20 交わした約束


 空は青く澄み渡り、雲一つ見えない。時折吹く風は穏やかで、頭上の太陽のように火照った頬を撫でていく。
 荷馬車の後方に座っていた彼は、足をぶらぶらさせた。近所の子供達の中でも小柄なので、足は地面に届かない。面白かったので、徐々に大きく振ってみる。靴が脱げそうになり、慌てて動かすのを止めた。
 こんなことで靴をなくしたら、後でお兄ちゃんに説教されてしまう。だらしがない、落ち着きがない、よく考えてから行動しろ――三つ上のお兄ちゃんが言うことには、遠慮がなかった。
 やっぱり、お兄ちゃんには断っておくべきだっただろうか。少年は頭を振った。テーブルの上に手紙を置いてきたのだから、行き先は分かるはずだ。
 荷馬車が傾いた。次いで、ガタガタと揺れ始める。緩やかで広い街道から、山道に入ったのだ。草木の匂いが一段と濃厚になる。
 背中に固い物がぶつかり、彼は息を詰まらせた。振り向くと、それは荷馬車の持ち主が買った鍋だった。固定していたのだが、揺れた拍子にはみ出たらしい。他にも、いくつかの荷物がはみ出してきていた。彼は両手でそれらを押さえつけながら、御者台の大きな背中に向かって叫んだ。
「小父さん、もっとゆっくり走った方がいいよ! 荷物が落っこちちゃうよ!」
「何か言ったか、坊主」
 小父さんは、パイプに火をつけていた。使った火打ち石を灰皿の上に置き――小父さんは荷馬車に必ず灰皿を用意していた――パイプをくわえる。煙を吸い込んでから、気持ちよさそうに大きく息を吐いた。
「荷物! 落ちちゃうよ!」
「……荷物ぅ?」
 小父さんがようやく振り返った時には、荷物の一角が崩れていた。
「やばいっ!」
 道の脇に荷馬車を止め、荷台へ走る。めちゃくちゃになった荷物をどかし、閉じ込められていた彼を持ち上げた。小父さんは少年を目の高さまで持っていって、安心させるように笑いかけた。
「悪かったな。しばらく、待っててくれるか? 荷物を積み直すから」
「ううん、手伝うよ」
 下ろしてもらうと、彼はすぐさま荷物に駆け寄った。一人でも持ち運べそうなものを選び、手慣れた様子で荷台に載せていく。小父さんは頭をかきながら荷物の運搬に取りかかった。
 念入りに荷物を縛りつけると、再び荷馬車を走らせる。今度は、彼も御者台に座った。
「ねえ、小父さん。今日の野菜の売れ行きはどうだった? この頃は天気がいいから、あまり高く売れなかったと思うんだけど」
 小父さんは、毎日彼の住む町までやって来る。取引先の店に畑の作物を運ぶためだ。このような農家は近隣の村に多く、収穫期となれば一斉に売り出しにかかる。そのため、作物が順調に育てば育つほど、作物の値段は下がってしまうのだった。
「坊主は目端がきくんだな。その通り。売ることは売れたが、買い叩かれた」
 豪快に口を開けて笑い、小父さんは灰皿の上にパイプを投げた。少年は灰皿を持ち上げ、観察した。パイプに火がついている。
「ちゃんと火を消さないと、危ないよ。もし落っことしたら、山火事になるかもしれないし」
 パイプを逆さまにして叩き、刻み煙草を取り出す。かすかに火のついた煙草に、彼は腰に提げていた水筒の水を注いだ。
「坊主、うちのかみさんみたいなことを言うなよ。男がいちいち細かいことを気にしてると、嫌がられるぞ」
「そうかなあ? でも、これは大事なことだよ。お母さんは、注意していてももしもの場合があるって言ってたし」
「……いいか、坊主。男はな、まず心が広くなくちゃいけない。それには、細かいことにこだわらない気持ちが大切なんだ。分かるか?」
 お父さんにも似たようなことを言われたことがあるので、彼は素直に頷いた。
「分かればよろしい」
 小父さんは馬に鞭を当て、速度を上げた。揺れがひどくなったが、おかまいなしだ。
「わわっ!」
「しっかりつかまってろよ。早くしないと、今日中に家に辿り着けなくなるからな」
 それから、どれくらい走っただろうか。
 不意に視界が開けた。小さな山々に囲まれた、狭い平地が顔を出す。畑のすぐ傍には林が広がり、村の周囲にまで及んでいた。
「栗の実はなってるかな」
 彼は辺りを見回しながら言った。
「ああ。坊主のおじいちゃんのところは、毎年よくできるからな。今年もたっぷりなっているだろう」
「やった!」
 丘が見えてきた。道はその脇を通り、先の十字路と交わっている。荷馬車は手前の丘の近くで停止した。
「じゃあな。おじいちゃんによろしく言っておいてくれ」
「小父さん、ありがとうございました。気をつけて帰って下さい」
 彼は滑らかに言葉を紡ぐと、頭を下げた。それから、ポケットから取り出したものをそっと差し出す。
「これは」
 小父さんの目つきが変わった。彼は急いで付け加えた。
「ええっと、盗んだんじゃありません。ちゃんと、お金を出して買ってきました。でも、少ししか買えませんでした」
「そりゃそうだろう。こいつは上等なやつだからな」
 手の中で葉の感触を確かめながら、小父さんが言った。
彼が手渡したのは、刻み煙草だった。いつも小父さんがくわえているものより、ちょっとだけ高い。
「……でも、こいつはもらえないな」
 小父さんは寂しげに首を振った。彼の手に小さな袋をのせる。
「坊主がお小遣いで買ったものだろう? おじいちゃんにあげればいい」
「おじいちゃんは……駄目なんです」
 そこで、彼は真剣な顔になる。きゅっと口元を引き締め、言った。
「パイプをくわえてるのが見つかったら、おばあちゃんに叱られます」
 小父さんも、その現場を目撃したことがある。遠慮なく爆笑した。
「だから、小父さんが使って下さい。おじいちゃんも喜ぶと思います」
「そうか。じゃ、もらっておくよ。ありがとう」
 小父さんは煙草を受け取り、胸ポケットに放り込んだ。
 再び、荷馬車が動き始めた。かなり速度を上げている。彼は小父さんが十字路を曲がるまで手を振っていた。
「さて……と」
 彼は丘を見上げた。上に続く坂は、急ではないが緩やかなものでもない。一気に駆け上り、家の戸口まで走った。
「おじいちゃん、来たよ!」
 奥の方から、わずかに返事が聞こえた。彼は肩で息をしながら、おじいちゃんの足音が近づいてくるのを待っていた。
「よく来たな、ロディ」
「うん! また泊まりに来たよ。おばあちゃんは」
「隣の家に行ったまま、全然帰ってきやしない」
「ふうん。じゃあ、当分無理だね」
「ロディ、お母さんとお兄ちゃんはどうした? 一緒じゃないのか」
 おじいちゃんは首を傾げた。来る時は必ずといっていいほど三人で来ていたから、そう思ったのだろう。彼は胸を張って答えた。
「僕一人で来たんだ」
「一人で? じゃあ、誰に送ってきてもらったんだ」
「――ハリー小父さん」
 声を低めて言う。まるで、他の誰かに聞かれることを恐れているかのように。
「ああ、ベケットの息子か。ちゃんとお礼は言ったのか」
「うん。ありがとうございましたって言ったよ。それから、小父さんの好きな煙草をあげたんだ。少ししかあげられなかったけど、喜んでくれたよ」
 おじいちゃんは渋面になった。
「そんなことはしなくてもいいんだ。あの家には、おじいちゃんがお礼をしておくから」
「でも……僕が急にお願いしたことだし」
「それは大人がすることだ。子供はお礼を言えばいいんだよ」
 おじいちゃんに諭され、ロディはうつむいた。彼はただ、感謝の気持ちを表したかったのだ。
「さあ、おじいちゃんと一緒に何か飲もう」
 うつむいたまま、彼はこくんと頷いた。
 おじいちゃんの家は彼が住んでいる家よりも広く、大きい。だから、ここに来るとのびのびした気分になれる。暗い気持ちは、おじいちゃんとミルクを飲んでいるうちに和らいでいった。
「ところで、ロディはどうして泊まりに来たんだ?」
 ロディはカップの中を覗き込んでいた。ゆらゆらと揺れる、白い液体。水面に映った少年の顔は、波に打ち消されて輪郭を崩した。
 今日、お父さんの友達が来る。理由は知っていた。お父さんの友達は品物を仕入れてお店まで届ける仕事をしていて、雑貨屋である彼の家に、頼んでおいた物を届けに来てくれるのだ。そして、いつも彼の家で食事をしてから帰っていく。
 お父さんは、その友達が来ると嬉しそうだ。夜に来た場合は、二人でお酒を飲んで、楽しそうに話している。けれど、彼はお父さんの友達が笑っていないことに――口元が笑っていたとしても、目は笑っていないことに――気づいていた。それに、お父さんが一方的に喋っていて、友達は聞いている。たまに友達が何か言うと、お父さんの機嫌はだいたい良くなることが多かった。
 二人がお酒を飲んでいる間、お母さんは料理をするので忙しい。ロディとお兄ちゃんは、大人のいるところだから、いてはいけないと言われていた。だから、幼い彼等が食事をすることができるのは、お父さんの友達が帰った後のことだ。それまで、自分の部屋で待っている。
 お父さんの友達なのだから、きちんとご挨拶をして、笑顔でいなければならない。帰る時も同じだ。ちょっとでも嫌そうな顔をすると、後でお母さんがお父さんに叱られる。お客さんに失礼なことをしてはいけないのだ。
 ロディは、カップを両手で持ち上げた。再び水面に映ったのは、澄ました顔の少年。
「そろそろ栗の実がなる頃だから、食べたくなっちゃったんだ。おじいちゃん、明日採りに行こうよ」
「ああ、いいとも」
 おじいちゃんは胸を叩いて言った。
「雨が降らなかったら、栗拾いだ。ロディは早起きができるかな〜?」
「できるよ。おじいちゃんより、早く起きるんだ」
「おじいちゃんは家で一番早起きなんだぞ。なんたって、日が昇る前に起きるんだからな」
「うー……」
 言い返せなくなったロディが、テーブルにかじりつく。おじいちゃんはそれを見て笑った。それから、窓の外を見やる。すでに、夕日は沈んでいた。
「暗くなったみたいだな。それじゃあ……」
「始めるの?」
「そうだ。これがおじいちゃんの楽しみなんだから」
 棚から白い瓶と杯を取り出す。白い瓶は、おじいちゃんの好きな銘柄だ。その瓶から、蜂蜜酒をたっぷりと注ぐ。
「わ、わ、こぼれちゃう!」
「そんなことは、おじちゃんはしないよ。……ほら」
 言われて見てみれば、杯にぎりぎりまで注がれているものの、こぼれてはいなかった。おじいちゃんはそれに口を近づけ、すすった。
「あーっ、行儀が悪いんだよ、それ」
「こうやって飲むのがうまいんだよ。ロディにはまだ分からないんだな」
 杯を持ったおじいちゃんは、上機嫌だった。すぐに飲み終え、二杯目に取りかかる。三杯目を見届けると、ロディは瓶の栓を閉めた。
「一日三杯までだよ。もう飲んじゃったから、やめにしないと」
 おばあちゃんとの約束で、お酒は一日三杯でやめることになっている。けれども、飲んで気が大きくなったおじいちゃんには通じなかった。
「かまうことはない。言わなければ、おばあちゃんには分からないんだから」
 ロディはどうしても悪いような気がして、一度だけおばあちゃんに言ったことがあるのだが……「黙っていても、瓶の残りを見れば分かるよ」と言われた。でも、知らないふりをしているのだそうだ。
「ロディがもっと大きくなったら、一緒に飲めるようになるんだけどなあ。まだ先の話だ」
 相手のいないおじいちゃんは、寂しそうに杯を傾けた。
 早く大きくなれればいいのに、とロディは思った。大人になれば一人でおじいちゃんの家に来られるし、お酒も飲めるのに。
「十五になったら飲めるようになるよ。その時は、おじいちゃんに付き合うから。約束だよ」
「分かった。ロディとおじいちゃんの約束だな」
 おじいちゃんが右手を差し出した。おじいちゃんの手は、大きくてごつごつしている。日に焼けた鼻の頭を見つめながら、ロディはそれを握りしめた。


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