読売新聞 夕刊(2003.2.10)

黒潮じょんから節

「津軽」生まれた和歌山・ぶらくり丁(津軽三味線奏者 木下伸市さん)

 ばちが弦をたたく。さまじい速さ、強さ。空気を切り裂くような「津軽じょんから節」は、雪深い青森・津軽地方に生きる人々の、内に秘めた激しさを感じさせる。
 津軽三味線ブームの火付け役となったこの奏者が生まれ育ったのは、雪などほとんど降らない和歌山市の中心部。ぶらくり丁商店街を基点にした半径三キロほどが、高校卒業までの世界のすべてだった。
 「駄菓子もおもちゃも外食も、子どものころのわくわくする思い出は全部、ぶらくり丁」


 父は民謡三味線の旅芸人だった。小学四年の夏、父に初めて三味線を教わった。盆踊り歌は三十分で習得したが、津軽三味線の基礎「六段」ができない。意地になって弾き続けるうちに、のめり込んでいった。
 民謡や三味線は年配者がするもの。子供心にもそう思え、かっこ悪くて友だちの前では三味線のことは一切、口にしなかった。ぶらくり丁でみんなと遊んだ後、帰って練習した。父が持つ三味線のレコードは聞き尽くし、中学生になると、ぶらくり丁のレコード店に通い詰めて民謡コーナーをあさった。もちろん、友だちに見つからないように。
 県立和歌山商業高校に進んでからも三味線への情熱は増すばかりだった。授業中も、頭の中で弦が鳴り続けた。でもそれを将来への道ととらえていたわけではない。
 「かすかな夢はあったけど、和歌山にいて津軽三味線のプロになるなんて見当もつかなかったし」
 高校三年の秋。就職が目の前に迫ってきた。このまま会社員になるんだろうな。三味線もやめてしまうかもしれない。結局みんなは僕が三味線をやってることを知らないままバラバラになっていくんだ・・・・・・。そう考えた時、突然、最後の文化祭で弾いてやろう、という気になった。
 文化祭当日。体育館では、派手なメークや衣装のロックバンドの演奏が続いた。そこへ飛び入りした。
 ステージに近づいていく見知った男が持っているのは、三味線、いす。会場は大爆笑とやじに包まれた。
 恥ずかしかった。それでも、もう腹を決めていた。三味線を構えた。
 ベベン−。
 ざわめきが消えた。無我夢中で弾いた。静寂は続き、終った途端、ものすごい拍手がわき起こった。
 「あの拍手はどれだけ僕を勇気づけてくれたか。プロになりたい、という思いがいっぺんに膨らんだ。」
 弾いたのは、津軽しょんから節。
 就職が決まっていた和歌山市内の商社を断り、高校の卒業式翌日、三味線をもって大阪から新幹線に乗った。東京・浅草の民謡酒場で修行を始めたその日から、世界は半径三キロから無限大に広がり始めた。
 和歌山出身であることに悩んだ時期もある。だが、たとえ津軽に住んでも言葉を覚えても<津軽の人>にはなれないと気づいた時、自分らしい三味線でいい、と吹っ切れた。
 「それが逆に、新しいことへのチャレンジにつながったんだと思う」
 立ったまま弾くという革命的な奏法も始め、後に続く若い演奏家にも強い影響を与えている。
 ファンに「キング」と呼ばれ出したこの奏者の「津軽」は、雪国の厳しさに、どこか黒潮の雄大さをたたえて聞こえて来はしないか。

(社会部・辻 美弥子)

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