやり直し。出来るまでさせられます。 こうして私は障害者ですが、スクールにいる時は健常者も障害者も一緒になったみたいな気持ちになりました。 吉田先生のおかげで2回もソロ公演しました。今年の1月私と先生の夢…私のように障害もった子供達にパント・マイム伝える事を東京都から依頼されて出来るようになりまっした。生徒さんはほとんどが知的障害の人でした。始めの頃はみんなくらい顔していましたが、会を重ねるたびに、障害者の人の顔が笑顔のいい顔になって来ました。
これも尊敬する吉田先生のおかげだと思っています。