朝日新聞 和歌山版(2002.1.1)

民謡酒場から海外へ

津軽三味線奏者 木下伸市さん

 にぎやかなロックバンドの演奏が終わり、どん帳が下りた体育館のステージ。生徒会長の木下伸市が詰め襟姿で三味線を抱え、ひとり歩み出た。
 83年9月、県立和歌山商業高校の文化祭。「受け狙いかよ」。場内は笑い声とやじに包まれた。1500人を超える生徒のだれも、木下と三味線のつながりを知らなかった。
 「ビーン」と張りつめた一音が三味線から放たれた瞬間、喧騒は、静寂に変わった。
 太ざおから繰り出される「津軽じょんから節」。目にも留まらぬばちさばきにだれもが息をのんだ。弾き終えた木下の礼と同時に、会場は拍手で埋め尽くされた。
 木下はその直前、生徒会の仲間と組んだバンドのボーカルとして当時人気だった「甲斐バンド」の曲を歌っていた。
 「こいつ、黙っとったな」。そのバンドでドラムをたたいた御前佳孝(36)=調弦師=は、三味線を持った木下を見て思った。御前の実家は和楽器店。自身も三味線の手ほどきを受けた経験がある。「この場で弾いても受けないぞ」。心配したが、それも最初の一音で杞憂に変わった。「圧倒的な音圧。ピッチも正確だった」
 気鋭の津軽三味線奏者はいま「100年に1人の天才」と呼ばれている。


 木下が三味線を始めたのは10歳の時。旅芸人だった父の二郎(故人)から教わった。幼少から民謡には慣れ親しんできたが、津軽三味線は新鮮だった。友だちと遊んでいても「親と買い物に行くから」などと言い訳して自宅に戻り、けいこ場で弾き続けた。二郎は木下が生まれたのを機に旅回わりをやめ、自宅で三味線教室を開いていた。

 友だちに三味線のことは言い出せなかった。ぶらくり丁のレコード店に通い、人目を避けて民謡コーナーで津軽三味線の新譜を探した。楽譜も手に入らず、45回転のレコードを33回転にスピードを落とし、音を拾って練習した。
 文化祭の少し前、民謡大会に出場する父と上京した木下は、浅草の民謡酒場に連れていかれた。若者が6〜7人、三味線修行を兼ねて働いていた。
 「学校をやめて、ここで働きたい」と訴えた。しかし、父は首を縦に振らない。「高校を出たら、就職しろ」。木下はそれ以上何も言えず、津軽三味線で生きていく夢をあきらめかけた。「プロになれないなら、自分が愛した津軽三味線を、最後にみんなに聴いてもらおう」
 文化祭での演奏は人知れず磨き上げた技を、秘めた決意の中で披露した舞台だった。 


 和歌山市内の会社に就職が決まり、卒業式を終えた夜、父が突然言った。「明日東京に行くから、荷物をまとめろ」
 翌日、三味線を持って新幹線で上京。あの浅草の民謡酒場に直行した。父は「一軒目で断られたら、お前に運がないんだ。行ってこい」と息子を送り出した。のれんをくぐった木下が事情を話すと、従業員は経営者の自宅に電話した。受話器越しに三味線を弾いて聴かせろ、という。「今日からうちで働きなさい」。津軽じょんから節を聞き終えた経営者は即決した。
 受話器越しに演奏を聴いた「あいや」経営者山田百合子(69)が振り返る。
 「ばちさばきが良くてね。これはすごいと思いました」。山田はよく覚えていた。店に駆けつけ、もう一度、木下に弾かせた。その時、木下は力んだのか、ばちを折ってしまう。「ばちの反対側で弾いたけど、上手でした」
 「就職の方は、わしが断っておく」。父はこう言うなり和歌山へ引き返した。無口な人だった。15年前に亡くなったが、「やっぱり自分をプロにしたかったんだろうな」と木下は言う。

 「中学のころかな…。音楽の授業で突然、先生が津軽じょんから節のテープを流したんです。寝てる友だちもいたけど、ぼくはドキドキだった」
 自然に体が動きそうになる。それを周りに悟られるのが、こわかった。これから津軽三味線を始める若者には、そんな思いをさせたくない。
 木下は昨年6月、文部科学省主催の「伝統音楽研修会」に講師で参加。その時の映像資料は、各都道府県教委に研修用で配布される。
 「津軽三味線のかっこよさを教えてあげたい。本当にかっこいいですもん」

 ここ数年、年間に約百本のコンサートで全国を駆け回る。その合間に良く聴くのが「神様」とうたわれた故白川軍八郎の演奏だ。
 「津軽三味線の魅力は即興。『神様』の演奏には一つとして同じフレーズが出てこないんです。技術とは別に、引き込まれる何かも感じる。ぼくはまだそこまで、いっていない。
 「100年に1人」の俊英は、今も歩みを止めていない。

=敬称略
(山平慎一郎)

 生まれ故郷から羽ばたき、認められた人々。この地に腰を据え、全国規模で活躍する人々…。「和歌山」を心に抱き、自在に翔る新世紀の紀州人の姿を紹介する。

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