無所属・市民派
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(2008年6月21日「フィフティネット」へ)
「支持率80%」に抗してきた「好きやねんドーンセンターの会」(仮題)
この原稿の締切日である6月20日、テレビのニュースは夜遅くまで大阪府の労使交渉の模様を映している。
38歳の若い知事が疲れを見せずに徹宵も辞さずとがんばっている。
それに対して組合幹部の疲れは一目瞭然。 それでも、この風景を見た多くの視聴者は「知事もこれほどがんばっているんだから、労組はいい加減に譲歩してやったらどうか」と思うに違いない。
彼の知事選挙当選以来、そんな雰囲気が彼の動きに大きな追い風を送り続けているのだ。
そんな状況下の2月初旬、知事は大阪府立女性総合センターいわゆるドーンセンターの売却を検討していると発表した。 私たち利用者は一様に驚いたが、他の同じように廃止や縮小を迫られている施設などにさきがけてなんとか「ドーンセンター」の施設と機能を守ろうと「好きやねんドーンセンターの会」を立ち上げた。
この間、「会」として勉強会を何度か持ち、4月にはシンポジウムも開いた。その合間に4月と5月の二期に分けて署名活動を行い、約5万5000筆という署名を集めた。また、2月と5月には「マーチ」を行い、何れも200名を越える参加者が府庁周辺と御堂筋の昼休みの時間帯に府民に「ドーンセンターの危機」を訴えた。
世話人を中心に財政の勉強会も重ね、平行して他の大型の事業で予算削減が可能なものは何か探るため行政各部を尋ねてレクチャーをうけた。それらを受けて5月9日には「府民からの新・財政提案と公開質問状」という形で知事に示した。
一方、知事が出す案に対して最終的なチェックを行う議会の各会派へのロビイイングも重ねてきた。
しかし、6月5日に出された「大阪維新」プログラム案は、やはり厳しいものだった。ドーンセンターの運営を担ってきた財団は来年度以降、「自立化を促される」というもので、実質的にはほとんど長期の展望を持てない、むしろ廃止・消滅の方向に向うものだといえる。
そして、ここで問題は、ドーンセンターでこれまで行ってきた事業の廃止、あるいは縮小だけの問題ではなく、そこで働く人たちにとっても経済的な弱者から切り捨てられていくという現実に直面している。
これは、何よりも、この「橋下改革」が当初から格差を拡大させ、弁護士らしからぬ人権感覚の欠如で弱い立ち場の人たちを平気で切り捨て、公共政策がどうあるべきかなど、一度も考えたことがない強者の論理を無感覚に振り回すことができる証でもある。
彼、橋下知事がそのプログラム案の中では「『持続可能』なセーフティネットを構築します。自らの責任に負うところなく、人生や社会の競争という土俵に上がることができない人、同じスタートラインにつけない人を支援します。そのための『持続可能』なセーフティネットを構築することが行政の最大の使命です」などというが、女性政策の一翼を担ってきたドーンセンターの機能を平気で切り捨てる人間がよく言えたものである。
しかし、まだ彼は80%を越えるといわれる圧倒的支持者が後押しし、マスコミも正面から批判的なことはなかなか書かない。
それは、冒頭の労使交渉の模様でもわかろう。その圧倒的支持率の知事に対して異議を唱えようものなら、むしろ「悪者」扱いされることを肌で感じているのだ。 彼のプログラム案にはこんな文章もある。
「広域的・大局的見地に立ちます。大阪府は、府域全体の利益、880万府民総体の利益を守る責任をしっかりと果たします。それぞれのエリア、様々な集団の個別の利益のみに左右されることなく、将来への時間軸を持ちながら、常に広域的、大局的な見地からのバランスを重視します」と。
地方自治体がこのような発想であれば、社会福祉や医療、教育もどんどん斬り捨てごめんである。ドーンセンターが潰されても、正当性は潰す側にあるのである。
それに、異議を唱えるものは「府域全体の利益」を考えない「集団の個別の利益のみ」を守ろうとするものとして指弾されるのだ。恐ろしい「全体主義」の復活といっても過言ではない。
さて、ドーンセンターに関しては、ゼロベースどころか、女性政策としては、むしろマイナスのレベルにされるのではないかという気がする。
様々な立場の女性が、仕事の合間に集まって「好きやねんドーンセンターの会」を通じてドーンセンターの機能を守ろうと動いてきた。7月の府議会での審議を待たなければならないが、非常に厳しいところにきているのはいうまでもない。
ただ、本来の地方行政のあり方を真摯に見つめることをせず、知事が求める数字合わせの「財政改革」を推し進めるとき、それまで培った行政のノウハウや、本当に行政サービスを必要とする人たちのための公共政策まで見失うことになるだろう。
そうならないために、私たちはあくまでも「支持率80%」に「No!」を突きつけなければならないと考えている。 (「好きやねんドーンセンターの会」 四津谷薫)
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(2008年6月6日「あにまるコラム」へ)
ある殺人事件の判決
先日の「長崎市長殺人事件」の「死刑判決」には驚かされた。
「汝、殺すなかれ」の「殺人は絶対悪」とする近代刑法の国にあって同じ刑法で「死刑」制度を存続させていること自体、この国に突きつけられた大きな命題であったはずだ。また日常的に行われるこの国の現法務大臣による機械的な死刑の執行も大問題である。それらデタラメな立法・行政の現状を追認するだけでなく、新たに死刑制度を補強し、その適用範囲を拡大するという、これまでの刑事司法における謙抑的アプローチさえ無視したおよそ法の番人というにはほど遠い判決が、この「死刑判決」だったわけである。
判決でいうこの犯罪が「民主主義社会を根底から揺るがす犯行」で「選挙民の選挙権行使を否定するもの」だとしても、「公選法違反(自由妨害)の罪」も加えて、一人を殺した殺人一罪(いちざい)に対して最も重い刑罰を科すための加重要件になりうるはずもない。
被害者が政治的権力者である場合、被告人の犯行の背景を無視し、このような見せしめに遭うのだ、という一般予防の側面は、本来民主主義とは一線を画すべき裁判所が出した「民主主義社会を根底から揺るがす判決」であったと言うべきではないか。本当に恐ろしい国になってしまったものだ。
(四津谷薫)
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(2008年1月24日「受け取り拒否」文書)
西宮市長 山田知様
西宮市議会議員 よ つ や 薫
市議会議員たる西宮市国民健康保険運営協議会委員の委員報酬について
昨年7月1日、国民健康保険協議会委員を委嘱されましたが、本委員は、市議会議員たる身分に対して委嘱されたものと認識しております。 市議会議員たる運営協議会委員に対して西宮市附属機関条例および特別職の職員で非常勤の者の報酬及び費用弁償条例等に基づいて委員報酬が支給されるのは法令順守の立場から当然のことと考えられます。
しかし、そもそも、市議会議員たる委員報酬は議員報酬を受領することですでに受領済みであると考えます。 議員が改めて本協議会の委員としての委員報酬を別途受領するとすれば、この委員報酬は議員の既得権、いいかえれば議員特権であり、市長から支給される委員報酬を受け取ることで市長部局執行部とのなれ合い体質の連係プレーなどと市民からの批判の声も聞かれるところです。
少なくとも委員として議員報酬とは別に委員報酬を受け取ることは議員特権以外の何ものでもなく、市民の負託をうけて公職についたものとして、報酬の二重取りとのそしりは免れ得ません。
したがって、ここに改めまして市議会議員たる西宮市国民健康保険運営協議会委員としての報酬一日あたり12,350円の受け取りを拒否いたします。
以上
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(2007年8月1日 情報公開審査会への意見書)
西宮市情報公開・個人情報保護審査会
会長 中山正隆様
四津谷 薫
異議申立及び公文書公開決定理由説明書に対する意見書
異議申立の理由はすでに本年1月30日付け申立書において述べたとおりです。以下はその要約です。 市議会議員がタクシー券を使用する場合、その使途を示す乗降地とともにどの議員が支出したのかがはっきりとわかるようにその名を公開するのが公文書として当然の公開のありかたです。
1.
情報公開条例6条2項を適用して非公開としたとすれば、それは、解釈をあやまったものであり、全部公開すべきである。
2.
公費を支出して公用で使用する、と「議員活動支援にかかる交通チケット取扱要領」にあるとおり、このチケットを使ったのであれば、当然、公用で、公人たる議員の名前を非公開にする理由はない。
3.
情報公開の目的が単に「市民の知る権利」に資するためだけでなく、本来の交通チケットの使途に関して、その目的を逸脱したのではないか、との疑念を市民にいだかせる状況があったからこそ、実際に誰がどのような形でタクシー券を使用したのかは、当然、市民に公開されなければならない情報である。これを公開の対象としなければ、西宮市情報公開条例1条にあるように「市の諸活動を市民に説明する責任が全う」されないのであって、「市民参加による開かれた市政の推進を図り、市民の市政への信頼を深め、もつて市政の公正な運営の確保に」努めることも不可能となる。
以上が異議申立の主な理由でした。
次に、本年3月29日に出された市長の「非公開理由」については、次のように合理性を欠き、全く本市の「西宮市情報公開条例」の趣旨を逸脱する不当で不合理な説明書といわなければなりません。
まず、「経緯」として公開文書の「個人名」について、「同条例第6条2号に定める個人情報に該当するため…」黒塗りにした、とあります。
これは、上述したように、そもそも情報公開条例の立法趣旨から大きく逸脱した解釈であり、本来、自治体の首長やその地方議会の議員のような公職選挙法上の特別公務員の個人情報と、一般私人の個人情報と全く同次元に扱うという本来の公文書公開の趣旨から逸脱した解釈が施されています。
同条例の6条2項にいう「個人情報」とは、一般私人が私的活動を行う中で公文書上に現れた情報をいうのであって、公人たる議員が公務を行なう中で出現した個人情報をさすと考えるのは、公権力に都合のよい拡大解釈を施したものというほかはありません。
本来、保護すべき個人情報とは憲法13条で保障されるといわれる「プライバシー権」の「自己情報コントロール権」と解すべきであって、公人が公務を行う上で生じた個人情報とは全く異質な情報というべきです。前者がプライバシーとして保護されるとするならば、他方、後者は、むしろ一般市民や報道機関などの持つ「知る権利」の対象となるべき情報です。
この「プライバシー権」と「知る権利」がぶつかりあったとき、いずれが優先されるかは大きな法解釈の問題でもありますが、それは、あくまでも私人のプライバシーと他の私人の知る権利との関係です。
これが、公務員あるいは公的存在の公共性のある事柄については、それがプライバシー情報であったとしても、公表価値があるとすれば知る権利を行使して、公表も優先されるとするのが妥当な憲法解釈としての定説でもあります。
したがって、そもそも、公人たる議員が公務で使うべきタクシー券を使ったとすれば、それは、当然、公表価値があるのであって、なんら、私的事情の中で秘匿すべき事情はないといわなければなりません。
非公開理由説明書の理由(1)については、多様な議員活動を支援するため、といっていますが、その中身が公用であればあるほど、市民の知る権利に答えるのが、むしろ情報公開制度の趣旨にかなうというものです。
また理由(2)での、「多様な議員活動」の支援や、「市議会の活性化」、「市政の円滑な運営」などのために支出するのであれば、公金を公人が支出するのであるから、むしろ、事後的にも公開するのが、本来ある姿であるというべきです。公金の支出であるからこそ、むしろ、公表の責務が公的権力をもつものにはあるというべきなのです。
(3)については、上記に述べたように、「他人に知られたくない」という情報は、むしろ私人が公的機関に向かって主張すべき権利であって、公人である議員がそのような理由をもって公金の支出内容の名前の公表を拒むべき立場にないことは言うまでもありません。
理由(4)、(5)についても全く同様であって、このような不合理な理由で、公開を拒否することは、かえって公務であるにもかかわらず私的所用で、公金を支出したのではないかとの疑義を市民に抱かせる結果にもなります。
以上より、市長から出された「非公開理由説明書」は非公開の実質的根拠が示されておらず、むしろ、項目によっては議員の名前を公開することが情報公開法、西宮市情報公開条例上、当然ともとれる内容になっており、非公開の理由としてはお粗末といわざるをえません。
したがって、非公開理由説明書は、その非公開の理由にはなりえず、当然のことながら公開すべきものと考えます。
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(2007年2月「インパクション」へ)
無防備地域宣言と国民保護
西宮市・よつや薫
兵庫県西宮市の「国民保護計画」は、昨年三月に県が作成を終えた「兵庫県国民保護計画」に基づいて、今年度末、つまり二〇〇七年三月に作成予定である。
西宮市の計画素案にある「着上陸侵攻」「ゲリラや特殊部隊による攻撃」「弾道ミサイル攻撃」「航空攻撃」などは、「その可能性はほとんどない」と、兵庫県の保護計画作成過程で軍事専門家が指摘したにもかかわらず、それら「武力攻撃事態」を前提に作成されるという現実離れした一面をやはり持っている。
当然のことながら、国民保護法が制定された二〇〇四年当初よりこの法制が「国民」を守らないことはもとより、国民そのものを統制することが目的である法制であることは周知のとおりである。 では、国の失政によって、もし仮に他国との武力衝突に市民が巻き込まれる場合(この前提もあまりに飛躍した議論であることは承知の上だが)、「国」とは別に各地方自治体独自の方法で一般市民の生命・身体を守る対案はないのだろうか?
その一つの回答がこのタイトルに挙げた「無防備地域宣言」という考え方である。
西宮市でも、二〇〇五年四月からこの「無防備地域宣言」を市に保障してもらおうという「平和無防備都市条例」の制定を求める住民の直接請求の運動が展開された。一九七七年のジュネーブ条約追加第一議定書五九条に規定され、保障されている考え方である。同条に定める「無防備地域」とは、戦闘員や軍用施設のないこと。住民などによる敵対行為のないこと。軍事支援を行わないこと。など四つの条件をクリアする「地域」である。そして、無防備地域宣言ができる主体は同条二項によれば「紛争当事国の適当な当局」とされているが、これは単に「国」だけでなく、自治体なども宣言主体になれる、と解されることから一地域にのみ独立した「地域宣言」が可能となるのである。
西宮市における二〇〇五年四月から五月にかけての一ヶ月間は、地方自治法上の住民による条例制定の直接請求権を行使して「西宮市平和無防備条例」の制定を求める署名を集め、要件である有権者の五〇分の一以上の署名を集めて(約三倍の署名筆数が集められた)、市長にその条例案の議会への提案を請求することができた。
しかし、他の無防備地域宣言の運動と同様、西宮市においても保守系与党会派が大多数を占める議会に後押しされた市長が住民提案の条例案に賛成意見を述べるはずもなく、その「反対理由」の中で特に「無防備地域宣言は『防衛に責任を持つ当局、すなわち、我が国においては、国において行われるべきもの』との国の見解があり、本市(=西宮市)が宣言しても実質的な効力がない」という、当然予想された「反対意見」であった。たとえ「無防備地域宣言」の主体である「紛争当事国の適当な当局」を「一地方」と考えることも可能です、と言っても市長は、武力攻撃事態が引き起こされた場合に市として独自に動くことはしない、という結論なのである。議会も当然のことながら、反対多数であっけなくこの条例案を否決した。この間の市の答弁、議会の反対議員の意見などの中に、国会答弁でもあまり聞くことのできない見解をいくつか聞くことができたのは唯一、この運動の中の成果だったのかもしれない。
実質的質疑の交わされた総務常任委員会では、市当局が「『地方の文民当局』が無防備宣言する場合、その遵守を確実にする手段を唯一持っている『軍当局』とは『自衛隊である』」と答えたことは防衛省に昇格する前にすでにこの国には「軍」が存在していることを認めたことになる。まるで「国民保護計画」を先取りしているかのような整合性を持たせているのもお笑い草だが、「自衛隊は憲法上、軍隊ではないが、国際法上は軍隊とみなされる」とする過去の国会答弁を踏襲したらしい点も少し驚かされた。また、ジュネーブ条約四三条(「軍隊の規定」)でも自衛隊は「軍隊に該当する」と解し、「防衛が国の専管事項である」根拠については「自衛隊法、有事関連法はそのことを前提にした明文規定になっている」とも、市当局は述べたのだった。
このような答弁を考え合わせれば、一昨年十一月に自民党が出した新憲法草案の地方自治の条項が大きく変容させられようとしていることとの連動も透けて見えてくる。そもそも三権分立に対して、現憲法の規定する地方自治制度の保障はいわば、地方自治と国(政府)との縦の分権制度であった。しかし、自民党がこのような案を出して来た状況は、「地方自治の本旨」に基づいた分立ではなく、上意下達の受託事務をよりスムーズに行うという趣旨に変容させりょうということである。 地方自治の本旨である住民自治も後退させ、国民保護計画によって統制しようとする意図がますますくっきりと表れてくるのである。
以上。
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(2004年1月「インパクション」へ)
「はじめに壊憲ありき」の国で
四津谷(よつや)薫
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。…。」
そんな言葉を発すべきはずのない人の口からその言葉が飛び出した。
憲法九条を厳格に遵守することを呼吸するように自然なこととしてきた者にとっては虫唾の走る瞬間でもあった。
この原稿の訂正をさせてもらっているうちに、二〇〇三年一二月九日の日本国憲法、前文・第二段の朗読シーンに遭遇してしまったのだ。
首相就任以来、憲法尊重擁護義務(*1)を放擲し、常に「憲法改正」を言い続けてきた同じ男の口から、意図的曲解を施してこの前文の一部分だけが肯定的に発せられた。
まさに憲法九条の理念の破壊を告げる瞬間でもあった。
彼は続けて「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と一気に読み上げた。
この男の言う「政治道徳の法則」が「普遍的なもの」であるのなら、世界中の戦争あるいは武力行使、暴力、そしてテロもすべて正当化されねばならない。その簡単なロジックを呑み込んだ上で発した言葉であるのなら、相当お勉強の進んだポチである。しかし好戦的為政者の例にもれず自己矛盾に陥っていることには気づかないふりである。
そして「全力をあげて」「達成する」「崇高な理想と目的」が自国よりも明らかに弱小の他国を侵略し先制攻撃した世界一の大国に、飼い犬が飼い主にリードされるごとく歩調を合わせなければならないものであるのなら、なんと卑屈な「国家の名誉」であろう。無論、そんな「名誉」は主権者にとってはなんらの意味もなく、市民一人ひとりの権利利益とは本来無関係である。イラク侵略当初、いち速く「国益にかなう」としてアメリカを支持したその「国益」の中身ももとより市民一人ひとりに分配可能な利益ではなく、ほんの一部の者しか享受しえない利益を「国益」と読み変えているだけの厚顔な大義だ。
彼が就任以来、一貫して「憲法改正」を口にしながらこの期に及んで前文だけを持ち出したということは、同義であるはずの九条と前文第二段の「平和主義」全体の否定に他ならない。予定どおり九条改憲は用意されている。
九条は一九四六年当時、わかりやすい条文であったものを承認寸前に芦田修正(*2)という小賢しい書き込みがなされ、それ以来、今日に至るまで連綿たる解釈改憲の戦後史があった。そして小泉の登場によって、戦後史が、戦前史に切り替わったといっていい。憲法を率先して遵守すべき立場(憲法尊重擁護義務)にある者が、憲法などはじめからなぎ倒します、との宣言であった。それは平和主義(憲法九条)という基本理念を黙殺する大転換なのだから、憲法改正などという生ぬるいものでなく、いわば憲法上の革命、まさに「壊憲」なのである。
歴代総理たちのコメントも混乱していた。ハト派のレッテルで生きてきたはずの宮沢喜一は「正当防衛を憲法も認めているわけですけれども」などという。「引退してよかったね」とねぎらいたくなる(憲法とイラク特措法の区別さえ、おできにならないのか)。かつて彼が外務官僚時代に仕えた吉田茂は、芦田修正の加えられた直後の現行九条の解釈について衆議院本会議で「近年の戦争は多くは国家防衛権の名においてなされるので、『正当防衛権』による戦争を認めることは有害である」とまで述べた。
つまり、小泉純一郎はこの国を吉田茂以前の時代に逆行させたのである。
さて、本来この場を借りて書こうとしていたことは、前述の芦田修正に限らず、この憲法成立までにいくつかの仕掛けがGHQ内部、あるいは当時の政府との折衝の中で施されていたということである。そして、それらの仕掛けがどのように機能し、あるいはどのような不都合をもたらしたのかの検証である。
つまり、憲法九条が常に改憲論議の方向に動いてきた歴史はあらかじめの仕掛け通り、台本通りなのであり、そこに連動していた仕掛けは天皇制であったり、たとえば人権条項の中の二四条(*3)などであったりする。
天皇制については論点が多過ぎて紙幅がたりないのでここでは触れないが、民主的に成立した憲法のお墨付きをもらった「象徴天皇制」は政治屋の小道具としての仕掛けであるといってもよかろう。
二四条は、当時のGHQ職員ベアテ・シロタという女性が婚姻における男女平等を盛り込んだ条文であるが、成立の過程で男性本位の圧力に屈した側面と憲法という一般的抽象的表現が前提とされる根本規範の持つ宿命から、必ずしも草案起草者の趣旨の反映したものにならなかった、という不幸な生い立ちがある。それを男性たちが仕掛けたと言えないまでも、今、現在に至ってはその条文の存在意義は薄く、逆に二四条がもたらす弊害を考えれば第一章一条から八条の天皇制条項同様、削除すべき条文と考えるのである。
ベアテ・シロタはGHQにあって、戦前の日本女性の立場がいかに悲惨なものであったかを熟知していた唯一の女性であり、家庭内における男女平等を憲法に書き込み、母子共の生存権も国家が手厚く保障しなければならないとの思いも強くあった。それらが、ベアテ草案一八条から二九条までの一連の社会権的保障条項に散りばめられていたのである。母子保護規定、女性の労働権の保障、年金保障などの先進的な内容が、ほとんどGHQ案の段階で削除された。少子化社会を問題とし、歯止めをかけたいと望んでいる今日の政治家たちは憲法草案作成当時の経緯と当時のベアテ・シロタの熱意を振り返った場合どう考えるだろう。結局、残ったのがベアテ草案一八条を変形した形の現二四条だけだったのである。
婚姻制度を前提とした二四条は、結果として戸籍法や民法の親族編とあいまって婚姻における間接差別につながった部分があり戦前の家父長制的家族観は払拭されず、一方では婚外子差別をも助長し続けた。
そして、問題は二四条のような形、つまり「婚姻は」で始まる条文の形が「天皇は」で始まる一条に似て、多様な価値観を封殺する役目をも担ってしまったという皮肉な結果にも繋がっている。また、今現在、素直にこの二四条だけを読む限り、あきらかにパターナリズムが読み取れる。
個人の尊厳を基本理念とする現憲法秩序において婚姻は個人の問題であり、どのような婚姻関係あるいは男女関係を築くかは、すぐれて個人の自己決定の問題である。また、性別の概念が相対化している現在「両性の合意のみに基づいて」という文言が「両性」=「男女」を意味しているとすれば明らかに法の下の平等に反する結果も招来する。いや、すでに招来しているだろう。
しかし、それらは時代を経て我々が今、気付き得たことなのである。改憲派が口にする「時代に合わなくなったから改憲すべき」という規定があるとすれば、それは九条ではなく(九条は常に時代より先を行き、いずれの政権も九条の理想に適合的な政策をとろうとした形跡はない)、まさに二四条のような条項のことなのではないか。憲法草案作成当時、想定できなかった多様なライフスタイルの変化が進み、一方、社会的(あるいは性的)少数者をも含めた人たちが声を上げられるようになった現在、婚姻制度を見直し、全ての市民が享有しうる権利概念の構築が要請される。
それでも「婚姻制度」に拘り、その中でのみの家族観しか持ち得ない立法府の人たちが片方で国を危うくするとして、少子化に歯止めをかけたいと考えるのであれば、憲法体系の基調をなす個人の尊厳原理(一三条)に立ち返り、個人の尊重や法の下の平等の埒外に置かれる制度(天皇制、婚姻制度など)は一度リセットしてみることである。婚姻制度の中の夫婦別姓制さえ成立させられない現状で個人の尊重を徹底しろ、といっても実現不可能に近いことはもとより承知だが。少子化を現出した家父長制的家族観の残滓と「産めよ増やせよ」の国家観を両立させようとしても、もはやその狭間で立ち尽くすしかないのだ。
そして、一二月九日、小泉純一郎が強調した「国民の精神が試されている」ことがあるとすれば、それは、少なくとも最低限度の個人の尊厳を全世界の市民に伝え得るか否かである。つまり自国民も他国(イラク)の市民もいずれの市民の血も一滴も流さず紛争解決する方途としてこの国には憲法九条があると世界に向けて示すことだろう。
(以上)
* 1:憲法第九九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
* 2:芦田修正とは、憲法第九条二項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」の原案の頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入して自衛力の保持は認められるとした。その後の解釈改憲への道を開いたといわれる。
* 3:憲法第二四条 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
以上。
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