明石原人に魅せられて 著者 山根金造
私の夢・ロマン・まちづくり |
第1章 ふるさと島根
石見銀山へ (P、23) 抜粋 |
石見銀山へ
旅を続けている。海岸ベリを走るとき、カーラジオから朝鮮語の放送が流れてくる。あの、「将軍様」と早口でしゃべる口調でないから韓国のAM放送だろう。ニュースや音楽が流れ、海を挟んで指呼の間のような韓国と島根のよき交流を物語っていて快い。時に竹島をめぐってぎくしゃくするけれど、県民はそう深刻に考えていないと思う。
今も県内の遺跡から朝鮮半島の土器が出土する。石州瓦の産地がふるさとの近くにある関係で、私は古瓦に興味を持ち、収集を始めた。そして明石に移ってから李朝時代の家具の「静雅簡潔」な、華美を慎んだ温かさに惹かれていった。木目の美しさがすばらしい。
世界との交流では先輩格の石見銀山史跡に向かう。ハンドルを山側に切って大田市大森へ。紫陽花が一面に咲いていた。平日のせいか、駐車場に車はまばら。旧代官所を起点にした古い町並み(重要伝統的建造物郡)が一キロに及ぶ。文化財の熊谷家、河島家住宅があり、江戸期の豪商の暮らしぶりを見て回る。
多くの民家は質素で、軒下に取り付けた竹筒の季節の花々が慎ましい。龍源寺間歩(坑道)をくぐり抜け、元の場所にたどり着いて探訪は終わる。ここには土産物店がにぎにぎしく、といったよその史跡にみられるけばさはない。
すべてに地味なのだが、近年はそうもいかなくなった。
「大正十二年に休山となり、昭和二十年代には柵内に住む人もほとんどいなくなり、歴史の表舞台からひっそり姿を消した。山内には六百以上という間歩や露頭掘りの跡が残るが、山のほとんどは竹藪に覆われた。しかしこれが世界遺産登録という点から見ると大きなポイントになった。
大型機械で山の姿が変わるほど掘りつくすような鉱山ではない。文化的景観としての価値が評価されているのだ。
鉱山を守る山城や物資を運んだ街道、銀を積み出した港など、鉱山を取り囲む産業システムの全体が残るのは、国際的にも珍しい」(自遊人別冊「石見銀山遺跡」)
そうか、開発せず、往時の名残りを控え目に保存してきた結果がこうなのか。「島根らしくていい」と妙に感じ入り、輸送の拠点港であった温泉津(大田市)の沖泊へ向かった。
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| 関西高山会(P,10、11、12) 抜粋 |
宴たけなわに突如、笛太鼓の響き。編笠をかぶり、かすりの着物に脚半を付けた早乙女を先頭に、大太鼓を腰に抱え、ばちをたたいて舞う「小笠原流大代田植囃子」集団が入ってきた。田植のねぎらいと秋の五穀豊穣を願う行事として天正年間(1573〜92)から四百年以上にわたり大代町に伝承されてきた大田市指定の無形民俗文化財である。地元では「どんつく」と呼んで親しむ。道行きに始まり、田植おろし、苗取り唄が順次歌われ、力強いリズムと鍛え抜かれたしなやかな舞いが繰り広げられた。そしてしんがりに「大江高山神楽社中」の大蛇が登場した。須佐之男命(すさのおのみこと)が、夜な夜な出没する、真っ赤な目をして八つの頭と八つの尾をもつ大蛇を、酒を飲ませて退治する、出雲神話から題材を取った演舞だ。とぐろを巻いて咆哮する巨大な大蛇に、一剣を浴びせる仮面の須佐之男命の華麗な衣装と立ち居振る舞いは、さすがに歌舞伎のルーツという出雲阿国を生んだお国柄。市川猿之助のスーパー歌舞伎の所作にも決してひけを取らないと私は内心思う。
ふるさとでは毎年七月十七日、石清水八幡宮の「十七夜祭礼」で、田植囃子が「どんつく、どんつく」と商店街を練り歩き、熟練の舞いが奉納された。一方大江高山神楽社中は十月二十二日、石清水八幡宮の秋祭りの宵宮に、公会堂で夜を徹して舞う。
二階席までぎっしり満員の会場で「神武」や「大蛇」を延々と演じ続ける。近在から集まった人々は弁当を持ち込んで酒を酌み交わし、お祝儀袋を投げ込んで朝方まで舞いを楽しむ、町一番のイベントなのだ。
匂い、音、色彩、訛り、味 ― すべてにふるさとが満ちた情景を目のあたりにするとき、私は幸せを感ぜずにはいられない。
島根は太古から神々が集う神話の国であり、大代町の近くには世界遺産候補の石見銀山がある。十六世紀から二十世紀前半にかけて操業し、大航海時代、ヨーロッパで「プラタレアス」(銀の島)と呼ばれた日本を代表する銀山だった。現在、町並み、街道、防備のための山城、積み出し港が史跡として良好に残り、その中で伝統芸能や誇り得る文化財が保存された。地元にめぼしい産業は決して多くないが、長い歴史を重ねて芯が強く、人に柔らかな風土が育まれた。
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