民謡酒場から海外へ
津軽三味線奏者 木下伸市さん にぎやかなロックバンドの演奏が終わり、どん帳が下りた体育館のステージ。生徒会長の木下伸市が詰め襟姿で三味線を抱え、ひとり歩み出た。 木下が三味線を始めたのは10歳の時。旅芸人だった父の二郎(故人)から教わった。幼少から民謡には慣れ親しんできたが、津軽三味線は新鮮だった。友だちと遊んでいても「親と買い物に行くから」などと言い訳して自宅に戻り、けいこ場で弾き続けた。二郎は木下が生まれたのを機に旅回わりをやめ、自宅で三味線教室を開いていた。 友だちに三味線のことは言い出せなかった。ぶらくり丁のレコード店に通い、人目を避けて民謡コーナーで津軽三味線の新譜を探した。楽譜も手に入らず、45回転のレコードを33回転にスピードを落とし、音を拾って練習した。 和歌山市内の会社に就職が決まり、卒業式を終えた夜、父が突然言った。「明日東京に行くから、荷物をまとめろ」 翌日、三味線を持って新幹線で上京。あの浅草の民謡酒場に直行した。父は「一軒目で断られたら、お前に運がないんだ。行ってこい」と息子を送り出した。のれんをくぐった木下が事情を話すと、従業員は経営者の自宅に電話した。受話器越しに三味線を弾いて聴かせろ、という。「今日からうちで働きなさい」。津軽じょんから節を聞き終えた経営者は即決した。 受話器越しに演奏を聴いた「あいや」経営者山田百合子(69)が振り返る。 「ばちさばきが良くてね。これはすごいと思いました」。山田はよく覚えていた。店に駆けつけ、もう一度、木下に弾かせた。その時、木下は力んだのか、ばちを折ってしまう。「ばちの反対側で弾いたけど、上手でした」 「就職の方は、わしが断っておく」。父はこう言うなり和歌山へ引き返した。無口な人だった。15年前に亡くなったが、「やっぱり自分をプロにしたかったんだろうな」と木下は言う。 「中学のころかな…。音楽の授業で突然、先生が津軽じょんから節のテープを流したんです。寝てる友だちもいたけど、ぼくはドキドキだった」 自然に体が動きそうになる。それを周りに悟られるのが、こわかった。これから津軽三味線を始める若者には、そんな思いをさせたくない。 木下は昨年6月、文部科学省主催の「伝統音楽研修会」に講師で参加。その時の映像資料は、各都道府県教委に研修用で配布される。 「津軽三味線のかっこよさを教えてあげたい。本当にかっこいいですもん」 ここ数年、年間に約百本のコンサートで全国を駆け回る。その合間に良く聴くのが「神様」とうたわれた故白川軍八郎の演奏だ。 「津軽三味線の魅力は即興。『神様』の演奏には一つとして同じフレーズが出てこないんです。技術とは別に、引き込まれる何かも感じる。ぼくはまだそこまで、いっていない。 「100年に1人」の俊英は、今も歩みを止めていない。 =敬称略 生まれ故郷から羽ばたき、認められた人々。この地に腰を据え、全国規模で活躍する人々…。「和歌山」を心に抱き、自在に翔る新世紀の紀州人の姿を紹介する。 |